ReadMasterの軌跡

面白いことを仕掛ける。仕事を作る。ビジネスを作る。そんな日々から出てくるアウトプット蓄積場。

2007年07月

思え、叶え、届け

思わないのではなく、思え。
かなえないのではなく、叶え。
届けないのではなく、届け。

全部命令形にしてしまいたい衝動に狩られる。

?できるかどうかではなく、?するかどうかという
言い回しは好きだが、
そもそも根本的にだ、
?するかどうかってのは、できるかどうかに依拠しているところもある。

要は、1歩先に踏み込むときに、1歩先がどうなっているか。
川だったら「踏み込むことができない」ので、踏み込まない。
そんなことのような気がする。

そう。つまり、?できないも、?しないも、
結局、1歩先が川だったら、濡れるし、もしかしたら、おぼれて死ぬから
一歩踏み込まないだけという単純明快。

じゃあ、あんたはそんな冒険忍者みたいに生きてるのかね?
といわれたら、まさか!
だから、先人の知恵が本につまってたり、
人の話をきいたり、新聞みたり(新聞には周知させるという効果もあるのだよ、明智君!)して学ぶのよ。

で、そうやっていうと、
川に落ちないためというのは、単なる予防学(なんだこりゃ!)で
面白くないんじゃ?っていうだろう。
ばかやろー、んな屁理屈いってんだったら、
働け(笑)

働くってホントいろいろ価値観があって、
滅茶苦茶勉強になりますよね。

DAYS

なぜ観るのか。そこに写真があるからさ。

フォト・ジャーナリズムというものが
何を指し示すかは説明する必要がない。
なぜなら、それは観れば分かるからだ。見ればいい。

写真というものの威力の前に、
言語が弱いと感じることもある。1枚の写真というのは、
恐ろしく強力だからだ。
が、言葉大好きちゃんだぜ、おういえ。

言語というのは、イメージから生まれたというのは、
ある程度納得、というかそうだろうと思い込んでいる。

が、イメージの源はなんだというと、
結構困ったちゃんだ。

というわけで、(どういうわけだ!)
写真は見たほうが多分、人生面白くなると思うという、
いわゆる若僧のより若僧に対する戯言なり。

疾走、マグマ、ぼんばーいええ。

猪木か。

日本人が一番腹が立つというのは、
自分にとっての腹が立つということでしかないのだが、
言っているのにやらないみたいなところと、
言わなくてもやるんかーみたいなところを
結構ごっちゃにしているところでせふか。

アメリカーの食品ですかには、毒々しいほど色々書かれていて、
(タバコの注記って毒々しくなりましたよねー。
まあ、あれでもタバコ吸う人はどうでもいいんでしょうが!)
あういう系の話です。

ならば、電車で、なんか同じことを毎度毎度述べてて、
さすがに「電車」に乗るのが初めてとか、そういう人は、
圧倒的に少ないから、アナウンスはうっとうしいことが
多いわけです。

言っている、やっている、裁判みたいですけど、
そういうの考えていくと、日本でも「言っている」なあって
思います。以心伝心ってのは大分薄れたような。

以心伝心が薄れるとやっぱどれだけ言えるのかかなーみたいな。
といっても、以心伝心が役に立たないわけでもない。
というか、なんで以心伝心の話になってんねん!

自家発電という観点で、エネルギー量を見る人間は、
知っている人間では1人しかいない。
さらに、そのエネルギー量のリリースや、それで「仕事量」から、
自分の「キャパシティー」を考える人間は、
おそらく、今この瞬間、僕しかいないだろう。

疾走とは、そのエネルギーを8割くらい使っているかになる。
ちなみに、能力を上げるには、「力」以下のことを
やっていても上がらないのは、真実だと思われます。

インプット→自家発電→アウトプット→エネルギー放出

の繰り返しっぽい。若干前後、もしくはフットバスこともあるけど、
誤解を招くといけないが、
頑張らない、無理しないというのが大原則だったりするんだけど、
どうも、疾走とかマグマとかいうと、「忙しい」印象を与えるようだ。

ふふふ。暇人といっても、エネルギー余ってるので、
結局、本当の暇人(笑)と一緒かも。そういう意味で
僕は嘘はいってない。いってないんだあああ。


どこに体をあずけようか

歩きは反射だ。
ならば、思考も反射でなければならない。
理由は?
歩くのと同じように、人は考える生き物ではなく、
考えたい生き物だからだ。
面倒くさい、腐ったプライド、何とでもいえるからこそ、
何とでもいおう。

ああ、僕が面白いな、あんたという人を
どれだけ好きかは、全くこれらの考えない人には
関係がないんだ!

僕は体を面白いものに預けたい。
断られるかもしれないが、笑いの神は今ここに宿らん。

吹っ飛ばせ!

類は友を呼ぶ。

その法則性に気づいた僕は、
ある日突然でもないけれど、愚痴っぽいことや、
あまり建設的ではない言葉は吐くことが激減した。
まあ、もともとそういうことは言わない部類だと思うけど。

あと、波に乗っている人というか、
調子がいい人(性格がじゃないよ)と付き合っていったほうが
いいということは、ルイトモの法則からもいえる。
例えば、自分の殻に閉じこもっている人ばかりと
友達になったりすると自分も閉じこもりからは抜け出せない。
逆に、閉じこもりを破ろうかなーって人と
付き合いだすと自分もそれに釣られて突破できる。

自家発電ではない、他家発電について前書いたけど、
やはりエネルギーは自分で量産して消費するものではあるけど、
でもそれはモッタイナイわけで、
過剰なもの、余ったら、他者にも持っていく。
いや、余ったらというか、そもそも最初に割り当てておくのがかっこいい。
次に、他家発電は相手からいえば自家発電だけど、
そのエネルギーが足りないなーとおもったら、こちらから
補充すればいい。相手が過剰だったら、乗っけてもらう感じで、
こちらに取り込んでしまえばいい。

毎日を、自分を、笑い飛ばしてしまえ!
多分、てーしたことないですぜ。ほとんどのことがね!

低空飛行

学生は常に単位を低空ぎりぎりで取るのがかっこいい。
って話じゃ・・・ないです。

丸谷氏のエッセイ。

初めて読みましたが、読みやすいっすね。
話題は、「俳句」とか「文学者」とか色々出てきますが、
分からないことも普通に飛ばすわけですが、読めちゃいますねえ。

ちなみに「まるやさいいち」なので、マルタニではないですね。
最初読めなかったし。

最大の収穫は、
大岡昇平「レイテ戦記」の話があるところです。
同時に、さすが1925年生まれであって、戦前・・・です。
ダチのおすすめだけあって、そろそろ「レイテ」も読まねばいかんですな。
が、上中下ですか。くはああ!

今更ですが、戦前の人間との会話が圧倒的に少ないことに
危機感を僕は覚えてます。危機感っていうのは、
要は、その時代の空気は、人ではなく、本・写真・映像などでしか
知らないということがです。
なんかこれはイカンゾと思っているところです。

ですので、このエッセイにも色々戦争の話が出てくるわけで、
非常に興味深く読めましたねえ。

というわけで、がつがつ丸谷本も読んでいくことになりそうです。

低空飛行低空飛行
丸谷 才一

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学生に毛が生えたような

下ネタではない。

未熟とか、「お主はまだ若い」、「甘いのう、うひゃひゃ」という
意味合いを込めた言葉である。

メンター、もしくは話せる大人(妙に理解する大人は嫌われる!が)、
というのは、「それを見込んだもの」に魂を揺さぶられるからこそ、
魅力的だと認める。だから、「学生に毛が生えたようで」あろうがあろうまいが、関係ないのだ。合点!

年齢というフィルターは、おそらくアナタの目を腐らす。
といって、別に3歳のお子ちゃんに「人間は考える葦なんだぜ」というのは、
やはり馬鹿である(でもない?)。
また、80歳の紳士に「その箸の使い方違いますよ」というと、
多分殴られるだろう(笑)

また、立場もある。
会社や職場などの関係性が強いところで、上司に向かってタメ口を
聞いたらどうなるか。そういうことをたまに思うが、残念ながら
肝っ玉母さんではないので、できない。

それはいいとして、
結局、年齢、立場、あと性別もありますねー、
外的、かつ、数値的な定量的なものは、
すげー頼りになることもあるけれど(例えばヘビースモーカーは1日に何箱
空にする?)でも、それは数値化できるものが
今ある世の全てではないということに、敏感であって、
その上でいうべきだろう。
統計学者と呼ばれる人は、そうじゃないと、
ただの数字遊びにしかならないのだ。おそらくこれは最大の侮辱だろうから、
そういうことはいってはいけない(笑)

ちょっと関係なさそうだが、
分かっているのにやめられない「癖」とか、
分かっているのにやめられない「考え」とか、
分かっているのにやめられない「感情!」とか、
結構あると思う。
それって、止める必要があるかどうかで、
実は、それらは止める必要なんて全くなくて、
むしろ自分を形作る、身体!には必要不可欠なんじゃないのー?
って思ったりすることがある。

頑固だと自分が分かっていても、その頑固がなくなったら、
自分はなくなるって思っている人はいそう。
そういうメタ認知的なところは今回の話とは関係なさそうだが、
実は、マグマとかエネルギーの源泉とか、スタミナとか、
あと、忍耐!とかは、そういうところにあるんじゃないのかなとおもふのである(丸谷才一風に。

やはり、相手が何を言っても、好きなものは好きなんだし、
嫌いなものは嫌いなんだ。
それは、もう変わらないといったら、永遠の真理っぽくて
ダメなんだけど、その「感情」は絶対に大切にすべきだなあとつくづくおもふのですね。
まあ、その感情は結構変わるものだし、ちょっと嫌ひになったからといつて、
別にずつと嫌ひになり続ける、またはし続ける必要もないんですね。

なんていうか、水なんですね。ええ、水ですよ。そこの奥さん!
水商売の水じゃなくて、水のようにサラサラーと生きる。

そんなのがいいんではないでしょうかね。
というわけで、わけえもんは、一緒にイロイロやろうぜい。

明日の心配をするなら

今を生きろ!

はだしのゲンが妙に読みたくなっているそんなRMです。

さて、マシンガントークのスキルを学ぼうと
日々鍛錬をしている日々ですが(大嘘
言葉にして書くのとそれを話すのとでは大分違いますね。

個人的に、話が面白い人だったら、
別に書かなくてもいいぜ、って感じはしたりします。
別にその人が「書く」のを止めるという過激な思いはないですが。

例えば、横断歩道をみて、シマウマぜぶらだぜ、YO!
といって、ラップ(ではないが)を口ずさめる人で
あればいいと思うわけです。

人が歩く靴音やヒール音。階段で響く音。人の声。
工事の音。車のエンジン音。風の音。
それらが、メロディーになるようにすると
滅茶苦茶楽しいと思うわけです。それは、めるへんちゃんな世界とか
そういうのではなくて、現実に可能。
可能ってのがポイントでございやすぜ、そこのせんべい食べている旦那。

ビールばっかり飲んでいると、酒やけして顔が真っ赤になって、
お嫁さんにも嫌われちゃうよ。おきをつけなすって。

それはおいておいて、
シマウマゼブラ理論(理論化)で生きると、
日常というループ(これは否定観ではないのよ)は、
新しいループの連続ループになるように思えます。

ところで、当たり前のことですが、
本を読む人は、世界を読む人ですが、メタ認知して楽しむところが
あるのを、そこを「お前はメタ認知しているだろう」といわれて、
そのメタ認知について言われると結構ネスト(入れ子のこと)になります。

要は、馬鹿っていうやつは馬鹿。
馬鹿っていうやつは馬鹿っていうやつは馬鹿。
エンドレス。
これの話ですね。

メタ認知しているってことをメタ認知しているってことメタ認知している。
そんな話で、2日くらい持ちそうです。
まあ、人前で話したら、クソつまらん話になりそうですが!

明日の心配をするなら、
シマウマゼブラ理論で、今を楽しみましょう。
明日やれることは今日やらない理論は、
ある種「かっこいい」ですが、感覚的に、
じゃあ、もし、明日、死んだら・・・ってことになると、
最高に弱いです。
まあ、その弱いのがいいっていう人もいますから、
世の中イロイロです。

とりあえず、明日の心配をするなら、誰かにメールでも
打って、相手に迷惑をかけてみませふ(笑)

それもいいんじゃない?

なんていわれてしまうと、
ああ、そうかもしれんと思ってしまうま。

そうじゃないんだと思うと、
そうじゃないんだと思ってしまうま。

1つの世界がここにある。
そして世界は僕を招いてくれるのか、
導いてくれるのかは分からない。

偏りを愛してしまうと、
それはそれでいいんかいなー的なものがでてくる。
ぐう。深いな・・このやろう。

とにかく、何にせよ。何にせよだ!
映画は面白い(えー

友よ

諸君!じゃないぜ。

友へ。

あんたにとって それは結構な
いや 重大な決心だったと そう思う
誰もがそう 言うかは分からないが
きっと そうなのだと思う 重大で重要なもの

僕は直接も言うが あえてここでも 言っておこう
きっと君は 気づいたんだと 思う
気づいたというと 何か 僕が知っていたかのような
そんな フレーズだけど そうじゃないんだ

一人一人が 気づくというのは すごく時間がかかるんだ
なんでかっていうと、 皆 同じ 地球 いや 日本 いや
地域で生きて 働いているのに 皆 違うからなんだよね

気づいて そこで ああ そうじゃなかったかもしれないとか
こういうふうにしたいけど 今のままじゃ無理だって
そうやって 気づいたら もう多分 先が見えたんじゃないかって
それは 将来が分かったとか そういうものじゃなくて
もう 本当に 後ろを振り返る必要性とか
誰かが あいつなんかやってるぜ みたいな意味のない陰口みたいな
それら 無視 できてしまう
そんな力なのかな
そう 僕は思うよ

確実に 面白くしたいと 僕は思うから
確実に 本当に慎重に 物事を進めているという自信が
あったりする 馬鹿といっている点は ほとんど 確定済みの
つまり もう自分で絵が描けたものしかやってないんだね
そういう意味で 新鮮さとか 面白さを パフォームするみたいな
そういうことはできてないんだ そういうベクトルも欲しいんだよ
なんでかっていうとさ 世の中 多分 これはヤマカンというか
当たっている気がするんだけど
遅刻している人に 遅刻するなって言えてないっていう
村上龍の アナウンスの話じゃないけど それがあるんだと
やっぱ思うんだよ

だから 格差って 富める人は富むみたいなこと で
たまに ひがむ人いるけど もともと 類は友を呼ぶんだよ
そこらへんがあるから 勝ち負け とかで済ますんだろうさ
そんな単純なことでも そもそも話は別次元かなってね

やりたいことはいくらでもあって
たぶん そういうやりたいことって 一生で全部
できないような 気もする
だから 君という存在 いや君らしくだけど
そういう人は大切だと 思うわけさ

がっつり組んで がっつりいこうぜ
これから 滅茶苦茶面白くなるぜ

フリーという生き方

労働形態とか、なんか1つに絞ると
今後はダメだろうなーみたいなのが、じわじわ感じている。

フリーランスという働き方もその労働形態の1つだが、
本書では非常に不安定な感じを、著者の失敗も隠さず書いてあり
非常に好感がもててしまう。

自分で切り拓くみたいなメッセージは感じるが、
それは別にフリーランスじゃないとできないわけじゃないのは
注意すべきところだ。
もちろん、これは「正解」じゃない。答えでもない。

要は、自分のスタイルに合うものを選ぶ、それがよろしい。

人は失敗に「気づく」まで失敗だと思わない。
傾向として、フリーランスの方がサバイバル感があり、
生きている感じはする。
が、それって、そもそも圧倒的にサラリーマンより
数が少ないだけなような気もしてくる。

要は、フリーランスというのは労働形態というよりも、
ライフスタイルみたいな気がする。会社員はライフスタイルって
感じはしない。
なぜなら、ライフスタイル重視な会社員は、
「出世をあきらめた」みたいな風に取る馬鹿がいるからだ(笑)
もちろん、そうじゃないと考える人もいるだろうが、
ここらへんは、微妙だ。

例えば、フリーランスではなく、起業といってもいい。
起業には夢があり、サラリーマンには夢がないというのは、
ある種の耳蛸でしかなく、あまり意味がない。
サラリーマンでも楽しい人間がゴマンといるのだが、
そこらへんに気づかず「就職」と「フリーランス」というのを
比較するのは結構危険だ。

僕としてはまず、フリーランスってこういうものかーって
前提じゃないけど、肌感覚をこういた読みやすい本から
得て欲しいのだと、若僧として思うのでR。

フリーという生き方フリーという生き方
岸川 真

岩波書店 2007-06
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想定集中力

例えば、すげー集中してこれやるぞーみたいなことをしたいと
思ったとする。

しかし、そう思った時はそれは未来だ。
で、実際に当日になる、もしくはその未来、もしくは想定していた
瞬間になって、「すげー集中してそれやる」ことができるかというと
残念ながらできない。

ある種、好きだった人に「胸のうち」を明かさないでいて、
それで流れていく試合みたいな(笑)
そんな話かもしれない。

やるぞーっていった瞬間にもうそれをある種の形にした方が、
多分、楽なような気がする。
実際にやるぞといって伸ばしていると、結局すごくやりづらい。
これを最近気に入っている言葉でいえば
「イニシャルのオーバーヘッド」という(笑)
なんか、カタカナって感じするでしょう。

つまり、不慣れなことを最初やるときってどうしても、
いきなりうまくいかないから、なれるのに時間かかるよねー。
それを「イニシャルのオーバーヘッド」というわけです。
別に「生まれて初めてサッカーでオーバーヘッド」やるわけじゃないっすよ(笑)

想定集中力とは、意味がないことになる。
想定しても意味がない。集中力とはそこでやらなきゃいけない。
これはすごいーことですよ。
「やれ」といわれるかどうかはともかく、
自分で「やれ」って命令するから、結局「命令」なんでしょうけど、
そこでやるわけですから。

やれっていって、やれる人間ってなんかサイボーグみたいですけど、
でもそういうのって必要ですね。
あ、会社にそむけないから、偽装とか、悪いことするのは
やっぱだめですよ。きっと多くの人がもっと危険になりますし、
あと会社は多分そこまで「昔のように」保護してくれないような。
時代が変わったんです。受け入れましょう(笑)

集中すると、おなか減ります。
で、頭使ったから、チョコレートがおすすめです。

というわけで、世の中の頭使った疲れた!集中すっぞ!って
人にはチョコレートがおすすめです。
食べやすいサイズにわけてあるのが個人的に好きですね。

オチがないって?
オチなんていらねーぜ。不良だからよ!

不良のための読書術

ざくっというと、永江氏の本コラムみたいなのを
まとめた感じかな。ちょっと読んだものもあったりするので。

印象に残ったものをいくつか。

p.40に書店フェアとして、「シュールレアリスム・ブックフェア」とあって、
まあシュルレアリスムに反応しただけですけど、
最近どうなのかしらんですが、フェアってあんま見ないですね。
夏の100冊は必ず見ますけど・・・。

p.119に名古屋の本屋はヘンだ、ということで、
いくつか書店が紹介されてます。
お・・・行ったことないので、早速チェックしに足を運ぶ予定です。
にしても、本屋ってその違いなんて、「本好き」じゃないと、
未知の領域で、おそらくマニアックにうつるんでしょう。
あそこはあれに強いとか、品数多いとか、店員が最高とか、
そういうのとか・・。まあ、どうでもいいっすね。

p.157に図書館は本屋の敵なんて嘘だーってのがあります。
確かに相乗効果があるというところで、なるほどーっておもいます。
あと、図書館があるから本が売れないのではなく、
図書館があるから本を読む人がふえて、それで本好きが増えて、
書店で本を買う人が増えるんだってあります。
まあ、一概にそうなるとは思えませんが、
確かに図書館があるかないか、自分の住んでいるところにですよ、
全然違うなあと思います。家庭の本環境もありそうですが。
ちなみに、僕は本に囲まれて育ったわけじゃないんで、あしからず。

p.191には、読書日記についてかかれてます。
読書日記とは、読書した本をメモることを言います。
で、この読書日記は結局冊数を誇るためになるから、だめだ!とか
永江氏は不良っぽくいうわけですが、
その後に、結局、自分が二度買ってしまう本というところで、
何を買ったかくらいはメモっておくべきという話がでてきます(笑)
で、「めざせ1万冊」なんてHPを創ってると、
本そんなに読むんですかー的な話もたまにでますけど、
不良っぽさをそのまま言えば「なんか一杯読むのいいじゃん!」みたいな
のりでして、あまり冊数を誇るためにというか、
それは確実に読んだものとして、深く深くあるわけです。
逆にいうと、「うわ、こいつこんなのしか読んでねーの」みたいなことも
いえるわけですよ。すごい不良っぽいっすね。
例えば、労働について色々いってるけど、新書x3の知恵かよ!
みたいなこともいえるわけです。
という意味で、読書日記は読破数の「自己満足」以上にスリリングだ!
という面は一応いっておきますが、まあ個人の好き好きですねえ。

で、不良のための読書だから、本は読まないわけじゃないんですね(笑)
不良だから本を読むみたいな流れがあって結構好きです。
まあ前書きに「マジメにいい子に」読むなって意味って
書いてありますけどね。

例えば、調べればいいというのは、ある種無敵発言ですが、
それはそうと、何か困ったときはその瞬間は本ではない
別のことをしますよね・・・。人いたら聞くとか、頼むとか。
なんかそういうレベルの話かもしれません。
本って別に自由に読めばいいというか、そういうのですね。
それを永江氏がずーーーーと「不良」っていうキーワードで
言ってるだけと思えば、別に買う必要もないかもしれません(笑)

「本を楽しむ」というキーワードには相当ヒットする本ですので、
本を楽しむってところで反応した人は買い。
そうじゃない人はスルーするのが大人です。
子どもな人、不良は買いましょう。


不良のための読書術不良のための読書術
永江 朗

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テレビばかり見てると馬鹿になる

テレビばかり見てると馬鹿になる

見てきやした。
タイトルどおりの漫画があるそうですね・・世の中広いっすね。

で、実際に馬鹿になるかどうかで、
馬鹿になりたい人はいなさそうなので、
馬鹿になるかどうかは分からないようなってメタ指摘可能(笑)


で、中身ですが、多分面白いです。
多分というと失礼なんですが、漫画見たくなりましたね。

ちなみに、女性にはあんまオススメしません。
いやあ、まあそれは偏見になるかもー。

主人公の彼女は引きこもりってことになって、
TVばっかみているんですけど、確かに「面倒くさい」って
いいだすと、呼吸するのも面倒になりそうですね。

刺激がないところにいると、心理学のある実験では、
精神に異常が!なんてのがあったはずですけど、
だから「TV」刺激、あと飯、あと、風呂ですか、
あとここではSEXになりますが、そういうので
刺激を保っていると。


漫画といえば、えーと、前みた、漫画原作のあれ・・・
あーでてこねえーくそー、思い出しました。

引きこもっている人が見たらどう感じるかは
結構気になりますね。
僕は人事として見て(おぉー)、なんかそれでは
やっぱ面白くないと、なんとまっとうな!コメントしか
できないかもしれないなあって。

カウンセラーのおじさんは、非常に怪しいですけど、
デフォルメされちゃおうが、あういう人はいそうですね。実際に。

ちなみに、今読んでいる「フリーターズフリー」に
出てくるフレーズとしてよくあるのが、
「働いたら負け」という感じが、僕にはほとんど分からないのですが、
そういうのも多分、引きこもりにはあると思います。
「外に出たら負け」みたいな。言いすぎじゃないかなーって思います。
思考のシミュレートで、導きだせる範囲かなと。

誤解を恐れずにいえば、生きるの面倒くさいとはいってない
と思いますが、それでも「自殺」とか、しないわけで、
そういう意味だと、やはり生きたいと。
その生きたいみたいなところって、もっともっとも壊れやすくて、
もっともっと感じやすいところなんでしょう。
つまり、誰もが生きることについて「明確な答え」なんぞ
持ってないというのは、ここでくどいようですが、
また言っておきます。ちなみに、僕も当然ないですよ。

斉藤環じゃないですが、
結局、家族(ここでは主人公と母親との接点があるようですが、仕送りとかね)とか、社会とか、そういうのって大事になってきて、
まあ、母親としても、娘(だと思いますが)が、
引きこもって仕事もせずに何してるんだーって(ちなみに、この文章は
的確に解釈すると結構問題になりそうですが(笑)そんなのどうでもいいやー)、
それでカウンセラーがくるんですけどね。
接点って大事でしょうね。

少なくとも、こわそうなお兄さんと、ネット兄さんと
カウンセラーと3者は関わってくるわけで、
そういうのが救いなのかもしれんと、真剣に言えそうです。
多分そういうメッセージは本意ではなさそうですけどね。

でも、引きこもっていても、結局「行動しない」ものと同じで、
誰かが助けてくれるーなんて思ってなくても、
周りはそう見るけど、じゃあ、とりあえず、
極限のところで、どないすんの?みたいなことになって、
やわらかい精神では、屈強の社会の前にやられてしまうんでしょう。

おそらく、引きこもり支援団体が、
この映画を推薦することはない!と思ってますが、
もししてたら、その団体などを支援したいと冗談ではなく
思ったりしますね。

ちなみに、主人公の体ばっかみてたのは、
まあ、気のせいということにしておきましょう(笑)

一体どれだけの人の力になれるか

よくある話で、
「自分は以心伝心で通じていると思ったら、
実はそういうのではなく、彼・彼女が求めていたものは
全然別ものか、もっと支えが欲しかったから
その人は崩れてしまった」
みたいな話。

アーティストの支援というところでいってもいいし、
ある種の人間関係みたいなことでもいいかな。

才能ある人がそのまま才能を埋もれたままにしておくのは、
社会的損失みたいなのは政治家っぽくて嫌い(言葉が)だけど、
その考えは好きだったりする。

要は、支えるべきときに支えて、あとは己の力でみたいなのが
非常に好き。

そういうことは、前は不可能というか、多分そのレベルの力すら
ないような気がしてきたが、
どうも状況が変わってきたかもしれない。
正確には風向きといっていいだろうか。

別に何か出来るよーんみたいな、
アイスコーヒー300円だから、300円出せばアイスコーヒーを出せるよ
みたいな力はないだろう。そもそも、そういう力が欲しい人は
そういうやり方をしている人に話を聞きに行けばいいとすら
思ってしまう。これは、自身を枠にはめた言葉ではないことを
頭に入れておいて欲しいのだけどね。

そもそも、心動かされたーみたいな人は圧倒的に少ないはずだ。
それは会う人が多くなればなるほど、相対的に少なくなる。
だから、動けばいいってものではないのだけど、
そもそも動かないのも全くダメで、ここらあたりが正解がない。
成功パターンみたいなことを意識しすぎていると、
おそらくアウト!で、そもそもパターンなんぞないところが、
面白いみたいな、メタ認知が出来ないと、なんかつまらないはず。
だから、そういう人はオススメできないのが「解のない道」かもしれない。
これは皮肉でもなんでもない。そのままストレートに
受け止めて欲しいとか思う。

よくある話をさらにすると
「自分の何か、自己の壁をのみ解決とか、
そういうことだけではおそらく外へ出て行けない。
だから、そういうものを乗り越えるようなエネルギーが
必要だ。」

これ結局好きってことなんだけど、
それを好きというのは実は基本スキルであって、
さらにそこに何を絡めていけるか。
あんかけスパ単独では微妙だから、具を入れていくといいとか。
サンドイッチも色々はさめば面白いわけで、
そういうところで、調理・料理が好きというだけでは、
基本的には基本スキルが整っただけなんだろうと、
自戒をこめて思うわけだ。

大きなことというのが何かしらないが
「大きなこと」をやりたいなら、
きっと、エネルギーというものが相対的に大きなものが
おそらくそれはあるプロジェクトにかかる一人当たりの必要エネルギーが
1000kカロリー(平均成人男性は2500kcalくらい食うんだっけ?)
くらいは必要だとすると、ここでいっている
好きなエネルギーとか、もっとやりたいんだ!みたいな
エネルギーがおそらく1000は必要で、
多分500くらいだと、多分味わえずに頓挫するような気がする。

ほら、好きって力が足りなかったんだみたいな話はよくある。
あと、好きだけじゃダメなんだよねーみたいな話もある。

これらをまとめると、
結局、やれってことだ。
体当たりというのは、これだと思う人には「徹底」マークしていくくらいで、
丁度良いような日本社会ではないでしょーか。
また、「過剰」くらいで、丁度適性な気がするのが
今の日本社会ではないでしょーか。

本当に過剰って思ったのが過剰だと思われたら
ちっと考えないといけないんだろうけど(笑)

まあ、そこらへんは頑張ってちょ。ちょ、ちょ、ちょいいかんじ?

現代アート入門の入門

入門ということで。

比較的読みやすい。
比較的というのは「アート」というカタナカが与えるイメージと
比較してという意味。

日本の美術館、アーティストなどへの
支援というより、構造が批判的にかかれているが、
著者自身もそのような活動をしている。
あ、なんか日本語おかしい。

要は、自称アートプロデューサーと称して、
日本のアーティストもどんどん活躍していったらいいなーというような
ことを考えているため、
主観的な印象は受ける。悪いわけじゃない。

という意味で、非常に勉強になったが、
日本のアートを理解するとか、そういうことを考えて
いると多分足元をすくわれるかも。

そもそも、アートなんて現代、いや現実とか、
今とかで、できていく、創造ぶつなんだから、
流れとか歴史とかで括っちゃうとなんか「リアルタイム」感が
なくなって、あらいやん。って感じになるかなあー。

ここでは八谷和彦がアーティストとして紹介されていて、
もちろん氏はアーティストなのだろうけど、
ポストペットが印象強すぎて、
視聴覚交換マシンとか・・すげーよ・・・。


というわけで、気になる人は読んだほうがいい。
面白いでっせ。

現代アート入門の入門現代アート入門の入門
山口 裕美

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何のために働くか。

というwikiをかなーり前に創って、
更新してないけど、
それはともかく、結局、なぜか労働というところは、
非常に敏感だ。

なぜなら多くの人もそうだと思うが、
自分の仕事に埃ではなく誇りを持っていたいし(そう思わなくてもいいけど)、
自分はこれで社会と関係している(囚人に穴を掘らせる懲罰みたいなことが仕事だったらいやじゃない?別に刑務所批判じゃないっすよ・・・)とか、
誰かの役に立っているとか、
それで飯を食えているとか、何かのためになっているとか。

そういうのがあると思ったりするんですけど、
それが直接「労働」って言葉で、自分を浮き彫りにしちゃうから、
ああ、労働かあーって考えてしまうま。


どっかのブログとどっかの人の書いたものを読んで、
例えば、知った上でどう思うかくらいはなんか
書いていくとか、話した方がいいなあとか。
例えばすげー短い人生しか送れない、シエラレオネでしたか、
あそこではダイヤモンドがざくざく取れるんでしたか。
そのダイヤモンドを買うのは、結局先進国、まあ
お金持ちの日本だったりするわけですね。全部ではないだろーけど。
なんか、そういう関連って例え、意図的に
アンチキャンペーン(笑)とかプロパガンダとして批判的にみても、
ああ、例えばホワイトバンドみたいな誤解とかも含めてですよ、
結局、その情報なりが更新されないと、僕にとっても、
やっぱり真実でしかないんですね。

まあ、それはいいとして、
30歳くらいで軽く死んでいくというのは、もうあと数年で
小生も死んでいくというわけです。信じられないですが、
そこで生まれたらそうなっていくというわけです。

ここで一つ
「神はなぜ人をお創りになったか!」
とキリスト批判でもないですけど、唱えてみるわけです。
全く分かりませんね。別に答えいらないんですが、
分からないってところの反義語は、分かるではない。
そんな言葉の奥深さが分かるってなもんやサンドガサ。

絶望や希望がない社会という前提だと、
日々、現実が楽しければいいやーみたいな考えが
流行りそうですけど、それと僕がいう「面白ければいい」というのは
大分違いそうです。
うまく説明できないですが、まあ、絶望はやっぱないですね。
ピンチなほど楽しんでいるやつっていますよねー。
そういうのを狙っていきたいものです。

エンドレスループに気づいたら。

結局、キリヤはリタからループを脱出する方法を
教えてもらうというところでループを出るわけだ。
リタはそれに気づいたのは、ループの中で気づいたのだ。

SFといえど、人間は変わらない。
要は気づかないと、ダメなのだ。

エンドレスなるーぷという視点で
人生を括る人はあまりいないだろう。
なんか響きが悲しいから。

でも、死ぬまで走り続けたいというのは、
そういう有限、制約からしか生まれないと思っている。

で、そういう全体感はどうでもいいから、
今ある状況の最悪なスパイラルというループを
打ち切りたいって人も多いような気がしてくる。

ああ、なんてダメな人生だーとか、
なんで俺はこうなんだー。
なんでこうなってしまうんだ!くそ!
ああああああああーー

などなど。

ループを断ち切るには、やはりだれぞの名言ではないが、
痛みをこらえねばならぬ。
だが、痛みは必ず回復するものだ。それが適切な治療を
施せばの話であるが。それが現実。

ちなみに、切らなければそのまま意外にいけてしまう、という
ところを見つけたら、おそらくそのままいく。
それが悪いことではないなら、なおさらだ。
うまくいくというのは、ループする、と言い換えてもいいくらいだ。
そうなると、悪い場合はもうずるずるずるといくしかない。

気づくしかないのだ。
そのためには、自分の肌で感じるしかないんだ。
それを気づかずに誰かが気づいてくれるのを待つとか、
誰かが言ってくれるのを待つというのでは、
おそらく進化はない。というか、構えというのは、
手をこうあげて、こう前にしてみたいな、構えにするだけでは
意味がない。おそらく自分でそうすることができる状態を構えと、
何か身体に関するところでは言ってそうだ。知らないけど。

やれるだけやってほしいと思う。
また同時に言うだけのキャパと、言うだけの説得力を持っていこうと
思ったりもする。

閉塞感とか、無意味さとか、
三無主義的な(笑)そういう感覚がない。

むしろ、戦争反対とか、年金馬鹿野郎みたいな、
ちょっと政治っぽいところとか、不謹慎みたいなところか、
そういうところがなんか元気というか、
言ったほうが結局良くなるような気がする。
それもループの断ち切りだと思ったりする。

女装趣味

今、女装趣味が流行っているらしい。
と、妄言。

あと、今は「シュルレアリスム」が流行っているらしい。
と、妄言。

世界にというと大袈裟だけど、
滅茶苦茶面白そーなことが一杯あるのに、
アンテナをたてて、情報収集して、動くってことをしてないと、
全く分からない世界になっているような気がする。
それはある世界がそうなのではなく、そもそも生き方の問題。

究極的にではないけど、
自分が面白く、かつ他人も面白いみたいな。
そういうことをしないと、ダメなという感覚はOK。
次はそういう考えを伝播していくことか。

それは、組織体にするか、風の噂で広めるか、
それとも在野で動くかとか色々あるが、
面白いかどうかでいいやーみたい投槍視点が常に重要かと。

別世界か?

日経キャリアってので、20代云々ってあるから立ち読み。

どれどれ・・。

お金重視派と、時間重視派で比較というか、
2人x2ケースでなんか書いてある。

25歳で年収1000万の藤田さんは・・・。
なかなかやりおるわ。が、年収1000万ということは、所得税も
結構ひどいもんみたいですね。手取り800もらえるのかしらん。
それはおいておいて、1000万の手取りじゃないのでそこ重要です。

時間重視派の田中さんは、年収300万ちょっと。
なんかリアルな数字だ。
以外に年収でいうと、自分の年収高いことに気づいたりするが、
それはおそらく錯覚でせふ。

それはいいとして、お金か時間かみたいな形になってしまって、
なんか嫌ですね。

藤田さんのコメントには、40歳くらいでボランティアもしたいとか
あって、なんだかなーって気持ちになりました(笑)

僕は時間重視派になるかと思います。

20代で基礎を作っておかないと、後で困るみたいな。
そういう発想がお金重視派の2人からは読み取れますが、
まあ、一理あるんですが、一理でしかないというところは、
どこまで認知できているか。要はメタですね。

日本という資本主義経済にいる限り「年収」が多いほうが
生活は良くなりそうです。
が、この良いというのは何かを考えていないとただのドアホです(笑)

藤田さん、さすが年収1000万だけあって、結構ハードなお仕事です。
残業80時間って結構どころか、僕はダメですけど、
まあそれはいいとして、3,4000万の年収とか狙うとあります。
で、やはり、ブランドのものの車、時計なんですねえ。
ああ、なんか本人には悪いですが、典型的なお金好きですね。

田中さんの方は、定時できっちりあがって、プライベートを楽しむと。
そういうライフスタイルです。

結局、これら価値観が違うのでなんともいえないんですけど、
お金か、時間かみたいな話になってきて、
後から出てくるまとめページもなんだか微妙です。

ストレスと労働時間の関係とか、なんかどうでもよくて、
あと、将来(年金とかも含めて)を考えたら、
お金重視派は視野が狭くなっていないかーとか、それもどうでもいいし、
あと、時間重視派は、お金を稼げるのか?という課題がとかあって、
なんかズレているなあって気がしました。
僕の感覚で、ではですよ。

日経キャリアという雑誌のコンセプトから考えると
すっきりするでしょう。まあ、お金欲しいぜーみたいな人が
読むのを狙っているのか。分からんですけど。どうでもいいですよねー。

で、僕の価値観は時間重視派なんですけど、
といっても、プライベートを楽しんでいればいいみたいな、
そんなのは毛頭ないです。社会というキーワードを入り口にして、
人間の腹黒さ、矛盾を痛快に斬っていく(笑)そんなのが
一興かもしれません。

結局同じだとは思わない人がいるんでしょうが、
年収をあげていっても、ブランドものの高級なものを買うのは、
スーパーで普段は肉は買わない人が今日は和牛ね、みたいなのと
変わらないような気がするんですね。

要は、自由なお金のバランスというか。リッチ感でしょうね。

僕はそもそもお金をかけずに楽しめる方に重点をおくので、
だから創造性を強調するんでしょうが、
そもそも「お金」があれば短い時間でも楽しめるとかいってる
藤田さんは絶対に友達になれないタイプなんでしょう。
周りにそんな人間がそもそもいないし、会いたいとも思わないですからね(笑)

年収と暮らしはあまり関係ないと
思ったりするんですけどね。
お金もってても、質素な生活する人多そうですしね。

でも、まあ、そうやって生きてくださいね、としか
いいようがないですね。


で、この特集というか記事にかかれてないものを言ってみると、
例えば20代からNPOとかに入って動いている人が、40くらいになるのと、
藤田さんーみたいに企業でがっつり働いてお金だぜいえい、みたいなことを
やっている人が40になるとでは、やはり差があります。
差というのは、差異のことですな。年収というのも現実的にあるでしょう。

年収300万で暮らせとか言ってた人がいますが、立場上認めませんね。
立場とは発言者の立場なり。

差異とは、そこで得ている現場の情報、現場の肌感覚、現場での知識、
ネットワークでしょう。
おそらく、年収3000万プレイヤーには、分からないところで、
おそらく現場につけるかといったら、厳しい。

そういう意味で、そういう人はもう、入れないかもしれません。
その証拠に、日本のNPOがお金ありませーん状態です。
これらを回避できるかどうか。おそらく出来ないでしょうね。
だってそもそも、理解とか、助成とかって、
お金持ちがほらやるよって感じでは成立しえないですし、
しても、すぐ潰れるでしょう。

マイクロソフトのITなんとかでNPO助成があると思うんですが、
あれは微妙です。MSの知名度なんでしょうが、日本のNPOと
米国のそれは多分成立背景が大分異なるっぽいので、
微妙と思っただけですかねえ。まあ、それもいいとして。


道化を演じるというか、
お金重視して楽しいならそれでどうぞと。
時間重視して楽しいならそれでどうぞと。
そんな風に思ってしまうま。

結局、どちらもメリットと、デメリットがあるわけですな。
どうも、お金あるとデメリット少ないと思う人が多そうですが、
多分それを狙っていると思ったりしますが、その狙いはなくても、
そう読んだ読者がここにいる(笑)
なんか寂しいですよねえ。

生活者視点なんて大前研一がいってそうですけど、
あの人もあの人で成功しちゃったので、説得力が欠けちゃいますね。
イチローの5年で110億でしたか、成功すればするほど説得力というか、
リアル感がないですね。これは成功者の問題と、誤解を恐れずにいえばいえそうです。金くれっていってるわけじゃないので。

僕にとっての実感あるのは、
やはりメンとむかって話した人ですね。
あとは、共感できる言葉とか、本とか。

評価されるって同時に評価うぜーみたいなところがあって、
それも人の矛盾かなってありますね。
なんで評価うざいのかっていうと、人が全て善なわけではなく、
悪意の評価も「善」といつわってくっついてくるからですな。

という意味での責任をもたない発言、立場というのが
とても居心地が良いというのが分かったりします。

さあ、10年後、20年後、
藤田さんと僕とで、どっちが充実しているか、
無駄に競ってみたいですね。

ちなみに、僕の毎日はくそみたいに面白いです。
さあ、年収1000万プレイヤーをかもんべーるちーず!

って書いてると煽ってるみたいですが、
まあそんな意図はなくて、日経キャリアの記事が
どうにも寂しかっただけでしょうね。

お金か時間かなんて選択をするために、
生まれてきたわけじゃないっつーの、みたいな悪態をついて、
終了せり。

ALL YOU NEED IS KILL

ループ!

結局、ループなのだ。

日々エンドレス、ルーチンだと仮定しよう。
ギタイとの戦いが、日々の仕事だとしてみると、
メチャクチャ現実感があるんだけど。どうだろう。

読み方を、SFだとかで考えると面白くなくなるので、
(これは要はフィクションであり、お話なのだみたいな読み方のこと)
現実にひたすら適用。つまりこれこそが感じるということになる。

前書いたような「入り口」「出口」の話で、
エンドレスなものがループだとして、
そもそも生まれて、ループにはいり、死んでループを出る。
そういうところだと、大体一挙動とはいわなくても、
一日、1ヶ月、一空間を楽しもうと思うようになる・・。

キリヤは、そのループを感じて、
ギタイとの戦闘の前、正確にはそのループの中で、
日々訓練を行うことになる。実践の繰り返しだ。
その中で、同じことはもちろんあるのだが、
違うこともおきる。

まさに、これが人生。

残念ながら、明けない夜は白夜じゃないけど、
実際にはない。明日は必ず来る。
まあ、太陽が単純に見えるだけなのだけど、
朝と名づけたその時間帯は必ず来るわけだ。
だから、1日1日は進んでいるように見える。どこへかは
分からないが、人は年をとる。そういう意味では、
客観的な人生への指標が年齢だ。見た目ではなく、年齢。
時間といってもいいが、時間は見た目では分からないから。

ループに入っていたとする。
さて、価値観の問題だ。
そのループが早く終わらないかなーとするか、
終わらせたいと思って動くか。

後者の話が、この本だ。
前者の話は、何もしないということ、どうしたらいいか
分からないから何もしない、ということをしたら、
自動的になるようになっているー気がしてくる。


ということで一つの結論。
読んでおけ!

ALL YOU NEED IS KILLALL YOU NEED IS KILL
桜坂 洋

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馬鹿と狂いとローテンションと非論理のすすめ

これだけすすめを書いておけば、
現実というのがそこにあるということが分かるんではないかと
思ったりする。

1.馬鹿のすすめ
よくありそうな話だ。馬鹿になってみようみたいな。
それは、「俺は馬鹿だから、お前も馬鹿になれ」みたいな、
裸踊り的な話になりそうだから、結構嫌いだったりする。
が、ここでいう馬鹿とは、机上の空論にどっぷりつかって、
動けなくなった「賢い人(皮肉でいってるのだが、本当にこれが賢いと思っている人がいるのは僕は批判的というか、好きじゃないんだけど)」がいたりする。
おめでとう。君は、あなたは、そうやって生きていけばいい。
ある種の議論、会話を交わすときに、通じない感があって、
それをもっとしたくない、要は「面倒くせえ!」とか思ったら、
普通とまとめなくてもいいけど、会話したくないから、
大体終了するよね。これ残酷とか、無視とか、なんかあまり文句いえなくて、
そもそも、人間とは矛盾してますからねえー。と逃げるのではなく、
言っておく。書いておく。

で、馬鹿になることによって、得られることは多くて、
それは馬鹿を集めることができるのと、
馬鹿ってストレスたまらないんですね。
なんでか?

そもそもストレスとは、ストレスフルな環境において、
自身がうまく振舞えない(言葉とか、行動とかに対して)から
発生するわけですね。パワハラって言葉も結構使えるようになりましたけど、
その分セクハラが薄まったような気もしますが。
それはともかく、ストレスに「馬鹿」で応じることで、
言いたいことをいう。一種の道化的だが、実質メッセージは伝えるから、
ストレスは限りなく0になるようなというのを本当に思ってたりします。

ので、馬鹿オススメします。
で、基本的に「自分を馬鹿」という人には、
本当に馬鹿か、馬鹿ではない人もいますので(くくく)
お気をつけて。

2.狂いのすすめ
狂った方がいいと思います。
それは、現実を直視するあまりに、身体機能、ここでは心臓の鼓動が増大する、呼吸機能が過呼吸になってしまう、めまいがするみたいな、
そこまでやるとやりすぎですが、現実は見て欲しいものです。
個人的な感覚ですが、ふっきれたところで、フラットになる。
要は、やりきったところで、達成感みたいなものでもいいし、
圧倒的にダメダメで、その不満さの最高点みたいな、
どちらもでいいんですが、そのふっきれたところで、
マラソンでいうセカンド・ウィンドみたいなのが起こって、
その判断を重視したいと思ってます。

これは、狂うというときの感覚に似てます。
狂えるか。という意味合いは、1の馬鹿になれるか?みたいな
話と似てます。もっとも、これを教育とか、何かに取り入れようとして、
大失敗をすることは目に見えているので、
慎重にやるならやるべきでしょう。そもそも、これは対個人向けに
書いてます。特定の個人ではなく、一人の人間に向けて書いている。
だから、集団とかそういうのに取り入れた瞬間、ぶっ壊れますね(笑)

狂った中で、要はテンションふりきって、メーター壊れた!
時に出てくる、疲れからでもいいでしょう、笑い死にからでもいいでしょう、
その瞬間が大事だということですね。

狂え!

3.ローテンションのすすめ
ミドルテンションのすすめってのは書いた覚えがあります。
まあ、それもいいでしょう。
が、中庸、バランス思想を説いているわけではなく、
実践すると、たまに腹が立つときがあります。
平均の馬鹿野郎。偏差値50くらいの馬鹿野郎。
まっとうな生きかたしたやつ馬鹿野郎。
一見ひねくれている、うがった、偏った、ものいいですが、
全くそう思ってません、馬鹿野郎(笑)
要は、偏りというのをどこまで理性的に判断し、
かつ感性としてのコダワリ。
あ、そもそも「偏り」は感性的には「コダワリ」なんですねえ。
こりゃいい発見だわさ。

で、そこいくと、ローテンションを維持するのって、
相当悲観的ではないと、例えば現状が圧倒的に不利、もしくは
いじめなどの行為を受け続け、人格破壊、もしくは心理的に病、
さらに、外部損傷などもおうことを受けていたら、
そうなるでしょうが、そういう話ではなくて、
基本テンションを低めにしておいて、やるときは「ハイ!」になるのが
好きですね。だから、いつもハイの人はどうしても信頼できないですね。
というわけで、ローテンションをすすめます。

という意味で、静かな人が好きですね。
僕も静かです。書くと話すとでは全然違う。
それを感じる人がいれば幸いでせふ。

4.非論理のすすめ
トドメ!みたいなものですが。
論理でナンデモできるとか、まあ科学というのは前提の上での前提みたいなの
があると思いますけど、それは馬鹿じゃねーのかと思うことがあります。
まあ、1の馬鹿とは違う馬鹿なんで、うざーっすけどね。

非論理とは要は感性で、違和感とか思ったら、
まずそれを言葉にすることが大事でしょうな。

皆がうなづいても、それは違うと思ったら、
言葉にせずとも、紙にかくことは大事かなーとか思ったりします。

で、結局そういうのが「語る」ことだとも思います。
当たり前ですが、100%信頼できる人とか、
100%正しい人なんていませんよ。自分も含めて。

だから、こそ体当たりした「関係」とかですね、「言葉」とか、
思いとかが重要になってくるんですね。

それを「演じ」ることで、逃げ切る、もしくは「生きれる」人は
よほどの才能の持ち主ですが、それは「演劇」や「演技」として
見せるものではないかと思います。
それは、見る上での机上でしょう。
活きた演技ではない、と断定できますね。


1から4のすすめをまとめると、
とにかく、やれみたいなことになります。
実践馬鹿とかそうではなく、結局やれんのか?あーん?って感じに
やるのが面白くて大好きです。

多分こういう思考をする人は、あまり見ないので、
自分でアイデンテテを保てますね。まあ、公開することで、
破壊されることもあるわけですが。カマンベールチーズ!

やりたいことをやりつつ。

いや、やれることをやりつつ、さらにやりたいことを探りつつ、
さらにそれをやりながら、みたいなことか。

それらは、蓄積していくと多分一杯一杯になって
動けないということになるが、
人間の経験とセンスとその学習能力を研ぎ澄ませば、
結構いけるものである。

例えば、普段読書しない人がいきなり、コレ読んで!っていって、
10冊渡されたら参る!が、読みなれている人には、
4,2,4でいけるかなーとか、いけないにしても、
そういう絵がかけるような気がする。
羨ましいと思う人がいるかもしれないが、別に本を早く読めるとか、
色々読んでいるというのは、結局「時間の切り売り」というところで、
この言い方にあまり深い意味はこめてないよ、になるわけで、
自分がちゃんとそれを読むしか、読書というのはできない。

そういう意味で、要約したものを教えてもらって、
それを読書とはいわないように、やはり「鍛錬」的な要素が強い。
ちなみにエッセイを読むことを鍛錬とはいわないが、
文章と向かい合うという意味で、どんなふざけた!ものでも、
読書かなと感じるのは変わらない。
要は、活字と向かい合うってことですな。

加速ということについて前書いたような気がする。
それは何かを深めていくという加速もある。Aなら、AAA、AAAAAAにしていくみたいな。
でも、別のBをつくっていく、さらにC、Dというような
加速もある。要は、加速というもののターゲットを何にするかだ。

それらを考えると馬鹿楽しく、馬鹿人生が面白い。
そういう感覚が通じる人と出会えるとまた、馬鹿面白くて、
たまにふっと感じる「この人馬鹿なんじゃないのかなああ」って
思うとき、涙が出るか、「馬鹿さで負けた」というここで
悔しさを覚えてしまう、僕はやはり「馬鹿」なのだろう。

馬鹿馬鹿いっている人間は残念ながら馬鹿じゃないのだが、
自分で「天才」という人間はよっぽどじゃないと、
馬鹿な気がする・・・。

ゾクゾク感。

それは「わくわく感」といったほうがいいのだろうけど、
そういうものが、1mmでもあれば、
なんていうか1日が0mmだったときにくらべて、
1mm分楽しいのではなくて、1日にが3日分くらい楽しいような気がする。

というところを信じる以前に、感覚としてあるから、
それをどんどん形にして大いに楽しんでいきたいと思ふのだ。明智君!

というわけで、おやすみだ。ママン!

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奇跡の瞬間

それは日常的に起こっていても気づかない。
それは、非日常的に起こらないから気づかない。

前者は、日常への「妙な諦め」から発生するもの。
後者は、世界観の改造など妙な宗教の信仰など、
また自分には「無理」というものに、無理に体をもっていくことなど
が該当する。

日常の再点検ではなく、
日常をもっと細かく見ていかないか。きっと面白さがある。

非日常って、いわゆる何かお金で豪華!なことしたり、
普段しないことのこと。
それらをするなっていうのはもちろんなくて、
それに対する妙な期待、ようは「自分が変われる!」みたいな、
そういうのはよしたほうがいいというか、そういう感覚。
してもいいけど、本当にそう思っているなら、
日常を細かくみた上で、あと「そうじゃないだろうなー」みたいな
一つの認識、前提を踏まえた上でそうしているかどうかが
鍵になってくる。

奇跡は起こるか起こらないかというと、
僕は起こるべきときに起きると思っている。
だから、可能性という言葉は大好きだ。

人を信じられないという世の中があるならば(それはあなたの頭の中だが)
そこをあえて信じるというところが好きだ。
もちろん、裏切られるということは分かっていてもやるみたいな、
心の構え、ストック、大いなるリソースがないとやってられないわけだが、
やれるならやったほうが、うんと面白いと思ったりする(笑)


動き動かす

ひとりで完結するものが少ないから、
まあ、二人以上だったら社会っていっていいんじゃないの?
みたいなことを思ったりするが、

ある本に、自分に向かい合うための音楽を奏でるものが、
あるという。すげえ・・・!

そんなのあるとは知らず。不覚なりなり。

動いた場合、動かされる、相手を動かすことがある。
自分が駒になったことに快感を覚える人は、
軍隊組織とか結構むいているかもしれない。
これは、軍隊作れって意味じゃあない。言いたいことは分かるんよね。

朝が始まり、台風も接近する。
さあ、今日もやるべしべし

結果を出す

結果を求められる、というのと、結果を出すのは、
ほぼ同じようだが、大分違う。

前者は、求められているから、結果を出したいと思わなくても、
そういわれて、ときには期待され、ときには脅され!
出すのだ。

後者は、そういう脅された結果の結果かもしれないが、
まあ、結果を出すということになる。

後者は、自分から出しにいくことも含まれる。
前者は、それがないのだ。もちろん、消化して、
自分から出しにいくのと、求められるのが一致した。
と思えばいいのだけど。


結果を出すのが全てだ、とかいわゆる「過程と結果」の
話はさんざん考えたが、
結局、結果はそのプロセスを知らない人への道化であったり、
また圧倒的なPRや説得力の材料だったりする。
過程は結局、ほとんどの人、一緒に仕事をやっている人にでも、
また自分が意外に「自分の過程」を見ていなかったりするわけで、
そこのところがまた、かなり認識が難しい。

結果を出せる人間は、過程をやはり重視しているというのが
僕の考え方、見方だ。
また、過程を楽しむということは、結果も楽しいものが出てくる。

その場しのぎでは、おそらく結果以後が、続かない。
結果後は、別タスクの過程があるわけだ。
これは、コンピューターのOSのタスク管理で話をすると
滅茶苦茶理解しやすいが、ITマスターではないので、解説はせず。
要は、何かの仕事、何かの業務、あと職種とか、会社とか、団体とか、
やっていることが「オンリー」で「ロンリー」な「行為」って
思ったら、多分ダメなんだろうなあということですね。

何かつながっているし、何か一人ではないし、
それは「過程」があるからで、結果でて終わっても、
その「仕事」が終わっても次があるわけで、その仕事の続きでもいいし、
別の話がまたあったりするわけですね。

おそらく、ここらへんは、実際にやってみないと、
ほとんど分からないことで、実際にやっている人には、
言うまでもないし、この面白さが分かったら、
多分簡単にはやめられないレベルの話をしている。
(お金稼がなきゃいけないから、仕事をするのというくらいのレベルの話だ)


結果を出そう。
出せないなら、また考えて、出そう。
きっとできるさ。あんたなら。

フィールドを拡大する

PDCAを回せ!
という有名な話がある(笑)

それはともかく、PDCAを回そうといって回す人はほとんどいないというか、
いないと思う・・・けど、
PDCAみたいなことを考えてて、結局やっているのが、PDCAだった
という話は滅茶苦茶ありそう。

ここから導き出される一つの結論は、理論は机上になりやすいってことか。

それはともかく、
ある種の行動、ここでは、自身で何かを企画し実行したということにする。
これは、イベントの内容よりも、目的や狙いによって分けるべきだろうが、
それはおいておいて、まず行動したとしよう。

その行動で得られる経験、気づきなどを「A1」とする。
次にまた、同様、全く別の企画を行い実行するとする。
ここでの気づきを「B1」とする。

ここで面白いのは、A1とB1は一応は違うものだが、
共通点は多いだろうし、また重なる部分があればあるほど、
損なのではなく、むしろ、固まってくるので、
自分の身になりやすい。

さて、フツウに考えると、
何かを学ぶにはテキストや教科書や人の話、先生!などの話を
聞いて、始めるというのは一つの、いや大きな勉強の1つだ。
だが、それだけでは身にならないのは、言うまでもない。
結局実践が命となるのは、そこに具体性がなければ、ほとんど
無意味だからだ。具体性とは、その知識が活かされるということになるか。

ある人はこうなる。
テキスト→実践

ところが、これは非常に刺激が足りない。
そもそも、テキストから入るから、実践に脳が追いつくのに、
意外に時間がかかる。あと、テキスト時間をどこまでやるかが、
実践が後だと見えづらい。
もちろん、ある種の訓練、基礎体力とか、そういうのでは、
フツウこのようなメニューが当たり前だが。

そこで提案したいのはこんなもの。
実践→実践

これは、テキストがないのだが、
実は、最初の実践で、テキストが作られるのだ。
そして、次の実践でそれを試すということ。
要は、テキストを実践に持ってくるということだ。

これは何も「テキストは全て悪だ」「机上の座学はやらなくていい」
というようなトロイ(笑)ことを言いたいわけじゃない。
むしろ、そのような方法もベターなことがあるし。ケースバイケースなのは
言うまでもない。

しかし、具体性というところという現場である動きが、
何も「テキスト」にならないのは、そもそもおかしいわけで、
そもそも「テキスト」は、現場から出来ているという話を、
ここで踏まえたいのだ。

実践→実践

とやると、結局、テキストが不要になる。
だから、テキストを使ってやっている人からみると、
どこでまとめているんだ?どこで記録しているんだ?みたいな、
脳の座学の不安を覚えるわけだ。

心理的に、机でテキスト広げて、手を動かした方が
「学んでいる」ようには見える(笑)



それで、実践→実践のメリットは、
実践の刺激が絶えずあるので「飽きない」ことがまずある。
フツウ「何かやろうとして、モチベーションが保てない」なんて
腐るほどあることだが、それを軽く解消できる。
また、実践なので、緊張感が0になることはない。
要は、ダラダラにはならないということだ。その緊張感レベルは
そりゃ違うだろうが。
さらに、実践→実践の次も実践なので、
前の実践を次に活かせるということが挙げられる。

ただ、デメリットは、テキスト→実践に比べて、
自分の位置や、体系的な見方、記録できる学びには
ならない、もしくはできないということになりやすい。
別にそれを解消するには、書けばいいのだから、
あっさりできるといえばできるが、
書くのを嫌がると、結構、テキスト→実践、でそこで
終了するような妙な言い回しもできるかもね。

フィールドを拡大するには、
投下したリソースをもれなく投下した以上に回収するのではなく、
(この考えは、1度の損得で、投資的ではない)
そこで得たものを、次にまた投下するためにと考えると、
1つで終わらない、1回で終わらないという考えになっていく。
そうなると、結局、フィールドは意外に広い。
日本が狭くても、海にいくまで走るのって、海岸線に住んでいないと
結構遠いみたいな話。あと、探せば色々あるとか、というのと同じか。

こっち面白そうだーといってはしっていって、
お礼をいって、また別のところへ走っていって。
そこから得られるものは、膨大なリソースになるだろう。
そのリソースは奪ったものじゃない。
創造したものだ。

さらにその創造性を別に投下すれば、
まあ面白いことができる。
それが、実践→実践の実践方法かしらん。

この手法を持って、プロセスも結果も両方だしていく。
プロセスだけ楽しんで、結果は無視しているよね?
単に趣味で遊んでいるだけじゃない?
その程度の力だよね?
っていうあらゆる投げかけが「シャク!」だからこそ、
圧倒的にこれらを壊していこうと思う。

うおおおおお!

外に発電機を。

広義でいえば、自家発電に含めるということだ。
自家発電も造語だから、そもそも広義って前提がおかしいけど。

自分でエネルギーを出してテンションを高める。
そういうことはできるなら、
それを自分だけに頼らないのが、ヨサゲです。

つまり、人に何かしてもらうのを前提みたいに色々作ってく。
それは、依存というか、良くない雰囲気に聞こえますが、
そうではなくて、
人に言われなきゃ動けないっていうなら、
そうしてもらうように自分からいえばいいんですね。

それ、やるのとやらないとでは、
「言われて動く」というのの意味が180度違ってきます。
自分の弱点を補うなら、大いに人を利用すべきです。
もちろん、相手がそれをやるメリットがないと、
成立しませんが、この話結構マジメです。

要は、テンションを保つのを自分だけでやろうとするなって
ことですね。それは誰かと話すのでもいいし、
一人でいたいっていうならそれでもいいし。

これに気づいてしまった今、
さあどうでるか。

腕のミセドコロでございますな。五右衛門殿!(誰だ!

寝る

寝るのだよ。
寝かせてくれよ。
ああ、寝るさ。

寝るっていってんだろー。

と、寝ることですべらないギャグ=ギャグではないということ。

世界を言葉で表す。

世界の断片。それがエッセイ。
世界へのいざない。それが小説。
世界への入り口。それがノンフィクション。
世界へ可能性。それがアート。

いいかい。
そこにある世界が色々あるうちの1つに過ぎないって、
思ったら、感じたら、また別の世界を見たくなるだろう。
そうすると、世界が世界というものが、世界の中に一杯あることになる。

そうしたとき、どう楽しめるか。どうやると面白い。
それは、世界を横断することじゃないかと。
世界に落ち着くのは、44歳からでいい(ホントかよ

世界を横断するのは、若者の役目なのだよ。明智君。

そこで腐った顔してないで、顔上げて、
明日に向かって顔上げようよ。

君だけじゃないから、頑張れなんていわないよ。
でも、少なくとも、頑張らない人生もありなんじゃないかと、
思っているやつがここにいる。

そこんとこよろしくだ!

世界を言葉で表そうとしたとき、
あまりにも言葉が足らないから、それを補って、補って、
補っても補えないことに気づく。
だから、補うのではなく、自分から創ってでも、
その全体を現したいと思うんだよ。

ニッポン無責任野郎

谷啓、はなはじめ。

植木等やっぱ最高だ・・・。

C調がおそらく今年の流行になるかと。む、もう夏だから
流行らないか。無念。

スーパーサラリーマン熱い。

レイコさん素敵素敵?おほほ。

いかん、壊れかけてきた。


が、とりあえず、植木等は最高だ。
この映画を超えられるものが、今あるか!?

ないんだよ。ないんだよ!

といったら、世の中の、血気あふれる映画監督、
演出家、役者が、また挑戦するだろう。
ということを祈っている(偉そうだな。

カナリア

宗教もの。

むー。

拠り所の自由、思想の自由、信仰の自由というのは分かる。
が、そこに、教祖云々からの教えである限り、
「人間」を超えた存在というのは・・・。

認めてもいいが、それが人間に何か暴力をふる理由とはならない。

これは理屈ではない。直観なのだ。
全ての胡散臭さは、全て直観で回避可能という、
直観説を今ここに唱えて・・・。

ここで終了する(笑)

とくに印象深いところは見られず。
ただ、悪い映画ではない・・・っすね。

くだらない毎日

くだらない毎日に気づいたら
人はどう動くかに興味があります。

くだらない毎日をどう乗り切るかと
考える人は、何か人生はとても面白くないと
考えたりするわけですが、まあつまらない日常が
これでもか!これでもか!とあるわけなので、
事情を察してあえていえば、まあそういうのを
全て受け入れた上で、動くかどうかは、
極論かつ暴論にもなるんですが、
自分しかないんですよねえ。

くだらない毎日だった=その毎日の集積が人生、
だから、人生はくだらないというのは早計です。

まず、世の中の人がいかに何かを追求したり、
何かを求めたり、それこそ生きるってことについて、
著名人のエッセイでも、読んでみるといいかと思います。

誰一人、「片手で楽勝」みたいな人はいませんからねえ。
まあ、そんなんじゃなくて、金持ちに楽になって、
という人はそういう人を探して(多分いる、でもそれは
好意的にいえば、入り口を広げているだけで、
結局、同じですね。要は、悪意のない嘘というレベルであるが、
嘘でしかないということ)くださいと。
で、そういうモデルを参考にやればいいだけですね。

こんなこというと、必ず全て思ったこと、
考えたことは実現できるのか?という突っ込みを
する人はいそうですが、オーバーです。
まず自分のいたらなさ、できなさ、そういうところの
内省から始めて欲しいものです。
まあ、ブッキョーとかは、業とか、なんかありますけど、
あったっぽい、に修正しておこう、
そういうのでもいいですしねえ。内省するなら。

で、そこから出発なわけですが、
そこから出発する気がないなら、そのままで
いいんじゃないかなあと思うわけです。

正直なところ、ホームレスのおっちゃんが倒れていても、
やはり声はかけないわけです。
別に声をかけるわけでもないでも、判断が難しいです。
ただ休んでいるだけかもしれないと考えることは可能。
また、ホームレスっぽい人かどうか、分からないが、
路上で騒ぐおっちゃんおばちゃんもいるわけです。

俺らの気持ちは分からんよ。
というのは、あまり若い不良とも、グレる子とも
変わらないというか・・・。

まあ、分からないんだけど、
でも、どうなのよ。という突っ込みはこちらから、
こちらというのは僕のことですよ、できるわけですね。
同時に相手もわからんよといっている。

対話をしたいと、あまり思いません。
かといって、別にホームレスのおっちゃんが死んでくれとか、
そういうことも思いません。

現実って、大きいですね。
色々なものが一杯あって、おそらく、飯を食うことと、
仕事をすることと、何か感情を動かすことで、
おそらく、人の一生は終わるような気がします。すごくシンプルですね。

でも、本当にまとめてしまえばそうなってしまう。
シンプルにまとめても、実際は複雑だから、
意味がない言葉なんですけどね。

所詮他人。
という考え方が嫌いだったりします。
同時に、他人がウザイと思うことが大いにあります(笑)

矛盾したこれらを受け入れる。
そういう受け入れがないと、おそらく、どちらかにしか
動けないでしょう。
もちろん、そう動いてもいいんでしょうが、
全く、それは純潔すぎますね。そんなのはありえないかと。
あっても、精神破綻への道なり。

面白い毎日ではなく、
くだらない毎日を面白くする。
そっちの方が「面白さ」がより実感できるような気がしてくる。

ああ、逆境大好き・・・。

なぜ生きるか。

哲学検定なんてあったら絶対ありそうな問い。

まあ、ないけど。

なぜ生きるかということは結局、逃げれない問いなんだけど、
結構逃げている人はいるっぽい。
そういう問いは逃げるんじゃなくて、
うまく付き合うというか、仲間にするというか、
そもそも「問い」は敵でも味方でもないのだけど、
どう思うかは人次第だから、敵にしちゃうのはよくないよねー。

なぜ呼吸して、飯くって、朝起きて、働くのかって。
その意味を考えると無性にむなしくなることがある。

そこに新しい味付けを与える、もしくは心を高ぶらせるのは、
感情しかないと思っている。まあ、いきなり頭どつかれたら、
怒りになるけど(笑)

感情がルーチンになることは・・・まずない。
だから、面白いのだと思うというか、
そうやって面白い感覚を大事に生きてきた、と思っている。
これは、現在進行形だ。

面白いことをやりたいから生きるというよりも、
生きているなら面白いことをやりたいという、
そういう思いは、いつからかしらないけど、
信念みたいなものになりつつある。

だから、傷つけるような圧倒的な誹謗中傷がないか、
物理的攻撃がないか、精神的異常がないか、
そういうレベルでない限り、圧倒的に高い力で、
突き進める。いわゆる、猪なり。

ワレイノシシナリ チョトツモウシン
メノマエノカベナンゾ ナンノソノ
オリャー ウオー
ウリボウ ナメンナ
カワイイジャネエカ

というのがおそらく生きる答え。もちろん僕の生きる答えで
ちなみに、正解になる。

足踏みはもう終わったかい?

足踏みをする。体を落ち着ける。
クールダウンだ、ぼぅい(これは怖いな

ということは、今は必要性が全くない。

足踏みを今はしている場合ではないんだ。
歩く必要があるし、走る必要がある。
しかも、全力でだ。

でも、道を聞く人には、正確かつ分かりやすく教えていく。
つまり、それは、走っているのだけど、
やはり走る人に道を聞くということもあるという
一種の真実の証明でしかない。
(例えば、普通は歩いている人と走っている人では、
歩いている人に道を聞き易いという話が想像できるから)

一緒に足踏みする人は探していないんだよ。
一緒に走れる人を常に探し続ける。
それはそれは、何人でも、何十人でも何百人でも求むわけだ。

ウエストサイド物語

やべえ。
やっぱりオコチャマには難しかったのかしらん。
クソデラおもしれーじゃねえかあ・・。

最初のオープニングのロゴ+MUSICは、
バグっていると思ってて焦った・・・だけ言わせてちょんまげ。

こういうチンピラがいた方がいいと思った人、
多分多いんじゃないかしら。

に、しても、あの声量。
目を閉じると、やっぱ眠れそうですな。

人を動かすのは。

正しさではないというのは名言か。
ただ、ほとんどは、分からないとか、勝負とかいうところにおいてを
のぞくと、
最初から結論が出ているような気がする。

その人が動くかどうかとか、うまくいくかどうかが。

面白さか、魅力か。

正論を吐いても全く意味がないことがある。
逆に正論をはけないこともある。

ある種の葛藤を覚えるとき、
体が上手く動かないという、表現をしておく。
本当にそうなるからだ。

自分を出せば外れるし、
出さなくても不愉快ではないけれど、心苦しい。

そういう時、寝るのが一番かもしれない(笑)

言葉が頼りないものと思われれば思われるほどそれを信じたい。
頼れるものだとしたら信じたくない。

ああ、結局、逆が、逆行が、逆境が、面白い。
それをしたいというのではなく、面白いんだよ。なあ明智君よ!

つっこみ力

面白そうなタイトルなので、ほぼタイトル買い。

結果・・・どうだろう。
著者の言うことも結構最もなんだけど、講演の起こしというところで、
あんまり質が高くないような。
要は、聞いてさらーって流れていってしまう感じですね。

とりあえず、印象に残ったことは、
メディア・リテラシーって言葉へのつっこみですか。
確かにこの言葉メディアとかで言われていることとか、
そういうのをきっちり消化しているかどうかみたいな、
鵜呑みしちゃいかんよーって言葉ですけど、
あんまりそれ自体、要は言葉自体の理解の意味はないですね。

それを実践する方が重要、というか言葉ってこういうものなのが
ほとんどでしょうけど。

例えば、週刊誌を信じないとか(笑)
そういう実践が必要ですね。
で、問題は何を信じればいいかになりそうです。
となるともう疲労するのですが、だからストップ。

例えば、著者の指摘で面白いのは、
批判していくと大抵疲労するし、そもそも多くの人は
それを期待していないというのは最もです。
これ、日本人馬鹿ばっかみたいな話ともいえるので、
それこそ著者の言う「つっこみ」が必要なところです。

「かってはいけない」って前はやりましたけど、
やっぱ、あれ最初のものが一番売れたらしいです。
要は、「かってはいけないをかってはいけない」とか、
そういうのはダメだったんですねえ。売れなかったという意味で。
そりゃそこそこは売れたみたいですけど。あ、ここらへん
正確じゃないと思うので、つっこみしないでー。

まあ、要するに著者の「面白いかどうか」は大変好感は持てたので
結構自分としては満足ですが、
尻切れトンボじゃないですが、どうも中途半端感は残りますね。

茶化すわけではなく、統計漫談ってのは新鮮ですけど、
結局それも、統計の罠という、統計学を学ぶ人なら
誰もが学ぶはずの!、ブルーバックス新書!に書いてあるような!
ことを言っているだけとつっこんだら!、著者も「ぐむむ」と、
言ってしまいそうな気がします。

が、おそらくマシンガントークだと想像。
生で聴いたほうが100倍面白い気がしますので、
あまりこの本おすすめしません。

で、この方、何者かやっぱ気になるわけです。

反社会学講座読みたいな。


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と、いいつつ。

寝ないのも一興。

生きるという言葉は、
食って寝て、クソ!するだけみたいな、
風に言っちゃう人もいそうだけど、
まあ、まあそれもありっちゃありだけど、
所詮「他人の一興」でしかない。

自分の一興みたいなのは
確認したいところ。

好みがあるように、生きかたの好みもあるから、
選択肢やっぱ多いほうがいいっすね。

でも、選択肢を提供するのと、
自分で選んで決定していくのは、
何か大分違うようにも思えます。

あ、ねるねる。

終わらない言葉を。

歌なら、ブルハーツか。

ところで、人はどこまで言葉を本気で言っているかと、
たまに人の会話が「道化」にしか思えないときがあったりするので、
笑ってしまうことがあるが、おそらく自分もそういうのがあると
思っていることもあったりなかったりすることもももも。

言葉を本当にいう時は限られているって?

なんだか寂しいこというじゃない?(オカマ風に

分からんでもないですが、
でも、やっぱ一生懸命生きた方、いい、ある、と、思う、ある、よ。

なんでかって理屈も、理論も、化学的証拠も、裏も、あ、科学か。
ないんですけどね。

直観ってやつーでございやす。
へへい、直観大切。理屈は二の次。

目の前で起きていることに、脊髄反射!で
対応して疲労するのも一興。
本気で語らずぬくぬく道化して(まるで「人間失格」みたいっすね)
生きるのも一興。

どんな風に生きようが、一興ってなもんで。
もっと自分の人生を楽しんでいこうと、
我がマグマエネルギーは申しております。

金をとって、信者を増やし、法人格とれば、
マグマ教が出来る。
怪しいと思った人間はマグマに突っ込む。

おお、こええ。
って、寝るネルねーるね。

マグマ源泉は?

人間の記憶ってフシギで、
あるときにふっと思い出すもんですね。
だから、年月の経過とともに何もかも忘れる・・・
こともないですね。多分。

電波をキャッチして、真夜中に飛び出していって、
革命を起こすような話が好きです。
そうなりたいとは思いませんが。
あと、飛び出すのが家出とかはあんま良くないです、多分。
あと、何か宗教を信じることで、宗教的活動というのにも、
関心がないですね。それはいいとして。

マグマの源泉は一体何かという質問ですが(別に誰かから聞かれたわけではなく)、
それはおそらく、例えばこうやって何か書いているときに
見えてくる、いや実際にはないんですけど、
こう手で包み込むというか、ボールみたいな大きさなものですかね、
そういうのがあるわけです。肝っ玉とか名づけておきます?オシャレでしょ(笑)

そういうボールがあって、なんでそんなのがあるかというと、
そもそも、自分って存在を一人の存在として受け入れることが
不可能なんですね。全能感みたいなのがあるんでしょう。
これは人間ごときが、いや僕ごときが思っていいかどうかはともかく、
思想の自由なので、許可されるでしょう。なくてもしますが。
そういうのがあると。

で、ナンデモできそうだみたいな。実際はできないんですけど、
そういうのは可能性につながって、色々やろう、色々興味持とう、
色々・・・って思考、行動パターンになるわけです。

あえて突っ込んでいく、あえて、わざとやるっていうのが、
シナリオとして、物語として好きです。
とくに、一人で孤軍奮闘するってのが、「浮いた」としても、
すごく好きです。きっとそういう人って、
何か知らないかもしれないけど、知っているかもしれないけど、
とにかく「そうしている」ことが、素敵というか、魅力的です。

きっと、「わがまま」に自己を主張して、自分の存在だけを
そして自分のことのみをっていう声は、言葉は、
やはり、冷たい空気に妙な暑さが混じるような、
ピュアさや説得力に欠けてしまうんですね。要は面白くないというか、
魅力的じゃないだけの話でございやす。

一人のお客の後ろに10人の潜在顧客が!みたいな話は
言われるっぽいですが、そういうのがあります。
おそらく、僕の考え、似ている人は10人くらい、
この瞬間にいるんじゃないかなあと。

言葉を紡いでいって、きっといけるところまで、
やれるところまで、やっていって、限界というのは、
それは不可能性ではなく、可能性の着地点。
次の瞬間、また新しい限界を創ることでしょう。
それが変化だから、多分面白いと。そう考える自分がいるわけです。

現実を一人一人が一生懸命生きること。
多分、そういうことを言う人がもっと出てくれば、
もっと「良い」社会ではなく、
もっと「面白い」社会になると思います。

誰もがとはいいませんけど、自分の人生を甘んじて受け入れて、
その使命を果たそうとしている人は、多いんじゃないかなと
思ったりしています。ぐはっ!

生きた言葉を吐こう。

空気を吸ったら吐く。
言葉を聞いたら、言う。

そんなリズムカルな生活の一場面にふさわしいのは、
何かが始まる、終わるという時だ。
ドアを閉めるとき、明けるとき。
ベルが鳴るとき、なり終わるとき。

階段を上がるとき、上がったとき。

お金を払ったとき、おつりをもらったとき。

タイミングに注目してみよう。
すごくすごく細かいところに注目してみよう。

焦っている人には、永井氏の本を激烈!(笑)にオススメする。
なんて生活を楽しんでいるんだって、モデル(像)に
できる人だなあと本当素敵な人だと想像します。

嫌なことがあったり、不安なことがあっても、
そういうところを見ていくと、本当、面白いことが
一杯おきているんですね。

それを拾って、笑いにすることもできるし、
それを踏み潰そうとして、怒りにすることもできる。

自分ならどっちを選ぶかってだけのお話。

メタ生かされている

メチャ生かされている、ではない。

ワコールホールディングズの創業者は、25歳で復員し、
そこから生かされている、というところで、世界のワコールを
創ったそうだ。

原爆を落とせばいいという人が存在することにまず驚くが、
そういう人が自分は落とされない立場だろうと想像することは容易だ。
いじめられる側に問題がある論理は、自分がいじめられる場合、
いじめられた場合、いじめてどのような気持ちになるか、
そのような「相手にたつ」という気持ちが希薄だ。

過激な教育を唱えれば「全ていじめあう」ということを唱えれば
少しはましになるかもしれないとか、思ったりする。本当にやれとは言わないが。

平和ボケというのは、全くベクトルが異なっている。
環境問題が最近また言われていると思うが、それは結構深刻な話のようだ。
人間至上主義ではないけれど、人が生きる以上、自分は生きているのだと
思ってて生きたい以上、真剣に向かい合う必要がある。
というのと、実際に環境系団体に入って活動するかどうかは別問題なのだが。

25歳。復員したわけでは当然ない、この僕は、
今の時代は、別に戦争してないから、幸せか。平和なのかと
考えると、どうも違うような気がする。
ちなみに、戦争したほうが幸せだったとか、んな馬鹿なことをいうわけではない。たまにいるんよ、こういう恐ろしい方向にマジで捉える人がね。
んなわけないので。

軍事的なこと、政治的なことって、なにか「強い」ことだと
勘違いしている人がいるが、そういうことは国がある限り、
例えば外交員のスキルだとか、国際的な立ち位置とか、政治的な交渉とか。
そういうのは必要で、いらないとはいってない。
でも、それらがすなわち「強い」と思っていると足元をすくわれるような。
そもそも、誰のためにやってんだというところと、その人たちが、
コミットしてないのなら、意味がない。
要は国民のためと本当に思っている人は、本当にそのような「動き」に
なるということだ。自分に嘘をつくな。ということでしかない。
嘘はばれる。ばれなくても、嘘の体になる。ちなみに、嘘をつくひとは
体が硬い気がする(笑)

そういう戦争してないはず(間接的に自衛隊は参加しているとか、
そういう議論は全てスルー)の時代に、
僕はなぜか「生かされている」感がある。
それが、メタ認知であり、ワコール創業者への共感でしかない。
なぜ、この時代に、「生かされている」感なのかと、
腕の立つライター、インタビューアーはすぐ思い浮かべるし、
感度の良い人なら、続きが気になるだろう。

1つには、まず幸せという感覚がやはり大分違うということ。
何度も言われているように、物質的に、つまりお金だわーい、というのと、
ものが一杯買えるんだわーい、というのは、正直飽きている。
飽きているというのは贅沢だとなるのだが、正直そういう感覚は
ちょっと違う。それがあることが前提だから、誰ももう何もいえないし、
言っても、「そういうものがない時代もあったんですね」というリアクション
しかないわけだ。

別に、これは昔の人の生活が分からないのではなく、
実感としてそこに生きてないのだから、無理だというわけで、
たまに「心理的な病は昔はなかったから今のやつは根性たりん」って
いうのを本気でいう人いるでしょう?ってそういう人への警戒なだけですね。

例えば、食糧不足になってーとか、そういうシナリオを描くと
ちっとまずいわけですが、そうならない限り、
物質はあるものだという前提で進むわけですね。

2つ目に、モデルの不在ですね。
何度もこれは書いたかもしれませんが、こういう風にすればOK、
要は終身雇用みたいなー考えは今はちょっと苦しいですね。閉塞感が。
それでも、「実は若者は終身雇用的な会社で働きたい」という話も
ありそうですが、なんでしょうねえ。全体の傾向は分からんです。
が、日本人っぽいなと思うのは、若者でも、今の時代の人でもですよ、
「全体主義」じゃないですけど、「皆と同じ方向」っていうのが
好きで、だから「皆と一緒じゃないと」という人が多いのは確実です。
これは、おそらく、学生なんかでそうじゃないんだ、
もっと違うことやりたいんだって思っている人が社会に出ると
痛感するかもしれません。まあ、僕はもちろん、それを踏まえた上で、
動くわけですが。

とりあえず終身雇用してくれるところがいい。
というのは甘いわけで、なぜなら会社が無条件にそんなことを
してくれるわけがない。確か、ちょっと有名なある会社は、
終身雇用をうたっていたはず。でも、それなりに社員に求めるものは
高いような。少なくとも、mixiの広告で、年収なんとかなんとかって
かかれてそれで自分の仕事を考えてしまって、
転職とかする人(ようは、お金オンリーな人ですね)は、多分、
終身雇用は・・・。とか思ってしまいます。

昔はなんでそれが可能だったかは、やはり時代背景です。
成長経済ってところで。その波は圧倒的に、日本人の感性に
フィットしたかと思います。

でも、今は違う。
ならば、その感性をフルに活かして自分の道を切り開く・・・
というのが僕の生き方だろうと感じています。
こんなことは、あえていうことじゃないし、おそらく、
多くのかっこいい人々はこんなレベルのことは、
かーるーく考え、実行しているんですね。
そう考えた時に、妙に焦る人がもしいたら、その焦りは、
じっくり自分のことを考える時間にあててほしいものです。

戦争時代ではないのに、生かされている感がある。

それを僕はメタ認知だといい、つまり、ランボー言う「誰か」でしかないわけです。
誰かによって、それは神でも、宇宙人でもなんでもいいんですけど、
その誰かによって、自分が動いている感覚がある。
それは、別に自分をハリボテとかにしたいとか、
目の前の感覚・刺激から切り離したいとかじゃなくて、
あと、心理的に分裂してしまった、ある種の病気でもないわけです。
難しいところですが、まあそう感じると。


そういう感覚になった場合、どうなるのか。
非常に答えは明確で、目指すところに、あらゆるものを投下して
目指して、目指してめざしまくる。
このモードに入った人間は恐ろしく強い。
まさに、歩く銅像です(表現が微妙)

何か批判されても、何か言われても、何かミスっても、
くじけるという単語はもはや辞書にない。
「くじけた」ものは、全てエネルギーに転換できる。


もっと分かりやすくいえば、つまり、表現をよくすれば、
自分の経験を失敗も含めて成功も、そこから得たものを
さらにそのまま資源として次のアクションに活かすという、
会社が再投資って形でやってることをそのまま人間という個人が
行うわけです。こうなると、最初のアクションがあれば、
無限で行えるわけで、次はこうで、・・・ってそう考えられます。

自分が楽しく面白く、しかも、それらは全て資源となっていって、
資産っていったほうがいいですかね、そしてまた次に活かせる。

おそらく、こういう生き方がモデルになるかどうかは
分からないですが、そういう生き方している人は・・・
やっぱカッコイイので、そう生きますね。わーい。

うおりゃー

久しぶりに更新したぜ・・このやろう。

色々契約解除などしなきゃいけませんわね。オホホ。

イメージメモ。
「情報が交換される場というのは、狙う目標、ミッションとかじゃなくて、
それはそのようになっているべし、もしくはそのようになっている状態を
さすのであって、具体的イメージのようにみえて、実はかなり抽象。
よって、目指すべきところは、港。
貿易が栄えるという場合、港には外来品や目新しいもの、
当然そこには自由度が高いが、文化、社会からは隔絶したものもあるわけで、
そういうものは港があるからこそ機能しているといっていいだろう。
港というハコがあったから、というのは、同時的解釈として、
要は、鶏卵理屈と同様なのでここではスルー。

「情報」が「陸揚げ」され、そこで「わいわい」やるというのが
一番しっくりくる。その「陸揚げ」があって、魚なり、食料なり、
人なりが色々情報を持ってくるのだ。そこでの「情報交換」は、
航海や物資売買のレート情報とか、相場ですね、船員、クルー募集だったり、
と色々な情報があるわけだ。

おそらく、この「情報」の「陸揚げ」は、
ある種の雑誌、メディアが「俺らは質の高い情報を・・・!」って
意気込みでやっている人もあるはずだし、そうだと思う。
が、知名度はおいておいて、それらは決して人数が多いとか、
そういう話ではない。在野でも恐ろしいほどの力を持った人間がいるのだ。

こういう展開をしなくてもいいのだが、あえて。

それで、陸揚げした情報でより生活を面白くしていく。
結局ここになる。これが社会を面白くという考えであり、
また天下統一という概念になる。

領土を囲い込んで、制圧したなんて時代ではない。
それは、未知を理解したうえでもそういえる。
もちろん、取ればそこで色々できるだろうが、それは微妙だ。

それよりも、小さなものを1つつくる。それは小さいのだが、
圧倒的に強い。そういう「精鋭部隊」みたいなものが
別に戦争するわけじゃないけど、一番あこがれるし、しっくりくるんだね。

って、イメージ。」

マグマ!

復活。

朝からキムチ納豆ぶっかけご飯を食す。
馬鹿うま。馬鹿しかうまく感じないから馬鹿馬。馬だぜ。ホース。
スーほーーと白い馬。ハイテンションはTMR!

角川ブックカバー応募。うしし。

朝から名言。
「本は読むものじゃない。感じるものだ。」

さあ、色々やるぞ。と気合いだけ(笑)

マグマが!

まるで科学の人類へ破滅パターンかのように、
マグマ礼賛してたら、マグマが己にふりかかってきた。

体が、頭が、燃えるように熱いのだ。

うはははは!ぐはっ・・・。

無念。ティ?ラ?。
あとは頼んだぜ!bro!

大きな仕事

仕事といっていいかどうか分からないが、
一人の人間が手にできるもの、手にするもの、やれることは
結構小さい。

が、同時に名を残す偉人は多く存在する。
また、名を残さなくても在野として、それ相応の働きをした人も
まさに多く存在するだろう。

大きな仕事というものは一体なんだろう。
世界とか、社会とか、国家とか、とにかく「妄想」でも、
でかい概念が大きな仕事なんだろうか?

多くの人が関われると、ジュリアナ東京!(別にコムスンへの皮肉ではなく)とか、そういうものをやることが大きいかというと、
別にそうでもないような気がします。
大きいとは一体なにか、それを考える必要があるわけです。

大きな仕事とは、コントロール不可みたいな仕事を
人は無意識でいっているかもしれません。
例えば、金額が大きければ大きいほど、自分ひとりの力では
歯が立たないから、そこで出てくるのは「自分ひとり」ではない、
チーム、もしくは組織での思考です。
これ、うまくやれば相当かっこいいですが、
悪くやれば、責任になすりつけあい、談合地獄とかになりそうですね。
そもそも、部下は上司をみてそのようにやるのですから、
そもそも、上司が魅力的ではない組織に、人が集まるわけがないです。
これ最高に重要なところです。結果的にそうなると。

では、逆に小さい仕事ってなんでしょう。
パン屋でパンを焼いて売るのは小さい仕事なのでしょうか?
そういうことをいいだすと、職業の貴賎とか、
色々でてきそうですけど、ぶっちゃけなくても、
別次元の話な気がします。

大切なものは、自分が大きいと思えるかどうかで、
大きいと思ったら、大きい仕事をやろうと思ったら、
それをやるってこと、ただシンプルなそれだけなんでしょうよ。

マグマも刺激も同レベルのところで動いていて、
もっともっと自分を底上げできる気がしています。

可能性とは、無限の可能性というポジティブではなく、
悲観、否定、ブラック、虚無というマイナスの可能性も、
(例えば、言葉は人を励ますこともできるが、傷つけ殺すことも出来る)
やはり、可能性という言葉には含まれてますね。
それを踏まえた上で、その道具を、「可能性」をどう調理するか。
そこが腕のミセドコロなわけですね。

おそらく、「こういうふうにやればいい」というのは
結構言えるんですけど、でも、「実際に思っていることを形にする」のは、
思ったことを本当にやって、失敗成功など色々経験した人じゃないと、
分からないものだと思ってます。
これは、批評が要らないとかそういうことではなく、
単純に分からないなりに、どこまでいっていいかの、未知領域への
配慮みたいなことでしょう。
それは例えば知らない人に道を聞くときに、
「あー道教えろぼけー」って、ヤンキーじゃないと(ヤンキーに失礼ですが)
やらないようなことは普通しませんよねーという一種のマナーのような
気すらします。

と、書いてると寝れないので、ここでストップ。
要は、マグマが大量にあるから、もっともっと大きな仕事、
もっともっと面白いこと、
もっともっとやっていきたいですね。

というか、やりましょう。やっていきましょう、と僕は言ってみます。

絶対やれますからね。

鈍感力

最近危険なのは、
もしかして自分は「痛い人」ではなかろうかという話と、
これは本谷さんの映画の「ふぬけども・・・」が結構面白そうだから、
隙見て見に行くつもりなんですが、

それと、あとは鈍感かどうかみたいなところですね。

「痛い人」というのは、自分がそうではないと信じきっているから、
まあ内省しているこの時点で僕は痛くないさ!
さあ、おいで♪みたいなことになるはず・・・ですが、
この論理が通じない惑星AZDもあるわけですな(笑)

あと、鈍感とは相対的な感覚、基準、評価でしかないので、
鈍感といっている人が敏感なら、普通くらいかもしれません。
逆に、敏感だといっている人が鈍感なら、相当鈍感かもしれませんね。

まあ、それはいいとして。

そう思ってたらそう思わせるみたいな、痛い人をそのままスルーさせる
方法が一番いいです。

これは恐ろしいことですけど、
自分がいってること、やってることを、
全てあざ笑っていて、うけけけけってやって、
お前は痛いなーってなってたら、相当怖いですね。

まあ、どうでしょう。
こういう「痛い」話は、結局、自分がどれだけぶつかっていってるか、
それこそ、体当たりなり、自分が動いたかどうかみたいな、
経験値がものをいいそうです。

例えば本気で、自分が考えたことを述べても軽く流されたら、
それはどうなんでしょう。自分が空気読まない系の痛い人になるかどうかは、
結構神のみぞ知る領域になるような。

要は、痛いとは、痛々しいということで、
なぜ痛々しいかというのは、自分の絶対自信と他者の評価が
180度異なるからなんでしょうね。
でも、そういう勘違いなことって、結構、自分を伸ばす上で重要だから、
一概に否定できない。

そこをついた映画かなーとこっそり期待しています。
だって、自信って、そういう面が必ずありますもんね。

あと、鈍感については、
僕自身は、人の心のキビってのが、結構分かるって自信があったり
してますよ。そりゃそれなりに勉強してますもん。
でも、そういう自信とは裏腹に、全く分からないこと、
把握できないこと、そもそも見当ハズレだったこととか、
腐るほどあります。要は、「自信」って「ハッタリ」効果しか
ないくらいでよさそうです。あと、恐怖を軽減する、
不安を和らげる効果でしか・・・ないとすらいえそうです。
そういう中でいえるのは、
「自信がボロボロと崩れる経験」、つまり挫折感ですけど、
そういうのがあっても、うぐぐぐぐーっていって、
踏ん張れるところ、興味、地点がやはりやりがいがあるところかなと
いえそうです。

というわけで、痛い人を目指しましょう(違!
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