ReadMasterの軌跡

面白いことを仕掛ける。仕事を作る。ビジネスを作る。そんな日々から出てくるアウトプット蓄積場。

2007年12月

今日は大晦日。

20代は過ぎ去るのがあっという間よ、という
脅しをうけ、毎日時計を睨み続けて秒針を止める力を
つけようとしています。ちなみにそのスキルはないです。

カモがネギしょって歩いているというのは、
なんか悪い表現みたいですが、猫に小判みたいに
使ったら、ダメなんでしょうか、ね。

図書館の情報というか、論文ですね・・・これは、
まとめてある冊子をちょっと読んでたのですが、
正直あまり面白いものじゃないですね。
面白さを求めるものじゃないんでしょうけど、
図書館ってやっぱり固いなあと思いました。
それは、必要性というか、成立背景が・・・って感じでしょうか。

コンビニを自分の家の冷蔵庫感覚で使う人がいてもいいですが、
やっぱ冷蔵庫は欲しいっすよ。
図書館を自分の家の蔵書みたいな感覚で使う人がいてもいいですが、
自分の所有している本とはやはり違うかなあとか。

教育的な方向って、国とか自治体とか、そういうところの
大きな力が必要な雰囲気があって、まあそれは妥当なんでしょうけど、
政策とかも、絡んできてなんていうか、ハイパーやりづらい。
まあ、僕の土俵はそこにも到達してないし、そういうやり方は
ちょっと違うかなーとか考えてるので、スルー。

図書館をカフェのように使えないかみたいな提案なんですけど、
それって多分無理なんですね。まあ、やることはやりますが。
無理な要素は、結局、住民(ここでは日本に住む人全員ですよ)が
図書館に対して何を求めているかをちゃんと言ってないし、(僕も)
また図書館はそれを求めていないような気がします。
というのは、あくまで推測で、そうじゃないかも。

もっとうまい使い方があるんだと、ライフハックじゃないですけど、
やっぱり本に対する信頼というか、まあそれは本なら全ていいというわけ
じゃないのですけど、それがまず必要かなあと。

本を「教育」に使うのは、全然ありですけど、むしろデフォルト?か、
でも、やはり「遊び」たいですね。本で。
それって結局、学び=遊びで、次に教育っぽくなるんですけど、
どうも、遊び学びってのが、固いものには親和性が良くないぞと。
そんなことを感じますね。

だから、やりやすいところからやっていかないと、
自ら壊れてしまう気がしますね。もったいないというか。
だから、そこらへんは慎重にやりたいなあって感じです。

今年はもうどうあがいても、紅白見るくらいまでで(笑)
終わりだから、今年は勘弁してやるんですが(自分に対して)
来年になった瞬間に、整理で塗り固められた膨大なアウトプットが
期待できそうです。多分。

思ったことが表現できないなら、
そういえばいいし、無理なら「アレ」とかいっておけば、
なんとか通じるはず。多分。

というわけで、皆さん良いお年を。うふん。

熱い・・・

ブックピックやっぱ熱いなあ。
2008年はなんとしても、内沼さんに会いたいもんだ。

サイト久しぶりにみたら、活動をまとめたポートフォリオが。
http://www.bookpickorchestra.com/portfolio/index.html

すげーすげー。

カタリベカフェに近いものをあえてあげるのはやや恐縮ですが、
http://www.bookpickorchestra.com/portfolio/camps_leading.html
かもしれませんね。朗読はないかもしれませんが、雰囲気。

鳥になる

鳥になれたら どんなに自由だろう
長距離を飛ぶ渡り鳥たちは
ものすごく つかれるかもしれないが その分
多くを知っていると 勝手に思い込んでいる

鳥になって 空を飛びたい
飛行機やヘリで 飛ぶのと
グラインダーや パラシュートは
全く違うものだと これも勝手に思い込んでいる

鳥になれたら 撃たれるかもしれない
危険も一杯あるかもしれない

でも 自らの羽で 空を漕げるのは
とても それ自体が 美しい
それは 人が 自らの手足で
何かを 漕いでいないからかも

鳥になるには 簡単だ
羽をもつこと
その羽を 自分で羽ばたかせること
遠くを見ること

鳥になって 世界をみたい

走りたい時にどれくらい走ったか

問いはまだ続き、結局、2007年中に終わらない予感もする。

上原ひろみがラジオで話してた。むー、いいなあ。
ラジオはやはりいい。

東京FM系のSky!も久しぶりに寝ながら5時台の話を聞いてたけど、
なんかいいなあ。石川さん最高だ。

走りたい時があって、それはマラソンというよりも、
ちょっと運動をしたいというような時に、近いのだけど、
そういう時って、大体8割くらい、もっといえば6割くらい
走ればなんか満足しちゃうねって、ものすごく分かっていて、
やるから、ちょっとだけで満足しちゃうんだ。

それって悪いことでは決してないのだけど、
なんか物足りないよという声が最近止まらない。

うまく、要領よくというのと、空気を読むのと、真っ向から天邪鬼という
3つがなぜか道があるとすると、絶対に最後の天邪鬼を取る。

大勢がやるものに興味はない、というと、
実は、一生メジャーになれないバンドみたいで、なんか閉じてる気は
するが、「ソラニン」ではないけど、
バンドを仲間とやっていれればいいという満足度も普通にあるわけで、
そういうのは「偏見の満足度」だなと、自分で気付く。うむ。

要領が良いのは、好きじゃない。不器用なのがなんかカッコイイ。
ただそれは、水面下=不器用で、水面上=器用というのならば、
リスペクトということはある。

空気を読むのも面倒くさい。社会性・協調性についての破棄ではなく、
それで自身をひどくコントロールするのがストレスだ。
もちろん、誰も聞いてないのに、アジア経済の情勢を語るのは
やれないけどやりたくないけどね。

天邪鬼は、素直さが足りない点で、損はするが、
冷静な状況のキャッチと、次への展開はアドバンテージがあると思っている。
素直さで損するというところは、もっと深く分析できるけど、
まあ、割愛。

走ろうと思って、じゃあ一緒に走らない?というように、
自分だけではなく、人と一緒に何かやることを、
ものすごく大きな像や、小さな像や、別のシミュレートするように
それは仕事よりも課外活動(笑)(最近の流行言葉。課内は仕事のこと)で
得られる方が自由度が高い。
それは、仕事ありきだから、仕事があるから自由度が高く感じるだけ
なのだろうけど、でも、自由度をどう感じるかは色々あるにしても、
その事実、学びとかは、変わるわけがない。

単に、しょぼい環境と素敵な環境を往復して、満足するのって
なんかアレだ。素敵な環境に全部するようにしたい、が、
まあそうならないかもしれないけど、でも、ぬるま湯にいつまでも
浸る理由は誰にもない。僕にも当然無い。

仕事でいえば、コピー取りが結局何につながるかを1年くらい考えることが
できるんじゃないかと思う。まあ1週間もあれば、早ければ1時間で、
何につながるか分かるんだろう。
でも、そういうのって、コピー取りではない、別の課題、仕事があるとき、
どこまで落としこめるかって、1時間?3ヶ月は何かタイムラグが
あるような気がする。
要は、才能というわけではなく、なんていうか、消化の仕方だ。
そもそも、物事の消化ということの感覚が分からない人もいるはず、だから
どこまで伝わるかは不明だけれど、
1言えば8くらい通じる人と、1いっても1しか通じない人は
普通に存在する。ただそういう人の違いじゃないのかなと思っている。
それは、個々の問題だから、
ここで、昔、指摘された「組織の問題を個々の問題にする」という
僕の傾向を思いだすわけで。

まあ、確かになんでそう思うかは、組織を自己がコントロールするとか、
そういうものを作りたいんだって、意識があっただけなんだろう。
全てが学びということはつまり、自分のものにする、消化するんだから、
そういう風に捉えてしまうんだろう。

だから、「従業員にも経営者感覚を」ってのは、
非常におかしな考えかもしれない、とはいつも思う。
意気込みはいいけど、それやったら、なんて魅力ない会社が
ばれてしまうところもあるかもしれない。分からないけど。

突き詰めていくと、社員がどんどん離れていく仕組みになるかと。
まあ、それをうまく仕組みにして、戻ってくる流れでも、
そうじゃなく、子会社とかにしちゃうとかでもいいのだろうけど、
それはおいておいて、学びとは、結局遠くに学びにいくというのではなく、
こっちに思いっきり引っ張ってくるってことなのだと、にらむ。

ある種の判断において、
自分をごまかし続けてきた自分と、力を抑えてきた自分がいて、
人は「がんばっている」自分を見ているだけかもしれないけれど、
別にそれはどちらでもいいんだ。基本、水面下は見せないし、
見せたい人間には見せていって、それでもやりたいか?という
問いを逆に質問してしまえるくらいにしないとなと、感じている。

力を抑えた・・・というのは、いわゆる自己の自信の表れなのだろう。
もっとできる、まだできる、もっとまだもっとまだ・・・
そういう繰返しが何度も何度もあって、その度にチャンスだと思って、
踏ん張ってやってきたのだろうと思う。
なあに、過去の美化はここには全くない。事実の注視のみだ。

そういうチャンスというチャンスがあったか分からないけど、
運やカンや直観や事実や理屈、そして戦略などがあったから、
ここまでこれたのだろう。それは、単なる一サラリーマンとしても、
課外活動者としてもだ。


天邪鬼といえど、自分に素直にならない時が最近多すぎる。
そうなった時に、「ありがとう」とか、心から言葉を発することは、
ちょっとだけ恥ずかしいが、最近はその恥ずかしさは実は、
「大切さ」を表すためのタメとか、前座に過ぎないのじゃないかと
思っていて、だから、しっかりと「ありがとう」といえるような気がする。

僕にとっては、この天邪鬼問題は、ものすごく大きな問題で、
何をお兄さん、いい歳こいて!という話もありそうだが、
いやいや、実は人ってこういう基本的なことは、歳をとっても、
何があっても、あまり変わらなくて、意外なときに、意外な瞬間に、
はっとして・・・これでいいんだろうか?と思ったり、
このままじゃダメなんだろうってとか、そういうことを思ったりしたり
するんじゃないだろうか。デジャブじゃなく、違和の既視感みたいな
ものかもしれない。


振り返りとかアウトプットとか、
そういうのが止まらないとき、どうするか?

答えは決まっている。書いて書いて書きまくるのみじゃああ。

フリーダム

風が強く 皮膚は冷たい
しかし  心は燃えたぎるよう熱い

この熱さを どこにぶつければいいのか
この思いを どこにぶっこめばいいのか

単なるストレスと 欲求不満なら
とうの昔に そんなのはなくなって
次のストレスを また解消しているんだろう

燃える心は 冷めることがなく
また冷たい皮膚は 冷たいままでもない

燃えたぎる 思いが きっと100%でもなく
80%でもなく 50%でも ぶつけられれば
僕は 前に進める気が する

手で ボートを 漕いでも
ほとんど進まない かもしれない
でも 確実に 進むことは確かだ
何度も何度も トライして
必死に前に進もう

手が 疲れても 休んで
次を漕げばいい
なんなら 一緒に誰かと漕げばいい
またちょっと考えて 漕がなくてもいい
そんな方法を模索してもいい

人生は フリーダムだ
そこに自由があると 思うならば
やはり自由だ

雨が降る中 少しだけ酔っただけで
大きく手を広げて 大声をあげるのが
なんか自由の本質だと そんなことを感じる

雨は冷たく 風も冷たい
けれど 心は熱い

この熱さを ぶつけることができるならば
燃え尽きてしまっても いいかもしれないと
一瞬でも感じた

フェイント3

むう。今年はラストがないかもしれんぞ(笑)

忘年会。毎年面子がフルではないから、
なかなかだけど、皆の情報というか、何しているかってのは
意外に皆掴んでないのは、ご愛嬌。
自分なんかそうだし。

とくに深い話で盛り上がることはないのだけど、
別にそういう話をしたいというよりも、
酒飲んで、食べて、わいわいやって、
それでまあ、高校の同窓だったなあというところで、
少し共通の話題があれば、今はいいんだろうなあって。

そういうつながりってのは、意外にない。
これでもう何年目なんだろう。少なくとも、3年はやってる。
毎年、やってくんだろう。そして少しずつ皆が変わっていくというか、
なんかね、色々な話がまた出来るんだろう。
そういうのって何かいいね。

別に、同窓だからーなんだかというこだわりがない人が
幹事やってるのがいいのかもしれない。ああ、俺ナイス(笑)

おかげさまで、これで今年は最後の飲みかな。
今年はアルコールをよく飲んだ気がする。
気付けば、家でチューハイは大体手に取っていたりする。
ああああ、今宵もすぎていくう。


と、思わせておいて。

フェイント更新。

ちょっと思い出したので。
前、友人に「あんたがサラリーマンのデフォルトだ」という認識があった。
分かりづらい文章だな。

要は、僕が月給生活者の典型だと思っていたそうだ。
無理もない。それくらい、月給生活者・・・ってサラリーマンにしとこうか、
サラリーマンとは違う環境で働いているのだろう。
また、仕事でサラリーマンと関わっても、それはサラリーマンと
接するというよりも、仕事で接するだけだから、
相手がすごくサラリーマン的な考え(サラリーマンとは月給鳥とか
そういうことじゃなく、また企業に勤める人という意味でもなく、
サラリーマンっていう代名詞の意味が強いのは今更感?)で、
部長がうるさいが、仕方がないみたいな(なんだこりゃ?)考えが
あっても、よその人にそんなことをいうのは馬鹿だろう(笑)

だから、分からないだろうと。

しかし、僕もサラリーマンっぽいかもしれないし、
そうではないかもしれないが、まあそれはいいとして、
僕みたいなニンゲンがデフォルトで、サラリーマンだったら、
結構怖いぞと思ったりする。
それは、自分みたいな考えの人間はそんなに必要とされないという
意味であって、何をいってるかというと、
バランスだ。人は得意不得意をフォローしあえるから、組織で
結構一つの形になるだけであって、、というような程度の話。

その友人には誤解ということで説いておいたが、
果たしてその誤解というか、認識が解けるというか、
新しく更新される日はくるかどうかは非常に疑問。
要は、そういうイメージがあるんだろうという程度の疑問で、
深い意味じゃない。

最初に何かしたものは、そうであると認識しやすい。全くやれやれだ。
いい意味のことが多い。最初に本物っぽいとか、一流っぽいとか、
最初でガツンとやっておけば、びびってこない人間もいるし、
そのガツンに反撃する人間も、協調をはかる人間も色々いる。
しかし、一つ思うのは、そういうガツンというやりあいも含めて、
実はよく人は思った以上に見られていて、でも他人は自分と違うという
ようなところだろうか。


で、こんなことをいってると、お前のサラリーマン像はどないや?と
なりそうなので、いくつか。
・組織人である
・野心がない
・そつなく仕事をやる
・自己の意見より、大勢の意見を大切にする(協調性が高い)
などである。

組織人とは、例えば、仕事は会社でするもんだ、みたいな考え。
これは、もうすぐ剥がれ落ちそうだけど、以前としてある。
さらに情報を加えておくと、若い会社というのがある。平均年齢が軽く20代の会社だ。
ベンチャー企業という野心だしまくりなところであろうとなかろうと、
そういうところは、やはり組織というより、サークル連帯となるようだ。
そういう会社もあるということだ。

野心がない
これは、悪い意味じゃなくて、世界をひっくり返してやるとか、
東京タワーのてっぺんに上るとか(やめましょう)、
そういう人と違ったことを、結構本気でやろうとしている人のことを
言う。が、とくに現状で多くを望んでいない、より高いものを!っていうのは、確かに仕事の質という意味での改善はあれど、
それを「本気」でやろうっていう人はやはり少ない。
僕がそういう人をあまり見出せなかっただけかもしれないけど、
正確にいえば、数が少ない。
例えば、部長クラス、事業長クラスの人間は、そこで任された人間だ。
だから、その人の意見が「あれ?」な意見だと、その事業や部の
レベルは推し量れるものだ。という意味で、部長とはすごい存在だと
いっていいかもしれないが、別視点でみれば、それだけの時間と
経験があるということを意味する。
それに魅力を見いだす人はそうなるように動けばいいというようなオハナシ。

野心がないのがダメなんじゃない。ない人が多いのがサラリーマンじゃないか
というようなこと。
実際に、野心を達成するには、会社員しながらもなかなか気の長い話。
気が長い人はそれでもOK。

・そつなく仕事をやる
漫画「働きマン」でいえば、新人田中。
でも、あの漫画では新人特有っぽい描き方だが、そうでもないような。
要は、仕事は仕事と切り分けるというところはまあそうかもしれないが、
そつなく何かこなしていく、要領がいいという人は、
何か「会社員の処世術」みたいで、あまり参考にしたくないというだけ。
そつなく仕事をやれるほうが、全然できないダメ社員よりましかもしれないが、
自己にとって、本人とっては、見えづらくなるだけなので、
そういうのもちょっと考えものというところ。
そつなく仕事して終了っていう人生を悟っているならそれでよし。

・協調性が高い
これは、そうしないと組織が回らないからだけなのだけど、
それが全部だと思い始めるのが嫌。
要は、組織=会社=社会としてしまうがために、
「会社の常識」が世界の常識とすらしてしまう・・・のだと感じる。
大袈裟ではなく、そういう時代も普通にあったのだ。今は過去だと
言える人間が大勢しめてきているから雰囲気は違うだけの話。
協調性が高いのは良さそうだが、実は自己に対してのストレスや
過剰なストッパーとして成り立ってしまうこともある。
それが問題。
また、社内のいじめとか、ワケワカランことも結構やる会社も、
人の数くらい会社があると考えても相対的に問題ないから、
あるんですね。まあ、世の、会社と従業員の裁判ってのは、
結構、現実離れした感もあります。でも、事実ですね。
なんか怖いっすね。


で、まとめてしまうと、
サラリーマンを舐めるな、という逆結論であるのだけど、
そもそも、サラリーマンサラリーマンうるさいって意見もありそうなので、
とりあえず、僕は「僕」として生きていくということだけをいっておいて、
これぞ年内ラスト更新。

OH、YEAH.

2008年流行るもの

ネ年ですね。神じゃないっす。ネズミちゃん。
ギャグで語尾にマスではなく、マウスとつけるのが
流行ると思われる。
ネズミは嘘つくとかつかない対象じゃないから、
動きまくるから、「ちょろちょろしやがって」が「ネズミめ!」というのが
流行るかもしれない。てか、それどういう状況だっ!

苦しみマウスとか、
不幸がありマウスようにとか、
あんまりやってると、ボキャブラ天国みたいでなんかダメだ(笑)

まあ、そんな質の悪いエントリになってきたので、
今年はこれにてラスト縁鳥としておきます。

では、皆さん良いお年を。

遺書99

友人から遺書が届かなくなった。
ちなみに、150%冗談なので、あまり深く考えないように。

言葉の行間というか、そもそも基本姿勢で、
自殺とか、そういうのはありえんのですよ。
自分がですよ。今、例えば病院とかにいて、手術とかして、
またはガンで、余命とかある人とかだったら、
全然話は違いますけど、でも、自殺はやっぱりというのはあるわけです。
まあ、そうなったら簡単に死んでるかもしれませんので、あまり
突っ込まないように。

遺書もかけない忙しさというのがあるならば、
きっと、これに類する馬鹿げたことは一杯あるんだろう。
大切な人と話せない忙しさも馬鹿げているし(事実がそうであれ)
文章がかけない人生とか(あ、これ僕ですね)
言いたいことがいえない人生(すぐ人生にするなって?)
まあ、色々ありそうです。

残念ながら死んでしまうと、結構人は忘れやすくて、
当然覚えている人もいますが、そんなのは血縁か、著名人か尊敬する人
くらいなもので、そこを寂しいとかじゃなくて、
そういうのが当たり前だと。人間は忘れるんだぞと、軽く突っ込んでおいて、
終わりにします。

死から遠いほど、死について考え、
近いほど、考えたくないっていう、パラドックスは
やはりありそうですね。

わーい。

年内読破数

読んだ数はあくまでも、1冊にかかった時間x冊数くらいの意味で、
例えば年間10冊の人と100冊の人は、10倍かけている時間が
異なるってのはあります。
あくまでも目安ですけどね。

さらに内容というか、読んだ本も色々あるわけで、
1月に漫画を100冊読んで、あと11ヶ月は何も読まなくても、
また哲学の原書を1冊1年で読めたら素晴らしいかもしれません。

というわけで、たまに僕が「めざせ一万冊」という冊数至上主義(笑)
っぽい名前のサイトをやっていると誤解されるんですが、
そういうのを「あえて」やっているんですね。名前付けを。
1万冊くらい読むくらいの意気込み欲しいじゃない?という、
ほとんど自戒の意味しかありません。
俺300冊読んだよ。1000冊だよって自慢している人は
今まで見たことないですよ(笑)


で、3年って期間でみると、
2005年 118冊
2006年 93冊
2007年 156冊

となっており、まあ平均は100冊超えてますね。
2007年は年末の時期に結構本に時間使ってました。
ちなみに、積読の本は増え続けてます。
長田弘の本に「読まない本」の大切さがあったので(笑)
またレビュりますが、それで安心して、積読がんがんすることに
拍車をかけそうです。

年100冊越えるということは、だいたい月で10冊平均で読んでいるイメージです。
個人的には、月2,3冊と月10冊は大分差があります。
要は、他の時間との兼ね合いとか、仕事忙しい、恋愛忙しいとか
なんでもいいんですが、そういう時間配分ですよね。
2,3冊の人がその倍である5,6冊に、さらにその倍の10冊にいく道は、
結構時間かかるぞと思ってます。

読書って、「読み終わった」ことを何で証明すべきかなんて
そんなこともないので、つまらんならそれで終わればいいし、
読破ってのもどっかで適当なルールをもうけたほうが
僕はやりやすいなとか思ってます。
そんな細かいことを一々突っ込む人はいないです。
ギネス認定とか目指すわけじゃないです。

ただ、一つ「娯楽の読書」ってのはほとんどないですね。
娯楽というか、学びの読書ですね。別に修行じゃないですね。
といって、勉強の読書でもないですね。学び。
バカ面白い本もありますけど、そういうのをあえて読むってのは
なくて、エッセイとかでくすっと笑うのがいいですね。

確実ではなくて「泣ける」「笑える」という動機で本をとると、
これは小説に強い傾向ですが、結局、消費なんですね。
消化じゃない。その本を消費している。それはテレビをみて
ぼーとするのと同じで、能動性というよりも、映画みて
その感想が「ああ、面白かった」だけで本当に終わる場合って、
消費って感じがしますね。
ああ、娯楽するなってことじゃないですよ。
そういう感想しか全部にないのってなんか寂しいなってことですよ。

年間を意識して本が読めるのは結構楽しげです。
平均というのは、ある程度ぶれ幅があってもいいわけですしね。
2008年としては、100冊はもう読んでしまうので、その100冊を
選ぶとかもいいですし、そうじゃなくて、単純に2倍の領域に
足を踏み入れてしまうとか(笑)、密かな目論見が発動できそうですね。

本をそんなに読んでどうするの?というのは愚問になるのですが、
面白いから、学べるからっていう動機です。
1冊読んでダメだから本ダメ、じゃなくて、10冊くらいみて、
1冊のどこかの文章が参考になれば、OKとするくらいの期待値が
いいかもしれませんね。

コストとリターンでいえば圧倒的に勝ちなんですけど、
それは読む数ってのも純粋に必要な感じはします。
今現在、総読破799冊がなので、こりゃ200冊達成して、
2008年のこの時期に「1000冊」を目指しますか。
そうすれば、目指せ1000冊はとりあえず、達成。
これができれば、1万冊は限りなく近くなります。わーい。
1,2,3,5,10の法則(そんなのないよ)によれば、
次は2000冊を目指すわけで、じゃあ1000冊何を読んでいこうかということに
なってきます。

まあ学生時代のカウントもあるので、
それでも2002年?2008年の6年で1000冊ですよ。
ということは、2000冊は向こう6年。2014年になりますね。
2014年だと、さすがにどこでもドアがありそうな気がしますが(ない)
まあ、そんな時代に「本」を読むってのがいかにアナログになるか
それともそうではないのかは見ものですね。

個人的には、「図書館内乱」などの図書館シリーズ4冊は、
メディアという本を考える意味では、ものすごくライトでポップですが、
本質的には現代版「華氏451度」という感じがします。
華氏451度は、TV壁というのが圧倒的に広まったSF世界ですけど、
液晶や薄型TVが今は居間に1台とかでも、そのうち各部屋に1台になって、
そして、最後は壁に埋め込まれるのではないかと思っています。

「図書館内乱」などでは、結局、本というものに多くの人が
関心をもっていなかったから、検閲などが可能な法が成立してしまった、
という背景が物語として語られています。
全くそれは小説のお話ではなく、現実にも同じことがいえるでしょう。
本に携わる人の意識など、失礼なのですがあまり期待していないのです。
それは本屋から出版から、本の仕事をしている人に対してです。

その理屈は、結局、専業で何かしている人がプロとはいうが、
プロっぽくないプロとか、まあ人はいくらでも異なるという意味で、
全くの門外漢が思うのは、本屋=本が大好きで、本を守るみたいな(笑)
そんなのはやはり幻想だろうと少し思っています。
全くそうではないかもしれませんが、ちなみに現実ベースでは、
本屋は儲からないビジネスなので、本屋の人は本が好きに違いないという
妄想はあります。

が、それと、本の力とか、本のメディアとしての機能はやや異なるかも
というところを考慮して、「期待してない」とは、
むしろ、本に関わらない人の意見が大事だなあということころです。
ちなみに、僕もそれに含めているのですが、まあそうはいってられんぞと
いうような気もします。
表現が俗っぽいですが、社会人経験を経ていって、
「それ知りません」とかいうのがなかなか言いづらいというようなこと
(本当はそういうのがダメなんだけど)と似ているかもしれません。
というほど、本に携わったこともないのですけどね。

脱線してますが、
本に対する強固な力は僕は信じていて、
それが過激になると、ペンで人を殺すとか、言論の自由を唱えていくと。
ただ「過激」にならざるをえない状況になったとき、それが近いうちに
起こるかどうかはおいておいて、起こらないことじゃないと
僕は杞憂してみます。

そういう時に、どういう人間が集い、どういう人間が動けるかに
ものすごく興味があります。
ここらへんは僕の妄想でうが、
「ただの本好き」では、いかんぞと思うわけで、それでは力にならない。
ある程度、路線なりを固めていかんとまずいなと思っていて、
そこで、こういう「めざせ一万冊」なんてサイトやってるわけですね。

まあ、ぐだぐだいってますが、
本は200冊読みますよってことを宣言してみただけです。
来年の結果をお楽しみに!

問わず語り

3年間で集まった言葉は
「キラキラ」「青春」だった。

そんなアホな。

よく分からないのだけど(実は分かっている)
自分のやりたいことをやる=無謀=夢=ニート=フリーター=
計画性ない=終わり
みたいな思考はどっからくるのだろう?

きちんと、逆算して、計画性からリスク回避からやれば
どんな人でも(どんな人でもというのは、例えば表現がカナリ悪いが、
偏差値は必ずあがるみたいなこと。勉強すれば。
でも、それに向く向かないは当然ある。切り分けをしないと嫌ね)
ある程度自由に、目的を達成できると思っている。
向かない・・・ことを、不達成理由にしたいわけじゃないってのは、
別に「信じろ」とか「信仰」の話じゃない。

むしろ逆で、
終わらない=計画性ある=夢追わない=安定?=大きな企業=国絡みの
組織で就職=自分のやりたいことをやらない
ってのが魅力的なんだろうか?
まあそういう人もいるから、否定はしないが、僕は魅力的じゃない。
でも、この考えの連鎖はどっからくるのかは分からん。

逆にいうと、大企業でもカッコイイ仕事っぷりの人はいて、
また官僚ちゃんやら役所の人でも、丁寧な仕事っぷりはあるものだ。
というか、ゆうちょ銀行になってからビビルくらい接客が変わったと思った。
が、振込み代とかいわゆる「一般大衆」(笑)が使うものが
値上がりってのはちょっとだけ痛いかもねー。とは思うけど、
まだまだ「郵便局」=国って感じはずっとあるんだろう。
JRみたいなものかな。まあ、JRを民間って認識はあまりないのだけど。
それはいいや。

あと、夢追う感じの人でも、現実ベースで叩きまくる人間もいる。
だから、なんだかなーと。上の図式があれば、というか絶対あると
思ってるんだけど。

格差は、経済格差は統計的なものやデータがあるから
ある程度いってもOKだと思うけど、
勝ち負け的なものは、どうしても「時代の変化」とか、
分かりづらいものを分かりやすくしてしまうときに、
間違った誤差が発生しているように感じる。
例えば、「嫌いじゃない」って言葉を「好き」にしてしまうのは、
やっぱ違うでしょう?というような言葉の翻訳?ミスに見える。

浮き足立った人間が、いくつも、分かりやすさを提供しているのは
やや滑稽滑稽コケコッコである。
まあ、それがダメじゃないけど。


真逆の意見がぐるぐるしている。
それは、70を越えた人間が、夢を追えといっていて、
まだまだ若いわといっている絵と、
20くらいの若僧が「人生こんなもんです」「諦めました」
「僕もいい年なんで」という絵が
思いっきりあって、ものすごく滑稽なんだけど、
おいおい、現実ってこんなもん(つまり混沌で、決定的な正しさなどない)
だから、ちょっと決め付けるのは危険じゃないと、
自戒もこめて思ったりする。

当然、前者のスタイルを貫きたいが、
なんで、「こんなもの」だとか「諦め」のように、
それは諦めではなく「決心」「決断」といっても、
「(諦め)の決断」と僕は、カッコつきで補ってしまうのだけど、
もっとやればいいのに、別に死ぬわけでも、
誰かに殺されそうになる危険とか、そういう悪いことしているわけでも
ないのに、なんでもっともっと大きな可能性があるかもしれない。
それが「目に見えない」から「夢」で、「理想」でそんな
小学生がプロ野球選手になる!みたいな夢は恥ずかしいから、
追えないっていうような、夢じゃないでしょうに。

夢のレベルもあって、
1.小学生レベルの夢(小学生読んでたら悪く思うな。悪意はないのだ)
2.大学生レベルの夢
3.社会人の夢

とあって、2は、職業の現実選択みたいなところ。
当然、就社という意味ではない。

3が、最終段階で、でも、一番長いから、そして色々選べるし、
吟味できるのだけど、1,2はハッタリでも、3で決めろよと。
そうじゃなきゃ、面白くないよね?というのが本質。
面白さで全てを決めているわけじゃない(飯は食いたいよ)、
なのに、浮いた存在に一瞬でもなる。

浮いた存在や、馬鹿を演じるのはもうそんなことはどうでもいいんだけど、
それよりも、浮かずにアンコウと一緒に海底でずっと暮らすという人
(光は浴びているんだろう?)や馬鹿を演じることはないといっても、
実はものすごく馬鹿な人(馬鹿の意味合いは大きく二つ。あえてやるか、
本当に馬鹿っぽいか)は、どうするんだろう。

そういう人が「諦めの決断」が得意なんだろうか。
なんでも諦めて、あれもこれも諦めて、全部やらないって人生。
そうすると、もう生きている意味すら辛くなる。
目の前のニンジンは表現が悪いかもしれないけど、
そういうものに無垢になれる人生もありだと思うし、
自分なり(自分だけというのではなく、自分が考えたものという意味さ)
の人生を歩むってのが結構面白いと思うんだけど、
どうなんだろう。

問わず語りって言葉いいっすねえ。

wiiの体重とか測るヤツ

なんか、昔ファミコンについてた、運動マットみたいなやつ。
あれ、ファミコンじゃなかったか。ツインファミコンでしたっけ。

あれを思い出しました。
あれは、DDR(ダンス・ダンス・レボリューション)が流行った時にも
思い出しましたね。

脳トレもそうだったと思うんですが、
「売れるもの」を確実に落としていくのはプロだなあと。

ちなみに、ゲーム機は僕はあまり興味ないですね。
ゲームは面白いですが、後で時間の使い方に後悔しまくるので(笑)
思い当たる方は、適度にやってくださいませ。

投下リソースと技術スキル

例えば、8時働ける体力があったとして、
そのうち、集中できるのは2時間だとする。
これが標準とか平均とかどうかは問わない。

投下できるリソースということでいえば、
集中できるというリソースは2時間あるから、
もっとも優先度が高い、または慎重な仕事は、このリソースを
あてるべきだと、思う。

技術スキルとは、難しいのだけど、
例えば解決策がいくつも提示できるとか、
状況がピンチでも焦らず作業できるとか、
状況把握とか、調整能力(マネジメントというよりも、
声のかけあい、共有の仕方、自然なやり方(道があればその道を歩くとか))
が問われる気がする。
技術とはもっと、無骨で荒いイメージがあるのだけど、
こなれた人は、いわゆるベテランはなかなかそういう提案がうまいものだ。

ま、それはいいとして、
投下できるリソースは多いほうがよく、
技術というよりも、知識や知っていることは多いほうが
いいことが「多い」と思う。
が、実は知っているからできないことも多いことは
同時に把握しておいて、というよりも、知っておいていい
重要なことだと感じる。

例えば、A,B,Cとあって、Cにたどり着くには、A,Bを知っていないと
分からないとする。
これでは分かりづらすぎるので、ふさわしいかどうかはおいておいて具体例を。

A=図書館の存在
B=民俗学の歴史について知りたい
C=柳田國男

柳田さん民俗学でいいんだっけ。まあ、いいや。適当で。

Aを知っていても、Bを知らなければCにたどり着けないって意味では、
全部強力な論理や知識ベースがあったほうがいいかもしれないし、
柳田國男って名前だけ知ってCからスタートがあるかもしれない、
分からないけどそういうのは全部スルーして、上の仮定で。

AとBを知っていれば、Cにたどり着けるということだとすると、
なんだ、「C」はAとBを知らないからできなかったんだと
納得できるかもしれない。
しかし、実は、Dというのがあり、AとBを知ったから、Cになってしまう
Cにしかいけないという罠も発生する。

これはどちらかというと、「皆と同じ方向」にいこうとは思わない
僕のような思考の人間にはオススメする。
そうではない人には、やはりAとBをしって、Cがあるということを
大切にして欲しいと思う。

実はDがあるというのは、発想力とか想像力とか、そういうことに
長けていないと実際はできないんだろうと、容易に想像できる。
皆が皆、創造的であるとは思えない。これは自分が創造性があるとか
そういうことでは決してない。

最近非常によく感じることに、
但し書きとして僕ではないのだが、
自分の限界を知ったり(若い人には限界などないから、
どんどんやれというのが基本なんだろうけどね)、
これは向いている向いてないとか、うすうす分かったり、
実はこうなんだろうとか疑ってみたりということで、
自分の志向性みたいなのを確認している人というか、話がある。

まあ、当たり前なのは、若いのだから、
ある程度の経験といっても、数年であって、
またさらに学生の頃から続けてやっているというのも、
実は消化できるとか、理解できるという意味では、
もっと年数がかかるから、あまり「経験」の年数は意味がなくて、
むしろ、1年で、3年で、10年で、どこまで消化して
落としこんで、どういうことをしているか・・・にしか意味はない。
期待値が年数を経るだけ上がるってのは、なんだか当たり前だけど、
なんだかそういう目で見るのもちょっと馬鹿みたいに思えたりすることはある。

で、そういう自分のやりたいこと、向いていることを考えていくと、
限定してしまうのはやはり問題かと思える。
限定とは、クローズドにしてしまうことで、押さえ込んでしまうこと。
集中は結果的に限定と類似なのだろうけど、
限定と集中の違いは、集中は限定していることが意識して限定するが、
限定は限定されることを認識していないように思える点で、
大きな違いがあるように思える。人によって感覚が違いそう。

限定50個は、限定という言葉に弱い人をおびきよせているだけ
かもしれないし、本当に50個だけかもしれない。
また55個でも、限定50個かもしれない。

お客さんへのサービスで、限定50個のもので釣るかどうかはおいておいて、
同じものを皆さんに同じ価格でという考え方は、
何か分かる気がするし、限定するのも何か分かるが、
どちらも、お客へのサービスという意味合いが強いので
ああ、これは脱線か。

投下リソースを増やしても、いくら増やして、実は宇宙全体の事項を
把握している知識があって、そして動かせる力があっても、
どうしていいかが分からなければ、無駄なリソース。
リソースの無駄使いっていってしまえば、即終了。

だから、使えるリソースが少ない方が実は動きやすくて、
これだけしか武器がないから、これでやるっきゃないというような、
行動に結びつきやすい気がしている。

要は、知った気になるな。知っているってのは本当に知っているのかという
まさに哲学の基本でしたとさ。

うお。

うむ。
掃除も適当に終わらせ、
エアコンのフィルターを掃除したら、
エアコン効きまくり・・・ああ、なんてこった。

コーヒーがうまい。
ああ、カフェイン地獄。

クール イズ ビューティフル

ラナブル2007か。なんだそりゃ。

2005年のブログを一部読み返していたら、
文体と表現の幼さに気付き、
なるほど、俺はこんな甘い人間だったかと後悔する。
もちろん、一旦リリース(公開の意で)したものは、
取り下げることもない。そこまでの危険はないのだから、だけど。

たまに、ブログの立場とか強さを語っているブログがあるけど
そういう図式や位置で見るのがものすごく新鮮。
例えば、弱小ブログとか(笑)

別にそれは使い方に過ぎないのだから、ぶっちゃけどうでもいいの
かもしれないけど、そういう認識に興味がある。
例えば、そういう弱小ブログは強くなりたいのだろうか?
なかなか難しい。まあ、それはおいておいて。

一人の人間はなかなか強いと思っている。
いじめのように、圧倒的多数で一人をいじめた場合、
簡単に人は壊れることを、良い悪いはともかく、
知っている人は、人をいじめることはないだろうね。
といっていじめ容認説では決してないのだけど。

しつけと暴力の違いが分からないというか分かりづらいって
話がある。分かるけど、そもそも、過度なしつけってのが暴力なら
しつけってものが何かよく分かっていないんだろう。親が。
自分のしたいようにするってのは一理あれど、
子どもは子どものやり方で育つのはいうまでもない。
時代や社会の流れが異なるわけ。それは単に古い新しいって話でもなく。

いつの時代も、きっと先人のことをいうだけなんだけど、
その時には進歩的!なことをやって、あとからスタンダードになっていく
という流れがあったんだろう。それは別に発明クラスとか、
起業クラスのことでもなく、考え方なんてそうかもしれない。

今、海外旅行へいくといって、「贅沢」なんてことを発する人は
ほとんど冗談でしか通用しない。それくらい海外は近い。
ということだけはいえそうだ。

クールな僕は、決して「僕はクールだ」と思っていて、
「クールに接している」つもりはない。
ただ分かる人には絶対分かってもらえる自信があるのだけど、
「そういうふうにしか接することができなかった」
「そういうふうなやりとりしかなぜかならない」
「なにかフィーリングが異なっていて」
ということは分かってもらえると思う。

クール→実は熱い人間だ、というようなステップで、
分かってもらえると、非常に話しやすいのだけど、
そうではなく、クールな人間で、ストップされてしまうと、
非常にやりづらいんだろう。

僕は仕掛ける方が好きだから、相手の挙動には注目している。
とくに、笑いや冗談(これは漫才とかネタというよりも、
その日常の垣間見える一瞬の面白さみたいな。
写真でいえば、日常を切り取る感覚みたいなことです)が
分かる人がいいと思っている。
冗談は冗談クラスからつくられて、インスタンスがあって、
そのインスタンスから何度も面白いかどうかのメソッドを
呼び出して、True/Falseで判定しているイメージかも。

面白くなくても、そのインスタンス=1ネタ、もしくは1カテゴリで、
また冗談クラスを新規でつくるか、継承なり、派生させたりして、
さらにインスタンス攻め(笑)

それらがあまりヒットしなければ、
僕はクールとかになるんだろう。全くその通りだ。

僕は現状を認めてしまう傾向があるといっているからこそ、
現状に抗うような抵抗するような、それは違うんじゃないかという
違和感!をものすごく大切にしている。
というよりも、そうしないと、飲まれてしまうんだ。

灯台の光が安堵を覚えさせてくれるように、
違和感という光も僕を少しだけ、違和感へのメタ認知をするから、
やや安心する。違和感があったんだってね。

馬鹿みたいに、抽象的でかつ漠然として、
夢を唱え続けておいて、
実は裏でこっそりすすめていくというのが、基本的な戦略から
もれることはないかなとこっそり考え中だ。

何事もタイミングで。

タイミングが命です。
ええ、本当に。

マイペースってエントリーでいいたかったのは、
マイペースってのがあると思っている人がいるなら、
そのペースをやはり持続して欲しいし、
継続してナンボものだよね、ということでした。

という意味で、
自分のやりたいようにやる・・・のはマイペースじゃないかも。
正確にいえば、
「自分のやりたいようにやることを続ける」のがマイペース。

それは結構しんどいかもしれない。

で、チャンスがあれば行動してみる。
ただ、それだけですね。

飾らない心

全てが枝葉に見える瞬間がある。
それは、木を本当にイメージしてもらって、
枝と葉、根っことかで構成されていて、
やはり本質という意味で根をつかんだら、
あとはもう枝葉だということだ。

だから、ものすごく酒癖が悪いやつでも、
根はいいやつなんだよ、なら許せてしまうのが
人間だと思っている。ん?そうでもないかも。

結構分からないのだけど、
人によってアプローチというか攻める点は違う。
攻めるというか、共有とか、コミュニケートしていくところだ。
ダーツでいえば・・・といってもダーツはしないが、
矢をどこの的狙うかくらいのイメージか。

根っこはどこかなという人もいれば、
そうではなく、上っ面の格好を見たい人もいるし、
そうじゃなくて、興味あるここは気になるんですよね、ということもあるし、
それはなかなか言い尽くせないほどあるある。

そういうコミュニケートの仕方は誰も実は習わない。
影響はあるのだろうけど、オリジナルっぽいやり方になる。

ある人は「飲みにいけないと会話した感がなくてなかなかやりづらい」という
そういう考えの人もいる。一理ある。
まあ、飲んで話したら、それで打ち解けたというのもかなり極論すぎて
かなり怖いってのもあるが、どうだろう?

ある人は何年も経つというか、相手をみないと分からないって人もいる。
これも一理ある。でも、馬鹿かそうじゃないかなんて、
ある程度分かるような。その人の動作を見るとかで。
まあ、そんなこというと、誰かあててごらんクイズが展開されるのが
オチなので、あくまでもカンってことにするのだけど。

どういうアプローチをとっていけばいいかって
実は分からないというか、不得手な人が多いような気がしてならない。
別に僕は誰でもニコキビハキ(にこにこ・きびきび・はきはき、多分壱番屋の社訓(笑))なんてことは考えてない。

だから、いつまでも覚えているのだが、
友人の嫌なところばかり目につくというのは、友人ではないのではないか
という問いというか疑問に対して、
それは友人だと思わないのは友人をよくみてないからじゃないかという話。

これも一理あるが、そう考えるのも分からなくはないが、違うだけだ。
嫌なところを単に探しているだけかもしれないし、
何か不満があるだけかもしれないし、逆に自分が完璧だと本当に思いこんでいる人かもしれない。ちなみに、「完璧」って言葉はよく冗談で使いやすい。
それは「完璧」なものはないというアンチテーゼになるから面白いのだけど、
別に言葉遊びじゃなくて。

で、色々考えていくと、
自分らしさとか、自分みたいな、ってところになっていくと思う。
そうしたときに、その自分を飾るったのが自分らしいか、
飾らないのが自分らしいか、ということくらいで、
その度合いだろう。

髪を茶色(茶色を髪に入れるというより、痛々しい茶色)にそめて、
ロッキンな服装で、バンドマンのカップルをみて思うことを、
同時に僕をみて、地味な人間だと思うことは、
ほぼ同様のメガネをかけているといって、反論する人は・・・いないはず。
それで反論する人は、個々の世界の現象を徹底的に見る作業が
向いているかもしれないです。

抽象化していったときに、やはり本質が残り、
また飾ったものではなく、飾らないものがすごく綺麗にみえるし、
それこそがまた、くどいけど、根っこに見える。

そういう根っこをものすごく大事にしたいと思って生きてきた。
そういうものが、痛いくらいに最近、大事にできてきたんだと
なぜか思い返していて、涙が止まらないくらいに、
大事にしていたんだなと振り返ってしまえる自分がいる。

多くの人は、「引っかかり」を何か他の心の衝動とかよりも、
イベントとか、現象に求めているかもしれない。
でも、それは人それぞれで、そういうのが微笑ましいし、人間らしい。

僕にとっての「トリガー」(スイッチのようなもの。倒れると何かが作動するきっかけ?)ってのは、心の引っかかりであって、
それは「本当にいいんだっけ?」という「本当に?」という問いの
罠ではなくて、「いいんだっけ?」くらいなものを
何度も問うというような、問いなんだろうと思っている。

問わないで生きてたまるかと。
問わせろ!(笑)

嘘をつかない

謙虚とか、虚勢をはるとか、強がりとか、
威張らないとか、自慢しないとか、
見栄をはらないとか、かっこつけないとか。

なんでもいいけれど、
格好はつけるべきだと思っている。ここは強調。
でも、もがく姿をみせることはないと思っている。

ただし「駆け引き」の材料として、そういう証拠を
見せる必要性があるかもしれない。
こういう駆け引きは・・・結構好きだったりする。
別に悪い感じはしない。

でも、そういう材料を提示することで、
というか、そればかりしていて、
なんていうか、自分が臭うだけの存在になる気がしている。
別に臭さがダメなわけじゃない。納豆大好きだ。


もがく姿を見せないのは、格好つけたいからじゃなく、
ただ水面下が見えないだけだからと思っている。
だから、もう一ついってしまえば、
僕のもがきを見ていて、分かる人間は分かるのだと思っている。
それを理解してくれとは僕はまず思わない。
言ったらそこで意味はあまりないわけで。
言って理解されるとはあまり思ってない。

もし、材料が欲しいだけなら、
僕はそういう手段をとるだろう。
ケースバイケースだ。でも、それで何か関係性が
発展するかというと、まずそれはないと断言しておこう。
そういう駆け引きとか、材料に隠れて付随する、見え隠れする
そういうものが大事なだけ。後は枝葉。

いわば、一期一会で、どれだけ心尽くしたか・・・くらいでしか
考えない。これはあっさりコンソメ味というよりも、
あまり「こだわらない」というところだろう。

嘘をつかない。
自分の生き方に嘘をついたら終わりだと思っている。
実際にそういう「終わった」人生を歩んでいる人は
いくらでもみてきている。本人はそう思っていないかもしれないし、
それが人生だと思っていても、僕には正直関係が本当にはない。
ああ、ここで社会の重要性と所属から、僕がその人と関係がないことは
本当はないのだけど、別に関わった人間の精神や内面に
全てアクセスしているわけがない。聖人はこの世にはいないってね。

まあそれはいいとして、
終わった人生とは簡単に定義しておくと、
逆にいえば、この定義ではないような人生にすれば、
それは僕にとっては有意義なわけだけど、

・人生こんなもんさ、という分かったふりをしている
→別に悟りを開くのは勝手だが、その悟りが自分の可能性や
自分の誤解という瞬間が一瞬でもあれば、やめたほうがいいかと

・惰性で生きる
→継続的にやらなければいけない必要性があるからやっているというような
意識が重要ということ。やってて過ぎて、ああ年がたちましたねーでは
おそらくあまり「次の年」も変わらないだろう。
で、こういう考えがちょっと激しい・きついと思うならば、
惰性で生きることにある程度の満足があるということになる。
それだけの話。惰性と安定はやや違うイメージで。

・諦めている
多くのチャレンジは、諦めからは発生しえない。
こんなことができる、こんなにもできる、面白くないかね?というような
前向きな姿勢は、馬鹿さが面白さに変えてくれる。
そこに諦めという姿勢はない。
一体何をそんなに分かっているのかと言いたい、くらいな勢いで。

・ごまかしている、嘘をついている。自分に。
現実は厳しいというような意味のない言葉で、
全てをごまかすのは僕には出来ない。純粋すぎるかもしれない。
自分に嘘をついて器用に生きることもできない。
というよりも、不可能ではなく、したくないという意思が
ものすごくあることを考慮して欲しいとは声を大にしていいたいけど。
40年くらいかけて、それに気付く人がいるかもしれないし、
僕のように言い続ける人がいるかもしれないし、
なんでもいいけど、多分そうだろうなという「あたり」はつけている。
嘘をついても結局自分に返ってくる。
その心は、嘘をつき続けられないから、嘘を肯定するときに、
自分への問いとなって、ブーメランのように戻ってくるだけなんだけど、
というところ。

・そのままでいい
幸福感とかがあって、このままでいたい・・というような意味ではない。
そのまま、現状でいいのだという姿勢のこと。
これは、正直まずい。もちろん、現状が素晴らしいのならば、
そうなるかもしれないが、そういうのは長くは続かなくて、
日数でいうのは難しいけど、それで持ち続けることはないと思う。
そうじゃなくて、ぐっとそこで噛み締めた「このままのよさ」が
バネになって次につながると考えている。
相対的にいえば、このままは短期でしかない。相対的に。
やはり長期的に、もっと?したいというのが一瞬の思いでも、
長く長く響いてくる予感がある。


嘘をついたら、即終了ではないけど、
それくらいの意識で、問題がないとは、思っていたりしまっする。

いつかの君へ

ふりかえっても
ふりかえらなくても
日々はすぎてゆく

20代はあっというま そんな話がある
20代というよりも 覚悟を決めた
ある人の 目とオーラは 本物だった

いつか君も 夢や志を 抱き
この大海原へ 旅へ旅へ

そう願ったのじゃないだろうか
僕は何を勘違いしているか

夢を見ると 負け組みで
現実を見ると 勝ち組なんて
そんな愚かな図式は ないんだよ 本当に

夢を見ると 負け組みじゃないのは
夢を自分が見ているから 同じ仲間だから
そんな浅い理由じゃないの

単純に 図式自体が古くて使えないだけ
今の時代は 夢も現実も ものすごく見えづらくて
創造も想像も枯渇している

現実の悲観じゃないんだ
現実を直視した 感想なだけなんだ

どちらでもいいと思う 楽観でも悲観でも
ただそれらをみて 感じて どうするかだけしか
問われないのが 多分人生だ

夢を追わない人生も 夢を追う人生も
平等にそこにある

自分の生き方に対して
嘘をつかない 君の生き方が
きっとあるのだろう
そういう生き方を しているひとは 
ものすごく すてき

負けない心とその芯

自分の強さというのがある。
それは純粋に「強さ」があるのではない。
そうではなくて、「弱さ」みたいなのが
ものすごく重層的に重なり合っていくことで、
生まれるのじゃないかと思う。
それを失敗の経験値が高いといっても、ほとんど同じ意味になるかと思ったりする。

負けない心が最初からあるわけじゃない。
強い芯がいきなりあるわけじゃない。

徐々にやってきたからこそ、
今言えるのは、というか、断言できるのは、
そういう負けない心とか芯みたいなものが、あるのは、
今までやってきたからなんだという自信だ。

結果が自信に変わる瞬間みたいなのを
今、この瞬間に感じている。

よくやったと自分で思っている。
そこには自信がある。また、同じレベルのものを、
代替可能であれ、価値あるものは提供できたんじゃないかという
自負はある。

それが逆に全く評価されていなくても、あまり悔いはない。
常に大体、精一杯の力は出したからこそ、120くらいで
やったんだと今では思える。
80だったと思うのは実は120で自分なりだけど、
高めたつもりだった。つもりで結果がでないのはどうか、なんだけど、
そこまでフィードバックする必要性はない。
しいていえば、できたんだろうかな、くらいでいい。


失ってならないというか、忘れてならないのは、
物事の継続性だ。それは人との関係もなかなか同じことがいえる。
継続して続く関係というのは、ものすごく貴重なんだ。
そういうものは大切にしたいし、そういう関係をもっともっと
よりよくしていきたい。

また、自分の強さを誇示することはなく、
少なくともひけらかすことなく、ひたむきに
体当たりができるだろうと、思ったりする。

悔しいことや辛いことや苦しいことも、
きっと乗り越えられるでしょう。
そういう強さが、なぜか僕の中には、今この瞬間かもしれないし、
そうじゃないかもしれないけど、
確実にいえるのは、本当にここにあるということだ。

これは何度も言うが、過信ではない。
また、未来に対する無駄な夢想でもない。
現実を直視した上で、自身の振り返りの結果・・・でしかないのだ。

振り返ったらそこにあった。
気付いたらここにも、そこにも大切なものがあった。
ただそれだけなんだと思う。

それは身近な青い鳥をゲット!ということではなくて、
やはり、やはり自分の振り返りっていうところから
分かったんだろうかなと思っている。

付き合って欲しい

自分の思いを語って、
それが「へーすごいね」っていうのではなく、
「何お前アホだろ、くそ俺もやってやるよ」という
ノリを僕は求めているだけのような気がする。

それは極論でいえば、「馬鹿」だ。

バカを演じる人間を目指している。いや、狙う狙わないはおいておいて、
馬鹿でやれなきゃ多分意外に、チョコボール1個も恥ずかしくて買えない(笑)

大きな夢とかじゃないんだ、必要なのは、
その思いにどれだけ熱をいれて、真剣に語れるかでしかない。
これも、別に語りの上手さはもっと関係ない。
そうじゃなくて、その真剣さ、もっとつきつめれば、
それに馬鹿になれるか・・・でしかない。

大きな人間だろうと小さな人間だろうと、
自分の真剣さに対してきっと真剣に付き合わなければならないはず。
ごまかしてもいいのだけど、僕はごまかさないぞと。

そういうのりに「付き合って欲しい」と思っている。
ピエロや道化の対象となってもいいとすら思っている。
修行を別に無理してやる気はないけど、
でも、遠い目で見てるのじゃなくて、一緒に熱く、ここがポイントなんだけど、
もっとやれるんだよ、やれるんじゃない?
こうしたら面白くなるんじゃない?っていう
そういう高めていく方向は、無限大の可能性がある。

僕はその感じや感触を忘れることはない。
きっと忘れない秘訣じゃないけど、
繰返し問うことを忘れないからなんだろう。

自分にごまかしということをしないだけだ。
真剣に真剣に生きていく。

もう誰も止められないし、
誰も止めてくれないのが、ものすごく心地よいのだよ、明智君。

語る語る

自身を振り返りながら大いに語った。

僕は嘘はほとんどついていないが、冗談は飛ばす。
もっとも、それを冗談と思わない人もいるが。

酔った勢いで大いに自信過剰とか、
気が大きくなって語ることは、僕にはまずない。
それが冗談で勢いを借りることは「仮に」あっても、
それはシラフベース(笑)でかぶせていくし、
上に重ねていく自信がある。

って書いてて、自信の塊みたいに思えるけど、
そうでもないはず。

現実を直視し、それに対する対応と、未来を語ることは
決して誇張でも、自信過剰でもない。
現実に対する不満や愚痴の昇華・・でもない。

今、僕は確実に、一歩一歩を踏み込みはじめている。
それは、はじめの一歩というわけではなく、
認識と状況と、最後に出てくるのは「自分に嘘をつかない」という
いわゆる「内なる声」というやつだ。

僕はこれに逆らうことは、見苦しいし、
そこに素直になろうということをものすごく意識している。

これを「直観」といったりするけど。

大丈夫。きっと君ならできるという、
第二の自分がいて、また周りもきっと支えてくれるだろう。
まあ、周りといっても、自分を支えてくれる人=周りって意味だから
せこい表現だけど(笑)

というわけで、仕事終わり。
皆さん酔いお年を。

ビジネスと思いのハザマ

現実=ビジネスと理想=思いのギャップみたいな。

妥協という言葉は、間やハザマや落としどころを
探る作業になるが、
実際には、優先度として、これらは力をかけるべき・・・
ことは少ない方がいい。

そりゃきちんと、コストとリターンとか、
あとどこまで要求が通るかとか、そういうのはものすごく大事だけど、
でも、本来は、ビジネスが思い通りにいくのが
いいわけで。

仕事的には微妙だが、思いへの次のステップになるからいいとか、
仕事は我慢だが、思いでカバーとか、
仕事はダメだが、思いは伝わったとか、
色々あるけど、
現実ベースで考える「普通」の考えかたならば、
思いがいくらあっても、ビジネスにならなければ、
それは「ビジネス」ではない、となる。

非常に現実的で「面白くない」発想だが、
これは重要な考え方だ。いわゆる「感覚」はどっかにうっちゃって(笑)
理詰めや机上ベースや計算結果の話。

でも、重要なのは、やはり「思い」だといつも思っている。
常にそういうこと?、例えばビジネスと思いが混じりあう時など、
にいつもその問いが出てきて、
やはり、結果的に、ビジネスがうまくいっても、
なんか思いが微妙だと、そのビジネスも微妙な結果にしか
感じられないということとか、
ビジネス的にはいいけど、なんか??だと思いは乗ってこないわけで。

理想はこうだ。
ビジネスと思いがあって、
思いがぐあーと強くて、それがビジネスに結びつく。そして循環。
一番まずいのは、
惰性の仕事でやりすごす満載な生き方か。

そう考える、認識するしないにしろ、
そういう惰性感満載の車にのって旅をしたいという人は
やはり多いように見える。

コリアン・ジャパニーズ


中間は全て飛ばして、最後締めとして、在日コリアンに対して頑張れと、
そういうメッセージを飛ばしている。

日本人に対するコンプレックスみたいなものと読むのは悪い誤読で、
なぜならそう読んでしまうのは、政治的と道徳的な問題は切り分けるとして、
在日が発生した契機が日本が関係ないと言っているようなものだからだ。

どちらにしろ、僕からみれば祖先や昔の人が築いた国とか、社会とか
地縁とかそういう話になってしまうのだけど。

この本で、在日について理解を深めるきっかけとかになれば
いいんじゃないかと思いますね。


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すてきな言葉

すてきな言葉を頂きました。
友人が「色々なものをもらった」という話を書いてたけど、
僕も気付けば、色々な言葉をもらっているのかもしれないと、
今更感満載の車じゃないですけど、そう思いました。

人論的にいえば、なんていうか、こういうのが「目に見えないもの」だなあとか、
そういうことを感じています。
僕にとっては、そういう「目に見えないもの」が大切なんだなあと、
これも、まるで僕が鬼!(鬼は実は人間かもしれないぜっ?)みたいな回想録みたいに
なってますが、んなことはありゃーしやせん。安心しなされ。よよいのよい。

というわけで、すてきな言葉で世界を埋めましょうか。
あ、これいいフレーズだな・・・。

マイペース

自分のペースというのは、大抵「ゆっくり」をさしやすい。
しかし意味しているのは、その人のペースであって、それを「マイペース」というはずだ。多分。

そういうマイペースを知っている人、もっといえば「ペース」を分かっている人は、
勝負の時にものすごい力になる。その力は、きっときっと、「ものすごすぎる」力になるだろう。

ペースを守ることは大切だ。時には乱すこともだけど、
でも、自分のペースを知らないで、多分、「良い仕事」はできない気がする。

誰かにペースをマネジメントされているときも、そうかもしれない。
走るだけ走ってあとは倒れてもらっても、困るのだ。現実はそういう意味で、思いっきりやることに
ものすごく窮屈なトラック(競技場の円周のこと)かもしれない。

でも、走るペースがあるなら走るべきだ。自分に言い聞かすべきだ。
歩くペースなら歩いた方がいいだろう。

ペースを常に調整していく必要がある。
今は早いのか、遅いのか、と。

これがペースだなと、適した感じがあったら、それを離すな。
それは君だけのペースだ。死守するんだ。

きっとそれは、ものすごすぎる力になる。

踏ん張り方

その時、その場所で、その痛みを、その笑いを、どの程度踏ん張っているかというのは、
経験則もあるかもしれないが、結構、訓練がいるんじゃないかと思っている。
ここは踏ん張るとき(「我が名は海師」という漫画では、静と動という静になるか)、
ここは踏ん張らないとき(動)とか。

その見極め方に答えは当たり前だが答えはない。
隣人が踏ん張っているときに、自分は動いていてもいい。
それが怖いとき、人は足並みそろえて、踏ん張りだす。
滑稽だが、よくあることだ。「皆が踏ん張っているからね」とか。

皆がやるから、それをやる必要性は実はあまりない。ことが多い。
常識を疑え。踏ん張る体力は無限じゃないぞと。

自分に言い聞かせてみる。

関係-質

河口龍夫のテーマ。常設展見忘れてたわ!

金属のさびと布の関係は、何か?
目に見えないものというが一体何か?
問う。

僕なりの答えは、常設展をみた人は分かるかもしれないが、
30点?くらいの金属のさびと布の作品は、同じような色(薄青緑色とか茶色とか)だが、
紋様も一緒には見えない。
それは、結局、関係性というのは、不動のものではないということではないか(関係していることは不動だが)
と軽く答えを出してみる(笑)

関係性とは目に見えないから、化学反応という関係が「様々」にあるとか
でも、それは安易すぎるなーとか。
河口氏は別に見えるように、可視化したいわけじゃないっしょというような案内もあったか。


人々が関係している。関係とは、関係性とは、結局、人なのではないかと、また「人論」(笑)を
持ち出す。

ああ、どんな風にもとらえちゃう。アートは自由だなあ!

醍醐味について

ちょっと苦しいとか、ちょっとエライ(しんどいの意)とか、ちょっと嫌でも、
その先の面白さを知っているということか。

なるほど。醍醐味が分かれば、そいつは一生ものかもしれない。
人間の関係性ってやつも、そういうのが実はある。

人なんて自分も同じく、腐るほど嫌なことはある。でも、それはそればかりを
悪いところとか嫌なところを見ている「だけ」の時だ。
いいところをみると、話が全然違ってくる。

関係性においては、実は自分と他人の関係というところで、
自分が他人の鏡であり、他人が自分の他人の鏡になるということは普通にある。
それは、心の一致という大袈裟なものではなく、「似てくる」というだけのことだろう。

人間の関係性の醍醐味とは、そういうところで、
つまり、ちょっと嫌なことは、そのまま「感情的」に嫌なところかもしれない。
けど、その先に何かこの人はあるんだなと思うと、ぐっと
優しくなれるし、ぐっと大人に対応できる。
それが醍醐味かもしれない。

人と接することが好きという人から、
このような醍醐味論が聞いたことは、僕は今までにない。
むしろ、人と接することが嫌いという方がありえなく、
好きと「声高」に言うことではないとすらいえるかもしれない。

本好きもほとんど同じことだと捉えているのだけど、
実はそうではないというのが現実だ。

醍醐味ちゃんー。

ただ分からなかった

それはとても幼いかもしれないが、
ただそれは心から分からなかっただけだ。
大人ではなかった、といっていいかもしれない。
笑えるくらいアッパーな感じで「オコチャマ」だったんだろう。

冗談で「好き」といえる自分がいるが、
実際に「本当の好き」を冗談でいう自分はいない。
それを理詰めの理解ではしていないつもりでいたが、
実はそうではなかった。そう本当に、心から心が分からなかっただけだ。

相手の立場を理解しろ。視点を変えろ。自己中じゃないぜ。
そんな3点セットを理解したような思いでいたが、
実はそうではなかった。

そのことになぜか、夕寝をしていたら気付いた(笑)
ありがとう。夕寝よ!

アイデア スポッティング

なかなかよろし。
概要的には、アイディア創造喚起+自己啓発本かなと。いわゆるビジネス書。
アイディア喚起というのは、アイディアスポッティングという言葉から派生させる?
例えば、探索するとか、そんな言葉を並べている。

自己啓発というのは、偉人や学者や芸術家の言葉がいわゆる「格言」風に
ほぼ毎ページに1つは書いてあることと、
各タイトルの表題がややメッセージ性が強いということかな。

印象に残ったのは、
・没頭するなら没頭すること
・羅生門問題(笑)
・「質問してバカを演じるか、質問せず、そのままバカでいるか」
・ぬるま湯脱却
・「世界は1冊の本。旅しなければ1頁読んだにすぎない。」 聖アウグスティヌス
→これは長田さんのオリジナルかと勝手に思い込んでいた。そうじゃないのか!
アウグスティヌスは神学者みたいですね。

この印象に残ったところからいくつか求めると、
自分に必要なのは、羅生門で下人になりきることかもしれないとか
アサッテの方向を目指すことにしよう。

格言とか、アイディアとか全然興味あるっす、みたいな人はぜひ買ってみましょう。
装丁のカバーをとった中のデザインが好き。装丁の色はちょっとなあと(笑)


アイデア スポッティングアイデア スポッティング
サム・ハリソン 中村 三千恵

二見書房 2007-12-11
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トライ恐怖症候群

やってみるのが怖い。
何が起きるか怖いからやりたくない。
それを知って何になるんだ。知らないほうがいいじゃないか。
不安だよ。不安だから何もできない。
わざわざ痛い目にあいたくない。温室がいいんだ。外は厳しいからね。
僕は私は内向的な性格だから、試行なんて言葉は辞書にないよ。
君とは違うからできない。
やりたくない人にやれっていうのか?
安全なところから指示を出すのが、俺の生き方。俺流。
僕は平凡な人間なのさ。人生送りバント。
人と違うという風に思っているやつが腹が立つのさ。
何でもやってみるという考えじゃなくて、一つのことを深めたいんです。

残念ながら一つ確実にいえることは、
上のような症状(笑)であっても、何かしら新しいことは、その程度の違いがあれど
やらなきゃいけないってことだろう。
それに気付いたとき、トライ恐怖症候群の人がどう変わるかが非常に個人的には好き(笑)
しかし、そういうことに気付けずに、「このままでOK」という人もいる。
別にこれは上目線ではないのだが、上目線という人もいることに注意しておこう。
で、問題は、自分にそういうことがないかだが、あるんだね。そういうところは素直にいこう。
というわけで、後は読み手だけの問題なのさ(笑)

視点2つほど

1つ目。
あるブログの言葉で、印象的なのは、
「自分がレールにのって生きていることで幸せを感じる人が羨ましい。皮肉ではなく」
というのがあった。まあ、文意が異なれどいいだろう(おぃ

そういう羨ましさは正直なところ、皮肉にしかならない。結果的に。

難しいのだけど、レールなんてそもそもないという認識が僕にはあるので、
その認識のズレがまずここにはある。
そして、レールってそもそも、ひかれているんですか?という点も異なる。
会社に入って仕事するのが、レールなんですか?ありえんよ、と。

だから、脱線するとか、レールから抜けるってのはちょっとなあ。考え方としてあまり好きじゃない。
ロバート・寄与先、あ、キヨサキではないけど、父親が税理士だったか、そういう
ラットレースから逃れろとはいってないけど、そういう風になるよねーってことで、
いわゆるビジネスオーナー的なものを目指すのもありだよね、という結構柔らかめに
受け取っているが、実際はどうだろうか分からないが、そういうのがあった。

ラットレース=レールだと思うのだけど、多分ね、でもレールそのものがあると思っていて、
それは実はラットレース(ここでは全く同じようなクソ退屈な毎日(笑))だということになりそう。
そんなの面白くもないわけで。

じゃあ、それだから、レールから抜けたという意識は・・・どうなんだろうか?
そもそも、それは当たり前で、何かしてやったぞ的な、「人と違う人生」である的な
感覚は「誤っている」といえそうだ。誤っているとは、認知がおかしいというだけで、
おかしさは異常という意味ではないが、そういうことには気付かないのかもしれない。

どうやって生きるかと、どうやって現実を見るかはほとんど同じことをいっている。
世界は面白いと思えば、そのように生きるし、つまらんつまらんよ!つまんねーという人は
そういう風に生きる。シンプルで分かりやすいね。

上目線満載のアドバイスをしておけば、
欠けているのは、面白いとか、信頼とか、そういう仲間やパートナーという人だろう。
少しでもそういう人が周りにいれば、ラットレースだとか、レールだとかの思考なんて、
くそみたいに小さいことだって気付いたのだろうから。


次もあるブログから。
本好きの本通な気取り方が鼻につく、というような話。
ほとんど分からないが、そのように感じることが、おそらく書き手の表れじゃないかと
メタ的に思ったりする。
僕は本好きだが、本通を気取ることはない。そう思われているかもしれないが、そんなのはスルーだっ!
上目線ということを最近意識しているが(自分がではなく、言葉として)、本を読む人が
本を読まない人に、本を読めというのは、上目線かどうか。非常にムズイ。
そもそも、読書みたいなことって、言われてやることかいな、と(子どもではないならね)
思ってしまうからだ。

娯楽で捉えてしまうのは、ちょっとだけ誤りで、例えば、映画・音楽・読書というのは、
並列要素で並んでいるのはややおかしいということはいっておきたい。
別に「娯楽」の読書もあるわけなので、よけい分かりづらくなりやすい。

読書自体は表現でも、楽しみでもなく、実際は学びに近い。
おっと、映画も音楽も学べることはある。でもどちらかというと、音楽なんてとくにそうだけど、
インスピレーション的な、パトス的な話で、要は直観だ。感覚だ、の話だ。
映画もストーリーとか技術とか、内容とかで色々いえても、それは学びというよりも、
表現がまず先に走る気がする。各表現の発達により、学びにいった・・・と考えたい。

読書はそうではなく、学びがまず先にくる気がする。
そう捉えにくい、もしくはそう考えてない人は、おそらく、本を読む=娯楽=暇つぶし程度の
認識でしかないだろう。別にケンカは売ってない。

で、読書の必要性だが、ここが難しいところだが、
別にストイックに修行ではないが、といって、読書自体は孤独な作業という認識は
多分、非常に分かりやすく、かつ、適切なたとえ・・・だと思う。
実際に、読書時間は自分と本しかないわけだから。哲学的っぽいがそうでもない。

必要性とは、学びたいかどうか、くらいでしかない。
学びに貪欲でないと、広がることはない、ということは誰も言ってないけど、
そういうように思う。

で、上目線とか本通(ほんつう、ね)の話は、
おそらく、そういう発言をする人の問題だと捉える。
要は、僕が話している本好きの人で、本通を気取る人は、皆無だ。
本通っていう感覚が恥ずかしい。要は「自分は知っている」ということなのだろうが、
そもそも前提が「自分は知らないのだ」と、ソクラテスばりの無知の知を展開してこそ、
学びというファーストステップは始まるんじゃないかと。
そのように感じている。

うーん、いいね。

素敵な言葉の連続

なんでもいい。
素敵だ、という思った言葉を、
何度も何度も何度も何度も。

口から言葉となって出る瞬間、
それはふわりと空気に混じり、
まるで昔からそこにあったかのように
空気と言葉が混じる。

その空気が人に伝わって、
同じようにその空気を吸えて
そしてそしてそしてそして。

空気を分かち合い
言葉を呟き返すというのが、
ものすごく素敵に感じる。

そういう素敵な言葉を何度も
呟き続けたら、何か現状が最悪でも(最悪ではなくても)
最高でも(最高じゃなくても)
よくなっていく気がしてしまう。

楽観か、ポジティブか、とかそういうことでもなく、
毎日が感動とか、毎日が思わずニヤリと
してしまうような日々の連続なら、
きっと人は愚痴っぽくならないし、
きっともっと「笑顔」とか、
面白いこととか、
なんかそういうことが、もっと増えるんじゃないかって
漠然と、というよりも、断定的に、「きっと」そうなると
思っている。

素敵な言葉が吐けないようでは、
もちろん強制的に、もしくは修行して、または耐え抜いて
そういう言葉を出すトレーニングはナンセンスだけど、
そうじゃなくて、ぐっと「優しさ」が包み込んでしまうような、
もっといえば、「無理している」ことが
すぐ見抜かれる、ばれてしまうような、
そういう人々がたくさんいるから、
だから、「無理」ですと「もう限界だよ」ということが
弱音ではなく、本音として吐けてしまえるということに、
僕はただたただ感謝で一杯です。

世の中には、上で僕が書いているような
幸福感のかけらみたいな、もしくは一部も
全くない人がいるかもしれないし、
逆に共感してくれる人がいるかもしれないけど、
どちらにしても、もっとよくなるというか、
もっともっと今、よりは面白くなるみたいな、
希望みたいなことがあったほうがいいと思ったりする。
今はそうじゃないだけかもしれないし。

僕は自己に対する評価(これは良い意味で、つまり僕が誉められている)は
全て否定しているが、僕自身は否定してなくて、
心の中では「それなりにやった結果か」と常に思っている。
悪態をつくつもりはないし、全く結果どおりだというような
事実と現在があって、僕は進んできている次第。

結果を見せ付ければ誰も何も言えないというのは分かってきている。
それは・・・結果主義というような短絡的な話ではなくて、
「何も言えない」ということの意味をそこでは考えないと意味がない。
つまり、自分の思われ方。人からどう見られるかじゃなくて、
何か本質的な、もっとこうだったらいいとか、そういうようなことが、
あれば、伝わる伝わらないは別として、対等に、言ったほうがいい
ことは多い。もちろん、それが「素敵」な言葉じゃないなら、
距離と、伝達されることは、全くアサッテの方向にいっちゃうけど、
そういうことって、なんだろう、分からない人には分からない・・・
といえることはできるし、それは違うよというだけのことは
できるのだけど、何が違うか、何をすればいいか、何が正しい!かなんて
多分僕の真実は共有できる3割くらいのことしかいえてなくて、
残りはあなたの7割で締めるんだぜ、としかいいようがない。

それに気付くってのは、結局自分についての理解と、
いわゆる、思いや考えていることとか、そして全体的にいえば、
その人の魅力になるんだろう。やはり、魅力ある人間は格好がいい。

振らなければ、ボールにバットはあたらない。
いや、バットにボールは当たらないか。
バットを振ろうとしているか。それともバットすら持っていないのか。
打席にはたったか。ピッチャーはいるか。一人野球してないか。
ボールはみえているか。バットの持ち方は。
今の状況は。ストライクカウントは。雨が降っていないか。
体調はどうだ。思い切り振れるか。

そんな質問を、一つの仕事に、一つのやりたいことに
魂を込めてやっていこうと、そう思った瞬間、
圧倒的に思いが勝ち、現実がやや潰されてしまって、
夢追うではないけど、夢が勝って、ギャップが発生する。
でも、ギャップを作りたいわけではないし、夢がでかいと
自慢するようなことではない。それは本末転倒だ。

そうではなく、この心境と思いに素直になって
何度も何度も語っていくことしかないと、心から思った。
それは、素敵な言葉になるかもしれないし、
人には「なんか語ってるな」程度かもしれない。

でもでも、最後まで諦めずに、それは何か物事に
ピリオドを打たないってことじゃなくて、
諦めない程度に、踏ん張れるところは踏ん張りたいというところは
捨ててはならない感覚だろう。でも、そういうフンバリも限界はあるものだ。

何度も語っていくことで、
自身の思いと、人の考えを吸収し、確認し、
素直になっていける気がする。

ものすごく素直になれたなと思った時、
僕は、次の一歩を踏み出せるだろう。



なんかアレだ。

アレというのは良い意味で。

年末ということで、涙もろいかもしれない。
なんか泣きたい。うれし泣き、みたいなものかもしれないけど。

別に嬉しいとか、悲しいとか、そういうテンションじゃあない。

でも、確実に確実に・・・。
僕は進んでいるんだろうということを、
歩くと、目線のほぼ前から、木が真横へ、そして通り過ぎることが
分かるように、
進んでいるということは、
人との違いが分かるとか、一緒に歩いていたという人が
実はそうではなくなっていたとか、
誰かがいたであろう位置に来ていたとか、
そんなのが「感じ」だけなんだけど、ある。確実にここにある。

コップにありふれた水はこぼれたままにするのではなく、
少しでもありふれないようにしたい。

ほう。完勝宣言か?(笑)

メールを保存する

いや、なんかそういうのって
幸せなんだろうじゃないかって。

ぼちぼち、年始くらいまで、
ブログ更新停止の気配をかもしだしておきます。

飲んでばかりいると、
「うまい酒」か「面白い話」か「楽しい人」かとかが
よく分かるようになりますね。多分。

最近思ったのは、
ダチとゆっくり話す、少量のアルコールと、
アルコール多めで、つまらん話だと、
「酔い方」が異なるということ。
おお、王道か?これ、王道か?(うるさい

あと、「正論」ほど面白くない話はないですね。
正論って、本音に聞こえづらいですし、
仮に正論=本音だとしても!
正論のように聞こえるのが面白くないですね。

むー、とりあえず、乾布摩擦でもしますか。

いや、しないですよ。
酔い落としを。(やだ

決意の朝か夜か分からないが遠からず

決意の朝がくるうううう。

満足したらそこで終わり、か。

この言葉は状況にあったときに、適切に使う必要があると
思うが(例えば、満足してもまだ先があるよね、という雰囲気ではないと
意味がにゃーとか)
満足したら、というか、満足すらできないこともあるわけで。

また満足して何が終わるかもちょっと考えた方が良いわけで。

格言めいたものも、なんでもいいけど、
言葉を語るときには、やはり、ケースバイケースでもあるし、
全く状況を理解してない場合もあるし、
そういう細かい確認は、酒飲みの言葉じゃない限り(笑)
やはり検証していくべき!だと思われる。

そうじゃないと、
なんでも同じ言葉をあてはめて、消化不良おこしますよー。

前に進むとか、やりたいことやるとか、きちんと考えて納得いくようにがんがらないとやはり枯れてしまうんだろうし、また続かないから決定や判断が迷うんだろう

前に進むとか、やりたいことやるとか、きちんと考えて納得いくようにがんがらないとやはり枯れてしまうんだろうし、また続かないから決定や判断が迷うんだろう

というわけで。

前へ進みますよ。おほほ。

野心家であれ

友人に「野心家だね」と1回以上は言われている。

野心とは何だ?
と、問い返して、延々とエンドレス。
はないけど。

野心とは、なんだろう。
辞書にはこうあるぞ。

(1)現状よりもさらに高い権力・名誉・財力などを得ようとする心。ひそかにいだいている分をこえた望み。
(2)(野の獣が人になれないように)なれ服さないで、害そうとする心。謀反の心。
「此の謀いかなる―の者が京都へ告げたりけん/太平記 17」
三省堂提供「大辞林 第二版」より

1か。2だと困るな(笑)

別に権力や名誉や財力・・・ってお金は少しだけ要るかもしれんが!
求めていることは実はない。
友人の語彙力のなさを今度指摘して、バカにしてやろう。
うわ、俺って嫌なやつじゃん!
ふっ、分かっていたさ。甘いな。


そんなトークはどうでもいいけど、
現状に屈服して、ぬるま湯地獄で生きていくことはありえん!
カラを打ち破れ!
抗えよ!(どっかのレジスタンス運動の言葉?漫画だったかな
と、言ってみる。

「あえて」やるということが、自主的・自発的・積極的は問わず
「あえて」ができないなら、自分に対してコントーラブルではない。
つまり、制御不能だ。自分を自分で統制できてないのだ。

おもちゃの車が、リモコンで操作できずに暴走しだしたら、
それは「トイ・ストーリー」ではないけど、結構怖い。
常にこっちにむかってきたら、もっと怖い。
猫をひきだしたら、多分もっともっと怖い。

自分のリモコンは自分が持っていると思っているのだが、
実はそうではないよ、という悟りを開く人もいる。
自分は自分ではコントロールできないんだよ。社会だよ、国だよ、
地球だよ、自分じゃない人だよ。

そこまでいくと、宇宙人支配電波的な発想になるからアレだけど、
そもそも、自分を統制するって考えが、ストイックなのかしらん。
不思議でしょうがない。

ストイックさが足りねえよ、あめえよ、おめー。
とかいっても仕方がないし、
どこまで社会にコミットしてるの?何を君は分かってるの?と
言われても、分かった感満載の人との会話はつまらないわけで(笑)


野心は既に宙を舞い
僕は眠いだけである
ぐうぐう


体に悪そうな真っ赤な紅しょうが入りの焼きそばが上手っ!と感じるとき

腹減ったときとか、そういう無粋なことではなく、
物事は見てくれではないと、詩人は言うさ。ふっ。

結局、心なんでしょう。
焼きソバなんてそんなに味付けがんがんできるものじゃ
ないですしね。あ、多分。

例えば、屋台とか。
チャリのって死ねる腹具合の時とか。

ああ、伊吹山で友人からもらったウィンダインゼリーの
のどの潤いをなぜか思い出す。マジでうまかった・・・。

そういうありがたみというか、かけがえのなさ、
まあプライスレスですけど、心なんじゃないかと。

え、しつこいって?

心なんですよ。心。

まあ、あまりいってると、モグロフクゾーに
狙われるので、どーーーーん!(壊

信じる信じない

信じるって言葉はなんかいいけど、
そこを追求するのは、無粋な気はする。
が、あえて追求する(笑)

対象Aが人間なり、ものなり、現象なりなんでもいいのだけど、
そういうことを「信じるか信じないか」だと、
単純なオカルト(幽霊、UFO、超常現象とか)になってしまって、
なんかものすごく狭くなってしまう。

幽霊を信じるかどうかが重要なんじゃなくて、
そういうものがいると思って生きることのほうが「現実」的で
意味があるように思う。
ここ難しいね。

というか幽霊はどうでもいいのだけど、
それはおいておいて、信じるか信じないかの二者択一にしてしまった
時点で、外交のカードじゃないのだから、話がやや「緊迫」するわけ。
実際に、話とは、もっと緩やかで、逃げも、選択も、攻めも
色々できるから面白いのだけど、駆け引き的になりすぎると、
「俺、お前のこと好きだよ」ってことすら上手く言えないことになる。
おっと、これは脱線だ。

視野狭窄になるからというのも、おそらく、
信じることで広がるのだ、といわれると脆いっす。
信じることをどうこういうのではなく、
それを人に求めるのはどうかという話だ。

実際に、求めなくても、求めないことが求めるという
パラドックスは発生している。ほーら、難しいだろう。
知ることで、知らなくなるってことだぃ。

信じることで広がることはあるかもしれない。
でも、信じることで信じない人を切ってしまう、
見えなくしてしまうこともある。

可視化の欠点は、可視化されることで、それらが全てだと思ってしまう
ことだろう。そういう欠点を理解している人は、
可視化を大いにすべきだが、そうではない人は危うくて仕方がないです。(お、丁寧語

単純に物事をどちらかというのは痛快だが、
そんな簡単に進まないから痛快なのだともいえるだろう。

よく分からないけど、僕の直観では、
人は分けられないけど、といって、全く分けないのも
なんか人間っぽくないっという感覚がただそこにあるだけ、かしらん。

早送り

なんと、2008年の目標が確定。
早いね。まだ今年終わってないよ。ええ。いいですとも。
そこの奥さんは、うまい飯でもつくってくだされば(謎

2008年は恒例のキーワードですが
「飛ぶ、離陸する、飛翔する」になりました。
一応メモから抜粋すると、
飛ぶをイメージ。今年はちょっと無理なことでもやっていこうという、やっていこう。
いわゆる「勇気」をどんどん振り絞っていこう。一杯恥をかこう。僕は馬鹿です!!
チャンスをそういうところから少しでも作り出してみよう。
これらは、2007年の「攻める」がベースにある。攻めることがなくなるわけでは、決してないのだ。

ということです。
飛ぶも、離陸するも、飛翔するもイメージは一緒ですが、
注目して欲しいのは「離陸する」です。
離陸とは陸から離れるであって、今まで陸にいたことをさします。
あ、僕空飛べないですよ。現実感満載ですよ(笑)

飛翔とは、ハバタク意が強いです。
ちょっと無理してやるとは、無理してやるということではなくて、
無理っぽいこともやっていこうという態度のことを言います。
はばたくには時間がかかるでしょうが、はばたこうとしないとはばたけない
というパラドックスっぽいものがあります。多分。
陸を浮いたら、景色が変わるわけで、そういうのが大切だなあと
いつまでも思う予感ですね。

飛ぶは、ファーストステップのことですね。
最初の一歩がつかめればあとはどうだってよくて、
最初の一歩が大事なんですね。ただ、それだけで。

これらのキーワードは長いですが「飛ぶ」系統で、
2008年は決まりです。
ちなみに、友人と、バイオカイトを飛ばす予定があるのは秘密です。
多分これで「詩」が一つできそうですね。わーい。

おーし

一つのアイディアを否定したら、
次のアイディアが出てきたぜっ。

さすが未来の発明家(言ってて恥ずかしいな、これ。

よしよし。Wikiちゃんにメモするよーん。

めぐるめぐるめぐるめぐる

めぐるが3回はいいけど、4回あると、「めぐるめぐめぐめぐ」とかに
見えるでしょう?そうでもない?
ゲシュタルト心理学を舐めるな!(壊

2004年くらいから思いついたタイミングで、
自分の振り返りを行ってきたが、直近も9月、その前は5月、その前は
2006年11月になる。

そう。ここから顕著に分かるのは、自分で振り返るということが
極端に減ってきていることが分かる。4ヶ月は経っているわけで。

で、これは悪い傾向かというと、全然違っていて、
振り返りは必要だけど、今は「振り返ることができる仲間」が
確実に存在していることが大きい。

人は人によって支えられ・・・というようなことは、言う必要はないかも
しれないけど、自分だけで振り返る必要もないのかなとか思ったりする。
別に一人で振り返るなってことじゃなくて、自分でじっくり考える時間も
きちんとあるし、仲間とともに振り返る時間もある。
まさに、内外強し、だ(そんな表現あったっけ?

個人的な感覚では、月に2回アウトプットの場がある。
さらに、そこに、友人との熱い飲みが入ると、
週に1回はアウトプットしていることになる。すると、
インプットも相当していかないと、アウトプットがマンネリになるというか、
自分が面白くないのだっ!

で、無理してインプットということになると、そういうことは
そもそも長続きしない。むしろ、アウトプットは定期的に行いながら、
その質はともかく、アウトプットはしながら、インプットの質を高めれば、
結果的に、アウトプットも高まることになる。
まあ、逆でもいいのだけど。

実行や行動がアウトプットということにもなるし、
実はインプットだと思うことがアウトプットになることは多い。
盲点の連続は、新たな刺激になるわけで。

意外に「やりすぎ」ということはない。
なぜならその人の適性ならば、それは標準であり普通なのだ。
比較する瞬間に何かが普通になるのだが、それはもはやどうでもいい。
それが変かどうかは、ほとんどの人はどうでもよくて、
実際には「他人からの視点が気になりまくる」人のみが、
「人からどう思われていること」を「気にしす」ぎていけばいいだけだ。

今年は、めぐりめぐりまくった一年になる。
収穫は大きい。友人の誰かのように、夏が終われば一年が終わりなんて
ことは僕には全くない(笑)
粘りに粘って、今年最後の大晦日が、最高に面白い1日であり、
満足して暖かい1日であることを僕は目指す。
(ってこんなことを書いてると今年がダメだったみたいじゃないか!)

羊をめぐる冒険って話があったような。
めぐるめぐるめぐるとかいってると、目が痛くなるわ!

2007年できなかったこと

ああ、これ挙げるとマジできりがないんだけど。
いくつか。

まずは、仕事的なところでもいくつもある。
挙げるの面倒(おぃ

自分の活動としても、かなりある。
ああ・・・・。

トドメは、さらに個人的なことでも。
ああああああ・・・・!!

って考えると、そりゃダメな1年になるので、
もちろん、とくに挙げることはしませんが、
そうやってダメダシだけうまい人いるからなあ。
ダメダシってのはここでは、「ダメ」なことだけ言う人で、
それだけで「言った気になっている」人のことですね。

適切なアドバイスはダメダシではないっす。ダメダス(謎



ちなみに、2007年の目標として掲げたものは、
1つは、ほぼ達成。これは目標がずれたけどOK。

2つ目は、ほぼ失敗。挫折です。くそ!

3つ目は、達成。


というわけで、目標的には、1勝1敗1引き分け・・・。
なんか微妙だなあ。これじゃ、1部にいけない(?

オープンカフェの欠点

カフェで、テラス形式?で外に傘はなくても、
テーブルと椅子がある店は多い。スタバ、ドトでも。

でも、夏はくそ暑いと座らないし、
冬もくそ寒いとさすがに修行だ。

で、店側は単純にテラス分を有効活用ということなのかもしれないが、
外にものをおく(ここでは椅子と机、他にもあるかも。看板とか?)と
劣化が激しい気がする。風化されるというか。
店内の方がはるかに同じ椅子でも長持ちしそうということだ。
もちろん、客の使用による劣化はここでは除外してだ。

テラス分も当然、賃貸?ならその分を払っているだろうし、
そうではないかもしれない。まあそれはいいとして、
単純に

「場所があるからそこに椅子を並べればOK」

というのはやはり、短絡になる可能性があるということを、
あくまで「シミュレート」してみた。

まあ、寒くない人も中にはいて、昼には結構外でいいかも。
真夏は、風が出てればいいかもしれない。

逆に春とかはテラスがいいんだろうかもね。


関係ないけど、
スーパーに、「かごを持っていかないで下さい」というものを
みると、かごを間違えて持ち帰る・・・痴呆などの人を
除けば、考えられないことが書かれていたりする。
街中にも、「花を持っていかないで」も見かける。ありえん。

誰が、スーパーの買い物かご(袋じゃないよ)をもっていくのか。
店側は備品なので、やはり防ぎたいのだろう。
心無い人はいつの時代も必ずいるものですね。性悪説でもなく。

まあ、共通点は、備品は劣化もしくはなくなるってことですな。
それが必要経費で、店の商品に反映していたら、僕は怒りますが(笑)

あと、さらにどうでもいいけど、
店内の構造とかもあるけど(入り口近くとか)、
本にほこりがついているってのは、どうなんだろうとか思ったりする。

何度もここには書いてるけど「書店」の売れ行きで、
その界隈に住む(例えば名古屋のある区なら、その界隈であって、
例えば、たまたま岐阜や三重や東京や大阪から買っていく人がいても、
それは誤差にすぎないだろう。ターゲットは大体が近郊の勤め人や
学生や主婦が多いはず。多分ね)人の興味が反映される。
これは「売れる本」を置くのが書店の王道ならば、の話だ。
当たり前だが、本を置くのが書店ではなく「売る」のが仕事だ。

売ってナンボである。

当たり前かもしれないが、雑誌や漫画コーナーは人が多いが、
それ以外の文芸・小説や、新書・文庫コーナーは人が少ないと、
なるほど・・・「本読み」とはいかにマイナーなことかを痛感する。

断っておくがここで僕が本通をきどっているわけではないことを
明示しておく。

別に雑誌もいいし、漫画もいいけど・・・と思うだけだ。

店側は売れるものがいいわけで、
昔、大型書店に今は亡き「BASICマガジン」を買い求めていた
自分がいたのを思い出す。発売日ちょっと過ぎるとないんですね。
雑誌の特性もあるけど、そもそも地方の一般的な書店は、
マイナーな雑誌などそれこそ数冊しか入れないだろう。

こういうことを考えていくと結構恐ろしい。
それは、いかにネットが発達すれど、紙に印刷されるものは、
以前として都市と地方では差があるということに。
それくらいネットのインパクトがあったということになる。

昔は、本屋が地方にはなかったのだ。娯楽がなかったのだ。
だから、娯楽を求めて人は都市を建設・・・したのかもしれない。
そこには、華やかなで甘い誘惑が一杯あった(エロい店の話だけではない)
ということだろう。そこには知的刺激も、性的刺激もあったということだろう。

ネットはそれを飛び越え、今や家にいたままで本を買える。
しかし、本を買えても、意外に周りに、その道具(=ネット)を
使いこなして、対等に仕掛けていく(行動する)人は、
多くなるかというと、この点は僕は非常にネガティブに考えている。

道具は使えるものとして提示されるべきだが、
その利用・活用者は、そうそう多くならないと考えている。

梅田氏の「ウェブ時代をゆく」は好きな考えだが、
時間が結構かかるのだろう。実際に、ITという仕事に従事する人の
感度が非常に薄いようにたまに思ったりする。
例えば、ブログでいいエントリを挙げる人は、僕は今までに、
生で出会ったことはないのは、好例ではないだろうか。

それは、ブログとかネットの可能性を否定しているのではなく、
リアルの進化の遅さの指摘として捉えて欲しい。
だから、時差やタイムラグがあって、ネットを活用して、それを
リアルなりにうまく落としこんでいく人々はもっと時間がかかって
多くなるんだろうということになりそうだ。多分。

小学生が携帯やスケジュール帳を持つのはもはや時代の流れだが、
といって、彼らが皆仕事ができるというわけではないだろう。皮肉だ。
誰もが同じツールを手にしたとき、結果として、うまく使えるものが
生き残る。当たり前だ。

いかん脱線しまくっちょるわい。
ここにて完了せりせり!

年内タスク決定

総数は10で決定。
年内のうちに全て終わらす。ちなみに、この10に大掃除はない!
やべ。部屋掃除するかあ・・・。


1つはさくっと終了。わーい。

年内タスク

こっちが主だったんだけど、忘れてたわ。ちっ!

年内残りタスクの整理を行う。
リストアップする。
→やることは年内にやっとく。

来年に備える、で今年は終わりっすね。

ああ、年内カウントダウン

あっという間に、11月から過ぎていって、
いよいよカウントダウンに近い。というか、10カウントきったー。

今年は休みが、とくに年始が休めるので、
今年もものすごい1月?3月はスタートダッシュが命ってことで
吹っ飛ばした記憶がある。
そのスタートダッシュは成功だった。

成功要因をあげなさい?

む、むずい。なんかうまくいったから(笑)

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