ReadMasterの軌跡

面白いことを仕掛ける。仕事を作る。ビジネスを作る。そんな日々から出てくるアウトプット蓄積場。

2007年08月

ひとつ上のタスク

読んでいる本に感化されたタイトル。
そのうち上げますんで。

よく分からないが、自分のやり方というものが必ずあると思っている。
でも、それは通用しないような気がする。
通用とは、それで話が通じる人ばかりではないという意味だ。
もちろん、自分のやり方がないのなら、それはそもそも「働いていない」と
いってもいいのではないかと思ったりする。
なぜなら、ある作業は必ずその人のやり方でしか出来ない。
それはマニュアルがあってもだ。だからその間に仕事の面白さが存在すると考えるんだが、どうだろう。
ところで、マックが高いと感じるのはなんででしょうね。
多分ポテトが高いんですな。意外に。

もっともっともっと色々なことがやれると、8月が終わる今に感じる。
整理して、まとめて。
友人が理論武装じゃないけれど、もっと学ばなきゃいけないといって
いたのが非常に「微笑ましい」と同時に、「やはりできるな」と
思ってしまった。そういう人と出会えたのも、やっぱ話しかけて
よかったな、みたいなそういうところに戻る。

意外でもないが、自分は圧倒的にトータルで、話しかけて
話が進むタイプだ。どうも、待ちはダメらしい。という意味でS。
待つほうが楽とはいわないが、待つのみにリソースを振るのは、
なんかなあーって。やってる感が欲しいだけかもしれないな(笑)

というわけで、タスクをもっと作成して、面白くしますかね。

2007年度目標振り返り

4,5,6,7,8という感じで5ヶ月ですが、
まあ、1,2,3ってのもあるので、もう8ヶ月ですな。
残り、今年も4ヶ月ですが、踏ん張っていきたいところです。

で、ブログにある今年のキーワードは、
--2007年キーワード
○攻める攻める攻める
○ギャグを鍛える→えー
○人を育てる!?→うーん?

というところです。
まず、責めるではなく、攻めるというのは今年のキーワードとして、
有力に機能しているといっていいでしょう。
おそらく、「引く」「退く」シーンはあれど、
決して、「逃げたのではないわ。うはははは」というちょっと嫌なヤツにでも
なりながらも、「攻め」を演じたいい役者だったでしょう(笑)
分かりやすくいうなら、「攻める」とは、
安易な妥協をしない、諦めることを易しとしない、という
ただそれだけのことです。
おそらく、攻めている人はかっこいいです。
もちろん、守りもいいのですが、攻めの守りと、守るのみの守りでは、
多分「次」が全然違ってくるかと思います。
そこがポイントですな。

次は、ギャグですが、ギャグは鍛えられているとはいえないでしょう。
むしろ、「他人」に通じない冗談・ギャグが確実に存在し、
また同時に「冗談」が分からない人もいるという
いわゆる「他人は自分とは違う」ではなく「他人は自分とは全く違う」という、もっといえば「宇宙人」と会話をしているというそういうことも
同じ日本人(であろう(笑))から感じました。
また、よくある「好き嫌い」についても同じようなことがいえそうです。
好きなものは好きだし、嫌いなものは嫌い。
例えば、ブログっていうところでは、あまり「嫌い」「否定」「批判」ってのが「目に映る」=活字になるというところで、
よくない印象が僕にはあるんですけど、それはどうだろうなあと。
作家、創り手へのリスクペクト、敬意を払うことと、リスペクトは
かなり違うとは思いますが、まあそれはいいとして、
微妙な感情、感覚、それが伝わるかどうかだけかなと、
万人(これは全ての人って意味で)に通じる言葉ってやっぱないです。
なぜなら、気持ちが載ってくるからですね。

という意味で、色々ありますな。ギャグも。
ちなみに、最近オキニイリの言葉は「微妙」です。
昔はやった感ありますが、「すぐに微妙」っていうので、
語彙が貧弱になりそうです。
というときには「ちょっと微妙」「すごく微妙」「微妙の中の微妙」と
アレンジを加える必要があり、逆に脳に刺激的です(笑)

3つ目に人を育てるとありますが、
最近のテーマはこれが熱いです。まあ色々あるわけですな。
個人的には、自分が言ってもらいたいことを「ない頭」で考えて、
そこから相手の視点と、自分の視点と、できれば「もう一人の視点」を
加えてやるのがよさげです。
もう一人の視点とは、自分が尊敬する人、もしくは敬意を払いたい人、
こういう人いたらいいなという理想像でも、また師匠とか先生とか、
何か学んだことが多い人、あと本を書く人物、それは著者ですけど、
そういう人からのミックス、または同時に嫌なこと、こうされたら
いやだなということとかを、交えていく、ということですな。

個人的には、自分がやれるだけのことはやって、
後はその人次第という感覚です。
同期と話していて、2くらい話して10分かる人と、
10いわなきゃ10分からない人が
いるって話はなんとなく分かるのですが、
逆に、育てる立場、何かフォローしていく立場だと、
結果的に10にならないと、だめなわけです。
これ重要なところで、「結果的」にというところです。

という意味で、自分がいかに楽できるかというのは、
思想として、かなりパフォーマンス(ある一定の時間単位で、できる仕事量、もしくは創造量)が高められると思ったりします。
なんていうか、一本ではダメという感じです。
複数の意図、もしくはベクトルをこめていって、いくつかやって
何か当たればいい。いわゆる3割くらいヒットすればいいじゃないかくらいで、
といって、期待していないわけではないみたいな揺さぶり(1/fの揺らぎではないですけど)がいるのかなあと。


で、他に3つ目標がありました。
1つは、完遂といっていいでしょう。
もう1つは頓挫、というか中断で、終わりです。残念。
もう1つは、計画通りいってないが、別の路線で奮闘中という
そんな感じです。あえてここらの詳細は言わないです。

というわけで、今年の目標6個中、
2つは完遂。1つはOK、ダメなのが2つ。あと1つはいいんじゃない。
というわけで、ざっくりいうと、4勝2敗で、ちょっと勝ちすぎかなと
そんな感じです。柳井さんじゃないですけど、
1勝9敗でもいいなあとか思うわけで。
という意味からすると、試行数が足りないような気もしますね(笑)

あ、10万ヒットをこっそり狙ってます。ぐう。

サラリーマン像

サラリーマン像というのがあった。
今でもあるけど。

すごく面白い、もしくは面白そうなことを胸に抱えていて、
そこで踏ん張って稼いでいるみたいな人。
それがカッコイイと思ったりする。ちなみに、自分もそのように
映るようである。

良きかどうかは分からないが、良き先輩に
サラリーマンっぽくないといわれた。
ちなみに、小生のサラリーマン評価は手前味噌だが、非常に高い。
自分としては「正当な評価」だと思っているから、あまりそこに
関してどうのこうのはないのだが、まあ有難いという感情は忘れないだろう。

そして、非サラリーマン分野(笑)ではないどうか。
別に変なことを言われることはない。
むしろ、多くの人に会っていくと、その傾向が減る。

なんていうんだろう。
日本にでも腐るほど人がいて、全員には出会えないだろう(話すとかね)
だからこそ、自分のテリトリーなんて限界があるってのは分かる。
でも、だからこそ、自分が限られたところにいる必要というのは、
ほとんど「理由」がなければない、というのが僕の考えだ。
要は人生なんとでもなる、という考えが好きだし、そう思っているということだ。

やり方はいくらでもある。
という意味で、「柔軟な人」が周りに多いせいで、僕の生き方は
非常に助かっている。優良というのもおかしいが、お手本というか、
見習いたい人がいくらでもいるから、そこに遠慮はいらない。
ぱくって自分のものにすればいいだけだ。ぱくっただけでは
怒られるだろうが、そこで自分なりの消化をするから、
簡単には分からない。という感じだ。

実際に自分のような感覚、これは例えば「稼ぎ」として、
サラリーマンを立て、そしてそれ以外の時間を自分の野望(笑)を
なすために動くというようなライフデザインだが、
こういう人は「サラリーマン」でもいるにはいるが、
何しろ、サラリーマンの数は圧倒的に多いから、非常に少なく映る。
別にサラリーマンだからどう、って話でもないのだが。

色々な職種、色々な考え、そういうのがあったほうがいい。
なぜなら、間違った道(これは自分では気づきにくい。もちろん
正解ももちろん気づけないが(笑))へ歩むことを
規制してくれる存在だからだ。バランサー機能。

サーバーの負荷回避として、ロードバランサーというのがある。
これは、ある一定の負荷がサーバーにかかる(例えばWebサーバなら、
何人も同時にアクセスしてきたーとか)と、他のサーバに処理を振る、
アクセスを振るって感じかな、そういう機能がある「はず」である。
これかなあとか思ったりする。

もちろん、衆愚ではないし、烏合の衆でもない。
一つの仮想チームをたてて、そこで勝負していく。
もちろん、実際のチームの方がもっと面白いのだから、
やっぱ「プロジェクト」デザインってのはやめられないんだな。

自分色に染める

対象物Aをそうする。
まあ、そういう言い方もできるが、
個人的には、自分の領域(テリトリー)に持ってきてやる。
もっとくだけば「自分の土俵で勝負する」というのが、
勝ちパターン(ここでいう勝ちパターンとは、自分のやりやすい、
そしてリラックスしている、さらに力を出せるという意味で、
勝敗ではない)にもっていけということだ。


例えば自分の愛用のペンがあればそれを使うとか、
自分の使い慣れたメモを使うと調子が出るとか、
自分の食べたいものを食べてテンションを挙げるとか、
とくに僕が好きなのは「言葉遣い」というところで、
用いる言葉を変えると(変わると)ぐっと変わってくることがある。

例えば、数年前には僕の頭の中に「土俵」って言葉はなかった。
この「土俵」という言葉は、相撲の土俵から来ている。
土俵で力士は勝負するが、実際には「土俵」でしか勝負できないという
当たり前のルールがある。土俵から出たら、負けなのだから。

だから、それから転じて「土俵」というのは、
自分の闘いの場といえる。そしてその場に持ってくるということは、
「勝負」をしているということに他ならない。
同時に、勝負をしているのだが、実際にそこでなら「全力」でやれるという
自分の場でもある。
要は、土俵が外でも中でもあるというわけだ。
ホームというのがあって、そこでぐっすり休んで、
アウェイという場で戦うみたいな図ではない。

また、土俵は1つではない。複数作成が可能だ。
例えば、専門分野、得意とするジャンルっていってもいい。
あの人は建築に関して色々面白い見解を持っているとか、
あの人は、エクセルの操作に関して色々知っているとか、
そういうことだったりするが、それこそ土俵になりやすいだろう。

ホーム感があるのは土俵といってもいいかもしれない。

自分の方に引っ張ってきて、そこで勝負する。
それがやりやすいってことだ。

まあ、人によるっていうのもありで、
例えば、そうやって持ってかれるのを嫌う人もいると思う。
でも、そこに固執する(土俵に固執するという視点もありだが)のは
微妙なところだ。

そこはやっぱ、直観かな。

余裕時にスケジュールを見直す・心得を整理する。それがデザインするってことさ。

人の余裕時間とは一体何なのだろう。
例えば、飯を食べているときとか、歓談するとか。
なんかそんな時かなと思ったりするが、意外に人と話すのは
リラックスできていないといえる。

それは相対的に一人でいるときの集中力と、
考える思考の密度が違うって意味で、
比較するのはちょっと違うかなとは思ったりするが、まあいいだろう。

余裕があるから、これでいいやーみたいなふうに
時間も、余裕そのものも、そしてその気持ちも使うことって
案外簡単にできる。いわゆる「浪費」ってやつだ。
時間の浪費もむなしいが、それよりも「気持ち」ってのは、
続けるのは難しい。テンションってのはまさにその時が旬。
旬のものが旨いように、「やるときがやるとき」みたいなことは
まさにその通り。という意味での勢いってのは必須だ。
それがないと、ちょっといつも「間が悪い」感もある。

で、余裕があると思った瞬間に、見直すとか、
心得的なこととか、客観視ってのはやったほうがいいと思われる。
そうすると、ぐっと今までの自分が圧縮されて、
また固まったものはいつでも展開可能(つまり蓄積物となり、知恵と化す)し、そして圧縮されたからこそ、また新しいものをガンガン取り込んでいける。

多分それの繰り返しだろう。そういう時に、
同じ感覚、もしくは似たような感覚の人が周りにいるということが
一番のポイントだ。一人、ではないのでR。
そういう意味の人間関係を作っていく。いわゆる人間関係デザイン。
そういう学問あってもいいかなーとかおもったりするが、
まあ心理学あたりで言われていると思われるが、どちらかというと、
心理学は個人の心理に焦点を当てている印象がある
(社会心理、集団心理などはそうではないのだが、
しかし、集団の心理というものに帰結するというところで、
人間関係のデザインというのは、個人でありながらも集団であるという
ちょっとずれているかなと思う。
でも、現状、集団心理とかが一番言いたいことに近いんだろうと思われる。)
が、まあそれはそれとして。

見直し、レビュー、振り返り、フィードバックってのは、
同じことをここで言いたいのだけど、
結局、持続して後からもテンションを保っていたんだよって
証拠であるし、またそういう力があるという気がする。
だから、フィードバックできる人って、重宝するなあと、
なんか思ったりしたり。

友人進退決まる。おめでとう。

友人が実際にいるかどうか分からないが、
逆にいうと、自分を友人だと思っている人からこんな発言を
されたら、「線が細い」人は泣いてしまうんだろうとか
思ったりするが、まあ冗談か。

友人の進退が決まった。
彼にとって仕事とは何かは分からないが、
しかし、単純に「稼ぎ」以上のものになっていたんじゃないかって
そのように思う。

消費という考えで、それは「お金」で何かを買うという意味で、
とくにモノについてをいいたいのだけど、
それって結局、キリがないというか、そういう話はできそう。
なんていうか、例えば、自分が知らない、分からないことって
いくらでもあるけど、それを知りたいって自分が思い出したら、
体が動いていって、少しずつ分かっていくという感覚がある。
その時、今まで想像してた「分からない」ものが、
そうではなくなっていくときの不思議感は多分一生なくならないような気がしている。そういう意味で「一生勉強だよね」という言葉を
発する人は、このことをうまくいうものだなと、常に思ったりする。

働くために生きてるんじゃない。
働くって色々あるけど、少なくともこの意見は貫いていかなきゃ
多分自分が人のために死ぬ。全く、「信じる」ということがない
領域で(つまり宗教以外とかね)そのようなことをする意味は
ほとんどない。

働くために生きてないから、好きなこと、満足できること、
愉しいことをやっていこうと。
そういう提案を世の中にしても、おそらく「しすぎ」ってことは
ないんだろうなあとか、ふと思ったりする。

とりあえず、進退が決まり、めでたいところだ。
うむうむ。

115にターゲットを設定

いくつかのビジネス書に書かれていたが、
自分の今の力が100とすると、120とかくらいを向けて
やらせる(つまりここでは上司やリーダーの視点だが)と
伸びるという話がある。

全く同感だ。
自己でそれをするには、己を客観視する必要がある。
これは、「自分の力」を客観して、「お前は今どれくらい力使ってんだ?」
と問うことをして、まず自分の力具合を見る。
次に、120とかのターゲット、もしくは理想ポイントを設定する。
今は、60なら80くらいにするかとか、
ここでは便宜上100を現在の位置として、120とする。

というわけで、115くらいに設定していくという独り言。

で、頭を切り替え、「ぶーん」ではなく「きゅいーーーん」って
音に頭を切り替えていく。

そうだなあ。例えば包丁ですごく切れるものもってても、
そいつを使えるスキルがなければ、包丁が無駄ではないけれど、
活かせてないというのはあるわけ。
実際に、己の力というものを過信する傾向、
それ自体を115というものにもっていく。
それが自分にとっては、うまくバランスが取れている。

おそらく、過信しているといっても、過信にならないというか。
むう、素晴らしい。

というわけで、8月の終わりで、115っと。

ファイティングスピリッツ

略称FS。なんか違うような。

日々なぜ生きて、なぜ働くかということを
真剣に考えると、おそらくその思考によって、
諸動作(笑)が停止する。
だから、「そんなことは考えなくてもよか」というのは
皮肉だが「処世術」のような気がしてしまう。

実際には、生きることや働くことは、必死になって
考えた方がいい。もちろん、それによって
諸動作を止めてしまうのは微妙なんだけど、
別に、日々を働く生活ではない、学生といううちは、
そうやって過ごした方がいいような気がしている。

理論武装や自論確立などは、むしろ人の考え方から
学べるのなら、後からできてくる。
アイデンテテの確立といったほうが分かりやすいかも。

闘わなければいけないような気がする。
そういった「なあなあ」(笑)的なものだったり、
思考停止的なものだったり。
好き好きがあると思う。考えることが嫌いって人も世にいるわけで、
その人に強制はできない。

そんな感じで。

同期と軽く

人は結局同じ「仕事」といってるものでも、
全く違う角度から見るし、感じていることの好例か。

稼ぎである「仕事」というか、「稼ぎ」であるものに、
そこまで「傾倒」しないからというのは、
結局、平日に余裕を蓄えて、休日に発散(ストレス発散の遊びではない)を
するというのは、「体力がある」「余裕がある」ということになる。
というか、そう解釈したとみる。

確かに正しいが、
「体力がある」とは一体なんなのだろう。

単純に、力ではなく、「どうしたいか」の違いでしかなく、
例えばそれは「稼ぎ」を平日やって「休日」にその稼ぎで
疲れたから休んで。
後はそこで得たお金、もしくは人と一緒に暮らしていく。生活領域において。

それって、幸せかもしれないが、なんていうか、
それって非常につまらんわけです。これは同期が悪いわけでは全くなく、
単に考えが違うということでしかない。
そう、逆にいえば、僕の考えは同期は理解しづらいし、
そこまで「体力がない」というのは、一種の「考えの保留」ととるのが
非常に好ましいだろう。深追い、深読みは禁物だ(笑)

でも、稼いで休んでってことをやるために、
僕は生まれてきたとは思わないし、
そもそもそうして生きていくことはヨシとはしない。

まあ、分かるさ。
稼ぎは大切だ。お金も大切だ。

それを踏まえた上で展開していくわけさ。
それは無理とかそういうことではなく、バランスの問題でしかない
とそう思ったりする。

一気に何かを望みすぎるわけ。
例えば、目の前のことをやるというのは、
結局やりたいことをやっているということでなければ、
意味がないということ。極論ではない。
自分のやりたいことが分からないならそういうべきだろう。
それは僕も同じことをいっている。

また、どうやっていいか分からないならそういうべきだろう。
そういうことを僕も言っている。

また、どうやっていくことが舵取りとか分からないなら
そういうべきだろう。

だからこそ、自分のバランス感覚なぞ、ちょっと眉唾で、
同時に人のそれも眉唾でいいんじゃないかとすら思う。


目の前のことが、自分のやりたいことを細分化したものと
つながっていないなら、それは稼ぎと転じるか、
抽象化もしくは、具体化、もしくは・・・自分なりの工夫をするしかないだろう。

待っていても誰もやってくれない。誰も助けてくれない。
なんかそれは「暖かくない」場ではなく、
非常に暖かい場を僕は想像してしまう。

やっぱこれは、人の性質の問題だな。

というわけで、諸君(笑)
大いに、飲みたまへへへ。

テンションを捏造する

それを演技、と人は言うかもしれないが(笑)

本来使わない言葉の組み合わせが好きだ。
なんか右脳が刺激されるので。

あうあう。

敗北

気を抜いて、いくらでも下があると思えば、
おそらく、際限なく、どこまでもどこまでも、
敗北感を味わい、そして実際に敗北する。
そして、自分への引き締めというのもなく、
自分に甘いではなく、甘すぎる、もしくはあまったれてんじゃねえと、
1時間ごとに言われる人間になる。

ボーダー。
あるいくつかのことにたいして、自分ならここまではやる、
もしくはやれるといった判定が必要だ。
それがあるからどうだというよりも、
敗北にならないためにも、また勝つという感覚は
どこで分かるかというためにも、必要なことかもしれない。

タスク分散
圧縮アルゴリズムーというのがある。
これは、応用可能かもしれない。イメージ的には速記。
速くかくために、表記を略すということだが、
しかし、再現可能なのだ。
例えば、圧縮だと同じ文字列で構成されているAAAAAをA5とかけば、
5バイトから2バイトになる。展開は、A5をみたら、AAAAAにするように
すればいい。

例えば、メモの取り方を工夫することで、
「突っ込み」をもうけたり、自身が「これをみたら絶対思いだせる」
または「思い出しやすい」という記号とかをつけたりする。
それはある種圧縮と同じ。

逆にいうと、1つことから、10個タスクができるか、
3個のタスクができるかとかだが、人によって捉え方が異なるだろう。

タスクは結合する、分散する、削る、消化する、
振るなどができるが、
好ましいかどうかはおいておいて、タスクを消化するという意味においては、
ありとあらゆる手を使ってこなしていかなければならない。

ごく基本的かもしれないが、
タスク消化能力が10個/日なら、1日挙げるタスクは10が限界だ。
時間の「見積もり」が出来ないものの方が多いというのは、
ある種説得力があるが、
残念ながら、そういうものは、「テスト」タスクとして、
その1/10とかをこなせば、ある程度見える。
なぜなら、残り9/10も同様のタスクで埋めると考えれるし、
またそのように「見積もる」方が、「何も分からず」やるよりも、
分かりやすい。

それは100kmを歩くという人が、
1日歩いてみて、40kmだったから、あと2日でいけるぞというもので、
1000kmになると、途端に人は「投げ出す」ということは
なんとなく分かるだろう。
1000kmでも、1日40kmを歩けたなら、ペース配分とか、休憩とか
色々あるが、結局25日あればいけると。連続は厳しいなら、
休憩日をいれていけばいい。
そんな感じ。

で、問題は、
タスクを消化する、タスクについてのスケジューリングは
できても、そもそも「タスク発生」をさせる。
つまり、タスク作成のことだが、
これができなければ、おそらくタスクに飲まれるだけというのは
意外にも重要だ。

タスクは振られたからやるならば、
おそらく、誰でも出来る。それも出来ない人はいる。
タスクを振られたら、それを消化するのは当然。
また、逆にこちらからタスクを振る、タスク生成すれば、
自己タスクを振っているのに、タスク生成していることにもなるし、
また、タスクを振られているのに、タスクを振っているという
ふうにタスクスケジューリングのキワミへといける。

おお、なんか書いちゃったな。

絶対に諦めない

というわけで、諦めません。死ぬまで。
恐ろしや。

肩の力入れないのに、前進できるってすごい楽だ。
この感覚はおそらく、「踏ん張って生きている人」しか
分からないんだろうなと妄想・夢想・空想。

稼ぎと仕事の違い。
稼ぎという食い扶持をもって、生きるべし。
また、それだけではなく、己のための、人のために仕事を創るべし。

右向け左。

ブログが重いのは仕様です。
多分軽かったら結構人気出たかもしれん。
まあ、それは全て、使用するブログのせいにしておこう。多分。

また、無駄にアクセスするではないということ。
1度で全部見る。見ないものは見ない。
取捨選択すべしということ。

こんな親切なブログ見たことないネ。

にしても、中華鍋で豪快につくるチャーハン。
ばかうま。くそ、米がパラパラにならねーよ(笑)

ハイプレッシャー!

どこかのブログのどこかのタイトルで、
こんなタイトルがあった。誰だったかな。忘れたよ、ごめんよ。

プレッシャーは受けるもんじゃない。
食べるものだ、といったのは、何を隠そう小生でござるが、
プレッシャーは結構うまいものだ。そうだな、疲れた後のチョコ、
労働の後のししゃもにビール。日本酒をペットボトル(1ガロン(笑))で
飲む幸福などと似ている。あ、なんか土屋賢二風だ。いえい。

マネをして、真似ぶ。学ぶ。学ぶくーん。

というわけで、日々学びである。

うむ。

あ、先達である先輩(当たり前)から一言アドバイスを頂いた。
「他人はどうやら違うらしい」
これは結構ヒット。
でも、自分と同じものがあるから人は惹きつけるってほうが
やっぱ好きかな。違うものがあるから惹かれるってのも好きだけど。

ああ、自分と皆は同じだなんて思っちゃいないさ。
でも、でもね、んなこといってたら、多分、フツーノヒトに
なっちゃうんよ。ですなあ(笑)

進化するアートコミュニケーション―ヘルスケアの現場に介入するアーティストたち

綺麗なお姉さんから借りた本。
最近、借りるということが多いな。あ、貸すことも
全然あるな。うむ、素晴らしい循環。
出版社のみなさまにいっておくと、回し読みをする人は、
それ以上に本を買っていると思いますよ(笑)

で、本の内容は、
「アーツアライブ」という著者ら(林氏と湖山氏)が、
それを元にして、アートでコミュニケートしていくという
話を展開していく。展開というか、過去を振り返る感じ。
1999年くらいから8年を振り返る。

アーツアライブは、学生主体だと思うが、
高齢者施設にいって、アート作品を一緒に作ろうという
一種のワークショップに近い。
が、ワークショップではないのには、その作品は
飾られたり、施設にいる人には感動を呼ぶ、またそれは作家である
学生にも同じ、というところで「コミュニケート」を
アートでしているという話。

と、狭める必要はないが、そういうアートは、
もっともっともっと広まってもよく、
という展開。

非常に共感できる反面、アートというのがそのようでないなら、
そもそも僕自身はアートに興味をもたなかったというか。
安上がりアートみたいな、お手軽アートみたいな。
アートなんてクソ野郎みたいな、そういうなんかアンチっぽい
反社会までいかなくても、そういうスタイルが好きだなあ。

で、コミュニケートをするなとかではなく、
むしろ、そういうアンチなのにコミュニケートしちゃうという
天邪鬼っぷりがあれば最高。

ということは、本には書いてないけれど、
多分、ヘルスケアってところで、「アーツアライブ」もそうだけど、
福祉へのアートみたいなところに、どうしても事例としても、
パッチ・アダムスとか出てくるので、偏ってしまうかも。

途中、対談で、今道先生という方が出てくるが、
この対談は正直、非常に微妙。
著者が先生と敬うのは勝手なのだが、それを文体にされると、
「?していただく」など、非常に読む方はわずらわしい感じがする。

というところで、なんか、挿入感がある対談なので、
この本の本質は「アーツアライブ」という実践している活動から、
アートの可能性、そこから人と人がコミュニケーションしていくことを
もっとやっていこまい、ということになると思われる。

で、そんなことできるんかいなって人はオススメ。

進化するアートコミュニケーション―ヘルスケアの現場に介入するアーティストたち進化するアートコミュニケーション―ヘルスケアの現場に介入するアーティストたち
林 容子 湖山 泰成

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世界で一番重要な力は、継続力だ。

イエスorノー。

イエス。

苦しみを耐え、耐え、耐え、潰れる人間もいるだろう。
それぞ人生。一興なり。

夢を持て。
もてずに死ぬ人間もいるだろう。
それも一興なり。

干渉しなければ、人知らずといわれ、
干渉すれば、お節介といわれる。
どうすりゃいいのさ。あんた自分がそんなに「大切に」される
存在だという、確信をどこで「勘違い」するなりして、
得るんだい?

そんなのは、幻想に過ぎない。どういおうが。
でも、この幻想はすごく大切だ。
夢とは結局それになる。

自分を誤魔化すことと、夢の違いが分からなければ、
きっと夢を過小評価するし、夢を鼻で笑うだろう。
そんな人になるなかれ。

集中していく、振り返ると、山が出来ている。
自分が積んだ山だ。知恵のカタマリだ。人でもある。力でもある。

一つのことを継続できずに、ホッパーしてもいいかもしれない。
でも、そんなに色々なホップをしても、
人生狭いし短い。多分結構できないし、腹を括れと言われるか、
そう感じるだろう。悟りを開け。自身に寛大になれ。

継続しろ。
飽きたら、気分転換して、また戻れ。
道は長いぞ。

俺踏ん張れよ。

前傾を保て。

追い風が流れるのを待つのか、
それとも追い風を作るのか。
向かい風に立ち向かうのか、
向かい風に逆らわないのか。

とにかく、「錯覚」でいい。
自分で「選び」たいんだ。

誰もが言うだろう。
選んだやつでカッコワルイやつはいないって。

最近の超おすすめ

漢なら、21エモンを読め。
読まないやつは、女だ。
女は21エモンを理解できない。
だから、男ではない。

なんてマジでいってたら、殺されそうな世の中。
あーいやですな。といって斜に構えるのも、またアレですな。
というわけで、どこまでいってもアレですな(笑)

それはともかく、21エモンはまあ、結構前の漫画です。
藤子・F・不二雄って人たち(二人いるはず)は、
ドラえもんをはじめ、「ぱらそる へんべえ」とか、
本当たくさんの面白い漫画があります。

で、21エモンは、21世紀を生きるホテル「つづれ屋」のお話。
つぶれそうなホテルだから「つぶれ屋」と勘違いされることが
多い中、父親の20エモンの息子である21エモンが主人公となり、
絶対生物で可愛いと思うけど、モンガー。
イモホリロボットだが、ボーイとして使っているゴンスケなどを
中心に、ホテルに来る宇宙からの客(時は21世紀なので、
宇宙から東京CITYにまいおりるわけです)を相手するという
お話です。

男は、ロケットを飛ばすんだ。
とはいってませんが、そんな21エモンの言動。
なんか大好きですね。
ゴンスケ最高。モンガー最高。
結局、人間ではないゴンスケも、モンガーも、非常に人間らしく、
描くんですね。うむむ。


あと、働きマン最新刊。4巻。
おもしれえ。やっぱ、働くっていいじゃん、ねと思ったり。

というわけで、21世紀は21エモンの世界ということで。

二〇〇二年のスロウ・ボート

うお・・・面白いな、これ。

wikipediaによると、古川氏は「朗読ギグ」という自著を朗読する
イベントをやってるらしい。熱い。熱いぜ。
YouTube - 古川日出男 朗読ギグ『スローモーション』@京都METRO 2007/5/5

というわけで、著作を追いかけるとしようか。


二〇〇二年のスロウ・ボート (文春文庫 (ふ25-1))二〇〇二年のスロウ・ボート (文春文庫 (ふ25-1))
古川 日出男

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パワー全開。

1動作に全てをかける。

祈りが通じないことはありえない。
手は自分の欲しいものに伸びる。
足は行きたい土地に乗る。
頭は思考したいものを考える。
眼は見たいものを見る。

徒歩。1分の間に、満足感が上がるのは
きっと上記のようなせいだろう。

さあふんばりますか。

一掃、全滅、RUN、破壊、そして完遂。

シュル宣言を読んで、融けるという字がヒットした。
溶ける魚より、融ける魚の方がよかったような気がする。
融けると溶けるの違いは、どうでもよくないのだけど、
よくわからんので放置するとして、


結局現実と一体化する、自身の身体ではない思想、イメージ、想像、
空想が、溶けるということだ。
この感覚分かる人はおそらく、シュルレアリスムでいわれる、
自動記述、オートマティスムというものは、かなり面白いと思うはずだ。

意味とか考えるのではなく、筆が勝手に動くように
紡ぎだしていけばいい。というか、そのようにする。
だから、意味が、論理が吹っ飛んだ文章になろうが、いい。

人は、二つのぶっ飛んだ考えを可能にしているし、3つでも4つでも。
それは人を助けながら、ぶっ殺すぞというある種病的かもしれない
思想の同時成立。それは当たり前のようにあると思うがどうだろう。

頭が結構痛い。パパス助けろよ!

シュルレアリスム宣言;溶ける魚

おおお。

溶ける魚はほぼ100%、シュルレアリスム宣言は、大体
分からなかった(笑)
分かるというのは、内容が分かるという意味で取って欲しい。

で、自動記述によるこの文章は、
非常に吹っ飛んでいるといっていいだろう。
支離滅裂で、光は水に水は人間に、人間は燃え、そして泉になった、
というのはなかっただろうが、そんな雰囲気。伝わるかな?

それがずっと続くから、多分興味ない人は絶対読まない文章。
そして、シュルレアリスムというのがそのために、
人を遠ざけるのかもしれないと、意味深。

で、この感覚が好きか嫌いかなんだけど、
ぶっちゃけていえば、大好き。
なんだろう。なんでこんな試みをしたんだろう。
やっぱ、超現実ってこれだよな。くすってのはないんだけど、
面白い。面白いはその行為自体をメタ的に指すかな。

ぜひ、そういう意味で文章とか言葉とか自体(自体にですね)に
興味ある人は読んだ方がいいかと。
シュルレアリスムの原典って意味で、最高なんだろうなあ。

溶ける魚ってのは、人のことを指しているというか、
ブルトン自体が言ってるかな。
それは、現実から超現実という連続では、
人は溶けていって、それは風景に溶け込むとかというのと違って、
本当に物理的に溶ける、メルト!してしまう。
現実をよりよくみると、結局溶けてしまうみたいなことだと勝手に解釈。

ちなみに、超現実とは現実をより現実にって思考だから、
そもそも、人間が魚に見えるのは、別におかしくなし。
まあ、マジでみえて、それがなおらないなら、冗談ではなく、
医者へどうぞ。

で、次はナジャを攻めたいところ。

注釈の多さはそれだけ読んでて楽しめますので、ぜひ読んでくださいな。

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タスク オン ザ スケジュール

タスク管理はツールと紙のスケジュール帳と、
未来日付のチラシ・ビラ溜め場で成り立たせている。

個人的には道具にこだわっている覚えはないが、
普段使うものは「好きな」ものがいいと思う。
そうすると普段からどんどん使いたくなる。
アフォーダンス的に、ものの性質を取り入れたスケジューリングデザインか。

溜めは大事だが、抱え込んでしまうのは違う。
サッカーではキープ力は重要だが、
タスクをキープし続けるのは、あまり得策ではない。

フリーで動く人なら、何も言われない(もちろん仕事関係者には
何やってんだといわれて、速効仕事が回ってこないだろうが)が、
組織で働くなら、常に誰かが何かをやってることを把握してないと、
要は管理していないと、組織的にアウト。
代替可能性と自己アイデンティティを同じ場で語ると、
多分混乱する。仕事は仕事、我は我なのが、いい感じである。

現在とくに詰まったタスクはなし。
楽しみタスクが数個蓄積。わーい。

スバラシキタスクデザイン。

うそぴょーん

この言語(言葉ではない)を使う人種を探している。
正解を表すときに「ビンゴ!」というか「ピンポーン」というか、
逆に不正解を「ぶぶー」というか「NG」というか「間違っている」というか
「誤っている」というか「違う」というか「異なる」というか。

非常に会話は奥が深い。
まるでその1語に人の人生が反映されているかのようだ。

例えば、「異なる」というのは口語的にあまり使わない気がする。
文語体か。「これとこれは異なっています。」というより、
「あなたの飲んでいる水、僕のはこれ。違うでしょう?」
というほうが自然だ。ああ、同じ文章にしろって?
もううるさいなあ。
「あなたの飲んでいる水、僕のはこれ。異なるでしょう?」

うむ。不自然だ。

その不自然さをあえて、場に投下することでなじませていく、
なじませるというのは自分のモード、流れにもっていくという
術も可能。これは、自分の使いやすい言葉、使い慣れている言葉を
いかにうまく使いこめるか・・・である。
そうすると、話しやすいし、何度も使うから説明できていれば、
非常にその人の言葉で語れるから、熱い。

嘘である、偽りである、というとき
「うそぴょーん」といえる人がいることが大事だ。
それはなんていうか、負けると分かっている戦争のときに、
「負ける」と大きく言わないでひっそり活きた人ではなく、
「ふざけんな日本!」と政府にがんがんいっていった、当然死を
覚悟したんだろうが、そういう姿勢がやはり大事だった。

というように、何事も、馬鹿らしい、本当か、なぜあなたは
一人で、そして少数で、少ないところ、そこになぜ?
というようなものには、必ず何かがある。

だから、僕はユニークだと思う人間から目がはせないんだ。
今日も明日もユニークデーす。

00001歩手前の余裕

1ではなく、00001。

それは、5桁を既に想定していると、細かいことを省くとそうなる。
人の数字表記は「1」とか「一」とか。

読書感想文で字数に困ったらこう書けばいい。

「夏休みに入ってあと、30日あるのだなと思いました。」
ではなく、
「夏休みに入ってあと、0000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000000030日あるのだなと思いました。0の数は僕の中での想定する夏休みの数です。」

とユーモアが効かない人にはだめだが、
これで相当数の文字を稼げる。
ちなみに、「30」ではなく、なぜ「00・・・30」なのかといわれたら、
熱をもってその考えを論破せねばならない。
その覚悟がないものは、やはりユーモアも、余裕も、そして、
遊びも愉しみもない人間なのだ。

0000000000000000・・・・な
そんな余裕ありますか?
ないなら、今すぐ寝て、早起きしてヨーグルトでも食ってしまえ!

タメを創る

人のタメとかのためじゃない。forじゃない。
知恵というといいすぎか。

例えば、プールするというのはいいかも。プール熱とか、プールを作るとかじゃないっす。

ある一定のタスクを一旦落としこんで、
例えば寝かせたり、そこから切っていったり、
あるいは分割したり、結合、あるいは優先度の変更。

結局それを自動的に頭でやるには、容量が小さすぎるので、
「俺って馬鹿だなあ」といってそれを言わずにやる。
そんな人がかっこいいですね。けけけ。

もちろん、忙しさはタスクをこなす量より、タスクがそれより
上回ることを言うわけで、じゃあそういう時どうしたらいいかというと、
時間を捻出するか、トレードオフかリミットをきめてそこまでやるか、
というところになりますね。

変な話、時間が無限にあったら無限にいいもの創れるってのは、
自身の能力を「過信」しているとしか言えないんです。
むしろ、限られた時間で、びしっと創りあげる。

時代は、というか、こういう生き方とデザインの仕方がかっこいいから
そうするわけですね。

うむ、濃いエントリじゃああああ。

提案3769

ファイナルファンタジーのモンスターで出てきそうな名前だ。
正体不明とか、臓物系のモンスターがなんかトラウマ(笑)
あれは、FF5でしたかねえ。

ま、それはともかく。

アイディアは、おそらくアイディアとして活用するには、
提案もしくは、企画という形で、
現実に落とし込む必要があると考えている。

なぜなら、机上の空論にしかならないからだ。

もっとも、自分の頭で考えたことは全て実行せよという
アイディア至上主義(笑)みたいな?ことをいうのではないので。

提案をするとは、結局、
アイディアをつくって、ためて、それを企画として、
文字化、文章化、映像化して、整理してまとめて、
それを対象となる人、もしくは読み手、もしくはワクワクするような
ことにすることを圧倒的に鍛えられる手段、方法、行為かなと
ふと思ったりする。

企画のお仕事はどうでもいいので(その仕事がどうだとかではなく)、
例えば一例をいえば、
テレビ局の番組企画の仕事って、その企画をすることがすきなら
面白いと思うわけですね。
だったら、そこから「お金」をさしひくと、顧客のお金は消えるから、
CMとか、関係者の云々もね、
じゃあ個人レベルでやっていくことになるけれど、
そこで抽出できそうなのは「企画する」って行為だけ
引っ張ってくるとどうなるか、みたいなことになるわけですな。

という意味で、もし企画をしたいなら、
企画をすればいいと。で、どうやってやっていいか分からないなら、
目の前の分からないことを一つずつ潰していけばいい。
企画という言葉の意味が分からないのか、企画といっているが、
実は?の企画をしたいだけであるのか、それとも企画ではないものを
結局やりたいのかと、そういう詰めという問いがどんどん出てくるだろう。
そうしたら、それをやればいい。やる気があるならば、の話。

そうやってやれば、結局、質はどうかは保留して、
手を動かして形にするというプロセスと結果は体験可能だといってしまおう。
次に質だが、これはプロの世界であったりなんかするので、アレだけど。

で、話を元に戻して、
提案をするということは、結局「企画」といってないけど、
1つの提案にはA4一枚の企画書がどかんと投げるくらいの
迫力があっていいような気すらする。

こういうのを今やろうとしている、やっているんですよ、と。
それだからどうというわけではない。

が、おそらく、この提案を3769個もしていくということは
圧倒的な力になる。圧倒的というのは、自分にとってのコアたりえるもの
という意味で、また手を動かした結果という意味でも、そうだ。

フィードバックとは、これらの提案結果、提案への回答、
提案への議論過程などさまざまなことをさすが、
次の提案に活かす、また別のところに活かすという意味で、
非常に重要なところだ。


提案ができるとは結局、考えて動けるという証明になる。
なぜ証明とあえていうかといえば、
自分で考えて動くということが、経済うんたら会の
正社員・非正規社員とかの構造うんぬんたららららーでいっているようなところでは、
正社員にそれが求められたりする。別に正社員だからーというのは
関係ないんだけど。

なんていうか、やっぱり状況、環境はあるけど、
基本人は変わらないような気がするわけですな。

というわけで、楽しみ、面白くするって、
普通にいいじゃないですかー、みたいな!きゃは!

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前紹介したREDESIGNとほぼ同一のテーマ。

ただし、この本はテレビ番組でそういうのがあったそうで、
それは知らないので、面白みが減ったのかも。

で、新鮮味という意味では、REDESIGNの方が面白いので、
もしこの本みて面白いなら、REDESIGNをまずオススメしたいところ。

印象的なのは、マヨネーズシャワーかな。
線香花火もすごいなーとか思ったりする。

インタビューはおまけ的な印象(作家へのインタビュー)があるので
あまりコンテンツ的に面白さは感じず。

鉄道時間尺度の日本地図が一番頭に残ったかな。
結局、世界をデザインするとは、生活をデザインするとは、
自分の価値ということで見るということ。

うむ。ちなみに、ブックオフで発掘しましたとさ。

「ニュー・デザイン・パラダイス」永久コレクションブック「ニュー・デザイン・パラダイス」永久コレクションブック

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時間がない

のではない。

幸せとか、満足感とかというのは、
あと、夢とかも、遠くにあると思っていたりしやすいが、
実は目の前の、むしろ、「やあ」というくらいの距離に
あるような気がする。まさに青い鳥。

書いてないと思うけど、
映画「ザ・ビーチ」は、理想の楽園の維持のために、
結局「大麻」を売るとか、何かしてお金をえて、
農作物を作っていたかは不明で、米を買うというシーンはあったし、
それで生計をたてていた。
そういうところで、サメにくわれた人が、
一人はすぐに死んで、もう一人はなかなか死なない。

なかなか死なないというのは、その楽園に住む多くの若者の
心理をそう映像が言っているからだ。

彼は満足な治療も受けられないまま(医者は当然楽園にはいない)、
テントの中に放置される・・・。

非常にセンセーショナルだが、「いじめ」というのは
例えばそういうものかなとか、ふっと浮かぶ。

問題は、足を負傷した彼が、楽園のボスに
「島の場所は言うな、だから治療で村にいってもいいが、
その場合はもう戻れない。
つまり、楽園にいたいなら、このまま治療せずにいろ」ということを
言われ、彼は楽園を選んだ。

傷のこともあり、船に乗せて街へは出れないというのもあるだろう。

しかし、彼が悪いというのではなく、彼は「楽園」を選んだのだ。
美しいビーチでの生活を。


これをみていて思うのは、そもそも僕の考える刺激的な毎日とは、
日々同じことをしているというわけではない。
楽園と呼ばれようが同じようなことを(彼らはビーチで色々な遊びをしているが、当然同じメンバーなので、好き嫌いもあるわけだ。人間だから)していて、単に別の生活デザインをしているようにしかみえない。
という意味で羨ましいと思うことはない。むしろ、そう映像は裏でいわせたいとすら思ったのだが。

この映画は結局、何人か死ぬが、ほとんどのものは帰る。
それは、楽園という幻想(実際には大麻畑を管理する地元民に管理されているから)を知った若者の選択だったのだろう。
しかも、運がいいのは、そういう幻想を知ったときは、
大抵はやり直しがきかないことが多いのだと思うが、
一応はやり直しがきくだろう。

で、理想とか幸せとかは、多分、現状維持とか、生活にあるとか、
そういう哲学っぽいことではなく、
多分、どれだけ感じられるかの総和みたいなものでしかないかなと感じる。
質もあるけど量もあり。

自分はこういうことがあって、こういうことを感じたって、
人に話せたり笑えたりする。多分そういうのが「幸せ」であるというか、
なんかそんな気がしてくる。

そこには、時間がなくて何かしたいことができないという人生とか、
生き方とか考え方とかと、一線を画しているようにすらおもえる。

やることがあるのに時間がないというのは論理的にきこえるが、
ある種詭弁でもある。時間があるなら、やりたいことがやれるという
ことになりそうだからなのだが、実際にそうはならないのが常だ。

だから、ないなりにやるみたいな姿勢にならないと、ダメなんだろうと。
なんかふっと思う。

いつまでも先延ばしに出来ることがあるなら、
それはきっと「一生やらない」ことなんだろうとかも面白い考えだ。

俺は勝つ。

自分に勝つ。
そのためには・・・睡眠が必要だ!

ねるねるねーるね?。

単位を短くする

時間管理術では全くなく、
単純に時間あたりの充実度を考えると、
細かすぎても、でかすぎても、意味がない。
というか、睡眠と同じようにその人にあったものがあるという結論に達する。

例えば、1日を朝、昼、夕方、夜の4つに区切るか、
1時間単位で12個くらいに区切るか、
それとも、やる気ある日、ない日みたいにやるかは
その人の人生だ。

今、ベターなのは、2種類の視点を導入することだ。
例えば、時間がかかる「人の育成」みたいなこと、
別にこれは「自分の育成」でもあるのだけど、
それは半年単位とかで考える、1年単位で考える。

しかし、そうではない、技術的なことや、
企画?フィードバックまでの一連の流れは、1ヶ月単位とかで考えられるし、
まあそうともいいきれないけど、大雑把にそうなっている。

あと、週単位が最近日常生活のサイクルになっているけれど、
まあ、体力とか、そういうのもあるし、体調もあるわけだけど、
1日単位というのもべつに悪くない。

マグマ!といっていただけでは意味がないので、
コツコツコツコツとコツがくどいくらいに、
こつこつやっていくしかないんじゃないかなあと。

そんなことを既に思う、夏なり。

僕のなかの壊れていない部分

これは・・・きたーーーーーーーーね。

どちらかというと、哲学的な本。
生きるとは何かとか、結構本の引用が出てきてしまう。

だから、Amazonレビューアーにある、論文かなんかにすればいいというのは、
ものすごく意味が分かった。が、これは小説だと思うし、
なんていうか、感情移入は、ほとんどなかったが、共感できるところは
かなり鋭い描写というか、ここまで描くかという感じはした。

というわけで、哲学書風な小説みたいな印象がある。

3人の女性と同時に付き合いながら、結局そこで生きている自分について、
全く欠けている部分がある。

主人公の松原が利己主義とは思わないが、
といって、他人をよく愛するという話が出てくるが、それはできていない。
そういう意味で、曖昧であり、全くふわふわしている。

また彼は、人事(ひとごと)のように、自分に起きていることを
述べてしまう。
彼の生まれた環境が全て原因だというようなオハナシではなく、
彼の記憶力が原因だというお話でもなく、

そういう彼自身が、結局、自殺もできそうなのに、なぜか
死ぬことに対しては、誰よりも、「馬鹿」だといって、
認めることはないし、また許すこともない姿勢がある。

つまり、曖昧で、よく分からない、が、何かかけていて、
そこで死ぬわけでもなく、生きている。

そこで出てくるのは、なんで自分は生きているのかということで、
結局彼は、自分のことを語ることで、ひとつの解決を見出す、
というように僕は感じた。

彼の壊れていない部分は、欠落してない部分と考えたいが、
しかし、実は、壊れてない部分は、すでに欠落した部分ともいえるかもしれない。これはアフォリズムっぽいが。

すでにないものを彼は追い求めているわけではなく、
ひたすら自己への内省のようなものを向け、日々を「曖昧」に生きている。

うまく説明できないのだが、
この本は多分好み別れそうという感触は受ける。
なんていうか、小説っぽくないのね。映像化はかなりしづらいのではと。
とはいえ、心理描写はかなり細かいような気がする。

映像化しやすい=心理描写が細かいわけじゃないでしょうな。

ここらへん話すとキリないので、
まず気になったら読んで欲しいっす。ちなみに、主人公は29歳で1千万円プレイヤー(笑)


僕のなかの壊れていない部分 (光文社文庫)僕のなかの壊れていない部分 (光文社文庫)
白石 一文

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想い出がいっぱい

H2Oではない。まあ時代が違うのだが。許せ、先達よ(笑)

今、はまっているというか、読書の楽しみで、
読みながら飲み物のんでリラックスして
ページをぱらぱらやって、眠いときに「口をあけて」がーがーがーと
寝る(がーがーがーは擬態語であり、イビキなどの擬音語ではないの注意!)のが最高にいい。

クソ暑いので、5分歩くごとに、喫茶店に入らねば
体が持たない。熱中症で死ぬ人が出てくるのは分かる。
それくらいの暑さだからこそ、寝て汗をかいてシャワーを浴びて
ということをすると、なんか幸せを感じる。ああ、安い幸せ万歳。

友人の悩みではないが、考えとか、まあ話し合える人々はいい方で、
話し合えないというか、自分のコミュニケーションのなさを疑え!であるが、
皆色々考えてるのだなあと思ってしまう。
抽象化すればすごく楽になるのにというが、
男はこの考え方分かるかなと思ったりするが、
女性はどうも苦手らしい。あ、ジェンダーだ。わーい♪

具体例の連続は抽象に近づくと個人的に思うが、
別にそうではなくても、そうならば、美術運動であった「具体」だっけ?
の理解をしろよとか、叫びたくなる。多分、僕の言いたいことの
真なるものは、上っ面はどうでもいいよということなのだけど。

抽象的なものが上っ面だって?
そりゃその物言いが上っ面だよ、明智君。
そもそも、抽象なんぞ、具体の経験がなくして出てこないのだよ。
あ、これ帰結でしたっけ。演繹でしたっけ。いつも忘れるわ。

ある種の持論、ナンデモいいのだけど、そういうのがあると、
まあ「自分哲学」ってやつですか、すごく楽なんだろうなと。
楽というのは、迷いにくい。
迷路に入って、地図があるかないかの違い。
それか、「すいません。出口どこですか?」って聞けるか聞けないかの違い。

自分にはそれがあると思っている。自分哲学が。
それは人に語って「へへん。いいだろう」というようなレベルでも、
というか、そういう意図はない。が、このブログの狙いはそれでもある。
きっと、参考になれば、参考にできるところをすればいいとすら
思っているのはここでは棚においておこう。

それがない世界を創造してみる。
一体どっちをどう転んでどうすればいいのだ。
これって結局、「経験不足」でしかなくて、経験不足は、
経験によってしか解消できない。
まるで、仕事の意味は仕事をすることでしか分からない的な、
自己目的化っぽいものがある。あ、この自己目的化、悪い意味で言ってないので。

で、話は変わる。
本を読んでいると、昔のことを思い出すことがある。
で、自分のやさしさの原点ではないかもしれないが、
(ちなみに、僕の性格がやさしいのではなく、やさしいという部分があったら、
それの話であって、僕はやさしい人間ですよというPRでは決してない!はず)
不条理というか、まあ「因縁」でもないが、「言いがかり」で
脅されるという経験があった。詳しくは書かないし、書くつもりもないが、
結局、僕だけじゃないだろうが、なんかそういう経験が、
人を傷つけない方向に持っていくのだろうと思ったりする。

一緒にするとダメなんだろうけど、被爆者は原爆に対しては絶対に反対だろう。
原爆OKなんていうと、逆に人間性を疑われる。
ちなみに、被爆者が原爆に対して何かいうことを疎んじる人も
必ずいると思う。これは、マイノリティーの矛盾という点で、非常に面白いが、別に笑う話じゃない。人間の深さでもあるが、単なる難しさでしかないかもしれない。

僕は、人を傷つけることが絶対にダメだとは言わない。
戸塚ヨットスクールなどの、ちょっと派手なことをしている学校があって、
ちなみに、これは皮肉である、そうやって子どもの養育、育てることに、
何かあきらめ、もしくは自分ではどうにもならないと感じて、
学校に任せる親の心理が分からなくもない。
が、それはどこまで理解できるかというと、やはり分からない。

分からないという感覚を今まで非常に「遠く」においてきて、
むしろこれは逆に「分かる」という感覚をも同時においてきたの結果でしかないのだが、分からないものは分からないのだ。たとえ何といわれようが。

人を傷つけることがダメだとは絶対に言わないのは、
いくつかのレアケースがあるからだ。
それは相手を引き止めたいときに、相手の腕を思いっきり引っ張るとか(笑)
酔っ払いがうざったいから、ビンタをかますときなどとであるが、
まあ、それは冗談として、
傷つけるのにも、物理的か精神的かがある。

物理的にも、精神的にも、人を傷つけることに対して
非常に僕は敏感だったと思う。そして、それを誇張、いや強調する、
いや違うな、それを感度よく感じてしまう人は、僕に対して「繊細だ」と
表現したのだと思う。繊細とは弱い心ではなく、タフさがないという意味であるが、逆にいうと、細かやな、女性らしいといっても言いすぎではない、
そういう意味合いだろう。やさしさにもいくつか種類があるように、
気遣い的なものと、間接的な遠まわしなものでは全然感じるものが違ってくるだろう。

敏感だったからこそ、僕はその敏感さゆえに、自分を保護というか、
護っていたような気がする。逆に、僕に対して理解を求める人が、
いや、僕を理解しようとする人がシンジラレナイという気持ちがあった。
でも、それはある種の偏屈でしかなく、受け入れているようで、非常に受け入れてないという感じが、今ではする。
多分、これは僕が僕でしか分からないお話だろう。そして、僕の言葉が
僕と対話するだけのものでしかないだろう。

救いがないとか、あるとかそういう話ではない。
僕は人を傷つけている感じはしないが、人によっては傷つき、
ある人は逆に笑うのだが、そういう人々(これはそのままの意味)と付き合うことで、僕自身は、僕自身しか土台でしかないし、ベースでしかないし、
もっといえば、アイデンティティー(久しぶりに、アイデンテテ以外で記述してみた)は僕だとか、自分軸は自分だという、堂々巡りみたいなことを
言ってしまえる。もしくは断言できるようになってきた。

それは、孤高の旅人でも、フレンドリーなお兄さんでもなく、
自分という人間の存在を、この社会において、認めるという作業でしかない。
もっと簡単にいうと「俺ここにいるから4649!」というやつだ。


昔と何も変わっていないと思う。
僕は昔から「やさしく」、人には気を使うし、
逆にうざったい人間には、本当にうざったいように接するし、
最低限のマナーとか、紳士みたいなのをぶっこわして、
非常に失礼に何かするというのも非常に自分の好きなところだから、
話さない人には話さないというのが、たまに人は怒るらしい。

馬鹿である。自分ではない。それで怒る人間が、である。
自分も全く立場が変わればそのように思う。
自分という人間の魅力のなさをまず嘆け。
それから話をしようじゃないか。まあ、普通は嘆かないから話はできないのだが。

自分がすごいと思っている人間が嫌いだ。
という自分はどうかというと、どちらかというすごいと思っていて、
自己達成感と自己肯定感は軽く150%はどんなにへこんでも振り切っている。
それは開き直りであるかもしれないが、全て「小さき」ことになるからだ。
そういうと、じゃあお前にはどんな野望があるのかという声が聞こえてきそうだが、例えば、目の前のゴミを拾うことって、結構でかいような、
隣の人を愛せよだと、キリストになってしまうが、隣の何も知らない人に、穏やかに、うまく接するとかそういう方が「大きい」。

なんていうんだろう、自分がデカイ価値だと思っていることは
別に他人のそれではないってことは大いにあるということは、
結局、ある種のPRをしても、別に「大した」ものじゃないと
消化されてしまう。メディアの露出により、消費される、それと似ている。
メディアをみて人は「知った」ふりをする。
何を知ったというのだ。知ったかぶりめ、くそったれである。

反面教師という言葉が踊った時期があった。
これは結局、人には悪いところがあるとかではなく、
悪い面があったらそれはまねするなボケということであって、
結局、そうやって学べば、「自分が悪い」という価値に、「悩まされる」ことはない。なぜなら、自分はそれを真似しない。つまり、そこを学ぶことはないからだ。

受け入れるという言葉が踊ったこともある。
僕は自分を受け入れているから、他人に要求するものも、
相当でかいのかもしれないな、とまるで自分がエライ人間になったかのような
錯覚に陥ることもある。まあ、結局大したことはないのが世の常なり。
受け入れ演技なんてものもあるかもしれない。

相反する二つの概念がスキなことに気づいた。
クールな情熱とか、冷たい優しさとか、さりげない怒りとか、
うっとうしい親切とか。なんかそんな感じなもの。
僕は一方では満足できないらしい。
どちらも必要だ。そこはバランスだ、とは思うが。


また、僕は嫌なことというのを、絶対覚えておこうと思っている。
つまり、僕がある種小説に、いや事実としてある話で、
「虐待」とか「不幸な事故を起こした」とか、そういうところで、
環境が厳しい、(これは風当たりが厳しいとか、経済的に厳しいとかも含む)ならば、それを忘れることはないだろう。
実際に僕はそんな「厳しい環境」では育ってないことは明記しておく。

むしろ、外での接触である全ての「嫌なアーカイブ」があって、
それを全部覚えてる。忘れていることはあるが、全て思いだせるんだろう。きっと。
それが、僕の好きであり、やさしさの原点になるだろう。
なんであの人はそんなに嫌な人だったんだろうと。
なんであんな言葉を吐くのだろうと。
脳みそが足りないというか、人間的に全然ダメだとか、
話にならない、味噌汁で、しかも赤味噌オンリーでよろしく、顔を洗う必要があるとか、
価値観の対立とか、かっこつけんじゃねえ、そもそも、価値すら提示できてないではないかねとか、
なんて人は愚かなんだろう。自分が正しいと思っている、
(これは説明を加えると、自分が正しいを思っていることを自分でやるのはいいが、それを他人に言い出すと話はおかしくなる。ちなみに、教育とは
そのようなおかしさの連鎖というと、多分教育者は怒る(笑)
洗脳というのも同じことがいえそうだ。
で、僕が言いたいのは、馬鹿宗教は同じことを絶対言っているということ。
で、誤解ないようにいえば、教育は必要ですからね)とか。

そのたびに僕は、うわーこんな人になりたくない、
こんなやつになったら「終わり」だなとか、
そう思ったもので、それが核としてあるようだ。

もちろん、これらは「ただ嫌な記憶」を覚えているだけではなく、
自分にプラスにするために、消化し終えたから言えるし、核となっていることは付加しておこう。
ただ嫌な記憶を持っているのでは、単に忘れられないトラウマであるとか、
ひどいと病気になるし、そういうものではない。


懐かしい、感情で一杯になる。
同時に、また僕の現在位置もここにこうやって記しておこうと思う。


つれづれ

風呂場の電球が切れた。
ふむ・・・。

雨が降ってきた。夕立だ。予定をやめることにする。
まあこういうこともある。

他人のことはどうでもいいから、
自分の満足度みたいなものは追及していって、
そこでなんていうか、後悔したくないと思っている。

そういう意味で、共同作業というのが大の苦手だといっていい。
といって、個人でモクモクとやるのが好きかといったらそうでもない。

ああ、なんだか気分は日本人なり。

ザ・ビーチ

ディカプリオ主演。

楽園と呼ばれるビーチを旅行者であるリチャードが
探し、見つけるが・・・。

なんていうか、 旅自体がそういうものかと。
前半で、リチャードが「何千キロも旅してるのに、
快適な泊まるところを求めてしまう」
みたいなこと、多分正確には違う、を言っている。


変わった人というのは、ユニークである可能性は高いが、
変わったというのにも色々な意味があるので注意が必要だ。
そんなことを思い出したりする。

泳いで帰れ

泳いで帰れ!

アテネオリンピックのエッセイといえばいいのか、
小説ではなかった。あまり中身見ずに借りたんだけど、
女子マラソンのシーンではなぜか泣いてしまった。

奥田ワールドもっと読むとするべ。

泳いで帰れ泳いで帰れ
奥田 英朗

光文社 2004-11-18
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右向け左。

振り返ればタスクがたまってましたとさ。

友人に突っつかれたーわけじゃないですが、
システムとか仕組みとかそういうのって、
組織学とか、組織行動、集団行動とか個人的にスキなんですけど、
そういうのに興味あった自分としては、最近意識してないなあーと。

というか、チームという単位が何人までかは分からんですが、
話す場としても、10人いると車座になってもまとまらんというか、
分かりづらいなあって。それって人間の視覚、聴覚、話を覚える、
話をする、そういうのの限界かなーとか思ったりするわけで、
まあ、別にだからどうというのがないのかな。

メインストリームってのがあるなら、
そこはいきたくないなあ。面白さが減る。

誰もやってないようなところ(誰かはやっているかもしれない)が
なかなかうまいところですな。

あと、1つ。

おかしくもないけれど、
小説を読んでいると、その想像をすることで、
昔のシーンとか、似たシーンがでてきて、
それによって、原型を思い出すことがある。

これって別にノスタルジー(笑)に浸るわけではないが、
非常に面白い。

ああ、あの人はあの時こんなことをいいたかったんだろうけど、
滅茶苦茶下手だったなとか(笑)、
自分はこういうことをやってたなあ、だから今があるのかもしれないけど、
まあそんなのはどこまであたっているかわからんなーとか、
ああ、こういう人いるなあ、うまいなあ作者のかきっぷりは、とか。

とにかく、読書の時間とは、
本を読む時間ではなく、
考える時間といったほうがいい。
読書が趣味とは、考えるのが趣味といったほうが非常に分かりやすい。
というほど、哲学をするってものでもないことをいっておくとしよう。

垂直に時間をとる。自分の時間を作る。コミュニケーションをしていく。

そういうことを、本を読む作業には含まれているから、
むしろそっちを見たほうがいいというか。読書って趣味にはね。

趣味が読書っていうだけで、どういう本を読んでいるかっていうことを
聞きたくなるし、共通するものが多ければ速攻気になった本をあげてもらって、
それを読んで、共有したくなるというか。そんなのはある。
というほど、自分は専ら乱読をメインにやっていくのが今のスタイル(笑)

人生を豊かに送れるかって、
結局、人、ここではとくに他人のこと、になるけど、
それをどこまで思えるかって、単純なことのような気がする。
自分のことを考えない人ってなんかいわれることはあるけど、
自分のことって考えない人はあまりいないから、スルーできる。

そうじゃなくて、自分の利益のことばかり、ここではとくに金、
あとは名声みたいなもの、人気っていったほうがいいか、
ばかりみていては、なんか狭くて面白くないと。

広げるものがあれば、深めるものもある。
広げるだけでは、薄いコーンスープみたいなものになるし、
深めてばっかりだと、近づきづらいものになる。

バランスをあえてここではいわないけど、
自分なりにこういうのでいいかなーみたいなのが必要で、
例えば、自分は自分のことばっか考えていればいいんだよって
いって、自己利益を主張する人っていない気が。
単に分からないだけなんじゃないかと感じる。

誰か言ってあげなよ。
でも、誰も言わない。

別にそういうことはよくあるような話で、
これは人に冷たいとか、そんなレベルじゃない。
根本的に、「共感」を得られなかっただけの話。

コミュニケーションとはもっともっと別の次元。
コミュニケートする前提というか、前段階があるならば、
その前段階テストで不合格だったわけ。
これって言葉にするほど、全然大したことじゃない。

むしろ、ひどいのは、そういうのを意識せずに、
利益を主張し、自分のことのみ生きる人かなとか、
冷静に考えなくても思ったりする。

あれだ

カタリベ。

友人が熱かった。
この人やっぱ熱いわと、表現は正確ではないが、
自分の直観にえらく感服する(あほ
まあ、それはどうあがいても(あがく必要がないけど)ジコマンですが。
いえーい。


それはそうと、またいくつかプロジェクトというか、
挑戦ができそうだ。

ある挑戦というか、実験を稼動させつつ、
ポートフォリオ的に、別のものものっけていく。
相乗効果を見込んでいけば、または実践すれば、
「一人メディアミックス」とかもできるというのは、
まったく友人の指摘どおり。さすが。

どうでもいいけど、出会いというのは貴重だなあと。

多分正解なんだろうけど、
フジマキ氏がいってるように、「これは!」という人には
アプローチして、結局なんか訴えていくっていう必要性があるってのは
すごく分かるような気がする。

最近、「見た目」そうでもないけど、
新しいことをやっていくという経験値が少しずつ高まってきて、
前どおりのそれでは足りないことに気づいた。

要は、レベルアップして経験値が今までのペースだと、
レベルアップまでの道のりが長いわけで、
経験値高いモンスターを狩っていかないとダメなわけ。

経験値高いモンスターとは、結局、自分の力とか、
自分の周りの人、熱き仲間というところの力で、
質の高い実験っていうのもおかしいけど、そういう面白さの可能性が
結構高いものかなと。

あとモンスターの数という意味では、実験の数にそのままなるかも。

そういうところで、今まで2,3打てば良かった挑戦も、
2,3じゃ足りなくなっている。それはイベントならそれが終われば
終わるというか、イベント自体は終わるわけで、
そうじゃなくて、何か残るもの、そこで関わった人が得るものとか、
そういうものが大事かもしれないけど、残らないから大事というのも
あるような気がしてくる。
だから、そこらへんはいいとしても、
数を打つか、質を高いものをガツンとやるかは、
結局「手を動かしながら」やるわけで、なんていうか「見た目」全然
変わらないけど、それはどういうことかというと、
実験しつつ、実験を高め、実験の数をさらに増やすみたいなことにしか
ならないということか。

ただ、一人で全部やるわけでもないので、
どんどんできそうだ。
いけるんじゃないか。面白いんじゃないかという感触こそ、
大事にしたいもんだ。

背負っているものが違う

そう。自分を大きく過信し、過大に見積もって、万能の神!とする。
なんてことはないが、大いなる自信は必須かなと感じる。
例えば「これもしかして滅茶苦茶面白いんじゃないかだろうか」と思い、
「こんな面白いことをやらないなら死んでもいい」とか
「なんでこんなことをやらないんだ。世の中の人間は馬鹿である」とか
そう思うのは悪くない。というか好きだ。

背負っているものが違うんじゃないか。
別に僕はすごく不幸な境遇で、環境で生まれてきたわけではないだろうと
思っているし、むしろ「恵まれている」という誤読(笑)さえ与えてしまったり、誤解されたりすることもあるけど、
そう誤読されると2つ常に思う。

「そんなに俺恵まれてるか?」という自身への問いと
「あんた恵まれるとかどうでもいいから、動いてるのかよ?」という相手への問い。

自身への問いは全くスバラシキ問いだ。振り返るのだ。
相手への問いは、相手が麻痺するか、思考停止への刺激になるか、
いくらか悪態っぽいが、まあとにかく、一瞬一瞬や
その一瞬の連続の人生について例えば黒人と白人、我ら黄色人という
人種、といより肌の色の違いについて考えて、自分が黒人なら、
白人を羨ましいと思うかどうか。

そういうことを「恵まれている」といってしまうか「羨ましい」といって
自分の状況をどうかいうか。

くらいの重さがあると思うのだが、どうだろう。
ちなみに、誤読するとは「断定」しすぎだが、まあそういう台詞は事実。
そして、そういうことをいう人は、うまくいっていないという
状況があるからそういう。

冷静に考えてみたまへ。
自分がうまくいっているなら、人に何かいう必要はない。
何かとは、比較して何かということだ。
建設的な比較というのは、より高めるものであって、今回のそれは、
高めるとは思えない。

背負っているものが違う。

おそらく、見るべきゴールとか、向かう先が全然違うんだろう。
そういう時に、ぐっとどこまで足をとどめて踏ん張れるかみたいな、
そういうのが全然違ってくるのだと。
それをどこまで「肌」で分かるかは、その人と付き合ってみないと
全く分からない。その上でものをいってもナンセンスだが、
といって、自分の関われる最大の範囲、最大公約数みたいなところで
相手を理解するしかない。
それが「恵まれている」だったんだと、そういう風にいつも考える。
全くその通りなんだろう。その人にとっての真実だったんだろう。

でも、背負っているものが、自分より大きいとか、違うとか
そういう考えはなかったのだろうか。
おそらくなかったのだろう。


この背負っているものというのは、満足感にも影響する。
ちょっとしたことでは満足しないのだ。
それで誰かある人は満足していても、満足できないのだ。
満足の閾値が高いといったほうがいい。
が、といって、満足しないと結局次へのステップはないだろう。
というか、しかめっつらをして別に遊ぶわけじゃないのだ。

ゴールへの閾値は高く、しかし、現状のコネタに対する閾値は低く。
これが僕の考えたというか、たどり着いた一つの結論だ。

閾値が高いとは、反応しづらいことをいい、低いとは反応しやすい
ことをいう。
一見すると、閾値が低い方が敏感で高いゴールへも閾値は低くして、
どんどん喜んでいけばいいと思ってしまうかもしれない。
しかし、おそらくそれで満足できるなら、それ自体「高いゴール」とか
大きなゴールではないといえる。つまり、コネタになるだけだ。
ただそれだけだ。

思考として、
大陸全土を発見!した人類が世界を「人類>世界」と考えて
うひゃひゃっていうから、終わりなわけです。
「人類<世界」というのが常にあって、
なんでかというと、人には全部を理解する、世界の理解ですよ、
ができんわけです。日本国内でも無理っす。
だから「現場」にはそこにしかない情報がある。
カメラでとってネットで流しても、分からんのですよ。全ては。

そういう不完全理解みたいなものがあると。
それは必ず人と世界にもいえて、ここでいう世界とは自分以外の全てのことでして、じゃあ、なんで人>世界みたいな構図にしちゃうかというと、
お馬鹿な人のおばかなつけあがりだと。

まあそんな考えで、戦争などおっぱじめられたらたまらんのですけど、
馬鹿と天才はほとんど同一なので、
なんていうか評価の得られた人は天才で、得られない人は馬鹿のような。
そんな気すらします。

という意味で、別に深い意味はなく、例えば優勢思想とかがないということ、
馬鹿というリソースを投下し、そして馬鹿を道化としても演じながらも、
確実に結果をだし、認めてもらって、天才の称号を得る。

これが天才の作り方、なり方だと思われます。
多分「なんでもできちゃう型」の天才は、評価を得ようとはしないから、
天才にはならないのでしょう。隣にいたとしても(笑)

というわけで、背負い投げ!

せい!せい!せい!せや!

ぐは

腹いたい。。
たっけてママン。

あつ。

日が落ちてからも暑いな。
暑い暑い暑い暑い暑い暑い暑い。

まあ夏バテとかありえんので、
要は、食欲がないとかなくて、むしろ腹減った、なんかくれというポーズ。

寝苦しい。

銀のエンゼルげっとー。
溜めちゃうかな。

あ、ためといえば、
お金じゃないけど、一旦何か溜めて処理して
返すみたいな動きは意外に重要かなと。

そういうことをある文章で読んだ。
まあ労働問題というか、そういうお話でなんですけどね。

状況が。

どうなんだろう。
変わらない何かがずっとそこにあるというよりも、
めまぐるしいわけじゃないけど、変わった方が面白いというか。
そんな直観が常にある。その直観を活性化しとかないと、僕腐っちゃうよ。
みたいな感じか。

どちらかといえば、色々なことをやりたいと思っていて、
色々なことというのは、なんていうんだろう、
ある素材があったら、それは色々なやり方で楽しめるみたいな。

同じ人でも別の角度から見たいというか。
そういう感じがある。

同じ角度で見るのは、本当の対象物でしかない。
他は全て別角度から見たいものだ。

フルメタル・ジャケット

友人が確かポスターとか持ってたような。

ベトナム戦争の話。

海兵隊の訓練が前半、後半が戦場。

人はなぜ戦争をするのか、とかではなく、
台詞のほとんどがファッキンなスラングのカタマリ。
というわけで、「そういう訓練の仕方」という意味で、
やはりある種の洗脳ではなく、洗脳直球みたいな感じといっていいだろう。

女性にはオススメしない。マジで。

主役はおそらく、最後にベトナム兵を撃つ彼だが、
彼は戦場では報道、カメラマンと一緒に動いてた。

人が人を殺してえられることなぞ何もなし。

Skype会議

フィードバックの大切さ。
それで今回、初の試みであったSkype会議は終了した。

Skype会議とは、有効利用しづらいと思いがち、少なくとも
僕は想っている、時間帯に「満足感」を高めていこうという
実験の1つといったものだ。

満足感とは?実験とは?

それは少しおいておいて、この会議、別に「会議」とついているが、
話し合うということを「会議」というだけで、
まだ明確な目的、明確なゴールが定まっているわけではない。

集まったメンバーは、以前の絵本作り合宿となったLEPIP合宿の面子。

フィードバックという大切さとは、
それは結構時間がかかるし、意識という意味ではほとんど「無意識」レベルで
自分の糧になっているから、一見単発のイベント(ここではLEPIP合宿のこと)が力になったかどうか、
そういうものは分かりづらい。

しかし、参加メンバーのマスカゼさんによれば、それは大きなとは
言ってないかもしれないが、肌感覚として「短期間」でつくりあげると
いうものがあるというところで、活きているということを
フィードバックしてもらった。グレイト!


僕自身としては、自身の課題もそうだが、
この熱(結局、3時間しゃべり続けだった)をどうにかもっともっと
色々な人にぶつけたいし、また熱そのものを感じてない人に
ぶつけていきたい、ぶつけて欲しいとおもった。

例えば、なんで「Skype」で「3時間」も「話し続けて」、それを
「面白い」と思えるのか?
という根本的な問いをしてきてしまうと、お手上げだが、
ちょっとでも何か「面白さ」「魅力」を感じたなら、
そこに突っ込んだほうがいいと思っている。

それだからこそ、今回の会議も実現可能だった。

次回は、「休日」の朝で、来月にやる予定。

客観的に見ると、非常に低コストで、学びが得られる仕組みだと認識。
低コストとは、時間やお金がかからないという意味。
Skypeはご存知ではない人に説明すると、インターネット経由で
電話ができるというソフト。よって、通話料は一切かからない。
音質もかなりクリアなので、ヘッドセットで耳が痛くなるとか、
そういうことを我慢すればかなり快適だ。
時間も、メンバーが実際に集まることを考えるとかなり高コストになるので、
もちろん実際に会うのはそれで価値はあるが、
低コストなのに価値があるというのが注目すべきところ。

学びとは、発見・刺激であり、他の人の意見を聞くというところでもある。
そもそも、形をとりあえず作っていく的な発想は参加者のぱいんさんの
考え方がベースというか、考え方に基づいている。
このSkype会議もそういう流れの一部だ。もちろん、LEPIP合宿も同じく。

また学びには、考え方の共有といったものもあり、非常に深い。

普段、会社や学校で、深い議論、もしくは話し合い、もっといえば、
ざっくばらんな言い合いというのが出来るかどうか。
それは環境にもよるが、何人か(これは本当に何人かだと思うが)の
環境作り役が必ずいることによると思う。
それは、実際には、話せる場を創るとか、もっとこうしたいんだという
想いがある人、熱がある人がいるからこそ、出来ているのだと、
おそらくそういうことなんじゃないかと感じる。
熱さなきところに、生まれるものはなし、である。

実験とは、結局試行錯誤でしかない。結果として、形になって
継続していくものが出来ていくだろうというものでしかない。

満足感という意味で、ほぼ狙い通り、満足感のある平日夜を向かえ、
床につくことができた。妙にテンションが上がってきているし、
何よりも、そういう仲間がいることにまず感謝したい。

そして今後も圧倒的な熱さでさらに実験をしていこうとそう感じた。


他の参加者のSkype会議フィードバック
マスカゼさん
Skype会議@LEPIPメンバー | マスカゼパッション

ぱいんさん
skype会議とかいうもの|実験とプロトタイプ

アカネイロさん
スカイプ会議 - アカネの毎日

熱く熱く

最近、FUCK!FUCK!ばっかいってるから、
頭をやられたんじゃないかと思ったそこのあなた!
そりゃ一理正しいですが、一理でしかありやせん。

まあ、やっとこさ、でもないですが、
実験モードにはいってきやした。

まず、1つやってみる。どんどん次もやってみる。
そんな流れです。

今日はとりあえず、寝ます。
ねみいいい!

くそったれのための歌

時間にFUCK!
金にFUCK!
インターネットにFUCK!
小説家にFUCK!
サラリーマンにFUCK!
ホームレスにFUCK!
政治家にFUCK!
専門家にFUCK!

まだまだFUCK!は続くぜ、YO!

土の中を歩け!かな。

くそったれ!

アートスクールコンフィデンシャル

美術学校を巡るミステリー・・・かな。多分。

この映画で1つかかれているのは、
有名な画家になってもうかるのは、FUCK!な野郎ってことという
話。なんかFUCK!なことばっかで、FUCK!だぜ(笑)

全ての芸術家にFUCK!

戦争学

うーん、話としては、歴史のあるというか、
いわゆる世界史の教科書に出てくる戦争などが事例として
出てきて、とくに兵器、部隊構成、などが説明されて、
それが戦後くらいまで説明される。
だけという印象。

著者の狙いがそれならいいけど、
著者のはじめに書いてある、戦争を知って平和を知るみたいな
ニュアンスの文章にちょっと期待したが、
それは読者が勝手に考えろってことになって、
結局、戦史の紹介でしかないと感じる。
まあ、そこから読み取って学べというのだろうけど。

日本の自衛隊についても、少し各章の終わりに書かれるが、
別にそれがどうしたということになる。

さて、最後の相棒が言っていた言葉を思い出す。
「民衆が賢いと国は成立しない」
みたいなことだ。日本は賢いのか、馬鹿なのか。
そんなことを感じる。

例えば、このブログって仕組み。
インターネットもそうかな。

一致団結せよとかそういう話でもないし、
兵役なんて作って欲しいわけない。

戦争を止められないのが人間だから、性悪説っぽいな、
だから、備えるというのは何か最もらしいが、
別の見方をすれば、そうすることがメタ的に悪循環ともいえる。

軍隊を育成しないことは、ある種理想でいいが、
万一攻められる場合は、あと外交的な一つの武器としても
武力は必須というシーンではダメだ。

これら2点を考えた上で、やっぱり
戦争をおっぱじめたい人、したい人だけ、ある特定のエリアに
集まってそこでやってくれという、
なんかハンターハンターでもないけど、そんな話はないな、
そう考える。
おそらくこの考えを技術的に可能であれば、「戦争」はなくなる。

軟弱な、西洋かぶれした日本男児として生きたいものだ。

戦争にFUCK!


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マドンナ

やっぱ奥田さんはええのう。面白いわ。

40代の男、それも会社員で、役職ついた話5連発かな。

生臭坊主の住職の話が印象的。
坊主にFUCK!

ああ、奥田ワールド最高だ・・・。

マドンナマドンナ
奥田 英朗

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