ReadMasterの軌跡

面白いことを仕掛ける。仕事を作る。ビジネスを作る。そんな日々から出てくるアウトプット蓄積場。

2007年07月

最後の瞬間

ループ思想とは、
結局、仏教の輪廻転生の概念かもしれない。
むう・・・奥ふか!

無性に昔のある時期、意味深(イミシンです)という言葉を
使いまくった時期がある。
意味深だけど、意味深だね、意味深だなあ、意味深だわさなどである。

積読気味の土屋氏の本を手に取ったら、
首相の話が書いてあって、それは橋本首相だったのだけど、
今の阿部首相とは重なりもしないだろうけど、
首相の話ということで妙に笑えた。

すごくヒトゴト口調でいうが、そうではないんだけど、
政治家とかになろうとして、なって何かを変えようとする人と、
エンジニアの脳回路は全く別なのかとか妙なことを考える。

ちなみに、政治が面白いと感じたことは、
何回かあるが、政治はあくまでも政治というレベルでしかない。

それはいいとして、
キューバは1年、カストロ氏不在のもと、弟ラウル氏が
国を治めている・・・実際はどうなのか調べ切れてないが、
とにかく、キューバってやっぱなんか気になる国なので、
アンテナたてとくことにしよう。

最近気になるものは、
馬鹿の直し方、馬鹿の集まり方、本当の馬鹿など。
馬鹿ばっかだなあ・・・。


料理熱復活。

きた。
恒例の料理熱復活。

fea631fc.jpg


料理熱復活
→料理写真がよくアップされるようになる
→「料理できるんだ。へえ?」
→「わたしも料理好きだよ」
→「え、そうなの?」
→「じゃあ、今度料理バトルしようか」
→望むところだ、この野郎。

というわけで、料理バトル・・・はありません。

ウインナーとピーマンともやしの炒め物。
味付けはさらりと塩・故障、ではなく胡椒なり。

馬鹿うま。
くそ。てか、モヤシってこんな上手いやつだったっかなあ。
舌が変化しおるわ。
むう、好みの変化か。深いな。
料理は深いわ!

次回は定番のヤキソバーんをレシピります!

必ず俺はやりとげるさ

世界一になる。
そう少年は口にして、社会にでた。
少年は今や大人になって、仕事をしている。

小さい頃に抱いた夢はどの瞬間に忘却するのだろうか。
それとも、忘却せずに考えないだけなのだろうか。

つまらぬ人生に、生きる価値すらないわ。
生きることが武士道と見つけたりって、なんか言い回し違うじゃねーか。

アクトローカリー、シンクグローバリーもいいけど、
目の前のことをやりつつ、それを貫いた先のものを見る、
という日本語がやはり好きだ。

お前ならできる。そう君ならできるさ。
お前ならできる。そう君ならできるさ。
お前ならできる。そう君ならできるさ。
お前ならできる。そう君ならできるさ。
お前ならできる。そう君ならできるさ。
お前ならできる。そう君ならできるさ。

洗脳完了。

幻想小説集 いいとこ床屋の縁の下

全体的にちょっと好きだなあという、偉そうな感想を述べてみる。

実際に、有名な話が挿入されていたり、ベースがそれだったりするものも
多い印象。

ライトノベルみたいなやわらかさはないと感じるが(ここでいう
柔らかさとは読みやすさのことか)、
といって、固い文章でもなし。
漢字が結構特殊(常用漢字っぽくない)な割り当てがあるので、
それが結構雰囲気を出している気がする。
植物や昆虫、動物などなど。

「幻想小説」というところで、
何か幻想的なものになる、なってしまう、なりつつある、なっている、
ので、恩田陸のような「物語」それ自体が楽しいみたいな、
そういう印象は受けない。

おそらくカンだが、著者はこういう幻想小説を書くのが好きで、
その好きなところは、幻想っぽいところのような気がする。
物語も小説も変わりはないと思うが、
どちらかというと、物語はそれ自体で説得力があるが、
小説はうまく話を構成した感がある。まあ、これはどうでもいいか。

個人的には、
フィクションかノンフィクションかはどうでもよくて、
どこまで魅了できるかが面白いところで、
そういう意味で、恩田氏の本をまた読みたくなるのである。

装丁は結構気に入ってしまうま。


幻想小説集 いいとこ床屋の縁の下幻想小説集 いいとこ床屋の縁の下
岡部 道男

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眠れぬ夜に読む本

タイトルは、内容とは関係なしと見る。

エッセイ集。

「ランボオ」だったか、そういう名前の喫茶店があって、
そこに作家が集まっていたという話が印象深い。

むう、なんかそういう場はいいなあ。
というわけで、そういう店(本好きとかが集まれる店ね)を
創る予定の人はぜひ連絡を。

ああ、ちなみに、遠藤周作がこりあんと名乗っているのを
初めて知ったりましたが・・・。


眠れぬ夜に読む本 (光文社文庫)眠れぬ夜に読む本 (光文社文庫)
遠藤 周作

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てこの原理

てこではなくてもいいのだけど、
なんていうんだろうなー、きっと自分の目の前と、
自分のやっていること、自分が何かしているってところで、
別の人が何かやっている、別の人が同じことをやっているとか。

そういうことを考えなくてもいいけど、
もっと自分のパーツというか、部分を機能的に分けられるような
気がするんですねー。

例えば、手と足は目の前のことをやるけど、頭は
絶対にそれのことを考えなくても可能というか、
まあ思想の自由の典型例ですかね。
それは集中してやらないとかってことじゃなくて、
切り離し可能みたいな。それを部分を機能的に分けるーみたいな
表現でいってるわけです。

好みもあるんでしょうけど、
誰かと話してコミュニケートしていって、
仲が悪くなるとか、そういうこともありながらも、
人は結局そうでしか生きられない。
要はコミュニケートして、その人間の深浅?を探るのも、
好みもありますけど、とにかくコミュニケートがありますねえ。

というところで、
コミュニケートしつつも、分けて考えるとか、
分けるみたいなのは全然ありというか、多分そうしないと、
100%そのコミュニケートのみでエネルギーが使われて
くたくたちゃんになってしまうま。

ハイプレッシャー!

ストレスを笑いに、
笑いを楽しさに、
楽しさを人に、
という3段論法を描けば、きっと社会は楽しくなるという
狙いがあったようだ(ホントかね?

大舞台に立つというところで、
緊張で全く思うような立ち居振る舞いすらできないことを
想像する。ちなみに、僕にとっての大舞台とは・・・

アイスを一日に20個食うこと


ああ、今日も一日始まってましたな。ニヤニヤ。

もがけ!

No more challenge, no more うなぎ。

そう。挑戦しなければうなぎはゲットできないのだ。
うなぎウマすぎ。ウナウナの夢。ウナギに食われる夢くるか。
む、電気ウナギか!し、しびれるー。

フルスロットルな平日の生き方を提案する。
次に、休日の生き方を提案する。
次に人生の生き方をデザインする。

というのを、もがきながらやってみようと思う。

なんか、カッコイイな(笑)

走りだせ。

いつからか、圧倒的に力不足を感じたときに、
圧倒的に力を得ようという動き、スタイル、フォームになった。

人を傷つける以上に自分を傷つける。
これをリストカットという手首を切る行為で、
代替行為をする人もいるが、それは残念ながら病気だ。やめたまへ。

また、いじめをする弱きものよ。
僕もいじめをしていないとはいわないが、
圧倒的に偽善という善を全面に出し、人を救っている。
これは嘘ではない。きっと、このブログには嘘は皆無だろう。
冗談や過激な意見、過激な独り言は、全て僕という人間に集約されるだけだ。
そこにあるのは、一人の人間でしかない。

それを感じられる人は、おそらく僕と対話が出来るだろう。
ただそれだけだ。

自分の苦しさを人に分かって欲しくて、
人に何からの物理的、精神的な行為に走る人もいる。

弱い人にも色々なものがある。
田舎ではないが、互いに助け合うことはおそらくできるはずだ。
その原則をおそらく、意外に誰も教えてはいないような気がする。
むしろ、これは教わるものではなく、見つけるものだ。
気づくものだ。

もしかしたら、このままではダメなんではないかとか。
このままでいいのだろうかと。
自分の頭と、手と足で、それをやる瞬間、きっと
その爽快感に酔うだろう。

僕は問い続けるだろう。
なぜなのかを。なぜなのかと。

チェ・ゲバラ&カストロ

その人道主義を説いた革命も結局失敗に終わるということか。

共産主義でもない資本主義でもない革命という台詞に期待したが、
ソ連が手を引いたことで経済崩壊。
結局、経済なしで自国で完結できないならば、
資本主義に頼らざるを得ない。

日本も同じく。自給率とくに食料自給率が100%でなければ、
それが必須物資ならば、輸入に頼らざるをえない。
そもそも貿易とはお互いにないものを補う発想だと思うが、
必ず差異は格差を生み、そして貧困と金持ちを生み出すか。

宇多田ヒカルの曲に確か、誰かの願いが叶うころ、
誰かが不幸になるみたいな歌詞があったはず。
あれはなぜそうなのかが問いたいところだが、
じゃあ、資本主義は必ず二層に別れるかと。
そうして、セーフティーネットというフォローを
国がしてくれるという前提がある。

政府がおかしくなれば、人は一体何を信じればいいのか。

結局、ゲリラ戦だろうが、何だろうが、
暴力を使ったらダメなのかと感じる。

戦争を美化する気はないところで、
反戦を感じた先達は何を祖先である我々(なんていうと右翼っぽいが
別にじいちゃんの話なら身近なわけで)は、
何をそこから学ぶかは、腕のミセドコロだ。

もう、8月夏、終戦の日が近づいている。
一体誰が、戦争を望んだのだろう。
非国民と誰が言うような文化、誰が日本語を強制して、
誰が人を殺し、誰がその頃何を思っただろう。

主義はある種の運動でしかない。
そこに生命とくにというよりも、人間の生命保存でしかないが、
運動が主義という言葉に隠れているだけだ。

もっと学べ学ぶのじゃ!

そうだ、旅にでよう

うざったい日常からの脱出(ちなみに日常は滅茶苦茶楽しい・・・)
うざったい人間関係からの脱出(ちなみに人間関係で苦しむほど僕は繊細じゃないのです)
うざったい大人どもからの脱出(電車内でくそ五月蝿いババアとジジイは
田舎にすっこんでろ!とかなんて思わないです。あ、嘘です。)

そんなことができる。それが旅。

おそらく旅が好きな人はそういうのが一理や100リくらいあるのだろうけど、
でも、現実逃避って本当にするやついるんかねとか、
正直に思ってしまう。まあ、ヤケ酒、ヤケ食いとか、の延長で
ヤケ旅だろうけど、結局それは「戻りたいがための」逃避にしか
見えないからで、
というか、現実から逃避するなら、俗世から去らねばならない。
これは本気ですけど、そういうことをやる人って・・・
まあほとんどというかいないですよね。

人間のどろどろしたことやって生きていく。
これがやっぱ人生じゃないかと。それが生きることだと、
ぼかぁ思うので、俗世から離れるといったところで、
ちょっとまってくれよと、離れるわけにゃーっすと、
そうなるわけです。


旅旅旅旅旅旅。

選挙を祭にしたいなら10年かかるとするとき、そうでも祭にしたいかどうか。その感覚があるかどうか。

例ですが。

多分、10年かかってもやりたいなら、
多分やったほうがいいような。
そこまでかけたくないなら、別の方法でやろうとするか、
そもそも、別のことに力入れたほうがいいかもしれません。

意外にはまるのは、
自分が選択肢としてあげたものが、
そもそも無理だったというのがあります。
結果論ですが、ぶっちゃけ、選択肢は無限大というのは詭弁でしかなく、
なぜなら、全部が可能な人間なぞいないし、
そもそも、できもしないことを空想し、選択肢を捏造(笑)することも
人はやっちまうからですね。

まあ、そんな意味で「可能性は無限大」とは言いませんけど、
まあそういう意味もとろうと思えば取れるわけですね。

そうやって考えていくと、一生で人がどれだけのことを
やっていけるかって結構少ないんですね。
だから、まあ、冷静に落ち着いて色々探る期間って
トりすぎ!くらいにとったほうが、いい、思い、ますね。

というわけで、言葉に力がないというのを
感じる瞬間に言いたい言葉でしたとさ。

社会を知らぬ物よ!

ちょっと書いておくのだけど、
田舎生活にあこがれる人の気がしれない。

で、当然のように補足をしておくけど、フォローといったほうがいいけど、
田舎とはそもそも、密着が最大に強いコミュニティーだ。
そこで、助け合いをするのは、そうしなきゃ生きられないからだ。
情報も限られるし(インターネットはどこまでそれを打破しているかは、謎だ)、商店にいけば全情報が分かるのは、聞いていて「便利」と思うが、
自分の子どもの好みまで把握して、べらべら言われても、「困るがな」
とか思うのは僕がおかしいだろうか。

というか、そもそも親がそういうのが嫌いだったようで、
僕も同じように感じる。

なんていうか、極端なんですね。僕がじゃなくて、世の人はといった
ほうがいいでしょうか。

世の人とは、今からいう人のことですが、
そういうべったりべたべた感がないと生きていけないというか、
なんていうか、厳しく辛いまるで「修行」みたいな滝打たれを
何度も何度も死ぬまでやるみたいな・・・。
そういうのだと思っている人がいるんですね。
ああ、いじめられまくって心がボロボロになるとか、
そうなれば別ですけど、逆に曲がりまくっていじわるする人も
同じように「厳しい」と思っているかもしれませんね。社会を。

人には緩やかなつながりから、濃いつながりまであるのは当然で、
そういう感覚が全くないとやってられん。
というか、人間関係に悩む人は、そもそもそういうのが苦手な人で、
そもそも僕の言っている前提とか、感覚が全て通じない人
かもしれないとか思ったりするけど、まあそれはいいや。

だから、田舎で暮らすのなんてゴメンだぜ!とか思ったりします。
別に田舎で住みたい人、住んでいる人をどうのこうの言う権利は
ないですが、都会からわざわざ移ってやる人は、
やっぱ分からんですね。

という意味で、妥協線というか、別に遊び程度に行くなら
全然OKだなあとか思ったりします。

おっと、田舎もしくは農作物のことには触れておかないと
ただの恥さらしなので一応いっておくと、
まあ田舎がなきゃ都会もないわけですね。といっておきます。

その上で、成立している都会があるわけでして、
都会で育った人は相当の覚悟がないと、田舎暮らしができないと
考えています。

この田舎暮らしをするというのは、何か目的がないと、
よくありそうな、定年後の老夫婦がゆったりと田舎生活は、
多分無理だと思っています。
相当調べて相当足を運んで考えた結果やるならいいんですが。

ちなみに、僕が知っている田舎好きとかの人は、
全く別の話ですね。

田舎を知らない人が、田舎っていいですねっていうとき、
その田舎のくそ恐ろしさ(笑)(それはコミュニティが
僕みたいにうっとうしい!と思う人もいれば、そうじゃなくて
合う人もいるでしょうし、また情報、娯楽など、
外で遊ぶというのでも、また感覚が違うでしょう。
ちなみに、創造性の遊びは僕は好きですが、
それは田舎でなければできないなどとは全く思ってません)
を知った上でやって欲しいものです。

これは、沖縄で暮らすみたいな話も、
全く同様ですね。いいところわるいところがあるわけで、
じゃあ、今住んでいるところはどうなのかね?
とより良く見えてくる気がします。

これをさらにいえば、
自分という存在も同じことがいえます。
他人を良く見ることで自分も分かることがよくありますしね。

また、いかに小さい視点、細かいことに拘っているかは、
意外に時がたたないと分からないこともあります。

全てを考慮したうえで、
社会の恐ろしさをしった人は社会から逃げるか、さらに突っ込んでいくか、
面白さをしったひとは、つっこんでくか、幻想だと思うか。

なんか組み合わせが色々なのですね。
まあ、幻想大いにしてきませふよ(笑)

でかいこというならそれなりの行動を

ということを、その通りにしている人から
言われると納得するが、そうではない人から言われても
腹が立つだけである。
ということを理解してものを言う人ではない人が、
「痛い」なこのやろうというのを気づかないのもまたあれだ、
といっていること自体を一体人はどこまで理解するか、
また感覚としてセンサーなりアンテナがあるかが気になる日曜日である(笑)

そもそも、自分ができないことを「やれ」というのは、
軍隊とほぼ(軍隊にもピンキリということを踏まえてみるか)同様で、
自分ができないことをやらせるのは愚の骨頂かもしれない。
まあ、パソコンできない上司ができる部下にやらせる図がすぐ浮かぶが、
それもどうかと思ったりする。

自分ができないことを認めた上で、
それをいうなら、それなりの説得力ある言葉、行動を必要とする。
「よろしくーん」とか言われただけではアウトだろう(笑)

まあ、なんかよく分からんけれど、
その程度の人間にしかならないので、スルーということで、
よろしくちゃーん。


三月は深き紅の淵を


友人のおすすめ。
結果、馬鹿面白い。

4章から構成される。
1章が一番個人的によし。

が、そもそも、ミステリ自体あまり読まないので、
なるほどねえ・・・と思ったりする。
なんていうか、物語というところで、ミステリを入れるのは、
作家の嗜好性みたいなものかなーと思ったりするわけですな。

要は、このタイトルの本について書かれた本で、
その本へ向かおうとする上での制約!がミステリなのか、
それともそれは逆で、「本へ向かおうとする」ところで
ミステリになっているだけなのか。

一番印象に残ったのは、一章の亀島の台詞。
p.95

「だいたいですね、僕はここでこうして本の話してますけど、今の
若者世代じゃ本の話なんてほとんどタブーに近いんですよ。
読んでても、恥ずかしくて、読書してますなんて言えない。
『お前試験勉強してるか?』『全然だよ』っていうのと同じです。」


むう。共感してしまうぞ。
本の話はこっそりやるのがいいみたいですねーって、んなわけないやーん!
というわけで、小生が開催しているカタリベカフェなんぞを
思い出すわけですね。
ああ、若い人は本の話もできないのかと。
ちなみに、断っておきますが、僕は本をすごく読んだ覚えはないです。
それは正確にいえば、大学生以降からしか本を意識して読んだ覚えが
ないというわけで、という意味で、本好きではなかったですね。わーい。


この1章で話されている雰囲気、要は本の話をしている自体が、
カタリベカフェというイベントをそのまま表しているのではないかと、
そう感じました。これは友人の指摘にもあったはずで、
そこが馬鹿面白かったわけです。

作家の恩田氏がそういう場が実際にあるかどうかというところで、
自分の回りにそういう場があるのを基にしてか、
それとも物語としてかは分からんですが、
こういう場はありますね。いえい。

というところだけでもこの物語はおすすめです。
2章の夜行列車もいいですねー。夜行
三月は深き紅の淵を三月は深き紅の淵を
恩田 陸

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シュルる

豊田市美術館で行われているやつ行ってきました。
http://www.museum.toyota.aichi.jp/japanese/index.html

展示物が120くらいあったので、結構多いんではないかと。
一番印象が残ったのは、
ダリちゃんの、幻想的風景x3枚のやつでしょう。

当然全く意味など分かりませんが、
意味など求めること自体が感性の法則に逆らっております。

でかい絵はやっぱ映画っぽくて、美術館とか見に行かないと
見えない点で貴重です。絵的な貴重さとかはどうでもいいんですね(笑)

ちなみに、俺的解釈ってやつでいえば、
シュルレアリスム=超現実主義とは、
現実を超えたものだから非現実である、のではないです。
むしろ、より現実的なところな現実を超現実といいます。
超とは、すごくって意味なんですね。

ダリの絵って、いわれても分からんぜこのやろうという人は、
えーと、地平線がかかれてたりして、ボールが一個あったりして、
なんか人間っぽい人がいるけど、風景になるんですけど、
風景としてこういうのってあるのかなあーって、感じの
上の幻想的風景の3枚はそんな作品です。

この風景自体はおそらく現実、にはないかもしれませんし、
あるかどうかはよくわからんです。
が、ここで大事なことは、これは非現実ではなく、
超現実ってことです(笑)

つまり、現実と非現実(例えば夢とか)は緩やかに連続していると
考えた場合、超現実って、現実か非現実かどちらかに近いか、
それとも中間点にあるか。どちらかかもしれません。

そもそも、現実とは何かとは、答えなんぞないでしょう。
非現実的だと思うのは、今までの鑑賞者(自分のことですね)の
経験の蓄積との照合という行為でしかありません。
これ簡単にいうと、「現実的と思うかどうか」ですけどねえ。

という意味で、超現実なぞ笑止!
という人も見てみると面白いかもしれません。

ちなみに、ここにメタ認知との結合で、ライトノベルを持ってきたい
わけですが、文学とシュルレアリスムは深く、いやそもそも
発祥が詩(ブルトンか誰か)だったようなので、
密接な関係があるはずです。

物語とは、メタ認知とその物語の主人公への同化の切り替えが
楽しめるという面白さがありますが、
シュルレアリスムも、現実とより現実なところを垣間見えるとか、
なんだろうこれって思う瞬間の切り替えができるって
ことを感じると面白いかもしれませんね。

まあ、鑑賞は自由ですし、楽しんでしまえれば、
病み付きになってしまうかもしれません。

気づき7980

ソフトウェア開発技術者試験という試験がある。
ITな試験といっておけばいいだろう。

これ、英訳でも書かれているのだ、
software design & development engineerだったかなあ。
で、デザインって単語があるんですね。
これ設計とかのことで、要はソフトウェア設計、システム設計の
デザインでしょうな。

でも、意外だったのは、
ソフトウェア開発といっておきながら、デザインもしているということ。
そしてデザインも必須だということ。

デザインとは、企てである。
なんかテンションが上がる単語っす。

限定された

空間、時間で何かを創り上げること。

それらは決して完成度は高くないかもしれないが、
ラフ(粗い)でもいいから創り上げるというのが
大事であるというのは非常に共感す。

完成していないものは、やはり完成していないのだ。
未完成の?というのは、未完成の感じがいいという以外は
ほとんど意味がない。完成物をみせろ、くれと。

未完成のものは、逆に完成物へのプロセスとしかなりえない。

限定という意味で、人生も限定されている。
きっと、無限に生きれるなんてつまらんというのと、
時間がたりねーという人間は矛盾した生き物でいいんじゃないかと
人類肯定せり。

主旨とふさわしくない

発言、意見、考え、場を壊すもの。

それらはどう影響されるかがなかなか面白いところだ。
一本筋がはいったものは確かに分かりやすいが、
分かり安すぎても困るわけでして、分からないことがないなら
そもそも「分かろう」とすることにならない。

が、「分からなさ過ぎる」でも、「分かろう」とすることすら
やめてしまうかもしれない。

で、これらをなぜか両極端に、
「事象」「ものごと」の難易度とするor説明のしかたとかもこちら、
それか、
自分の理解力とか才能とかにしてしまうのには、
正直閉口してしまう。

そもそも、分からないものなどがあるのは当然であり、
その分からないものをどれだけ少なくしていっても、
分からないものが少なくなった?だけで、人生が終わるような
気がする。

これは、理解するな、理解しようとするな、理解を放棄せよなんて
馬鹿なことをいってるわけじゃあない。

分からないことを少なくするという考えがそもそも
前提としておかしいのであって、この逆が
色々知ろうとするというわけではないのは言うまでもない。

ライブ感とは、読めない、先がもう分からないから、
その場でという感覚だ。
これはおそらく・・・考えすぎちゃうと分からない感覚なのかもしれない。
そうなると、やはり、感覚+考えるで動く方が、
そのどちらか、感性のみとか、理性のみとかよりも、
絶対面白い気がするんですねえ。
うひひ。

お前ならできる

お前ならできる
お前ならできる
お前ならできる
お前ならできる
お前ならできる
お前ならできる
お前ならできる
お前ならできる
お前ならできる
お前ならできる
お前ならできる
お前ならできる
お前ならできる


よし、自己洗脳完了!

にしても、くそ熱いだぎゃあ。ああ、暑いか。
脳内いかれてまうてー。かんべんてしちょーだいなっとう。

たとえ、自分が信じていること、感じていることが
圧倒的に誤っているとしよう。
しかし、それは圧倒的な誤りでしかない。
要は、非人間的だとか、そういう次元とは違うものではないか。
何か感じているレベルと、事象としてあるレベルのものが
違う・・・。ただそれだけ。

ああ、いかん。寝る。ぐうう・・・・。

決定力

サッカーは色々な大会があって、あまりがっつり関心してませんが、
よく言われるのは、「決定力」という言葉。

FWは、点を取ってナンボなので、ボールをもったら、当然
点を入れにいくわです。あ、自分が必ずシュートするって
意味じゃないですけどね。

そこで言われる決定力。
例えば、フリーで2回ボールをもって、もうこれは入ったか!
というときに入れられないと決定力不足といわれます。
まあ、そんな簡単じゃないんだてーとはいくらでもいえますが、
そこはプロならプロの世界で、結果が全てですね。
ボールがゴールラインを割る。それが仕事。

サッカーはおいておいて、
結局、決定力って何かなと。

それは、チャンスがあったら、それをどこまで
ゴールに結び付けられるか。または、どこまでシュートを打てる
体勢に、シュートを打塚、みたいなところにもっていくか。
その粘りなり、相手を崩そうとするキープ力なりが
問われるわけです。決定という一時的なものなのに、
意外や決定力とは総合力なような気がするわけですね。ちゃんちゃんって
話はここで終わらず。

決定力は、やはり、どれだけ試合がひどい、例えばどれだけひどい
条件でも、きっちりあげていくというこだわりみたいなのが、
まあ環境には必ず左右されるとは思いますが、
しかし、ゴールをあげていく、きっちり得点をとる、
きっちり仕事をする、きっちりチャンスを形にかえていく、
そういう力が必ずいるし、必要だなと感じています。

やっぱり、最後の最後で、もうダメかもしれんというところで、
ぐっと力が残っているとか、そこまでいかなくても、
トータル的にうまくやるというのではなく、
なんていうかやはり形にしてしまえるのは、実力だなと思うわけです。
あ、これサッカーの話じゃないですね、すり替え。

決定力をつけていく。
それは、力をつけていく、というフレーズとほぼ同意。

ぐふふ。気づいちゃったもんね!(あほ

セクシープロジェクト

結局、トム(笑)は、それをやれといっている。
そう、トムはそういうだろうし、そういっているのだ。

あらゆる問いは、面白いかどうかに落としこめるかどうかで
決まってくるか。
面白いと感じるツボが異なれば、当然面白いとは
感じないこともあるだろう。

しかーし!
ここで面白いことがおきる。
それは、知らないツボもあったという発見かしらん。

セクシーに生きる。
かっこええ!!!!!

うおりゃー。

爆走、疾走、焦燥、蒸発(笑)

世の中の縮図はないけど、
縮図っぽいものというか、一つの小宇宙!みたいなものが
あるとしたら、きっと中で遊んでいるのもいいけど、
ブータレテイル(笑)なら、多分創りという攻めに出た方が
面白いっすねえ。

とか、思ったりした、有意義なこの時間帯。

さあ、ぐうぐう。

新規開拓せよ

ニューパイオニア。あ、それだと新開拓者か。

現状維持。
それは悪ではないが、面白みはない。
若さとは挑戦だと考える。
だから、挑戦している人は、年齢が上でも「若く」感じる。
見た目の年齢を軽く下げてくれる。

開拓。
それは善ではないが、面白みがある。
常に一歩先は闇。歩いて何があるか分かる。まさに闇鍋のスリル。
開拓している人は、心がやさしいと思っている。
また、無駄に怒ることはない。
それは自分に充実があるからだ。

というわけで、開拓せよ。
現状維持をしていくだけで精一杯というのは、
おそらく、現状というものが見えてない証拠になるかと。
例えば毎日生活していくだけで精一杯なのは、
それはそういう現状を維持することが目的化しているかもしれない。
別に全てにこの話を適用するわけではないが、
現状を維持というのは、そもそも現状は日々変わるわけで、
それらを維持するには、ある程度の浮き沈みをコントロールしているからこそ、
維持ができるわけだ。
その浮き沈みをうまくバランスして、維持していくのを、
ホンの少し開拓のベクトルに向けるという単純なことだ。

しかし、これが意外に難しい。
おそらく、手を動かさない人間には全く難解になるだろう。
しかし、手を動かす人間には、これは馬鹿みたいに「なんでそんなことしらへんの?」というレベルで分かってしまう。要は簡単に感じる。


問い詰めていきたい。
なぜなのかを。
なぜそうなってしまったのかを。

うおりゃー。

ゆうこりん?♪

ゆうこりん?ゆうこりん?

演じきれるかどうか。
ゆうこりんという存在は僕にそれを与えてくれていると思われる。
ちなみに、芸能界は売れてナンボの世界なので、
露出して磨耗するというところも考えていくと、
ほとんどの人は、「いなくなった」と感じるんじゃないでしょうか。

それは逆にいえば、芸能とメディアとのパワーが
恐ろしいってことになりますね。

たまにメディアに近づき、離れ、それらを繰り返すのが
おそらく重要かと思われます。

ゆうこりーん。

力強さと優しさと。

力はどこにでも生じる。
圧力とはその相対的なものから生まれる力だ。
だから、格差というものがあれば、必ず弱いと思われる人も
レバレッジを効かせるはずだ。

はず、というのは、そもそもそのケース(状況)が
全く違うからだ。

経済格差というのと、小遣い格差では話が違うというわけだ。

具体的なことはいえないが、というか分からないが、
最近ぱったり見なくなったが、一時期ビジネス書らへんで
流行っていた、えーと、あ、でてこない。
なんとかの法則。数学とかのあれ。あー。でてこん。まあいいや。

それは、結局、軍隊とか戦争の話が基だからアレだけど、
例えば、自分が弱いなら、1v1で闘うとか。
1v多勢はばか者であるとか、そういうの。
まあ、兵法ですね。あ、思い出した。オペレーションリサーチ。OSね。
そこから解釈?して、上の1v1とかの話。
あ、思い出した。ランチェスターの法則だ。おお、さすがRM。
書きながら思い出す。この力強さ(謎

だから、まあ弱いものには弱いものなりの戦いがある。
ある人物、それは大統領でも、首相でも、友達でも、赤の他人でもいいが、
僕を憎むとしよう。で、殺してやりたいと思うとしよう(やだなあ・・・。
で、その場合、大統領なら、きれいに僕の住んでいる建物ごと
ふっとばすミサイルを打つかもしれない。
そうなったら、僕は「天を仰いで」「まあしゃあないか」とか
思うかもしれない。絶対的な強さだ。こちらは何もできないだろう。

しかし、そのようなケースはほぼありえない。
事故にあう確率の方が高いだろうし。

じゃあ、そうでないケースなら、僕はどうするか?
殺しにくるなら、バリケードをつくったり、仲間を呼んだり、
助けを求めたり、敵?の動きを、情報を探るだろう。

軍事力をもって何かと考えている人々がまだいるのかと
そういうのは、そもそも海外では当たり前のように紛争やらが
おきていて、戦争も、暴動もそうだし、
全く「静的」ではない。そこで「静的」に、軍事力はいらないというと
ギャップがあるわけだ。
もちろん、分かるが、そもそも、次元が違う話を同じ次元にもってきて
しまうところで、ディメンショントリック!があるわけだ。
論理の飛躍と、詭弁とほぼ同様だろう。

おそらく、そこまで本気ではない、それは、考え方の相違ではなく、
本気度の問題だと考えている。
それは学ぶとか。

例えば!
原爆を落とされた人間は、当たり前だが、戦争賛成するわけがない。
するのなら、相当記憶力のイカレタ!人間だろう。
逆に、戦争を推進、もしくはしてもいいというのは、
自分が戦争に参加しない前提があるとか、戦場には行かないとか、
自分が弾に打たれない位置にいるとか、
自分は戦争をしたことはないとか、話も聞いてないとか、
自分を神のごとく考えて、国民のためとか、「うそぶく」とか、
単に経済的に軍事費(これはアメリカとかですかー)で、
ウハウハになるとか、そういう類のことしかないような。

というか、必然的にそうなる。

ただ絶対の反論は、
攻められたらどうするか。攻撃されたらどうするか。なのだが、
国を守るとか、歴史を紡いでいくとかって、
本当に軍事力がなければできないかというのは、
かなり問い詰めていきたいところだ。

ちなみに、軍事力がなければ、攻められ、国は衰退するが、
一時的にそうであれ、必ず力があれば、復活する。
このスパンはおそらく長い。人の一生とか軽く超えるか・・。

いくら、ITが発達しても、街が出来る、人が集まるとか、
そういう諸々の「街が生まれる」ことの期間はきっと、
変わらない。人が集まって生活して、というのは、
結局昔から単位があるかどうかで、1日とか、そういうのが単に
5日だったり、1ヶ月だったりしただけなんじゃないかといえそうだ。

そうなると、たまに見聞きする考えだが、一番好きなもので、
新しい世界観を出していくというところだ。
しかし、これは日本人は厳しいと思われる。
日本人がダメなのではなく、そういう人が政治や外交のシーンには
おそらくほとんど手をあげてやろうとは思わないのじゃないかと。
いても、ほとんど潰されてしまうのではないかと。マンパワーも含めて。
そうなるから、提示はできないだろう。

というわけで、国民レベルでつながるというところ、
いわゆる国際交流ってやつを、強力に推し進めていけば、
面白いものができる気がしている。

そこはもうコミュニティで括れないものだ。
そういう方向に世界は進んでいるんじゃないかと。

まあ、英語が必須になってきそうですよね。

で、これらをやるには、やっぱ力強さと優しさがいるような。

結果は結果。されど結果。たかが結果。結果まん。

結果は大事だが、
そもそも結果とは何か。

ループ思考(ついに思考化)によれば、
結果はない。常に過程になる。
売上1000億達成も過程でしかない。
世の中の経営者というよりも、起業家にはそういう感覚が
おそらく多いと思われる。だから、赤字になってもそれも過程で、
次の過程で立て直せるねー。みたいな。

結果は与えた形、与える形で目に見えるものかもしれないし、
上でいえば1000億ってやっぱ数字だけで、お金があるわけでは
ないわけで。

結果が全てというのを本当に主張すると、
おそらく、僕は過程の含有率が気になるだけさ。
10のうち8が過程なのか、9.9なのか、それとも3くらいなのか。

結果を出した!と心で思ったとしよう。
でも、それはループの中での些細な、ちょっとした大きな過程、
にしかすぎない。
ならば、結果は出し続けつるしかないということになり、
これもまた「辛い」ことではなく、N1の過程とN2の過程は
ほとんど差異がない。これを人は「徐々に成長する」というらしいが。
そのN1・・・NNまでというとき、Nは飽きるか、死ぬかみたいな(笑)

打てば響く。
そんなのって、生の人間にしかありえなくて、
その響き具合が鈍ければ鈍いほど、
レバレッジがきいてくるような気がする。
いわゆる、ダムの決壊と同じような、水の馬鹿力。

そういう風にかんがえていくと、
結果は出し続けて当たり前となる。
結果なんて、ほかっておいても出るんだから、
非常に意味がない言葉である。

まあ、結果=良い結果、というふうに使うのだろうけど、
そもそも、良い結果も、常に意味が変わる。

こういうこともあるわけだ。
自分が良いとおもった、結果が、実は
後からの自分にとっては悪い結果になることもある。
というところから、結局、結果は結果としかならない。
だが、されど結果で、たかが結果であり・・。
結果結果結果!

結果オンリー野郎になるのも一興。
それを結果マンと呼ぶことにします。

結果マーン。

吹っ飛ぶ

夢ー夢ー夢ー。

むーむーむーと呼べたら、あなたはRMブログの読みすぎです。
ただちにやめましょう(笑)

神々の消えた土地

えー・・・おもしれ。
さすが、どくとる氏。


神々の消えた土地神々の消えた土地
北 杜夫

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確実に着実に

そしてMOREスピード!

疾走は疾走し続けることではないんだ。休みがある。
人間の才能ではなく、力というものはある程度分かっている。
よくいう「そりゃ?しすぎじゃない」というやつだ。

「?しすぎ」でも、まだまだたりねーと思う人もいるが、
「?しすぎ」ではなく、「?している」だけで、不満という人もいる。
人それぞれだが、
判断せねばならない。自分がその行為に対してどれだけ、
「足りているう?」と思うかどうか。
その判断をするだけなのだ。すごく単純。

しかも、誰もその判断を否定することはできない。
なぜなら自分のことだからだ。

焦ってもしょうがない。
確実に手を動かしていこう。

少しずつ手を動かしたことによって、
蓄積されたものが、僕の背中にきっとある。
羽根はやして、空でも飛びますか(妄

階段を下りていっても、なぜか地上にたどり着けない。それは、そもそも階段を下りてないからだ。

アフォリズム企画第一弾。第二段はないっす。

階段を下りている夢ではないけど、
階段を下りていた。でも、地上がちっともやってこないんだ。
最低、階数分は降りたと思う。3階からなら、3回は。
でも、地上についたと思ったら、それは地上ではなかった。
むしろ、最初のフロアに近づいたかのような感覚。

降りている階段、いや階段を下りることで、
確かに地上に下りることができる、はずだと考えている。

ミステリーでも、ホラーでも、SFでもなく、そしてちょっと現実的に、
普通は、3階まで上がったら3階から地上に降りれると思っている。
そうではなかったら?

階段を下りる行為は、確かにそれは行為として存在する。
しかし、下りるのは、3階なら15mくらいはあるのかしらないけど、
15mから下がることを階段を下りるといえばいいか。

下りているのに、実は下りていない。実は上がっているんじゃないか。
階段を上がっていることを、階段を下りているといっていないか。
そもそも、誰が階段を下りていけば地上があるなんて「裏」を取った?
そう思い込んでいるに過ぎないかもしれないのではないか。

ここに夢の要素を加えると、
そう、ループにたどり着く。

騙し絵的な、そうシュルっぽいところでもいいけれど、
階段は決して地上への道を提供してくれるわけではないと、
疑うことは決して精神的に何かおかしいわけではない、とここで断言しておく。
そもそも疑うことから始めるのは、哲学である。

階段のループ。下りても下りても地上は現れない。
一般的には上がっても上がってもゴールは見えない、というほうが
分かりやすいだろうが、今回は下りる話なのだ。

下りても下りても、永遠にループからは逃げられない。
もし、誰か権威者が僕を殺しにやってきたら、
僕は反抗するだろう。「僕は何もやっていない」というだろう。
ただ、ミサイルが上から振ってきて、あっという間に蒸発するかもしれないが。

その視点、それはどういう視点かというと、
宇宙人的(地球外からのメタ認知)とか、人類的(人類至上主義かもね)とか、どうでもいいこと的とかになるかもしれないけれど、
とにかく、そういうことを考えていると、
ループに生きていようが、どうでもよくなってくる。
本当はどうでもよくないけど、この瞬間はそうだ。

すごく人のことばっかり言っている人が
確実に存在する。そしてまたあら探し的なことばかりやっている人も
確実に存在する。確実とは、それを見たからだけである。
そういう人に出会わないことを期待するが、それは無理だろう。
やつらはやってくる。これは否定できないのだ。
そして、逆に自分も、そしてこの僕もやつらになっていることがある。
そこを自戒できるかどうか。それがやつらのままで終わるか、
終わらないかの違いかしらん。

ループとか、日々のマンネリとか、日々の楽しさと充実度とか、
未来への希望とか、そういうのがどうでもいいという人もいると思う。
ただ、それは明らかに間違っていると断言できる。
なぜなら、そこに「面白さ」がないからだ。
面白さとは何か。

簡単にいえば、心が動くことか。それは感動といったりするが、
感動とは微妙に違う。心が動くとは、ホンの少しの動きでいいのだ。
嬉しいやら悲しいとかの感情とか心打たれる感動ではなく、
単に心が動くことなんだ。身体の一部が動いたら、それだけでいいんだ。

面白さは笑える要素と、興味深いものという視点と、
何か詰まっている、ひきつけられるもの、直観をそそる、
直視できないのにしたくなる、そういったものを「面白い」と呼ぶ。

その面白さを人生に求めなければ、一体何で生きているのか。
食って寝て死ぬのか?多くを望まない、高くは望まないから、
このくらいで生きていければなんて、「分かったような」口きくなあああ!(壊

社会が厳しいんじゃない。現実が厳しいんじゃない。
単に、相対的に自身の望むものが緩すぎるるだけっすよ。
日本が豊かだとかそんなのどうでもいいから、
一瞬「豊かだ、ありがとう」といって、その後に全力で生きて欲しいんだよ。
なんでそうしないのかって、単に「怖い」からだろう。単純に。

恐怖、怖さ、不安、心配、恐れを最初に持ってきて、
やはり「多くは望まん。ただ生きるだけで」というのか。
それは意味があるのか。生きる意味ではなく、ただ生きるだけに
意味はあるのか。そこに「面白さ」はあるのか。

ないなら、ないと言ってしまえ。そこから考えてみてくれ。
あるなら、その面白さをもっと出していこうぜ。

逆に、
階段を下りていって、下りてないことに気づいて、
その繰り返しって、本当にダメかね。
ダメじゃないと思うけど、でもループからは逃げられないのさ。

これは悲観ではない。楽観であり、むしろ、希望だ。
ループという前提、それは均等ということだ。平等じゃない。
ループに気づいたら、全員がそういうループにいることを意味する。
そこからはいでることが全てじゃない。
ループ自体を利用することもできるし、ループをさらに創る
人間もいる。またループから逃げるわけじゃないが、
穴を作る人間もいる。

色々できると思わないか?
ループって、別に閉ざされた、何もない、暗闇の、
同じことの世界じゃないんだぜ。

そもそも、社会が、歴史が繰り返しであるだろう。
戦争をやめない人間は非常に愚かだ。
愚かなものに語りかける暇はない。

自分の命を守るなんていう「かっこいい」台詞、
そういうのは、本当のサバイバルで吐いてくれ。
今更、第三次世界大戦でもやるというのか。アホですか。
本当に馬鹿なんじゃないかと、アホなんじゃないかと
思ったりするが、本当にそれをやろうとしている「愚直」という
愚かさを手に入れた人間は怖い。

いい意味で、狂気は必要だ。が、それを利用する人間が
必ずいる。コントロールする人間は必ず「何か」狙っている。
それ自体は善悪はない。

「キノの旅」に、仮想戦争みたいな話がある。
それは、戦争を実際にするんではなく、映像で戦争するという
仮想世界だ。セカンドライフで戦争ができるような気もしなくはないが、
どうなんだろう。
その戦争をする国家らは、そこで戦争をすることで、解消している。
解消されるから、実際の戦争は起こらない。
非常に合理的かもしれないが、それほど戦争はやめられないということだろう。

弱きものは吠える。弱い犬ほど吠えるのだ。
僕は知っている。強く静かな人間が、今、この瞬間多く生きていることを。
それは圧倒的に「希望」になる。それは力になる。
権力でもない、知力でも、軍事力でも、ない力。

ただ「存在」するということが力になる。

生きることに意味があるかというのは、結局そこになる。
存在の強さというのは、きっと、存在というところを
疑って初めて分かる感覚なのだろう。

階段を下りる必要はないかもしれないね。

エネルギーはとっておくものではない

アリとキリギリス的な話かもしれないし、
今日やれることは明日じゃなくて、明日やれることは
今日やらない的でもないはず。

人間の慣れは良い悪いは結果的にしか分からなかったりする、
滅茶苦茶不便なものだ。
というよりも、善悪なんてものがそもそも曖昧なわけで、
というか曖昧な概念というからこそ、善悪なような。

エネルギーをとっておいて、それを後で使おうとすると、
大抵、というか100%の確率で、その蓄えていた
エネルギーは別のことに使ってしまうか、
そもそもエネルギーを蓄えていたことを忘れてしまう。

だから、エネルギーは使い切るまでいかなくても、
どんどん使っていく方向がいい。
で、なくなりそうなら補充すればいい。休憩しませふそうしませふと。

そもそもエネルギーを持ち出さずに、
テンションが上がることを考えればいい。
またはそれをすればいい。

だから、エネルギーとは無尽蔵でほぼ間違いなし。
が、体力とエネルギーは蓄積構造が異なるといっていい。
だから、勘違いして、体力がないのとエネルギーがないのを
一緒にしてしまうのはいかんかもしれない。別にいいかもしれない(笑)

体力とは、物理的動作に対するものだが、
エネルギーは精神的体力(笑)になるか。

エネルギーをどんどん生み出せるようにすれば、
あーらフシギ、あとは体力さえあれば、
まあ若いと「おまえさん、若いだろう」といわれそうで、
だめなんだけど、まあそこらへんクリアすれば、
ほぼ最強ですな。

というわけで、ぐうぐう。

ビルマの竪琴

己の道を描くこと。
結局、そこに偽りがないというところがクールなのですよ。
うはは!

和田誠 装幀の本

最近になって妙に気になりだした和田氏。

それは、文庫でとくに装丁を手がけているというところでだが、
気になったので、ざくっと見てしまう。
あ、これ借りました。久しぶりに。

図書館で借りると、本を買わなくなるのの反証として、
僕はこの中で装丁を眺めていたら、気になった本があったので
買ってしまいましたが(ニヤリ

和田さんって平野レミさんの旦那さんだったんですね・・・。

この本6180円なので、気になる方は借りましょう(笑)

和田誠 装幀の本和田誠 装幀の本
和田 誠

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もう見えている

絵が頭の中でできたら、
その通りにするように現実を変えていくだけ。

非常にシンプルだ。

まず、絵を頭の中に描くのが難しいと思われがちだが、
なんのことはない、単に描くだけだ。

現実を変えていくのが難しいと思われがちだが、
おそらく、そういう人だけではない、
つまり話が通じる人も世の中にはいるということを
まず自分の目で確かめること、そこから始めれば良い。

焦る必要はない。
もちろん、日々いきていくためにお金がなければ
焦る必要があるが、余裕ができたら、
どんどんそのバッファをもって働きかければいいと思っている。
そうしていけば、おそらく、生きているって感じは
消えないだろう。そしてより充実したものがうまれるだろう。

友よ。ふんばりたまへ。
アンタなら できるさ。

モンフィーユ

大分寝かせてしまった。

WORDSというエッセイのような詩のような、そういうものが
いくつもある。非常に「生活感」といっても、なんていうか、
泥臭くない、でも実は日常でかつ事実なんだけど、
ああ、生活を楽しんでいるなあというのが伝わってくる。

必死になって働いたのに自分の手柄(笑)にならないという
むなしさと同様に、毎日30分単位のスケジュールで
動いている人が「なんかつかれたなああ」と天を仰ぐ瞬間に
この本は渡したいとか思ったりする(笑)

良い本に出会ったさあ。

モンフィーユモンフィーユ
永井 宏

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ネタの加工技術

それは編集能力とか、噛み砕いて話す力とか
そういうことをいうかもしれない。どちらでもはっけよい。

ネタをそのまま出すのも、うまく加工するのも
その人次第。人生は何がおきるか分からない。

そういう意味で、楽しめる軸は1本では厳しいのかしらんと
思ふのでありまふ。

若者はなぜ3年で辞めるのか? 年功序列が奪う日本の未来

フリーターズフリーに城さんが寄稿?してたので、
結構売れてた時期をわざと外して今よんでみました。

面白いですね。ゲラゲラってやつじゃないですよ。

で、なんで若者が3年で辞めるかって答えを、
僕なりの答えをいうと、要は魅力的じゃないんですね。会社が。
というか、本には「レール」とかかれている「年功序列」の仕組みが
とてもつもなく「無意味」に思えるってわけですね。
ほぼ同感です。

ただ、現実的に「既得権」「年金」は崩せなくて、
年金は制度的にダメって意味で崩れていますが、
圧倒的なパワーで「リヴァイアサン」は若者を潰してくるのを
考えると、意味が分からなくなりますね。
何のための国家なんだろうなあと。

という意味でそこのあたりまではさすがに本著は書かれていません。
おそらく脱線しまくるはずでしょうし。

若者には我慢してもらって、という台詞は、
年功序列だからなせた業。でも、年功序列をするには、
基礎体力が必要。基礎体力とは経済成長とか、単純にお金をどれだけ
持っているか。資本とかですねえ。
その基礎体力があればまだいけるが、そもそも今まであった、
「経済成長」はもうないぜーってところで、年功序列は
ほぼ無意味というか、時代に適さないものになってきた、と。

これを読んで思ったのは、一つある種の組織を作って、
どうやってやったら面白く働けたり、面白く自分のやりたいことと
キープできたりするんだろうというふとした実験魂(笑)
それを探らないと、おそらく「良い大人」の言っていること
(それはあらゆる本から著名人の発言から全て)を
愚直に信じてしまうとダメなんだろうなあという、感覚かしら。

良い大人とは、残念ながら、「二枚舌」とか、
「自己中すぎ」(笑)とか、そういう人ですね。
残念ながら僕の周りにはそんな人が圧倒的に少ない、
魅力あふれる人で一杯なんですね。
ああ、さようなら、悲しき日本社会よ、と嘆くにも
嘆けない状況がある。

著者の好感のもてるのは、最後の方に、
レールを外れろとはいってない。ただ、レールというのが
あるよねーという認識を促しているところ。
だから、レールから外れる前に、というか外したところをいくなら、
自分はレールの上でいいじゃないのかとか、
それこそ働く動機なり、人生とか考えて、
だから「働くってなんだ?」と問うのが必要になるんだけど、
そこも著者は哲学っぽいがと前置きして、しかし非常に重要で、
誰も避けて通れないというようなことをいってますな。

全くその通りで、結局、楽なんでしょうね。
言われたようにやってくのって。ホントに。
僕は楽だとは思えませんけどね。楽<腹立つ、というようになるので、
僕はレールにはおそらく乗っても片足もしくは、たまに乗せる(笑)
という感じになるかもしれません。

ちなみに、このレールは、目標があまりないので、
実は、レミングじゃないですけど、集団自殺なレールかもしれません。

あと、著者も同じように「薄っぺらい」といっては失礼ですが、
考えない若者だったと自分で言っているところがいいですね。

あと、コンサルタントとの矛盾というか、
まあ、コンサルする会社色々あると思うんで、
あまりそこの矛盾はどうでもいいような気がしてきますね。
あ、これは、著者の仕事が人事コンサルだから、
そのコンサル対象は、「年功序列」なところが多いから、
矛盾してるんじゃないの?って指摘ですね。
あとがきでちょっとそんなことがかかれてますな。

とりあえず、というか、若い人、とくに20代の人はとくに3年目に
なる前の人にはおすすめです。さくっと読めるし、内容もグッドです。

まあ、極論いっちゃえば、ちゃんと考えて、
ちゃんと社会の状況みて、ちゃんと生きるかなって
そういう総括になりますが、まあこれはどうでもよいですな。


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城 繁幸

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解のないものに惹かれるか

正解はこれです。

というのがない世界があるとする。
それは実は現実であり、人間なのだけど、
そういう真実が辛いというときもまた人間。

解があることに慣れてしまい、
解がないことに不安になる。

そもそも正解って数学用語って一種のゴーギャンだっけ、なんか違うべ。
ジャーゴンだっけ。ゴージャン。まあどれか。画家?(笑)

専門用語って意味のあれです。
それでいいんではないかと思ったり。

それくらい「日常生活」には不必要な概念なんですね。正解って。

例えば、どっかカフェいって、店員にありがとうといえるかどうかって
すごく大事なことだと思うんですけど、あ、機嫌悪いとそれどころじゃ
ないってときもありますね(笑)、
そういうのってルールで決めているわけでも、なんでもないし、
そうしなさいってマニュアルがあるわけじゃないんですよ?
って、マジメな顔して言ってみましたとさ。

だから、いくらガッコで正解学んでも、その正解は、
ガッコの教科書とか試験様の点数加算になるだけで、
あんまり意味はなし。そもそも勉強を点数=正解というようにしたのが
正しいかどうかはおいておいて、
それは確かに分かりやすし、合理的ですな。
まあ、それはいいやってことで、
正解とか点数を集めたのはですね、結局一つのスキル、
例えば受験スキル。指示こなすスキルであって、
自分で考えてこうしたらどうでしょうか?といって、ではこうしたいと
思うのでこうさせて欲しいのですか?的なものが、
ほとんど鍛えられないんですね。

ちなみに、ディベートとかって遠からずそのスキル鍛えられそうな
気もしなくはないですが、ぶっちゃけ微妙かもしれません。

先生の言うことを聞く、もしくは反抗しないというところで、
かつ、点数をとる、勉強をするのがモラリーな生徒、学生像です。
が、ところが、社会っちゅーもんはそれをアンマシ求めてない。
アンマシというのは、求めているところもある、というところもある
っという感覚からです。

だから白い嘘みたいな、要は嘘じゃないけど嘘になる可能性もあるみたいな、
まどろっこしいんじゃあああ!っていうのがあるわけです。
これは僕の現実です。実際にどのように現実を感じるかは、
ちっと学生という身分では(別に馬鹿にしてないっすよ)分からんです。
僕は分からなかったから。それだけはいっておきませふ。

そうやって、言われたこととか、与えられたことばかりになれると、
いや正確には、受験スキル、すなわち偏差値を高いものをたたきだせる人間は、
教育の再配分?みたいなのと一緒で、気づくことも多いわけです。
何にか?

それは、「自分で考える力がもしかして大事なんじゃないだろうか」とか
「あれこんなことやってていいのかしらん」とか、
気づく人は結構多いと思いますが、それを実行に移す人は、
なぜか激減します。さらに実行して、継続する人はモット減ります。
多分、何かあるんでしょう。何かが。

という意味で、一ついえるのは
「解のないもの」を楽しいと思えるかどうかなんですね。
どうも、最近は「解のないもの」は不安すぎてダメっす。という
人も確実にいて、その人とは「馬が合いづらい」というか「合わない」んですけど、それがどーとかじゃなくて、
そういうものなんだなあーと、なんか大人っぽいことを感じてます。
解のないものって、冒険だぜ!みたいな感じでテンションあがるんですけどねえ。

だって、知らないことをですよ、知っただけでも、
「うわああ、そうなんだあああ!」って感じですごく面白いと
思うんですけどね。

カタリルレロ

人間ということが分かった。
誰が?自分が。

例えば、足が疲れるということを
足が疲れているのを我慢するのがカッコイイみたいな
そういうことを思ったりするが、疲れるもんは疲れるのだ。

結局、人生はそんな誰かはとっくに知っていることを
自分は全く知らなくて「ええそうなの!」って気づいて
終わるような気がする。

あ、これ、楽観的に解釈してくれるといいんですが、
まあ文章は読者が全て。あほには分からん(ひでー
つまり、書いている人間もあほなので、
誰にも真意は分からぬというトリック!

ぐうたら生活入門

げっ。くそ面白いじゃないか・・・。

これが「海と毒薬」な遠藤ちゃんかい・・・。

トイレの話がなんど出てくるんだ。
原田宗典を思い出したりします・・・ええ。

最後のあとがきに「今日やれることは明日しない」
みたいなことわざで締められてて、
ああ「そうだなあ。とりあえずぐうたらするか」
みたいな衝動に狩られそうです。

まあ、ぐうたらしろといわれたらぐうたらしないのが、
僕ですから、心配せず。

にしても、北杜夫氏も出てきて面白いですねえ。
「ぼかぁ・・・このままでいんでしょーか」
みたいな「ぼかぁ」をこれからぱくって使っていこうかなあ。

ぼかぁ幸せですよ。ぼかぁぼかぁ・・・。

ばかぁじゃないんで、よろしくう!

ぐうたら生活入門 (角川文庫 緑 245-6)ぐうたら生活入門 (角川文庫 緑 245-6)
遠藤 周作

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ある人からの手紙

強く、美しくとはかかれてないが、
美しくあって欲しいみたいなフレーズがあり、
かなり気に入っている。

美しいとは、女性の顔が綺麗とかの美しいではなく、
生き方が美しいとかそういう言い回しか。
まあ、純粋なんでしょうかね。

美しいものも、栄枯盛衰のごとく、必ず汚れるものというか、
少なくとも美しくなくなる。ということはあるでしょうけど、
何か「心」の美しさは、どこぞの政治家様の発言じゃないですが、
美しくありたいものですね。さて、美しいとは何か。問え!

それはそうとして、美しく。には、強く。という言葉が
何かぴったりで、両方一緒に使いたい。

つよく、うつくしく。

なんかこの言葉聞いただけで、すげー元気湧いてくるんですね。
ああ、いいなあこれ。

「強く、美しく生きる」

なんてなんか馬鹿かっこいいですね。これ、すげーよ。

美しいって、なんかポキン!って折れてしまうような、
サッカーの翼君でいうみすぎくんのガラスの心臓ーじゃないですけど
(ああ心臓病で体弱いんですけど、上手いってキャラですね)
それが強くあるんですよ。すげーすげーげす。げすーげすー。謎。

強いってのは、決して暴力的であるとか、何か力的なものがあるって
そういうことではないんですね。柔をもって剛を制すですか?
つまり、ソフティーで、ハードなやつを蹴散らす。
そんな感じでしょうか。ではもう一度。

「強く、美しく」

なんかいいなあ。これもう一度やっていいですか?

「強く、美しく」

まあ、くどくなってきたのでやめておきますが、
強く、美しく生きたいみたいな人いたら、
声かけてください。多分、相談に乗りません(おぉ

では、良い週末ちゃんを!

シブタツとか

書簡な展示。
久しぶりに行った場所で、そのギャラリーは初。

シブタツこと、渋澤龍彦、って字あってるかしらん、
と、堀内誠一の往復書簡の展示。

たまたま、最近シュルった岸田さんか、岸谷さんか、
あ、岸田さんかが企画かなんかで絡んでおられる。
あ、シブタツはシュルと関係あるってことなんでーってことですな。

まあそれはいいとして、
とくにーなんかいうことはないんですが、
堀内誠一の「ぼくの絵本美術館」ってくそ面白そうです。
というわけで、チェックせねば。

どこから何がやってくるか分からない時代。
というわけで、常に気持ちは「無責任」で。ってどないやねん。


コマンダンテ

http://www.alcine-terran.com/comandante/

みてきましたさ。

やっぱ映画はこうでなくちゃっと。
インタビューものとか見慣れてないとおそらく寝ます。
いや、ちょっと首がだるくなってきて・・・。

ま、それはいいとして、あのカストロのインタビューです。
一番惹かれたのは「アメリカで禁止」というところです。
アメリカが禁止するから、すげー過激なのかなーと思ったら、
別にそうでもないですね。

カストロを生で経験してないから(例えばキューバ危機は、1962年でしたか、こんな年号意味ないっすけど覚えてしまっているものですね。
そもそも、あの頃の世界の情勢も考えなきゃいけないですけど、
っとそれはおいておきますか。)
あれですけど、好々爺(こうこうや)みたいな人で、
まあ有名人というか、若い学生にも誰からも愛されている・・・
そんな指導者。で、当然、社会主義とか懐疑的に見る人は、
これはつくっているんだろう?みたいな話になりますが、
とくにそんなことはないんだろうなと思われます。多分。

そもそも、カストロにとっていいことって
あんまりないようですしね。自分のことを話すことで。

まあ、アメリカに批判的というのはおいておいて、
思い出すのは、北朝鮮ですね。

カストロの言葉で印象深いのは、
軍事力で世界を制圧できると思ったら、それは間違いだと
言ってる訳です。

ほら。これだけ聞いただけでも気になるでしょう。

おそらく、社会主義とかそういうのに妙な偏見がある人には
とくにおすすめです。

が、基本的にインタビューで、笑い的なものが、
カストロのジョークか、オリバーのジョークかなんで、
眠らないように(笑)

映画はいいですね。
これだから映画はやめれんのじゃあああ!

偶然はあるものか

今日、道端でばたりと久しぶりに知り合いに会う。
正確には声をかけられたほうだ。
ああ、僕は人から声をかけられる存在だったんだと、
安心するのであーる。くくく。

偶然はあるわけだ。

そして必然もある。
例えば筋力きたえれば筋力は・・・つくわけだ。

必然も偶然も「幽霊はいるかいないか」みたいな
クローズドクエスチョーンじゃないわけで、
しかも両方楽しいわけで、
つまり、両観点からいえば、1日が二度楽しいわけです。

もっとも、偶然に期待するってことは
まだまだ無粋でございやす。

人をだます人

結局、あれだ。
使いようだ。

心理学を悪用というか、まあ完璧なもんじゃないってのは
あるんだけど、そもそもメタ心理学みたいなことも自覚しないと、
おそらく心理学を学ぶものとしては危険なわけで。
あ、例えば、心理学は万能だとか思っている心理学者とかですね。
まあ、いないと思いますが。あ、いたらいてもいいのか。

それはともかく、そういう心理学を学んだことはいいとして、
心理というもの、人に何か与えるものを、利用するのは
まあいいとして、その利用が「悪」用ならやっぱいかんのですね。

ここらへんは、原理原則とか、生きるうえでのマナーというか、
あれです。ビジネスするパートナーが時間も何も守らないなら、
やっぱそういう人とは仕事できんのですよ。これ当然っすよね。
変な話時間を守る普通な仕事人!と、時間守らないできるやつだったら、
迷わず前者を選びます。まあ後者も考えものですが、
一緒に仕事はできないでしょう。

というようなルールが、人はやはり集団社会で生きているわけでして、
そこらへんルールってのが、まあわかっとりますよーみたいなところが
大人ってもんじゃないでしょうか。

という意味で、それらはルールであって、
そのルールを利用して何か人をだましたり、苦しめたり、
あと、「痛い」ところでは、自分が「正しい」と思っている人の
言動ですか(僕は僕において正しいということはありますが、
それを人様に正しいのだ、えっへんなんてやりませんよ。
やってもいいけどそれは冗談の1つでしょう。それをやれば、
まあ自分という人間の小ささがはっきりわかるだけですね(笑))
、それも厳しいですねえ。
私はいいことをしている。あなたはいいこと、得になることを
なぜやらないのだ。あなたはおかしい・・・など。

まあ、どちらにしろ、
人をだます人になって、天道様の下を歩けるかどうかですよね。
歩けない人は皆、夜の仕事をやるわけです(偏見
まあ、近づいてきたら、全力で潰したいところですが、
そんなところに力を使うわけにもいかないのが悔しいところカモガー。

攻める

攻めてないわけじゃないぜ。ぶろー。

リソースを蓄えて、チャンスを待ち、
きたとおもったら、全力でぶっこむ。

ああ、メダル落としみたいですげーテンションあがる。
メダル落としやりてええなああ。

本当にすごいやつは

目の前にいない。

この仮説を証明するために、
まあ、うごきゃーて。

行け。さらば道は!

そして、さようなら。
そして、ありがとう。

そして、寝ますか。ぐうぐう。

やれるときにやる

神がこうのたもーた。(嘘

やれるときに出し惜しみするとか、
やれるときに後でやればいいだろうとか、
そういうことをいってると多分後で後悔する。

そういうのをリアルタイムで見ると一層そう思い、
それをまたやっちまう自分をみて「わー自分馬鹿」(自分が馬鹿というのと、自分馬鹿という4字熟語を掛けている)と思い、
やれるときにやれよ、おまえ。みたいなことを思うわけですね。

うおーやるさやるぜやれよ。

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