ReadMasterの軌跡

面白いことを仕掛ける。仕事を作る。ビジネスを作る。そんな日々から出てくるアウトプット蓄積場。

2008年02月

ボールペンを使い果たす

ノートもそろそろ切れるので、補充予定。
ボールペン、仕事で使っているものだが、それがインク切れ。
素晴らしい。書いて書いて書きまくれ。

そして最後に残るのは、何かのエキスみたいなはず。
もしそうじゃなかったら、俺は俺を殴るぞ(笑)

というわけで、ボールペン一本使い切っただけで
テンションがあがる、ドリコムブロガー(笑)

チームハックス 仕事のパフォーマンスを3倍に上げる技術

メモを箇条書き。

・お互いをよく認知するだけで作業効率の上昇
→チーム、もしくはメンバー間で、相互コーチという考えが素敵。

・コミュニケーションの場を作る
→場がないと生まれないというよりも、場をつくることで
コミュニケーションを発生させると解釈。
でも、これって椅子がないと立って仕事をしなきゃいけない。
座って仕事をする仕事なら椅子を探すか、机に座るか。
結構これは重要な指摘な気が。

・ヒューリスティックス
これ、ちょいと間違えて覚えていた、というかダチなどに
説明したので。確かに本著のように、限定的合理主義というのが正しいっす。
僕は、「直観」などと訳していますが、実際は、
少ない情報からも人は判断することができる・・・でも、
それは常に正しくなく、錯誤があるってところをおさえると、
なぜ著者で佐々木氏が錯誤とか、人はだらけてしまうというような、
消極的な認知をされているかが分かる気が。
僕も同感です。

・不安のない環境を手に入れてから飛び出した人など誰もいなかったと知っておくこと
→ああ、まさに今はこういう言葉が支えになりますわ・・。

・チーム内に「早朝出社クラブ」を作る
→これは解釈をかえて、自分でとりあえず早起きするならば、
それをしていることをダチなどに言っていくことだと感じました。
そうすると、本著に書かれていることは多分網羅?というか、
十分やれるなと感じたので。
早速実践へ。


このチームハックスは、大橋氏と佐々木氏の共著ということで、
お二人がチームを組んで取り込んだのが前著である「スピードハックス」の
話というか、ハードコピーなんかも出てきますね。
実際には、チームというものを「仕事場の仲間」というように
とらえるよりも、もうちょっと広い観点でみていく、
それは佐々木氏も、ワークショップでのグループディスカッションのような
話が出てくるところから読み取れますし、またそのような指摘もあるかと。

つまり、チームとは何か。
ある一定の目標を成し遂げるための、精鋭(笑)かと。
何か目標があるなら、個人でやり遂げるのではなく、
仲間とやるというのも一つの手だと知っておいて損はないなあと。



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時間を活かせ

時間を使うのではない。
活かすのだ。

dont think, feel it!

仕事、満足度、そしてフォーエバー

そして、尾崎豊で決まりですかね。
豊さん、別にそんな好きじゃないんですが・・・(笑)

最近のブログの文章に「満足度」という言葉が
非常に多いことが、もちろん自分のブログだけど、
自覚されている。仕事ということも多い。

あと、意外に、楽しい、面白いが少ない。
だが、愚痴的なものは、皆無に近い。恐ろしい。

別に僕はクリーンな生活を送っているわけじゃない。
そこは勘違いしている人がいれば、勘違いだっ!といっておこう。

で、メタ認知。お、これ久しぶりか。

そもそも、「満足度」とかいってるってことは、
満足してない感満載なわけですね。
仕事とかについて、哲学的思想って、普通はざらざらの石が
川の流れという社会の流れにごつごつと、洗われて、
つるつるになるように、きえてっちゃうみたいですね。

だから、50,60でしっかりと自分の仕事観、もしくは
感覚を述べることができる人はカッコイイ。
まあ、当たり前っちゃ当たり前だけど。

そもそも、錯誤があって、
理想というか、当たり前だという当たり前のものが、
当たり前であるかないかが微妙にぶれまくる。
それは価値の多様とかって話じゃなくて・・・。
まあ、この課題はいずれ解決するだろうからスルー。

そして、永遠とは、
もしかしたら明日死ぬかもしれない覚悟(笑)は
必要ないかもしれないが、
そのくらいで生きるのもやっぱ必要だろうなとか、
妙に思ったり。

毎日の生活密度をいくらでも濃くすることは
意外に誰でも出来るとおもう。
でも、濃くなっても、それって結局リバウンドみたいに
反動があれば、長期でみればトントン(笑)
だから、密度を濃くしても、飽き足らないみたいなところが
必須だなあと。

それって天職とか、そういうことじゃなくて、
確実にある気がしている。
で、僕が次にそういうことを語る時は、
もう、ゲットした感じで、ちょっと嘘ぶいてみたいなあとか、
罠を張ろうと思っている(えぇ

何かを捨てれば何かを得られるか

むずい。

が、確実に捨てたというか、変わったことも
確実にでてきた。おお。

少しずつやっていくしかないだろう。
誰にも言えることだが、自分により言っていこう。

ぐうぐう。

おお。

結城昌子オフィシャルサイト|アートアンド[artand]

最近の日経朝刊の文化欄。
いつもと雰囲気違うのは、実は子どもたちが名画に挑んで、
多分描くのだと思うけど、その話が繰り広げられる話。

うーん、なんかいいですね。こういうのは。
なんだかいいなあ。

ボクの音楽武者修行

BookMarkNagoyaでゲット。

むう・・・。小澤さんすげー。

p.23から一部引用

 神戸を出向してから四日目に、最初の外国であるフィリッピンのエスタンシヤという島が
見えた。その時はぼくの体はゾクゾクとふるえ出し、なんともいえぬ感激を
味わった。このゾクゾクしたふるえのような感激はその後も何度か経験した。
 大人になるということは、たび重なる経験のために次第にこうした
体のふるえるような新鮮な感激がうすれ、少なくなることだそうだが、
もしそれが本当なら淋しいことだと思う。


むう・・・・。
昔、チャリで走った時は、チャリダーがすれ違うたびに、
背筋がゾクゾクしたものだ。ライダーの合図も最高に熱かった。

といって、チャリでまた旅に出るということは僕にはない。
まあ、旅はしたいが、それは違うものだろう。

このゾクゾク感の小澤氏の文章を見た瞬間、
現状に果たしてこの「ゾクゾク」があるか。
または、そういう「ゾクゾク」を探しているか。
あらゆる問いと、あらゆる認知、あらゆるものが
走馬灯ではないが、急激に見直しが必要になってくるように思われる。

もちろん、見直しではなく、どちらかというと、未来だが、
ゾクゾクを最近自分は味わっているか。

チャリに乗った時のあのゾクゾク。背筋が真夏なのに
凍りつくように、ものすごく震える感じは、
実は僕は今、全くではないが、ものすごく欠けてしまったのではないか。

いやいや、小澤氏の指摘どおり、大人になるということは・・・
のくだりは的を射ている気がする。
でも、その言葉どおり、やはり淋しい。
大人になる=ゾクゾクがへるなんて淋しすぎる。

毎日ゾクゾクすることはないかもしれない。
でも、ゾクゾクがないのはやはり・・・僕は自分を認めるわけには
いかないと心に強く誓わざるを得ない。

肝胆相照するのも一興。
また、チャレンジング、つまり冒険を掲げていくことも一興。

さあ、やるべさ。

というわけで、音楽家小澤というよりも、若者小澤のパワーが見えまくり。
にしても、この時代にこんな文庫でてたんすね。1962年かな。
そして、この時代に海外で、ヨーロッパとアメリカで、2年半とは
なかなか・・・。宇宙行っているようなもんですね、今でいえば。
まあ、ちっと違うんでしょうが(笑)


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例えば、「仕事」だからやる

プロフェッショナルという言葉はかっこいいが、
実は、その「プロ」という言葉に
コミットできてなきゃ、そもそもプロになれない。

逆にいえば、アマチュアだろうが、プロ意識があれば、
プロなんじゃないかと思ったりする。
だから、素人だからアマチュアだからといって、
何か馬鹿にするような人は僕はあまり信じないというか、
やや疑問である(笑)

僕が想定するというか、思うのは、
そもそも人を馬鹿にできないのがいいんじゃないかと思っていて、
いや馬鹿にする必要は普通はないという感じかな。

仕事だから必達する・・・。
そんな気概を感じることは非常に少ない。
というか、仕事って実はそういうサンプルではどうでもよくて、
仕事じゃなくても、そういう「思い」があるところが、
やはりやりがいも、力も出てくる。
何よりそういう場は人が育つ。

マゾではないが、
もっと自分に負荷をかけていかんといかんと・・・。
そんなことを思う、2月末です。

僕が僕であり続ける理由

最近、どこかの新書で、
気になったやつがあるが・・・
ああ、「自分探しが止まらない」だったかな。
近いうちに読むことにしよう。

承認欲求って分かるんだけど、
そういうのを「言葉」にしなくても、
別の行動や照れでもいいから、表したほうが
なんとなくコミュニケーションはスムーズな気がする。

僕が何か仕事をする時、
僕が仕事で僕であるのか、
仕事が僕で僕であるのかが、
最近分からなくなる。

例えば、それは度を過ぎればやばいのだろうが、
そもそも、確信とかベクトルが、ほぼ同じ方向になっているからと
いって、仕事をやっていない気がしてきている。

とはいえ、友人の何気ない言葉でもないけど、
もっとも自分には深い言葉だが「代替案」の提示が
多分できない気がする。
もちろん、現時点で、「できない」のであって、
明日、アサッテとなっていけば、違うかもしれない。

ただ、それって、現在の主流な時間を変えていかないと、
そもそもありえないような話だなと睨みつつある。
現状を容認すれば、容認できてしまう。
これは、現状が自分では良いと思っているのではないことに
自分が反応するアウトプットでしかない。

まあ、とにかくやりたいことをやるしかない。
トライの嵐でしかないのだろう。

不思議なこと

ふと思ったので。

個人的な飲み会をやる。
でも、その飲み会はまだ誰も誘ってはいない。
が、一応来るだろうなあという人はいる。

当たり前だけど、未来の出来事だ。
で、そうやって来るだろうなあという人はまだ来ると
決まったわけでもない。

それなのに、仮想な仮定で、それをやろうとしている。
別にその人たちに迷惑をかけるとか、何か損害(笑)が
出てくるわけじゃないから、どうでもいいけど、
でも、そうやって考えているのが不思議だ。

そもそも、そもそもの前提として、
飲み会って好きな人が多いのだろうかというのをまず問1としたい。
今の若い人は飲むのが嫌いというのは言われるらしいが、
そうなのかなあと自分としては思っていて、
面白い話が聞ければOKだけど、その面白い話みたいなのが、
結構「価値基準」と「仕事の役割」がクロスして、
自乗して「ハードル」を高くしているような。
例えば、話しづらいというようなことだったりするだけのような
気はする。

が、個人的には、飲みが嫌いではなく、飲み会として、
仕事で飲みに行くのが嫌なだけのような。多分。
そしてドライなのではなく、ドライにうつった、もしくは
自分のコミュニケーションのなさかもしれない。
というか、原因をどこに求めるかは、心理的な面が大きいわけで。

あと、個人主義的なもので、自分ひとりで考えるものが
多いかもしれない。だって、飲んでコミュニケートして、
仕事を円滑になんて、仕事馬鹿っぽい(これに悪意はない、むしろ善意)
わけで。仕事の接待の「飲み」ではないなら、
何か意味を求めてしまうような、気が。僕はするけど。

で、コミュニケートをはかって・・・みたいなのは、
そこ、つまり所属団体(この抽象表現は重要だ)にコミットしている
というか、そういうことの表明になるだろう。
逆にいうと・・・?
つまり、飲み会で求めるものって、一体何よとか、
逆に「そんな深い意味はないぜ、坊主」ってことになるかもしれないし、
そもそも、そんな問いすら本質的にずれているかもしれない。

ってか、話が違ってきた。

不思議なことなのは、
自分が人は来るだろうという自信というか、
これは今回は絶対に意味のない自信なんだけど、
そういうのって、どこから生まれたんだろうなあって。
不思議と、そういうのは、無意識レベルで、あまり意識しないことだ。

でも、不思議なのは、
自分という人間が何か飲まないかといって、
軽く人が誘えば乗ってくるというところだ。
人といっても、自分と関わりがある人ばかりだけど、
なんか、そういうのは不思議だ。

ぶっちゃけていえば、
「君とは僕は関係したくない」といえば、
一応は関係は切れるとすら僕は思っている。
むしろ、それは事実だろうが、でも、ものすごく
言葉ではいえない「むわあああ」って感じが、
ものすごくダークで、かつネガティブなものとして
心に残るだろう。

まるで、園子温の自殺サークルで、
「あなたはあなたと関係していますか」
という問いっぷりが思い出される。

僕は・・・僕と関係しているのだろうか。
分からんな・・。
まあ、とりあえず、来てくれる人には感謝しておこう(おぃおぃ
まあ、有難いことです。
でも、逆に自分としては常に、「それだけのこと」をしたという
自負があるんでしょうねえ。これが僕の長所であり、欠点でもあるかも
しれませんが、時は、長所に向かうようです(ニヤリ

行動を起こす

1アクション2リターン。

何か1つの行動を取るたびに、狙うものと、
その副産物が出てくるイメージ。

結果的に、副産物は副産物に留まらず、
そして、ついにはメインディッシュとなる。

世界、環境、社会を変えたいなら、
自分がまず変わればいいが、
その自分が変わることは無理だと、
そういうことに気付いたとき、人はどのような行動に出るか。

1.無謀でもいいから、変えようとしてみる。
2.無理だったから、何か身体に異常をきたす

となるしかないんだろうか。
そうではないだろう。

迷路に迷ったら、必ず出口があるんだと思うだろう。
でも、そもそも、本当に迷路なのかどうか、
今いるところを見直す必要がある。

実は8割程度は、迷路ではないのに迷路だという場合が多い。
つまり、問題認知の錯覚だ。

どうしようもないというのは、ほんとうにどうしようもないときに
使う言葉だが、どうしようもないことにしたいという時にも
この言葉は使う。

行動を起こすことで、世の中を変えていく。

で、KYについて一言。

KYKYうるさいが、そもそも空気万能主義みたいなのが
鼻につく。もちろん、ある程度の読みは必要だが。
モンスター・クレイマーを目指すのも一興(とかいうと、小売サービスに
従事する人に殺されるか)だが、
KYで、失われるものも多いことも多いだろう。
ああ、違う。

空気を読むことで失われることも多いというか、
違うな、そもそも、空気についてそれを指摘する言葉が
出ていることに、時代の流れを感じる。

ぶっちゃけ、空気などどうでもいい。
一体その着地点はなんだ。
単に、現象を「そこ」ではない「どこか」として、笑うだけの、
または「怒る」だけのつまらない言葉ではないか。
全くもって、空気などそういう意味ではどうでもいい。

コミュニケーションの円滑さ、もしくは伝えたいことがある、
邪魔をするな・・・という意味で、空気を読めというのは、
何か本質的にずれているように思われる。

空気を読んだ上で、言うというのは、
何か「賢さ」があって、実は嫌い。

というか、空気って読んで結局どないするのか
分からないというのが思うところ。

空気読んで、これはまずいからやめようというのは、
個人的にあとでいうことということなんだろうか。
まあ、それはそれで空気読みで適切かもしれないけど、
一体それはなんなんだろうとか。

そこまで、考えたら、KYとかいうやつがKYだなあとか、
また、馬鹿っていうやつが馬鹿みたいな話に持ち込んじゃったなあ。

言葉って大切ですね。

かものテオクリート―パパは会社で

絵本サイズ。

かもにやられた。

テオクリートというカモは、普通に仕事をするおそらく会社員。
普通って何だ?そんな普通を徹底的に哲学する・・・な
話ではないっす。3コマ漫画かな。

ストとか、賃上げとか、生臭い人間の話を
カモがしてます。そういう意味では、スヌーピーの
可愛らしさとのギャップから出てくる人生哲学みたいな
そういう感じですね。

え?意味が分からんって?

軽く説明すれば、
手法として、人を
(そういえば、浅野いにお氏が人を登場させない漫画ーとか、
書いてたりしたのを見たような)
登場させないことで、人間を風刺するって感じですよね。
あ、でも、スヌーピーはチャーリーブラウンとか普通に人間ですね。
スヌーピーは飼い犬ですしね。

カモにとって現代は生きやすいかどうか。
まあ、そういう話ではなく、
人間って馬鹿だなあと冷静に笑う漫画ではないかとにらみます。

結構好きだな。
カモが机の上に乗っているのはなんだか、イカシます。




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はじまりとおわり

物事は始まりがあって、終わりがあるように感じる。
でも、実はそうでもないかもしれない。

気付いたら始まっていて、
気付いたら終わっていた。

その場合は、はじまりも終わりもなく、
ああ、なんか終わったなということになる。

昔、上司から、
仕事に対する考えでもないのだが、
自分の仕事のやり方が変わらないってのは、
仕事をしていないことではないかということを
直接に言われたわけではないが、そういうことを言っていたのを
思い出した。

確かに、仕事をしていくと、
その仕事っぷりが変わる。
全く同じようなもので対応できるってことは、
逆にいえば、成長っぽいことはできてないし、
むしろ、そこで終わっている可能性が高い。

だから、別視点で見たり、やり方を変えたり、
別のことをやってみたりとする・・・んじゃないかと思う。

そうしていっていくつかのところで、収穫逓減(使い方あってるかしらん)
になっていって、さあ、どうしてくれるんだと。

もうすぐ、背中に雷が落ちてから(何それ?宗教?)
半年の月日が流れようとしている。

お、小説っぽいな。

本からはじまる物語

18編あり。

非常に1篇は短いので、さくさくと。
でも、ここに出てくる人、知らない人(名前だけは知っているが、
作品を読んでない人)が多いなあ・・。
作家多すぎ。といったら、作家は怒るのでしょうか。

この18人を全部読んだことあると、
プロ(職業的に本を読む人)か、作家か(作家が本読みとは
限らないんですよね・・・)、知ったかぶりか(笑)の
どれかになるんじゃないかと。

でも、一力さんの作品はどっかで読みたいなあ。
閻魔堂の話も、何か江戸っぽくていいなあと。

あとは、有栖川有栖の注文の多い料理店のパロディーっぽいものが
いけてますね。

トドメは、石田衣良の23時のブックストアで決まり。


本からはじまる物語本からはじまる物語
恩田 陸

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うお

近くのドラッグストアが閉店。
げ、まじで。しばらくいってなかったので、
閉店というお知らせも知らず、建物がそもそもない。
ブルドーザーが・・・(笑)

おかげで別のドラッグストアまで、
極寒の中行くことに。

ふむ、品揃えはあまり変わらない。
店舗的に、平屋なので、2Fがないのが多分いいかもしれない。

フロアの上に、何があるかを案内している板(表現が・・・、
例えば、化粧品とか、入浴剤とか、・・そういうのね)が
やや見づらい。
多分、店舗の広さだろうけど、ホームセンターとかって
広いからみやすいなあってことをなぜか思う。

レジは2台。ポイントカードを早速作る。

男性化粧品の後ろに、ビールとか発泡酒、チューハイと、
さらにはレトルト系の食品、インスタントものが、
背面にあるのがなかなかやるなーと思う。
思わず買ってしまう(おぉ

ビールと紙おむつにはまだ先だが、
こういう導線をきちんと見るのはいいなあ。
でも、パンが1ヶ月もつってのは、なんかすげー色々付着してそうで、
いくら「天然」をうたってもなあ。

食パンですら、色々ついてても、1週間くらいで
切れますからね。冷凍庫万歳ですわ。

で、生活年数というのもあるが、
色々な店が閉店していくのに、
結構新しい店とかが出来るってことがない・・
これってまずいんじゃないかなーとか、勝手に思ってみた。

まあ、売上立たなきゃ撤収。当然なんだけどね。

Reデザイン

そういう本があったはず。
で、それは日常生活用品を新たにす、みたいなもので。

日常をデザインしなおすというか、
そういう発想は、いわゆるメンテナンス的な発想。
でも、普通は「メンテナンス」とは調整であり、
質の改善という狙いは前面にでてこない。
現状を維持する、ギアが円滑に回転し続けること、である。

デザインという武器があるならばそれを適用することで
何かしらのものができる。
が、面白いことに、デザインという武器ではなく、
デザインという盾かもしれない、もしかして、デザインという仕事
かもしれないが、そういう感覚の違いは
誰もが持っているという直観が発動(笑)

つまり、デザインをいくら学び、それで仕事をしようが、
例えば、社会的、ソーシャルなものに対してアクションを取るかどうかは
全く別次元の話。
これは、デザインが一つの例、だけであって、
僕なら僕の武器があり、それは本かもしれないし、本に対するもろもろの
面白さの追求に貪欲になれるということだろうと(確かどっかの本に、
名前を忘れたがそういうパラノイアだ、パラノイア的なものが必要ってあったなあ、まさしくそれだ。が、よくいわれる、旅行マニアではなく、旅行会社に勤める人は、旅行を楽しんでもらうような配慮が必要。
本屋も同様か。多分、それを仕事にするって実際に興味が、瞬間的なものと
持続的なものに分かれていて、瞬間的に仕事に就けるけど、
持続的にそれでやっていくかは、次第に養われるか、見つけるか、
または、瞬間的な興味という燃料が切れて別の道を探るか。
そういうところになるんじゃないだろうかと思い始めてきている)思う。

REの後に自分の興味あるものをいれて、
それが趣味的で、俺の中でクローズさせてくれというなら、
そうすればいい。でもそうじゃないなら、何らかの形で、
誰かに話すなりして、ブログでもいいし、
試す価値はあるんじゃないかと。

社会的価値

もの、ここではプロダクトという製品でいいのだけど、
その価値において、社会的価値というのが重要になってくるそうだ。
環境なら、エコかどうか。

エコは、経済的な安さや高さではなく、機能的に使える・便利でもなく、
情緒的に「かわいい、感動した!」でもない、
つまり、環境という社会問題への・・・。

ホワイトバンドというのが流行ったが、あれも社会的価値。
あのバンドに機能性や経済性を求める人はいなかったはず。
つまり、寄付だろうと、ロビー活動に使われるというところで、
そこに「社会的価値」を見たわけだ。

と、解釈した。

で、今の時代は、この社会的価値に反応する人が
徐々に出てきていて、例えば何か食べる場合は違うかもしれないが、
モノとして、何か買ってしばらく自分が所有するならば、
価値が高いものがいいんじゃないかと、考える気がする。

社会的な価値は、実は人によって全然違うのだけど、
でも、社会的価値って言葉で色々まとめられる。便利だ。


とりあえず、社会的価値の前に、飯を食わねばならぬ。
これは人間であって、僕はマシンじゃないのだ(笑)

満足度の違いから。

個人の満足度と幸せは異なる。
でも、そういう個人が集まる社会は一体どこで
満足ならOKなのか。

滅茶苦茶難しいのだが、基本的に、
個々は異なるという点で、共通項、普遍的なところを
認めていかないとダメっぽい。

でも、ここまででOKってのはあるんだろうか。
それは、憲法が定めた人間らしい基本的な生活ってことで
一旦は解消されるのか。

ああ、満足度なんて個人で使う言葉か。
集団の満足度なんていっちゃうと、混乱する。

キャパシティ・ビルディング

おお・・・分からんな。これ。
ファンド・レイジングも分かりづらい言葉だけど、
まあいいか。

なわけはない。
どうも、ググると、組織についての力を出すのような、
そんな雰囲気。で、キャパシティとはここでは、
組織の許容能力として、それをビルドしていくってことか。
って、説明にならんな。

で、この言葉ぶっちゃけどうでもいいんですが、
そもそも、言葉の背景にはなんかあることが多いので、
そちらが気になるわけです。

時間感覚が異なるところで。

いわゆる、ひずみとか、ずれとかいうのは、
何か、横に一本等間隔、もしくは不等間隔で並んでいて、
その間隔の間にあるものに注目・・・って
書いていても分かりづらい。

例えば、国境だ。
国と国の堺というのはある。
でも、その国境って一体どちらに属するか。
やや物騒だが、非武装地帯みたいなものかもしれない。

そういうのを土地とかではなく、
時間に適用してみよう。

実はそういうのは、脳とか色々、仕事ハックなことでも
言われているはずーだけど、
例えば、時間が1秒の刻みであるのは、単位の問題だ。
自分の最低時間感覚。こういうのは大事だ。

昔、学生でお金がないとき(今、あるとは一言も言ってないが)
ブックオフの1冊文庫100円が、最低単位の「本を買える単位」だとして、
そういう意識があったから、
学食の飯は微妙に安くなかったけど「ふむ、4冊分か」とかやってた。
多分、こういうのは本ではなく、好きなものとか、
趣味で金かけているもの(ゲームだとか、旅行だとかね)で、
換算することは多いんじゃないだろうか。

実はそれとほとんど同様というか、同様に考えて、
時間も仕事完了単位で考えていくことには意味がある。
1タスクに対して、15分だとする。15分とは、大分大雑把かもしれないが、
人によって違うだろう。コピー10部で、1タスクとすると、15分くらいで
出来るかもしれない。もちろん、効率性を考え、コピー機の前で
突っ立っていることはいけない。休みたいならそれでいいけど(笑)

つまり、何かのタスクに対して、自分の基準時間があるとき、
それらは、どれくらいの時間なのかは把握しておいたほうが
いいかもしれない。
時間は、1秒刻みでOKだけど、でも、1秒単位で動く人はまずいない。
というか、できない(笑)

少なくても、「秒刻みのスケジュール」といっても、
それって比喩だろう?もしやってるなら、そのスケジュールだしてくれって。
そういうことになる。
10分単位くらいが最高じゃないかと。

で、そういう時間感覚が違う人が出会うと衝突は確実に起こる。
ある人は、例えば僕なら、15分のここでの状況でのロスは、
重大な意味がある。と思うのに対して、相手は、30分くらいなら、
別にどうでもいいとおもうような、むしろ「暇で30分つぶしたい」
くらいの、感じが漂っていて、その人の時間単位はとくになし、
という場合、
確実に何か起こりそうだ。

ある人にとっては、この時間帯は色々動けるから、
価値が違うんだよ、というのもあるんだろう。
全くその通り。

自分が一人でいる2時間と、誰かといる2時間は全然異なる。
それは、時間共有というよりも、時間感覚をそこである程度、
お互いに落としこんでいるからではないかと思う。

多分ね。

で、そういう時間感覚最低基準時間みたいなのがあって、
もしも何か自分にあってない「時計」で動いているなら、
それは調整する必要があるかもしれない。
例えば、15分ではなく実は1時間のほうが動きやすいんだとか、
いやいや、3時間だとか、1日であるとか、1週間だとか。

短距離と長距離の違いみたいなものかな。
自分がどちらに合うかなんて、いくつかやってみないと
分からないわけですな。

あきらめの心

Think the earthプロジェクトの目的意識で
素晴らしいな、と感じたのは、
「あきらめの心を最大の課題」とするという言葉だ。

確かに、あきらめなければ、それはリミットは「死ぬまで」だ。
死ぬまでにやろうと思えば、「あきらめずにやった」といえる。
それは結構考えるだけで「タフ」なんだけど、
でも、それくらいの意気込みは言葉レベル(実行は問わず)で
確実に欲しいなあとも同時に思う。

それくらいじゃないと、何もやれないということか。

もちろん、
あきらめるというのは、逆行するけど、
「無理しない」「頑張らない」「諦める」という考えも
非常に好きだ。
無理するとは、金属の法則?(なんか伸ばしたりとかなんか性質ありますよ)とかに無視して逆にやれば、ダメになるみたいな。
きっと、法則ではないけど、流れみたいなものはあると思うので。
それに抗うのも時にはかっこいいけど、無理しているのって
実は自分が一番分かる。

あと、頑張らない。
頑張るって、単純に使う時はいいとして、
その深い意味は「張る」感じが満載だ。
だから、頑張っている人が、さらに張ると、張った身体、もしくは
精神は、伸びないか、どこかで切れてしまう。プチっとね。
頑張って頑張って・・・という言葉は、応援くらいの意味でしか、
成立しえない。
だから、頑張るのは1回だけでいいとすら思う。
頑張って、張ってまでやるなら、頑張らないでいい。

諦めるのも大事だ。
無理で、実はそもそも不可能なことはいくらでも瞬間的に
人は思いつける。諦めることで、「リセット」されることもある。
そうすると、足が地球と一体化するみたいな、
「マザーアース!」(笑)な感じになって、
「おかあさああんん」という安心感が得られる(笑)
まあ、冗談でもないのだけど、諦めることも大事。

もちろん、これらを意識できるってことは、逆な意味で、
頑張ったことがあったり、無理したことがあったり、
諦められないことがあったりということが実は
経験として必須なんですね。
という、罠がありますな。


あきらめの心は最大の課題というのは素晴らしい。
でも、上記の3つくらいのことを入れ込まないと、
僕には応用できないというのはある。

何かもう無理だな、辛いな、やめようかって時には、
一度疑ってみる価値はある。

そういう時に人に相談すると、大体解決する問題が多い。

自分と自分の周りが真実

これは避けて通れない、事実。
僕もそれに含まれていて、僕と僕の周りが真実だと
思っていなくても、前提としてがっちり真実となっている。

真実という言葉は微妙だな。
正確にいえば、「自分と自分との周りが基準となって、
そのプラスマイナスで状況の判断、がなされる」
といったほうがいいか。

でも、これって実は結果的な話であって、
そもそも「自分と自分の周り」で付き合いが
終わっている・・・というと、閉鎖的だが、
でも、それは閉鎖的といいきって、イイと思うのだけど。
そういうところではなく、ちょっと違う人と、関わることで
自分と自分の周りが検証できる気はする。

少なくとも、仕事柄というのは多い。
仕事の付き合い、仕事関係で、というところは、
やはりカテゴライズすると、どうなっているかは分からないけど、
「仕事関係」という脳内の情報がタグが貼られているみたいな、
そんなことになるだろう。多分。
そうなると、「仕事関係」以外で何かなければ、
「仕事関係」のタグのフォントがでかくなって(笑)、
強調されていく。

どのタイミングか分からないけど、そのタグ強調して、
「うん、これだよね」とか「いや、違うな」って
メンテナンス、振り返りをする必要がある。
ブログかいてて、たまたまそういう傾向がみられる、というような
タグとは違うのだけど。


自分の基準とか、そういうものを考えていって、
人と違うところ、そしてまた別の人とも違うことを
考えていくと、なんだか
「基準とかどうでもいいな」という相対的主義に陥る。
この場合の相対的主義に陥るとは結果であり、意見ではない(笑)
だから、もっと柔軟でやれる。
もっとどうでもいいようなことに、固執していると
そういうのが、「金魚すくいのあのすくうやつがすぐ水につけすぎると
やぶれる」ように、はっと分かる時がある。
もちろん、その「分かる」なんて正解はないわけだけど。

閉鎖的で、そこで完結してしまうと、
多分、集中って意味では濃いものができると思います。
でも、それってインプットという意味で枯渇する。

インプットというのは、やはり月並みだけど、
「自由な雰囲気」というところで、レールではないところから、
持ってこられるから、インプットになりえるというような気がする。

つまり、「想定」外がどれだけ許容されるかー。
まあ、滅茶苦茶難しいところですが。

自分の周りだけ真実とみなして、
小さな小さな枠に留まろうとする人は、
意外に人にはいえるが、自分には盲目ってパタンで
多数存在すると思われます。

まあ、そういう弱さをお互いに容認できれば、
何も思わないことでしょうな。

アウトプットマネジメント

そもそも、インプットとアウトプットとは何か。
そこから入らねばなるまい。多分(笑)

インプットとは、情報、知識で、
アウトプット(教えるなども含む)として、知恵が提示できたり、
何か意見として言えるとか、そういう感覚、だ。僕は。

だから、いくらインプットしても、
「ああ、それは勉強したよ。」
の後に、
「でも、忘れたなあ」
では、勉強したことはギリギリ認めても、
今本当にそういうことを知りたい人にとっては、
全く使えない。
これは、事実だろう。

で、本題としては、そもそも、インプットとアウトプットを
色々試行錯誤したり、
言葉をかえて「刺激があるない」とか、そういうのって、
一体人はどのレベルでやっているかが気になってくる。

要は、最終的に結果論だけど、
アウトプットさえみれば、何をインプットしていて、
どう動いているかも大体分かるってことを思っている。
それをマネジメント=管理(管理とは指示して命令するだけではなく、
うまくコントロールすることも含めたい)しないと、
結局、アウトプットなりえないという気がした。

つまり、2ある。
1.アウトプットを見ることで、インプット?アウトプットの過程も
ある程度把握できる。
2.アウトプットの管理をしないと、できないと、アウトプットなりえない。


1について。
まず、これは、当たり前だけど、人、とくに情報がない、初めて会う人に
とっては、見た目が9割っぽくなる。もちろん、見た目とは、
外的情報みたいなやつで(何それ?)、その場から得られる情報になる。
で、逆にいえば、既に結果、実績、やったこと、今の仕事などは、
その人が重要視とはいわないまでも、重要であると考えて
やっているなどと推測ができる。多分。
だから、例えば
「ああ、この人はこういう仕事をやってきたんだなあ」
というと、インプット的なものを聞いたり、何を学んだかを聞けば、
逆にその人のインプット?の過程も分かる。
が、普通はそれって「結構深い」話なので、
そう簡単に聞けるものだろうかとか思ったりする。

いくら仕事のきっかけから色々聞けても、
それは、プライベート的な、個人的心情の変化(笑)が
そこに混在するから面白いので、そうではなければ、
ダイナミックなものではなく、静かなインプット?アウトプットしか
見えない気がしてくる。多分。



2について。
アウトプットをみればOKというのは分かったが、
それは実は他人向けだ。自分はどうなん?と考えると、
実際に、自分が学ぼうとしていることが、アウトプットできていなければ、
それって、学んでないじゃんということになる。
非常に分かりやすい。

そんな「自分が学ぼうとしていることが学べない」なんて
状況あるんですか?ということにもなるが、
色々な壁もあることを想定すれば、実際にある。
ただ、問題なのは、自分が学んでいること、これをやればいいだろうと
思って、かなり確信しているものが、かなり外れていることは
ありそうだ。本当に、これは多い気がする。

例がよくないが、
車の勉強をしたいといって、車を買い漁るのか、
人に車の話を聞くのか、車について知識を蓄えたいのか、
外車が好きだからそれを調べたいのか、中古車ビジネスでもやりたいのか、
そもそも、一輪車、自転車などの車も調べたいのか、
というように、
仮にその人が「車の勉強」といって、産業革命らへんの本をもってきて
勉強していると、大きく外れる感じはしまくりんぐ。

で、そういうのって、自分ベースなんで、
全然違うことやってしまったなあといって、やり直す、
変えていけばいい。

でも、世の中には、学校などという言葉があり、
そこにある程度の「お金」を入れてしまって、
それをしかも受講してる間に、そのように思う人もいそうだ。
本当に個人の価値観だから、あれだけど、
学校にお金をだして、勉強して(ちなみに学校とは大原とかそういう
あれは、スクールというほうが適切なんすかね)、
でも、あれ?こんなの学びたかったんだっけ、とか、
思ってしまうのもなんだか。
また、全然学べないというのも、なんだか。

ある程度の見切りと、確信と、勘で、
結構「勉強」なんてところは、向き不向きもあるが、
基本能力として必須で、そういうのを知識ベースで
やっていくような(経験も必須だけど)資格ありきのしごと(否定的な意味はない)は、そこらへんをそもそも外したら
出来るわけないじゃーん。
ということを、脱線気味で、思ったりする。

だから、何を学びたいかがなきゃ、
そもそもアウトプットできない。

誰かに人に、こうだよああだよとも、
これをしたい、あれをしたいともいえない。


そのアウトプット、一体何を出しているのか、
何を出していないのか。そういうのはやはりチェックする必要があって、
自分という存在証明というと固いならば、
自分はここにいてこういう考えをもって生きているんですよ、
一緒にいかがですか?みたいなことは、
どんどんやっていったほうがいいと。

そうしないと、多分朽ちる(笑)


というわけで、アウトプットは大事ですねってオハナシ。

ソーシャル・クリエイティブの可能性

久しぶりに講演を聞いたなあと。
が、勘通り、役に立った。上田さんありがとうございました。

ざっくりいうと、
Think the Earthプロジェクトというものの説明と活動、
これが上田さんの仕事の主として、
後半は、ソーシャル・クリエイティブな事例。

僕にとっては、懐かしい社会起業家な話として、
良きメンター(といっておこう)が紹介してた、
ベン&ジェリーズのアイスクリーム、
TheBodyShopとかの事例。ああ、懐かしい。

上田さんに、質問時間があったので、質問してみた。
なぜ、ソーシャル・クリエイティブのようなことに
興味を持ったのか、と。

答えはざっくりいえば、「面白い」ということだった。
むう・・・素晴らしい。

百年の愚行という本は、土井さんという人が、
じてんしゃ図書館で宣伝した?せいか、
というより、あの本は一度見たけど、かなり衝撃的ー。
逆に、それがThink the Earthプロジェクトから
出ていた方に驚いたりする。

面白さ、というところで、
上田さんが言われている感覚がものすごく分かる気がした。
社会との接点というか、関わり方をどこに持っていくかというところで、
頭に出てきた質問だったのだけど、
実に参考になる。

人間というか、社会というか、関わっていくことは前提で、
で、そういう人間って実はものすごく人間くささがあって
面白い。

銀河系とか太陽の衛星?である地球を考えると、
自分の動きはどうでもいいようにすら感じるが、
でも、そうでもないなあというか、
逆に、どうでもいいなら、好きなようにやりたいというのが
落としどころになる。というか、そういう思考が好きだってだけの話。

面白さというところでいえば、
例えば、広告とかデザインの分野では、確かに顧客や生活者がいて、
それに対してどう訴えていくか・・・というところで、
色々なアイディアでやってくのだろうけど、
でも、それって、結構やりつくされた感があるらしい。
意外にそういう感覚、他にないかな、面白いことないかなって
考える嗅覚みたいなものって、鍛えないとできないというか、
生まれてくるものもないんだろうなあって。ふと思う。

例えば、いくら自分が天才だと思っていても、
何もしないのは天才じゃあないだろうとか(笑)
あと、面白いものを求めないのに、面白いものが出てくるわけがなく、
意外に人は観ている、とくに自分が意識してない領域で
カウンター(笑)みたいなものが飛んできてはっとすることが
あったりする。それは面白さって意味で。

社会は、広い。
色々な自由なカテゴリがあって、どこにでも、例えば、
デザインって手法を取り入れたら、100人いれば100人の
アイディアが適用できる。と思う。多分(笑)
だから、上田さんは多分、そういうことを「宝探しの金鉱」みたいな
表現をしたんだろう。おそらく。

僕は、なぜか知らないけれど、
個人も大切だけど、なんか社会って言葉が好きで、
社会って別にそういうものがあるわけじゃなくて、
時には二人、時には1万人、時には5人の集団でしかないし、
何か属性が常にあるわけでもない。

でも、人って面白いので、
必ずそこで、何かできるんじゃないかと思っている。

というわけで、良い話を聞き、良かったです。
上田さんありがとうございました。

関連リンク:
Think the Earth オフィシャルサイト

アウトプットの場

別に自己肯定、自己啓発、セルフ・モチベーションとか、
なんか自己に偏る話でもなく、
例えば、人に自分の話を「自慢」ではなく、話せる人って
そういう「メリット」というか、楽しさをうまく言葉に
できないというようなことを感じている。

ざっくりいえば、自分の好きなこと=らくらくできることのような
ことは実は他人からみて、ものすごく羨ましいとか、
実は他人には全くない力であるとかそういうこと。
本人はそれに気付きづらいってことになる。

なんでそんなことをいっているかというと、
アウトプットとかいうと、何かしら話すとか、説明するとか、
色々でてくるのだけど、そもそも、
なんでアウトプットするかというと、
自己の頭の整理とか、相手からのアイディアやアドバイスとか意見を
求めているとか、何かしらの期待が結構あったりする。

あと重要なのは一見リターンではないが、
「自分はこういうことをしている」という定期報告みたいな、
近況かな、を話すということ。
それって、その人が一番出ているような。

最近使ったファイルではないけど、
最近やったことって、やっぱり温かいので、その人の体温に
近いみたいな感覚はある。人は忘れるものだし。

アウトプットをしていって、何か見えるものがあるというか、
そういうものがあるので、やはり人と話すとか、
思わぬアイディアが出てくるとか、そういうの好きだなあ。

ところで今日は土曜日です。

他サイトでの紹介。

あわせてよみたいを読んでたら(自分のところと)
「るいんずめもりぃ」というブログを発見した。
http://jidai3.blog15.fc2.com/

こちらの記事で、幣ブログの「時間の使い方」が
リンク貼られている。

大したことも書いてないが、そういうところに、
きちんと反応して、何かしらコメントやリンクがあることは
嬉しいものだ。

こういうのってブログというかネットでも「コミュニケーション」という
可能性を与えてくれるといいますか、
なんかそんな感じがする。

とりあえず、今日は土曜日です。

コミュニケートを軸にする人

そんなことを人から言われたような、気がする。
今度確かめておこう。

あえてではないが、人に道を聞いたり、
わざと間違えたり、といったことは嫌いじゃない。
むしろ、そこでどういう対応をするか、自分もそうだけど、
試している感じはある。

人によっては、この感じが、試されていると見えるようで、
そうとらえちゃう人は、どうも話が「常に試されている」みたいで、
面白くないんじゃないんだろうあなと思う。
その意図はないが、難しい。

つまり、初対面のぎこちない会話があるならば、
それがずっと続くわけだ。それでなかなか良好な関係になれるかといえば
なれるわけがない。

相手のペースと自分のペースでできないのだ。
自分がペースを尊重するなら、相手もある程度それに
従わねばならない。ねばならないとは、それがコミュニケーションだから。

例えば、会話で相手の言っていることを全然聞かずに
他ごとしていたら、それは会話にならない。
実は、会話とは、相手Bから自分AというAとBの話をお互いにする・・・
というルールが存在する。定義、明言化したものが辞書だとすれば、
面白いと思うだろうか。

どちらにしろ、あるルールがあってもなくても、そのような
ことがない限り、そもそも話をすることで
何か伝えるということはできない。

いきなり、毎日全員が俺に注目したなんて、
ちょっと頭大丈夫かい?といいたくなるだろうなわけで。

で、コミュニケーションを軸に、コミュニケートといういわゆる
関係とか伝達、伝える、人と人の間柄、行間ではなく、ジンカンとか、
そういうのって、軸というか基本だと思っていて、
何事も人だなあとか、思ったりする。

まあ、何にせよ、相手のペースを大事にしよまい。

観点F2

続き。

一番危険なのは、「楽」そうだとか「今の状況が嫌」だからということのみで、判断すること。

多分、今の時点でも、そうだが、客観視して楽さで考えれば、
しばらくは今の仕事の方が、主観、客観ともに楽といえる。
そもそも、次の仕事はないわけで、しかもどうなるかもあまり見えない。
開拓していって芽が出るかどうかも不明。
しかし、ここでずるずるとやっていることに意味はない。

ここでいう意味とは、
今の生活をベースに、
様々なルーチン以外の出来事や体験や生活や人生を想像し、
それで面白いか、楽しそうか、動けるかということ、になる。
そのような意味はないと思うならば、自分で動いていくしか結論としてない。

自分としては、自分で考えて動くことは出来る。

情報も宝だが、動くということも宝だ。
ならば、自分に合ったように生きる道を
探して、最大のパフォーマンスを投下していくのが良いのではないかと、
自分にも言いたいが、少しでも参考になるなら、もっと伝えていきたいものだと感じる。


で、最後にトドメでいっておくと、
やっぱりやって後悔したいし、
そもそも、やれずして、やらずして、
ブーちゃんなのは一番いやなわけでして。

重要な観点F

重要な観点としてあげられるのは、続けていくことで得られそうなことが
非常に薄くなってきたこと。しかし、続ければそれなりにリターンと、得られるものは微少だがあるということはある。

そして、一番自分にとってのリスクとは、上記の得られることがないとか、そういうこともあるが、そうではなく、時間が極端に減ってしまうというところにある。

例えば仕事を20年続けている(それは一般的に同じ仕事を)人からみえれば、
3年というのはスタートアップの最初にしかうつらないはずだ。
20年を一括りと考えるので、最初の1年で決まるなんていう考えも分かりづらいだろう。
が、ここではそのような批判をかましていくことに意味はない。
40年選手(それはほぼ定年の人のことを意味するが、今は定年が・・・いろいろ伸びたりしている時代だけど)にいわせちゃダメだ。
比較するなー(笑)話は聞くけど。


そういうモデルがあるとして、20年続けていくこと、そして続けていくことで
得られたものがあった、そういう価値のもとでは、3年は薄すぎるように見える。

で、こちらが提示する価値とモデルは、何か続けて価値を見出すことは当然、基本としてあるが、
それ以上に、
「自分のモデルをいくつか探して、自分の価値と社会の価値をクロスさせて、
落とし込んでいって、自分のあり方を見つけていくということ」
になりそうだ。
これってピンとくるのかなあ。

例えば、時代が何かの流れに沿っていくという時代にはこれは
多分相当浮いた感じだが、今はこれが結構普通なんじゃないかと
思ったりする。というか、そうしないと、逆に流されたままで終わるような。


3年という数値は、全くもってその人の20年に当たるかもしれないし、
そもそも比較はしづらい。また、一般的に3年といえどどのように動くか、考えるかで
得られるものは全然異なってくる。単純に、3年という数値だけに焦点を当てすぎていては
杞憂が発生しまくってしまうだけだろう。
これはアルバイト30種と一緒の話かもしれない。乱暴だけど。
年数という体験=経験と読むことは僕はしない。
だって、大人を見ていると、その年齢でそれかよ!ということは
結構あるわけだ。別に年齢で何か決まったことをしていくのが
人生だ、とは全く思わないが、年下の人がやっていることが、
年上の人で出来ないことは非常に恥ずかしいことではないだろうか。

誤解がないようにいうと、それは長所とかそういうことではなくてね。
何かコミュニケートのようなところで関わる話。


バッファとして、1年設けてあり、できればすばやい決断で
いきたいところだが、何かキッカケ(それは何でもいいと思う、例えばビジネスのきっかけができたとか、自分のカンが作動したとか、
誰かに良いアドバイスをもらったとか)にして、
トリガーを起すことにする。
それが起きるまで(正確には少し起した状態で待機)準備にリソースを割くことにする。

まさに、観点Fだ。
Fは森博嗣氏からぱくった。本読んでないけど・・・(ダメじゃん

時間の使い方

何度も出てくる尽きないネタだが。
今回はちょっと発見。

例えば、あと自由時間がどれくらいあるか(仕事などに拘束されない時間など)を考えてみた。
すると、
その見積もりで、平日は数時間しかない人が多いだろうが、
実は休日は1日で見積もっていいかどうかにすごく疑問が。

例えば、何かしらの勉強、デートでもいいが、または遊びでもいいけど、
それって、1つのことを大抵やる。
でも、意外に時間は1日でもない。

睡眠6-8時間をまず引く。すると、16-18時間になる。
飯風呂などの基本動作があるので、それらで12-14時間くらいには
なりそうだ。

となると、普段のお勤めスタイルで、
例えば、9-12時、13-18時のような組方で、8時間を設定する。
1時間の昼休憩がダブルかもしれないが。

でも、その8時間を終えて、さらに夕飯で、19-22の3時間で、
実際の勉強が11時間ってのは結構きつそう。
受験生はこれくらいやりそうだが、僕は受験生ではない(笑)

だから、平日はいいとして、休日の自由時間って、8時間で
見積もるのが基本なんだろうな、と発見。
意外に1日で見積もって、なんでもできるとおもってしまうもの。

店でも、店によるが、朝早いところよりも、18時過ぎくらいまでしか
やらないと、そこにいくには、結局、一気に回ろうとしても、
2-3時間で、2件とかが最大になる。
これは意外にアルバイトやってたときの経験を思い出す。
確か、4,5件回るとそれでくたくたになったものだ。足だけね。

それはいいとして、休日の時間が8hになると、なんとも時間がない。

以上を1つの発見としよう。

次に2つ目。
これは、細切れを積み重ねるのは有効な時間の使い方だけれども、
それはやはり細切れでしかないという話。
例えば、1日1時間を20日やって、20時間ストック=実施できても、
それは8h換算=1日だと、3日程度の時間になったとは
考えることはできるが、理論でしかなく、
実際には、1日1時間の積み重ね以外に表現できないということ。

だから、1日を8hと見積もって、16hの時間を8日で2時間ずつで
たたき出しても、2日の空きとはいえない。
2日の秋とは、土日の休みが連続して、8hで何も予定ないということを
言うのではないかということ。

何を当たり前のことをと思った方は、
ぜひ、半年、3ヶ月でもいいですが、自分の休日はどれくらいあるかを
計算してみてください。え、1日も休んでないって?お疲れです・・・。

3つ目の発見。
平日と休日は、以上のところで、
時間感覚が異なるので(少なくとも僕は)、
平日には平日で、休日には休日でやれることをやったほうがいいと
思ったりする。当たり前だけど。
例えば、平日なら本を読むことと、メールを書くこと、
何かの整理、また他タスクをこなす、外にいるから外でやるといいことも。

休日は自宅にいたり、自由だけど、外に出るのが面倒ということもあるわけで、また、まとまった時間があるのでそれだけ一気に必要な場合に
使える。一気に何かするということでも使える。

でも、肝心なのは、実は休日は、仕事の休み的な意味もあり、平日で
仕事を回している人は、世間的休日が平日という人もいるだろうが、
その休息にもあてたいときもある。

すると、変な話、時間管理が甘すぎると、
土日休みでも、土曜日は仕事疲れだーといって休んで、
土曜日がそのまま終わる。そして日曜日になって、
仮に土曜日でやるべきことが終わってなくて・・・みたいな話だと最悪。


4つ目。
一番これが重要なことだが、
「がんばらない」「むりしない」ということが大事。
時間がないと一瞬言ったのは、やるべきこと、やりたいことがある人が
実際に時間をやりくりして、あてているのに、それでも足りない、
という人が使う・・・言葉だとすら僕は思っている。僕は、ですよ。
だから、時間がない、というと、その人の時間管理スキルをまず聞きたいし、
興味あるならば聞く。
それが甘すぎるならば、「そりゃないだろ」と突っ込む。
それで相当やっているなら、「お主できるな」となる。

ただ、キャパ的なものもあって、1つのことや今度はタスク管理のほうで、
抱え込むとか、長引かせすぎ、とかお蔵入りなことを、
いつまでもとか、優先度とか、自分が今やっていって、そして
こうなればいいとかの絵がないとか、で、
かなり時間を「無駄」に使うこともある。

そうなると、時間を増やすことは実はできなくて、
やることをなくせば増えるけど、そうするとトコロテンみたいに、
明日から金がなくなる(笑)みたいになるのはちょっとね。

だから、効率性でフォローってことをいて、
1時間かかることを30分でとかもあるけど、これもちょっと大袈裟になりやすい。

一番ベターな妥協案は、
どちらからも攻めること。
つまり、効率性をやりつつ、時間もやらないことを削ってやっていく。

で、僕は決め付けではないが、その人の仕事がその人を表していると
思っていて、もちろん、全部が全部そうではないし、全てでもないけど、
コミットしていることがない限り、そうは続かないというのが相場。

ならば、それなりに愛着ややりがいがあるならば、
もっと改善できる、ということも多い。
これも、やっていていっているのか、やってないのに言ってるかは、
簡単にばれる。


で、結論としては、時間って管理むずいっすね、ではなく、
実際に、見積もった時間で何をしていくか、
やりたいことに対しての効果的なアプローチを考えていくというところで、
良い思考になったわ。

仕事単位系

僕の頭の中はこんな感じ。

僕の頭 目的P-1企画-1PJ-人員-タスク-TODO(アクション)
会社などの形態 理念・ミッション・課題→事業・企画→チーム・プロジェクト→仕事の分割→個人への割当→TODO

というように、非常に似ている。
というか、逆なんだけど。そういう組織体とか仕事術的なものを、
逆に利用しているといったほうがわかりやすいんだろうなあ。
基本っすね。


DBのフィールドみたいに(笑)以下、

1PJ-人員、目的、資源

人員-自分や協力者、仲間

タスク-1PJ、1企画における主な仕事

TODO-タスクを細かく切ったもの

アクション-TODOとほぼ同義、行動重視のTODO

となっているかな。説明ですな。

自分の中で終わる作業はTODOで、
人に確認するような人と関わるものはアクション?
というようなことも思ったり。どうでもいいけどね。

ここから分かることは、
1企画-1PJが出来たときに、1アクションまでイメージできること。
多分、そりゃ細かさの度合があるけど、それができなきゃ、
多分、指示もできないし、正確にいえば、メンバー、人員、要員が、
どういう人間かも加味していると、ベターだけど。
ちなみに、絵が描けていないという表現は、
このアクションが全然あがってこない状態になるかも。

逆に、1アクションや1TODOがあるということは、タスクや企画そして目的Pが何かあるということになる。
こちらは、作業者意識がある人にはおすすめかも。
レンガをなんで作るか。考えようということで。

どちらの方向からも狭めていけば、
目的はぶれることなく、また1アクションの意味も
それで埋もれて何をしたかったかを忘れることがない。
また、タスクや企画があるというところで、狙いも洗練されることもある。
TODOで回すというところでも、様々なものが見えてくるはず。

意外に一方からは考えても両方から攻めることは
考えづらいかもしれない。
まあ、それは色々ありで。
でも、両サイドから攻めれば、どちらかに自身の立場や
状況が陥る?の位置にいても、使えそうだ。

アクションよりなら、目的などを、
目的よりならアクションを。
もちろん、目的とアクションが相反する概念ってことでもないけどね。
あくまでも、僕の頭ー。

タスクの可視化

なんか、管理とかTODOとかのライフハックに
力使いすぎて、実際の管理やTODOが回らないってのは、
普通にありそう。だけど、力入れすぎても損しないような、
そんな気分(シャレ

タスクの可視化というところで、数値や箇条書きが有効。見積り時間も必須。
さらに、Visualとしてポートフォリオを組むこと。さらに優先順位。
タスクが5つあるなら。高中低で、優先順位をつけることはできる。
さらに、その見積り時間の割合もみつもる、
A高1h
B高2h
C中0.5h
D中0.5h
E低1h
という形になるならば、これらの時間配分がスマートに
割り当てられる必要がある。

重要なのは、ただそれをタスクとしてこなせばいいのではなく、
タスクをどう組み込み、割当て、作るかを考えることで、
おそらくこれはTODO管理という枠を超えているっぽい。

やはり、ぱっと分かる感じがいい。
紙ならA4とか、そういうのが一番いいっすね。
初見で、10ページもあって、だらだら書かれていなくても、
量が多ければそれを読まなきゃいけない。
それよりも、ポイントを箇条書きで、きっちりおさえて、
後は「話す」ベースのほうがコミュニケートは図れるし、
伝わることも多いかも。

ほら。文字みて理解するより、人の話きいて、
質問して、イメージの刷り合わせという説明の方が
分かりやすい気が。もちろん、興味なきゃダメなんだろうけど。

まあやってる人はやってそうなオハナシ。

人は誰でも愚かになれる

だから愚かにならないようにしていく必要はある。

なんであの人が、とか、
なんであいつがーとか、
なんであんなことををとか。

不可解なことがないと、多分正常という概念もない。

例えば、社会という常識強制装置に去勢された人間ども、
という言葉で書き始めれば、かなりごっつい小説が書けそうだが、
そのように言うことは出来る。

つまり、基準を誰とするか。自分か、他人か。
難しいわけだ。

人は楽をしたがり、愚かだ。戦争もする。

でも、それって現実にあることだ。
目をつぶって逃げることは・・・意外にできない。
別に戦争地域にいって死ねということではない。
何か募金をして、助けろということではない。

そうではなく、まず、知る。見る。聞く。
そこに無関心を装うのではなく、関心を装え(笑)

おろかな人間など探さなくても、既にいるのだ。
別にそういう人についていちいち言わなくてもいい。
愚かになれるというのは実は自分が一番その可能性を秘めていることを、
その人は知らない。そしてそういう僕もそれを知らないかもしれないからで、
実はめぐりめぐって、その人が自分のやろうとしたことの
未来を先取りしていただけだったかもしれないなどという時には、
冷や汗だらだらものでありますな。

やりたいこと、とやらせられてることが明確でないから、あいまいに。

やりたいこと、とやらせられてることが明確でないから、あいまいに。
やりたいこと、とやらせられてることが明確でないから、あいまいに。
やりたいこと、とやらせられてることが明確でないから、あいまいに。
やりたいこと、とやらせられてることが明確でないから、あいまいに。


とあるのを見て、どう思うだろう。
そんなのは分かる。明確に区別できるといえる人は、
ほとんどいないのではないか。

むしろ、この境界はほとんど目にはみえない。

やりたいこととやらせられている(やらされている?)ことは、
意外に同じようなことをやっているようにみえるからだ。
また、自分の意志でやること=やりたいことで、
やらされている=やりたくないこと、というのは、
正解のようで実はそうではない。

自分がやりたいこと=やらされていること、
ならその人は幸福か。まるで哲学だが、というか哲学だけど、
それは意外に誰も何もいえない。

友人が新興宗教(新興だから全て怪しいわけではないが、
怪しいビジネスや怪しいツボ、怪しい食品、怪しい占いなどが
ついてくるところもあるだろう)にはいって、
その考えにやられたとしよう。やられたとは、自分が同意できないということ。

でも、その友人は「私は幸せだ」という。

非常に難しい。
軽くスルーするのも一興だが、そこで関わっていくのも、
人によっては「しんどい」だろう。もしかして、一番ありがちなのは、
ミイラ取りがミイラになるかもしれない。
また、友人がこちらに「勧誘」をして、パーケンをさばくみたいに、
何か送ってくるかもしれない。

久しぶりの友人からの電話が、ネットワークビジネスのような、
いや正確にいえば、「簡単に儲かりまっせ」的な誘いだったら、
相当へこむというか、「お前は変わったなあ」というしかないだろう。
が、そいつとは結構友人であり続けられるかもしれないが。

それはさておき、幸せな友人に何をいうこともできない。
また、それも一興。

で、本題にもどれば、
つまり、幸せの定義とか、そういうのって人によって違う。
だから、価値ってのものを何に見出すかは、結構ずれる。
でも、似ているところはやはり大切にしたほうがいいだろう。
そうじゃないことも一杯あるけど、共通ってところだけど、
安堵するのは、日本人だけじゃないだろう?多分(笑)

もし、自分がやらされている感があるなら、
もしかして、でも、自分がやりたいことなのかもしれない。
そんな認知的不協和はありえないって?いやいやそうでもない。
慣れは怖いものだから。

また、明確だと思い込んでいて、自分はこんな力ではない、
覇王!だとかいっている人間に限って、面白いように、
何もしていないパタンも多く存在する。
とりあえず、庭の草でも抜いて行動しよう(?)

というわけで、はっきりさせて、
やりたいことをあぶりだせって話ではないし、
またやらされているから不幸だとは言えない。

つまり、そういうことを考えていくと、
「自分はどうしているのが幸せで、どうしたいか」を
考えていくことになるのだけど、そういうのって、
どうも「論理的」とかそういうことらしい。
なんて、意外なんだろう。これは全て感覚なんだよ!

必達したいことはなんだ?

もしそういうものがなければ、
非常に毎日が曖昧に過ぎはしないかと思ったりする。
別に必達だから、相当でかいことじゃないといけないなんて
思っていない。

大切なことや大事なことがあれば、それをどうやって守っていくか、
どうやって大切にしていくかを真剣に考えているかどうか。
そういう話だ。

恋人、自分の子ども、家庭というものがあったり、
自分の考え、誇れる友人といったものがあったり、
今生きていることに感謝ーとかもあるだろう。


なんでもいい。
やりたいことでも、そうではなくても、守るものであっても、
それを必ず成し遂げなければならない・・・ならば、
どうやってやるかを真剣に考えるはずだ。
これは人にいってやるべきことではない(人はそのような喚起を
するようなアドバイスをすることはできるだけだが)

もし、そういうのがなければ、というか、
なければないなりに、やはり真剣に考えないだけであって、
あまり心配する必要がないような気がする。

よくそこまで考えているね、と何度言われたことか。
深く考えすぎだと、何度言われたことか。

逆だと。そこを考えないとやれないのではないかと、
何度指摘したかったこと。
もちろん、それに耐えうる人間には即言うが、
そうではない人間には言わないのだ。

誰にも同じように接するだと?
そんな夢はないし、それは夢だろう。
そんな人間はいないし、いたらただの役者だぜ、そいつは。きっと。

必達したいことを探せというのではない。
それが見つかったらどう動くか、みたいな
シミュレートすらしないで、一体何ができるのかーという
説教(えぇ

レベルアップを目指して

ビジネススキルとか、
なんちゃらスキルとか、
スキルがどーだとかいってるなら、

どうやって場を面白くできるか?とか、
なんでこのようなことになったのか、自分の頭で考える?とか、
そういう一見「ビジネス」ではないようなことのほうが、
成長というか、学びになるような気がしてならない。

というと、ある種の反論では、
そうではなく、ビジネス直結・・というのもあるけど、
まあ、それは反論というか、そういう考えで進めることもできるという
話。くらいでしかないかなあと思ったりする。
他人の考えを尊重しませふ、か。ムズイっすけどね。

まあ、それはともかく、
自身の経験値(これは色々なことを経験すれば比例して
ついていくかというと・・・実はそうでもない)を
上げることにいて。

例えば、アルバイトを30経験した人(職種の数ね)と、
アルバイトを一切やらなかった人は、経験値はどちらが高いか。
条件が他は一定にしないと、科学的というか、数値的に
まず検証できないので、ダメだけど、
逆にいえば、そのような検証ができないし、意味がなさそうにみえるのは、
そもそも、全く同じ条件の人間なぞいないってことになりそう。
つまり、条件が異なるなかで、同じフィールドで戦うということのほうが
多い。つまりつまり、学校などという特殊な教育環境は、
皆が同じ・・・みたいなことは今でもいうのか知らないが、
そのようなところでやっていくというのも、やはり特殊なわけで。

皆違うのだが、同じ社会で生きているというのは、
全然当たり前な話なのだが、それを分からない人もいるだろう。
人は違うということは、自分がこうやって書いている言葉に
例えばいらだっている人がいるかもしれないし(笑)、
笑い転げる人がいるってのもあるかもしれない。

が、最近ふと思うのは名前も書かずに(ペンネームですらなく)、
「ななし」とかいて、何か建設的ではないコメントや言葉を
残していくのは、何がやりたいか。
多分不快感を与えたいとか、当然「悪意」がある方向に見えるのは、
そもそも「そういう誤解されやすい」という想像力がないからなのだが、
不思議でしょうがない。

まあ、そんなのは相手する必要がないが、
しかし、そのような人も、社会では普通に生きている。
相手に対する配慮。なんか一筋縄ではない。

ビジネススキルとかいってる場合があれば、
相手のことをまず考えてみて、どこまでコミュニケートできているか。
それを考えるほうが大事なような。
目の前の人を笑わせられないなら、別の人も笑わせられないのは、
確実にいえることではないが、少なくとも、一つの指標、
もしくは評価として、それはどこかにストックしておくべきだ、というのは
ある。

いかん。
レベルアップは、経験を積むだけでは始まらないとは、
結局、何が言いたいかというと、
経験というか、体験(これはいい言葉が出てきたな!)のみで、
経験として消化されていなければ、
30のアルバイトと1のアルバイトでは、1のアルバイトで得たものが
実は軽く10000のアルバイトの意味をなすこともある・・・といって
いいのではないかと思う。

つまり、数の体験は経験となりえるが、
単純に数だけこなして体験すれば経験になるかというと謎だ。
性格もあるだろうが、自分の自慢というか、こんなこともしているといって、
これは「PR」「紹介」ではないことに注目したほうがいい、
それは紙一重かもしれないけどね、
数を誇るのはいいかもしれない。が、それは実は数だけかもしれないという
皮肉は常に言える。

もちろん、数をこなすことも大事だが、それは誇るよりも、
実は経験を押し出せばいいのだ。
つまり、数は自分で、質をアウトプットする。
それが多分プロだったり、一流の人間ではないかと思ったりする。
ああ、一流って言葉はだめだな。人間的な人間ってことにしておこう。

レベルアップを目指すなら、やはり、消化をどれだけ今しているか、
が鍵だろう。全然できていないなら、その問題を解決に向けて。
適して出来ているなら、負荷をもっとかけて。
余裕すぎるなら、逆に消化できていない人に声をかけてみると
結構面白いかもしれない。

レベルアップは、経験値を積むことだ。
でも、経験値=経験の数ではなく、経験という消化した具合、度合で
その経験値が上がるということだ。そしてレベルが上がるということだ。

プラトーという凪があるかもしれない。
とにかく、ふんばれってときもあるかもしれない。

波に乗る必要はない。波を起こせばいいのだ(おぉ


5000記事

だらだらと書いたつもりはないが、
独り言ベースで、がっつりと。でも、
ぱっとみ3800が独り言で、残り1200は別。
意外に、2割は独り言ではないということで、
ここのブログの本質は2:8の法則でいえば、
独り言8割にはない、本質2割にあるかもしれない。

ああ、そうだとちょっと苦しい象。

1000という話を聞いて、
1000突破してから、2000、3000は軽く目にしたか、
4000は目もくれずに、そして5000。

次は当然10000。

調子がいいわけでは決してない(調子に乗るとか、そういうのも含めて)
のだが、平常テンションがいやおうにもなく上がるということが
非常に好きだ。というか、それを普通はテンションが上がるというのだろうけど。

にしても、一つのことを続けるのって
なんか振り返るときがいいですねえ。

何のために働くか

きた。

友人Aに悪い気はないが、
自分と同じように「辞める」というところで、
何かしらアドバイスをしたいというか、
そうではなくても、自身の状況と似せて、いや同一視させて、
そこから、何か・・・というのは
分かるが、やや異なることをはっきりいっておこう。
まあ、そんなに「相談する」ことではないので、
この話は出てこないだろう。が、あまりにも「アドバイス臭」(笑)が
出てきたら、速攻ぶった切ることにしよう。


それはともかく、
何のために働くかは、何のために生きるかとニアリーイコール。
当然だ、と思った瞬間、自分の力をもっと試したいし、
もっと大きな仕事(金額、関係者の数が、単純に多いとか、
影響力が大きいとか・・・そういうことではないといっておこう。
もちろんそうなればいいが、実は問題は、そういうところに、
つまり、例えばお金がでっかい金額で取引をしているところに
飛び込んで仕事をしていく・・・よりも、そういうようなものを
作るとか、そうならなくても、とにかく小さな物を作る・・・
いわゆる鶏口牛後なのだけど、それがいいなあというか、そうしたいと)
をしていかないと、自分が小さくなるか、または少ししか大きくなれない
という読みがだんだん並行処理で走ってきている。

まあ、結果論なのだが、といっても、ある程度予想していたことだが、
背筋がゾクゾクするような・・・そういう感覚を求めているのだと
ふと思った。また本はレビューするけれど、
結局、自分が大切にしているカンみたいなものがあって、
そこにフィットさせるように、一生懸命、レンコンを泥ほって
掘り起こす?みたいなことをしないと、
腐っていくことは絶対だろう。

そういうことをせずに、ブーたれている人はなんと多いことか。
まあ、そんな人はどうでもいいのだ。

自身がまず納得できなくちゃ(これ、ジコマンじゃないので)
話は始まらんのだっ!

仕事の相対的価値

絶対的価値ではないところに注目。

なんでもそうだが、一人で生きて一人で死ぬ人はいないと
断言しておいて、その前提でいえば、
必ずどんなことも「相対的」になってくはず。

ひどい例を出せば(例として微妙という意味)、
昔は吉野家は200円で食えた時代があった(実際はどうか知らないが)から
「今の牛丼は高すぎる」といい続ける人は
確実にいそうだ。今の時代は違うのです、といっても
それは理由にならない、というか説得できないし、
理解されないだろう。

なぜなら、目の前の380円くらいでしたか、
その値段を見ているのであって、200円ではない。
ただそれだけ。

ああ、相対的の説明になってないけど、
そういう基準、経験などから判断をしやすい・・・。

で、仮に自分を疑わない人間がいるとしたら、
その人は自己の経験と基準を絶対化してしまうといっていい。
そうではない人を相対化しているといっていい。
当たり前のことだが、自分の言動から何まで「正しい」と思っている人は、
かなりまずい。
しかし、こういう人はいる。

正確にいえば、このような考えは僕は好きである。
自分が正しいという考え、というかそういう姿勢とか。
でも、それだけでやっていけるわけがないということを、
重々承知しているから、このような言い方になる。

例えば、ある特定のこと、例えば音楽については、
自分が正しいとか、そういうのは何かに突出するとか、
それに詳しいという意味では必須になるとすら思われるからだ。

で、前フリはこれくらいにして本題。

仕事の相対的価値ってなんだ?
ってことになるけど、価値ではないのは、
人によって価値が異なるから。

本当に、金を稼ぐ手段だと思う人がいる一方で、
苦痛だという人もいて、中には「同じこと」をしているのに、
病気になって倒れていく人もいる。
もちろん、その人が悪い、とはいってない。ただ現象として
そのようなことが起こっているわけだ。

で、価値とは何かなんて話はおいておいて、
一体どういう仕事をどういう価値をおいているかなんて、
結構突っ込まれると困るんじゃないだろうか。

たまたま・・・のきっかけでも、
続けている意味はきっと何かしらあると思うが、
それって人に説明して納得しうるものかというと、
そうでもなかったり。

だから、人次第で、なんでも人次第。
なんでも相対主義っていうのも、いいけど、
どこかである種のライン、これを絶対といえばいいけど、
があって、そこは譲れない、そうはできないとか、
そんなのが必要かしら。

なんで、仕事って妥協すべきではないことなのに、
結構妥協してしまう人がいるんだろう。
前情報(考える前に既にある情報という意味で)として、
仕事は人生の大部分を占める(大金持ちとか、特異な環境でなければ)、
だから時間も大分使う、とられるものになる。
そして、仕事をするということに関しては、
人も、本も一杯いて、そして聞くこともできる。

ということがあるのに、
結構、妥協して、「これでいいや」(これは仕事の質とかではなく、
仕事をするということに関して。どちらかというと、
職についていることについて、かな。就職の話ってわけでもない)
みたいな風で、それでやってく人は意外に多いような。

なぜか思考停止して、それで仲間ができた?と思って、
道連れの連鎖を楽しむというか、それは「酒」でごまかして、
シラフになったときに、よりストレスフルになるってことも
あるのだけど、そういうごまかしは、ここでは通用しない。
こことは、このブログ、またはブロガーであるRM、
またはその周りの人にである。

楽したいとか、適当でいいやって考えは当然僕にもある。
でも、そういうのって、ある一線までしかできない。
明確にそういうのが引いてある。
越えた瞬間に地雷は作動しないが、相当、僕は言うだろう。

こういう仕組みというか、システムが僕には内蔵されているというと、
IT系な人は結構分かると思うが、そうではない人にとっては、
なんじゃらほいになってしまうかもしれない。
ので、結局、アナログで、顔をつき合わせて話し合うみたいなのが、
ものすごく好きみたいだ。最近それを感じる。
別に人が全員好きじゃない。嫌いな人間も一杯いると思う。
でも、それってあまりがっつり言うべきことでもない。

ただ、それは愚痴やストレスをどこかで解消せずに、
「うううううう」とやってるというわけではない。

そういう世界、もしくはフィールドで、やっていける
仲間感というのがあれば、そっちでやってもらえればいいと思う。
これは上からものをいっているわけでは決してない。
そう感じる人がいれば、その人は、きっとそのようなフィールド、
つまり、愚痴ワールドで、生きている人という証明にしかならず、
そこで終わる。

で、僕はそういうところではなく、
人をきちんと認め、お互いを高めていって、そして毎日が
「あれ、生きるってこんなに面白かったっけ」
(宗教、政治、思想、怪しすぎるビジネス、裏世界・・・はさようなら(笑))
というような感覚があったり、
「やっぱこうでなくっちゃ」といって、生きることを
普通に考えている。

これは理想ではなく、実現可能で、ほぼニアリーだが、
最近はそういう生活になりつつある。

かけ離れた人から見れば見るほど、
分からないのだろうけど、実際にコツとしては、
多分、自分というのを良く知ることで、またよく考えていくことかと
そしてそれはいきなり何かできるというわけではないということも、
これは偉そうに書いておく。

自分をコントロールできないジレンマ

自分のことは自分が一番よく知っている。
自分のことは管理できる、コントロールできる。

自分のことは・・・。

でも、そういう人ほど、自分がコントロールできない自分でね、
状況になったらどうなるだろうか。

パニックになるかもしれん。


思うに、自信があればあるほど、その自信でやり遂げられないとか、
失敗すると、ものすごくストレスになると思われる。
ただ、それはプライドと関連してそうだけど。


で、そういうのの対策の1つとして、
自分はそこまで自信はないとか、適当にーとかそういうスタイルはある。

一理あるが、それって面白いのかしらんと思ってしまう。
それなら、馬鹿みたいにガチガチのプライドで固めているほうが
なんか人間らしくていいような、とは思う。
まあ、それでもダメなものダメなんだけど。

そもそもコントロールしたいなら、
それなりの何かが必要なような。

で、先の話に戻るわけか。

まあ、きっちりやりすぎるってのはダメなんでしょうね。
ストレス溜まるというよりも、きっちりやっても、
かならず100%ってのはないってだけのお話なり。

タスクの可視化

なるべくタスクは一元化したほうがいい。
一元化とか、複数にないということで、一箇所とか。

手帳と携帯とPCとメモと分散している場合は、
もちろんその分け方が、状況など、区切りがある場合には
非常に有効だが、そもそも、「やること」であるならば、常に持っておいて、
思いついた時、時間があるときにできる方が望ましいのは言うまでもない。

それは結局何が今あって、何をしているかが分かりやすいか。

それを満たせていれば意外に、手に直接メモるもの有効かも(笑)

最終的にメモったことはどこでやるか、
どこで消化するか、二重線で消すか。

ただ、いくら可視化できても、
そもそも、スタミナや行動力、消していくというアクションが
ないなら、意味がにゃーってのは根本だけど。

でも、TODOなんて、やるからつけているわけで。

さあ、可視化かしら。

何が目的としてあるか

あるならば、それに対してどうアプローチを取るか。

逆算してどう今動けばいいか。

しかし、目的も何もなければ、
アプローチも、考えも、戦略も、何も生まれない。

平々凡々?な毎日をすごすことの素晴らしさは、
きっと、そうではない毎日を感じることでしか、
その素晴らしさを感じることはないのだろう。

目的それはなんでしょうかねえ。


やりたいことと、好きなことと、楽しいことは
全て違うベクトルというか、別次元、もしくは別軸にあるのでは
ないかと思い始めた。多分。

仕事というものを面白くない、つまらぬもの、苦行、
出来ればやりたくないこと、として考える姿勢もあるだろうが、
が、それってそういう考えでどこまでやれるんだろうかと
真剣に考えてしまう。

最終的に妥協っぽいところで、「思考停止」ってのがあるんじゃ
ないだろうかと思ったりする。
思考停止って、何だろう。

そうやって思考停止してりゃ、絶対どっか壊れるのは
明らかなのに。またこれも真剣に考えてしまう。

ふむう。何が目的なのかなんて適当・・・というか、
決めてしまうことはできる。
その決めるという行為が何を意味するかも・・・
なかなか難しいけど。これもまた真剣に考えてしまう。

さあ、考えるとしようか。

そして、それらでもなんでもいいけど、
何が目的としてあるか、それにはどうすればいいか、
そうしたアクションをとっていくことにおいて、
やはり社会的な視点が必要だなあ。自分としては。

限りなく心を込めて。

1つのことが小さかろうが、大きかろうが、
どれだけ心を込められるか、それが鍵だと思っている。

僕の感覚では、これらは結果論になりがちで、
というか、自分が心を込められないものに、心を込めるような
仕組みを作るのは、前提がすでに間違っているから、
やめたほうがいいと思ったりする。

それは文字通り苦行のようにみえる。

苦行ではない苦行は、
心を込めてやらせてくださいといっていえるようなことで、
それは多分質も、効率も、何もかも、多分短所があっても、
何もかも・・・なんだけど、良い結果になっていく。
良い結果に着地できるということになるか。

どこまで道化でどこまで本気か

そんなことをふと。
もちろん、他人にも最終的には言えるが、
積極的に自分のことだ。
道化とは言葉的な感覚であって、本当に道化かどうか・・は
あまり重要ではない。そんな内容。

自分がこれはややギャップがあるから演じているのに、
その演技がうまいために(それを自分で言うなという感じだが)
それに気づけない人もいる。
なんか当たり前だが。

演劇の嘘とは別腹の話だけど、
それは演劇ではなく、人生の嘘とかにもなるかもしれない。
言葉の意味は大きいけど、もうちょっとこまかーい話になりそう。

毎日が

最近楽しい。

今までも楽しかったのだが、毎日の密度が濃い。
非常に充実しているといっていい。

例えば、メールについては、大分前といっても、
1,2年前くらいは、1日に1通のメールに1時間くらい割いていたイメージが、
今では、1時間でも何通かさばけるものはさばくーといった感じ。

別にそんなに大量にメールを書いているわけじゃないけど、
それくらいメールが来るってことは、
何かしらやることがあるわけですが。

あと、人によって微妙にメールの使い方とか、
連絡頻度とか、変わってくるのも、色々学びになりますね。
というか気付きか。

毎日が楽しい理由は非常に簡単。
自分がやりたいことをやっているからで、
それは、意外に「好きなこと」とは区別した方がいいかなあということ。
好きなことっていうと、よく両立できんとか、金にならんとか。
そういうのになるっしょ。どっちでもいいけど。

やりたいことをやってる、といったら、
次に出てくる言葉は、それで現実やっていければOKで、
非常にシンプル。

楽しいは連鎖していくので、スパイラル。
関わる全員を楽しくしてやるぜ。

ファイヤ!

手をあげろおお。

パスがきそうなところとか、
パスをもらいやすいところとか、
そういうこと=手を挙げる、ってことになるとした。

した?

ならば、手を挙げたくなるような場で、
暮らす方がきっといい。

きっと。

それは手をあげられずに、「あーあ今日もダメだったね」と、
毎日反省会を開いているようなものよりも。
もっちろん、反省は大事だけど。反省だけで、未来がないってのも
アレかと。

1.手を挙げる
2.ちょっとだけ浮く
3.でも人がついてきた
4.もっと手をあげたらもっとついてきた
5.なんか手を挙げてよかった

で、はじめの1をやるのに勇気がいるってのは
重々承知のすけ。
でも、1をやらないと、2にはいけないみたい。
まあ、飛び級でも、3が限界じゃないっすか(笑)

手を挙げる練習から、手を挙げた後のイメージから、
色々。そうして、結果的に1になればいいんじゃないかって。

そう思いますね。

優しく、粗く、強く、なんでもいいから、手を挙げたいですねえ。

おおお・・・

タスクふってきたああ。

仕事に最近集中力が欠けています。

サメだサメだ。サメになれえ(アホ

ゆっくり寝ますわ(笑)

真逆

いわゆる「想い」は大切だ。
でも、「想う」だけでも何もできないというのはある。
別にこれは「想い」を馬鹿にしているわけじゃないんだ。
というか、むしろ、むしろーより大事にしているんだと想って欲しい。

なんだ、この前置きは。
まあいいや。

だから、いくら「口」で「いえても」それって、
一体どこに着地するか。言うだけでやらないってことに
「着地」することもあるから、着地場が実行にならないことに
何でも憤るわけでは決してない。

ただ、実行に移せるとかどうかって、本気かどうかで、
本気ってのはあまり使いづらい言葉だけど、(精神!)
でも、どこまでやりたいんですか?ってことは
どこかでやはり確認される。

もしも、何か自分でやろうとしていることがあるなら、
相手が「本気ですか?」「どこまでやろうとしてるんですか?」というような
話が出てこないならば、意外にそれはどちらも本気じゃないし、
盛り上がらないというような気もする。

想い→ストレートではないのがダメなんだろうという基本的なところ。
といっても、ストレートばかりでもダメなのもある。

ああ、真逆がいいな(笑)

GoinGoin

どれだけの言葉たちをどれだけのコミュニケーションに
どれだけ込められただろうか、とふと思った。

実は、結構簡単に言葉を使って、言葉で遊んでないかとか。

もちろんそんな一々の言葉に神経をとがらせると
会話が成り立たないからダメだけどね。

ここにはないどこかに素敵な素晴らしい世界があるとは
今は到底思えないし、今後もそれはないと思っている。
今生きている現実に、結構というか、大分というか、
ものすごく感謝しているのが実状だ。

それは、人が何かをくれた・・・というのも一理だが、
むしろ、状況を楽しむだとか、何か面白そうだとか、
そういう人の動きをみたり、自分も動いたりするとかが、
何か自分にはものすごく刺激的で楽しいということになりつつある。
もちろん、ある程度それに慣れてしまうと、飽きるかもしれないが、
会っても会っても人は色々な人がいるから、
相性もある。だから、気にせずどんどん仲を深めていく、
そんなスタイルでいいんじゃないかと思ったりします。

青い鳥はそばにいた、というのはどうでもよくて、
じゃあ、事実として現実として、今の世界があるから、
それをどう充実させていくかが今の僕の課題になっている。

ある程度は意外にできてしまうが、
さらにやっていく、継続していく、何かを生み出すのは、
やはり「簡単」にはいかない。難しいからできないというより、
ほとんど何もないから、いわゆる木を切り倒す際に、
木を切り倒す道具をもってこいといってもそれはなくて、
それを作る作業から、しかもその道具の材料もない。

それだと大抵の人って諦めてしまうんじゃないかと
そんなことを思ったりする。もちろんそれは普通だ。
でも、そうじゃなくて、なぜか諦められないというとか、
もっとやりたいという、思いがやはり、感情なんだけど、
自分を突き動かしてくれるんだと、再認識する。

自分をもっと信じよう。
自分をもっと好きになろう。

そんなことをしてジココーテイ感をさらに高めていこうかしらんと。


誰かがそこにいる

結局、精力的かどうか分からないが、
行動ベースで考えた方が自分は楽というところを
前に書いたけど、そういうところがやっぱり楽だ。

結果も明確に分かるし、そして感情というか感覚も
そこで大切にできる・・・。多分。

夢がないと生きられない・・・ことはないと思う。
でも、それを踏まえて、なんかつまんねーと思うのは、
そういう夢とかがあったほうがいいという証明にしかならないか。

夢と自己啓発は大分違うと思うけど(笑)

世の中には、どこかで間違えた解釈したものをそのまま使い続ける
ことが多い。僕もそういうもの一杯持っている。
でも、意外にそういうのって、誰かのやさしさで結構修正可能であるし、
むしろ良い可能性を高めることも可能なんじゃないかと思い始めた。


誰かが行けばそこにいて、何か話ができて、そしてその話は、
きっと自分の興味があることもないことも色々だけど、
メタ化しちゃえば、そういう場ってなかなかないじゃない?
あっても、結構貴重じゃないかなとか、自分の感覚で思う。

土台が固まったというとき、それは人のつながりと、
ネットワークみたいなところだろうけど、
そういう基本の原理原則は、なぜか忘れやすいんですね。
僕はそれを大切にしたいというか、大切にする。
そうやって生きていきたいなあって感じたりする。

期限がある人生だから、最善のものを求める・・・のが
らしさではなく、人間なんだろうと思ったりする。
まあ、その度合が色々あるんでしょうが。

誰かそこにいるから、何か信頼が生まれるとか、
そういうのが素敵な感じ。

うーん、もうちょっと探っていけば、何か見えそうっすね。
ああ、こういういい感じのときは、
きっと何か生まれる前兆なのが今までの経験則なんすよ。

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