ReadMasterの軌跡

面白いことを仕掛ける。仕事を作る。ビジネスを作る。そんな日々から出てくるアウトプット蓄積場。

2007年05月

相性と愛嬌とタイプと仕事

自分にはムリだと思ったら止めた方がいい。

さて、この台詞、言葉は、
忍耐、我慢を何事も放棄せよといってるようにも聞こえるが、
そのハードルやムリと思うレベルは
どこで設定するかとは問題が別次元のように思える。

例えば、よくある話として、
それくらい我慢しろよ、というくらいのものを
我慢できずに・・・というパタンはある。
逆もある。我慢できないレベルを、なぜ耐えられるの?とか。

なりたい自分になるのは素敵なことだと思うが、
自分の合う合わないというのが大切だ。
これは、チャリで疾走しながら語られたログである。

仕事と相性みたいなのがどうかを考えると、
どうも向いてないと思う人は向いてないという傾向がある。
これは当たり前と思うかもしれないが、
自分には仕事向いているといって仕事をやっている人は
あまり見聞きしない。むしろ、向いているといってる人は、
向いてないことを隠そうとしているかもしれないネ。

つまらん、面白くない。
この言葉を言わない人間もいないが、
でもその言葉を吐いて与える自分への影響度、周りへの影響度などを
考えると、何もいえなくなる。

生きていることが恥ずかしいと思え!

そうだ、朝だよ、朝だよ!

圧倒的な力

圧倒的な力で、つまり、相手の兵力の10倍あれば
その10倍で正攻法でいけばいい。
孫子の兵法は確かそんな話だ。話じゃないか。戦略書か。

ならば、そのようにやっていけばいい。
圧倒的な力で圧倒的に勝つ。

小さく勝っていく習慣もいいが、
圧倒的に勝つというのも必要だ。

おそらく、小さく勝つだけでは、刺激が足りない。

萌え?の抑揚、イントネーションとかって、
押切「もえ」、のように呼ぶのは外道なんすかね。

って、萌えなんて使わないからいいんだけど(おぉ

前ブレーキ

前輪ブレーキのことでない。

前へ傾きすぎることを、抑えるという意味。

例えば、前傾しすぎても、それは結局倒れてしまうのだ。
だから、スピードは過剰ではなく、適当な、相応なものがいい。

自分に相応ではない、見合ってないものを
取り入れてそれを消化することももちろん可能だが、
それを取り込むという意志がないのに、
それをやるのは、滑稽だ。
例えば、英会話をしたいという人の意図はどのレベルなのか、
軽く趣味でこなすなら、適当にやればいいのだ(別にそうやって
適当にやることが悪いとも、趣味でやるのが悪いともいってない。
過度にやりすぎるのも問題だから、相応なものがいい)

もちろん、常に相応なものがあるわけではない。
だから取り入れていく姿勢が常に問われるわけだ。

水はただの水にあらず。

てこの原理を日常に活かすには、
無駄な力を使わないことかもしれない。
が、力点や作用点を注視することだ。

ある力に逆らうときにパワーがでる(ヒルクライム系(笑))人や、
流れに乗ることでパワーがでる人(ダウンヒル系(笑))や、
一瞬にかけるスプリント系(笑)など、
そういうのがどこかにある。オールラウンダーも忘れちゃいけない。

鬼十訓にあるように、
大きな仕事に望まなければ己は小さくなるというか、
小さい仕事は己を小さくするとあるが、
その通りで、結局、自分がどのタイプなのかを探っていかなければ、
自分の力をがつんと出すことはできないし、
埋もれることはないまでも、チャレンジ感はないだろう。

そういうフルスロットルな感じでいかないと、
結局己は拡張するはずがない。
これをせずに、口先、もしくは机上で、何かをやりきろうとする
人間が普通にいて、口だけは一丁前なことをいうから、
その口に唖然とすることすらもある。

成長という言葉は、多言していうものでもないが、
あらゆるシーンの重要な1つになるのかなと感じる。

水をみて、「バチャーン!」とやるのか、
「水ですねえ」とやるのか、
そういう引き出し具合は、日々のやっていること、
考えていることの表れとしかならない。


というわけで、燃えるぜ。
ジャストみーーーーーーーーーーーーと!

プロフェッショナル論

こんなことは、独り言じゃねーんだよ。
語りだよ、語り。ちっ。なめんじゃねーぞ。

ワンチャンスとプロフェッショナルは一致する。
最少のチャンスは最大に生かすには、
おそらく、瞬発力が試される。

ただ、瞬発力だけで、持久力がなければ、
つまり、一瞬だけではダメなのだ。
コンスタントに沸き起こる力が必要だ。

そう思った僕は、その力をつけるために、
継続してやっていくということをしつこいくらい
意識してみた。
結果的には、継続が目的ではアレなのだけど、
最初の狙い通り、コンスタントに、飽きずに、
やり続けるという感覚が身についたように思える。

それよりも面白い発見として、
意外なほど、人は飽きやすいし、僕は飽きっぽいとか
たまーに思うが、どうもそうではないようだと
思わせるくらい、人は飽きやすいということに気づいた。

それくらい興味が移り変わり、
また、人は忘れるものだなと。

同時に、あと執着してそうで、全然してないというか、
変な執着があるというか、アドバイスが滅茶苦茶下手な人って
そういう部類かなとか思わせる。
要は、響かない言葉を投げかけて、それが相手の反応を
ほとんど踏まえず、自分の意見をいって、それで満足というか、
正論のみを吐くタイプには多いのだが、
そういうコミュニケートできない人というのは、
良い意味で多く出会えている。
だからこそ、反面教師としていくのだが、
これはキリがないことにも気づく。

要は、悪い点、悪い人ばかりをピックアップしてもしょうがなくて、
反面教師とは、もうどうしようもねーべさ、佐助殿。みたいな
時の話でしかない。

仮にこういう話を聞いて、
反面教師云々についてケチをつける人がいたら、
その人は、周りに反面教師だらけなのかもしれないし、
まさに「佐助殿」みたいな状況下かもしれない。

どちらにせよ、いいところをみていって付き合う。
これが基本だと感じるわけで、悪いところは弱点で、
そこをフォローすればいい。
そういう視点でみていくと、誰も悪いところは目に付かなくなる。

あとは、ある一定の土俵で勝負していく、生活していくだけで、
非常にシンプルな話になるような気がする。

プロフェッショナルとは、結局、こだわれるかどうかに限る。
結構、簡単に諦めることもできるけど、そこを踏ん張ってやれる人、
それをプロだといいたい。ちょっとやそっとで、投げ出さない人、
それもプロだ。

プロの仕事においては、そういったこだわりが
随所に見られるのだ。それが見えないなら、やはりプロではない。
プロは誰かからプロだね、と言われるのではなく、
自分でプロかどうか、そう思うだけの話でしかない。

そう、このブログは、プロが書いているのだよ、明智君。
がはは、また会おう!

脳内世界

電脳という言葉がある。すげー魅力的な言葉だと。
サイバーとかんあるのかしらんね。ネットとか。

自分の脳内と、現実という場と、人の脳内というものを
コミュニケーションという通信でつなごうとしているということを
最近感じているのだが、
結局、当たり前だが、通信エラーや通信の状態がよくない場合、
どのパケットを優先的に出していくかが問われるような気がする。

ここで、ピンときた人、エンジニアっすね。熱いっす(笑)

プロトコルというトコロテンみたいなやつは、
インターネットではTCPという規格っぽいもので統一されている。
だから、通信が出来るというか。

ルールのない場がない、ということを自覚させてくれるだろう。
え、そうでもないって?

人は生きて死ぬってもの基本ルールなような気がする。
負荷かけすぎりゃ、死ぬよ。マジぽんマジポン!!マジポンだべ。


よく、理想と現実のギャップというクソあまっちょろい言葉を
聞くと、はらわたが煮えてひっくりかえって、飛び出す(えぇ)のだが、
脳内世界と現実とコミュニケーションしていくのを
そもそも放棄しているなら、前提としてまず間違っているから、
ギャップが埋まるわけがにゃー。

違いとか、違和感とか、そういうのをキャッチしたときに、
体がどう動くかでしかないんだけど、できなくても、
そうしたいという意志があるかどうかというか・・・。

ギャップとかいってる人に限って、
ギャップの認識ではなく、放棄とか、逃げることばかり
考えている気がする。

何から逃げて何でそうしたいのかねえとか、
そういうことをふと思う。

が、最終的に、我は我、人は人。
よその子が、携帯持っていても、家は家で、
携帯は要らないのだ。

これは子どもにとって辛いかもしれないが、
非常に真っ当な教えなような気もする。

いや、それで子どもが死ぬとかいうことではないだろうし、
きっと後から色々自分の土台になていくのではないかなとか。

ちなみに、家は、ファミコン時間制限とか、
そういうのはなかったですが、
やりすぎて、親にコンセントをハサミとかで切られたりとか、
すげー熱かった。

やっぱ、怒るって大切よね。

どれくらいゲームやってたかというと、
家帰って、ずっと飯までやって、飯くって寝るまでゲームというのが
普通だったような。

え、意外だって?
いや、僕はゲーマーっすよ。

だから脳内世界が大切だと。もちろん、こもるなよー(笑)



世にも奇妙な物語

いや、あれは面白いと思うので、まとめて見たかったりするなあ。

で、現実をみると、そういうことがあるような気がしてというか、
普通にある。

奇妙っすよ。

現在は現在形でしかないから、
そこにへばりついているわけにはいかにゃーーーーーーーーー。

現在がそうあり続けることはないってことだにゃああああ。

うううーーにゃあああっす。

二階から目薬

昔、我が家で流行った。

二階から目薬という言葉の意味が非常に曖昧で、
多分、二階から目薬なんて、的外れだーとか、
無茶だとか、絶対ムリさ、っていうか、二人で目薬?
ありえねー、とか、叫んだ覚えがある。(一部嘘あり。

二階からなら、三階からも同じじゃないかと思ったりするから、
実は50歩100歩的な意味合いかもしれない。

実は、目薬ではなく、胃薬でもいいかもしれない。
二階から胃薬。なんか、状況が笑えるぞ。くくく。

ミックスして、三階から胃薬。おお、なんか熱い。

では、1階から風邪薬ではいかが?

何がいかがか分からないが、
とりあえず、コーラうめえ!

らりらりらりらりらりら さわやか コークぼんば?

自転車が倒れた話(美談

風が強い日だったと思う。

高速の下の大通りを歩いていた。

風が強いから、自転車が結構倒れていたかもしれない。

ある女性が自転車を出そうとして、駐輪場っぽいところから

自転車を出していた。

その時、自転車が倒れた。おそらくドミノになったせいか、

5,6台倒れた。

とある紳士(若手)が、その様子をみていて、

小生は女性とその紳士の両方を観察しつつ、

道を急いだ。

すると、その紳士は女性が倒したと思われる

自転車を直すのを手伝いにいった。

かっこいい。

美談である。美しい国などいらない。

アンチアベではないが、キレイな言葉はいらないのだ。

要は、目の前に起きた状況にどう体が動くかでしかない。

反射だ。脳内で考えて行動するとか、そういうのは、

キレイすぎて、多分、受け付けないだろう。

いじめ、自殺問題について、語る大人がカッコワルイから

実は美しい国みたいな言葉しか

言ってないような気がする。

紳士の行動っぷりをみて、

何も感じない。鈍感な人間がいるだろうか。

鈍感で鈍感で、そういう人はおそらく美しい国で

美しい国で生きれるのだろう。そんな国は要らないのだ。

その紳士っぷりに魅了されて、

手伝いにいこうと思ったが、小生はまだまだ修行中の身であって、

手伝うことはできなかった。

舞台には役者は一人いればいい。

もちろん、一人芝居をやれというわけではない。

一人も役者がいないのではない、という意味が分かってない

アフォリズムで、アホないいまわしさ。

良い話を見つけると、きっとそれは人に

言いたくなる。いい話をきくと、きっとそれを書きたくなる。

ペイ・フォワードのサイクルなやつを、

きっとできるし、そうしてきたからこそ、

社会があるわけだ。先達に感謝は忘れないと、思われる。

さあ、自転車を直しにいこうか。

仕事している姿がかっこいい。

そう思うようになった。
それは、自分がカッコイイからではないのはもちろんで、
鏡に映る仕事している姿をみてカッコイイと思うのではなく(そんな状況はありえない、仕事柄。あるならディスプレイだな)、
人が働いているっぷりをみて、真剣にやってる人は、
やはりそれなりに誰でもカッコイイものだ。容姿は問わないような、
むしろ、容姿よりも、雰囲気にあるような気すらする。

昔、仕事をしている大人というのが全くイメージできなくて、
何をしているのかしらん、と思ったものだ。
でも、そういう感覚はいつしか消えて、目の前にやってること、
見ていることが仕事だと、そう思うようになってしまった。

が、実はそれは仕事ではない。
常に、目の前にあるのは、常に目の前にないという、
一種のパラドックスクスクス。が存在するということだ。

例えば!(ここは大きく張り上げる感じで、そうだな、うちわでひっぱかれながら発する感じだネ!)
振ってきた仕事(テトリスみたいだ)をやっているとき、
その仕事は本当に仕事かどうかを考えてみると、
実は違うのではないか、むしろやらないほうが「仕事」ではないかという
感覚が出てくる(出てこないっす)

まあそれはともかく、仕事している人はかっこいいと思える。
働きマン万歳と思える。
といっていると、まるできっちり仕事して即帰りな人間を
批判していると思われるが、んなことはない。
楽して、徹底的に早く帰る。これが仕事の醍醐味でR。

疾走ボンバー

疾走!疾走!疾走!

だよーん!

鬼となる

「遅刻してすいません」
「遅刻?別に遅刻してないじゃん」
「え、でも時間って・・・30分前が出社じゃ?」
「ああ、そういう風にいう人もいるね」
「とりあえず、すいませんでした」
「だから、遅刻してないでしょ」
「え、え、遅刻ですよ!」
「遅刻じゃない。」
「遅刻」
「遅刻」
「遅刻」

さあ、今週もやっぞやっぞやっぞ。
燃えるぜバーニング!

長い付き合いと語りと。

前はこうだったんだけど、今はこうという
変化の話が好きだ。
とくに、嫌いなものが好きになるというのが好きかな。
なんでかー分からなくてもそうなるとか、そういうのが特にいとをかし。

これらは最低2つくらいは条件がありそう。
1.その人をよく知っている。もしくは語っている。
2.長い間時間をかけて1を行っている。もしくは長い歳月がたっている

他にもあるんだろうけど、
変化がわかるということは、頻繁に出会ってから会うか、
多くの年月が流れるかどちらかーか。


自分が目をつけていた人やものが、
あとでブレーク!するのは、かなり心地がいいという話を聞いていて、
全くその通りだと。


ところで、
今年のテーマは「攻める」で、
攻めすぎて、最近、引いて見るということをしていない(笑)
逆にこういうだろう。
「攻めは手を抜かない。手を抜いた=終了さ」
なんてね。

だが1つあるのは、
ストックとフローの考えは捨てては危うい。
つまり、攻めて、フローが出てくるのはいい。素晴らしい。
しかし、何もストックしていかないと、ふるさとを失った日本人(笑)みたいになってしまわれる(笑)
もちろん、攻めで、蓄積されるのは、ろ過された濃い情報や知恵、知識、
気づきなどでかなり使えるものなんだけど、
どちらにしろ、定着とか、土台がないと脆いというか。

もちろん、土台つくって上に建てるって前提の話で、
何も立てる必要がないなら、土台は要らない。
これもまた1つの戦略なり。

さあ、踊りますか。

dd1dc3ef.jpg


俺。

あざっす。

結局、あれだ。
そういうこと(どういうことだー)かなと思った。

要は、人が動くのは人の動きとか、
熱しかないかなあってこととか。
なんていうんだろう、
社会に諦めみたいなのがある、とくに若い人、20以下ね。
絶対にそれは違うよねーって言い続けていこうかなとか、
理屈で、全部机上で片付くことなんて、逆にほとんどないとか、
大人が誤解されているというか、
もっと広いというか、色々な人がいるというか、
なんだろう。色々言いたいことがあるなあってのは思う。

きっと言うだけではアレだから、
行動で示していくというのが好きで、
そうしてきた自信があったし、
今もそうだ。それは変わらない。

でも、まだまだ、なのでR。
もっともっとチャレンジしていって、
もっともっとやっていかなきゃならない。

これは、もう誰も干渉できないところだし、
やっていくしかないという半ば使命だ。
これがあるかないかというのは全然楽しみ方が違うのかもしれない。

いけ、海の向こうは、明るい。

結局

やべ、飲みすぎたか。
てか、あんたら余裕だな。ちっ。

よく分からんけど、俺、幹事好きかもしれん。
ことを確認。

分かった。喜んでやろう。俺はやるよ、ああやるさ。

日本酒を開拓したくなった。
さすが、日本酒Masterだ。俺。(ほう

人はなんで飲むのかなああと、プチ哲学。
ストレス俺はあんまりないし、そもそも語れる人々、
環境も結構ある。すげー充実している。
でも、どんどん誘って、どんどん仕掛けていく。
これはもう、基本ポリシーで、誰も止められないし、
迷惑とかどうでもいい。

迷惑ならやらないけど、陰口とか、うざいのはやめてくれ。
やられる方はたまらんから、それがルールだ。
我慢できないなら直接言う。

怖い人、暴力、あらゆる後からの報復的なもの。
恐れか。

そういうのがあればやらない。賢い人間だよ、俺は。

テンション最初から上げすぎたか、
最後はやられたよ。

今度は素晴らしいタイミングでいくわ。
幹事力がアップ。さすが俺。数こなしてるだけあれ。

幹事Masterまで、あと4歩くらいだにゃああああ!

ブロガーの命を込めたエントリー

そういうものがある気がする。
会話とか、じかに話していると分かるのは、
「ああ、この人、こういこともできるんだ」
「いいなあ、こういう話もしたかったんだ」
というのが脳で意識する前に、反射で、「!」と思う瞬間がある。

そういう、一瞬が、おそらく大事だ。

ブログの記事を読んでいる、書いていると、
たまにそういうことを思うときがある。

まさに「!」という感じで、そうなると、
コメントしたくなったりする。また自分も何か書こうとする。

あるエントリが面白いかどうか、
それは、その人が嘘ではなく、自分の言葉で書いているかどうか。
多分それに尽きるのではないかと思っている。
という意味で、僕のこのブログは全く嘘がないという点で、
抜群の面白さを、くそ手前味噌でちょっとだけハズイが、そういう自信がある。

いや、そもそも自信がないものには光がないから、
どうしても、面白さ+自信、もしくは面白さの一部は自信の現れみたいな
ものがあると感じる。

文章で人を変える、
そこまでやれなくても、自分が変わっていく、人に何か
感じるものを提供していく、
そういう点では、非常にアーティストな気がする。

友人のいってた「未来は結構明るい」という感覚は、
楽観主義と批判するものではなく、そうしていかなくては
やはりいけないのかなという感覚だ。

もちろん、悲しむなというのではない、悲観するなというのではない、
でも基本、落ち着くところは、楽観で。
それがいいような気がする。

でも、その楽観をどのレベルにもっていくか。
そこでまた別れるから、キリがにゃース。

また次、仕事をやりたいと思える人かどうか。それはすごく小さなことかもしれないが、滅茶苦茶重要なことだ。

だから、常に手は抜けないし、常に真剣だ。
その真剣さをせせら笑う人もいるかもしれな。
しかし、譲れないものをどんどんぶつけていく。

笑う人間はいつも笑うのみ。
それに構う暇などない。

次に仕事を「また」やりたいと、
そう思える人が一杯いるのはとても幸せなことだと思う。
もちろん、もう二度と仕事をしたくない、という人もいるってこともある。

走り出した機関車

それは簡単に止まることができない。
緩急をまぜて、ダッシュ&ストップ?の繰り返しは、
かなりキクだろうが、常にホットスタンバイで、
いつでも動けるようにしておく・・・
が、だが、休むときは休む。これが21世紀のライフスタイルだ!(謎

人というのは良く見ていると思う。
自分が言うのもあれだが、自分以上に他人が自分を知っている部分が
実際にある。だが、自分が自分を一番知っていると思っているフシもある。

でも、絶対に完全には分からない。
ある種のコントロールできないところがあって、それが心地いいのか、
そうではないのかは分からないけど、でも、そういう遊びが必ずあるから、
だから、「私はこう思います」というのは好きだけど、
100%そうであるという人は、逆に怪しいというか。

信じるものは救われるのは、風が吹けば桶屋が儲かる論理と同じで、
飛躍しているような気もする。
信じるということで、何かしたら、ツキヌケて、ある種の耐性が
特化・強化され、気にならなくなる。もしくは、見えなくなる。
そうするところで、めちゃくちゃ強くなれる。まあスーパーサイヤ人みたいなね。イメージでは。

そうすると、結局、自分が救うというか、自分でなんとかしようとする、
だから、自分で自分を強化して自分を助けるのに、
それを「信じるものは救われる」というような言い回しになる・・・
ような気がする。

機関車は、勢いにのって、進み続ける。
目的地は?と聞かれて、その答えがない機関車などないだろう。大抵は。

いつでも、遅すぎることはない。
でも、さすがに、「あきらめ」を感じるときがある。
それは「素養」とか「素材」みたいなもの・・・か。

あきらめたらダメなのだが、そもそも、非常に高いハードルを
求めてしまうのも、またアレだ。

自分と同じように何かできるとは思ってはいけない、
誰かが言ってたような気がするが、

てか、俺仕事できねえんだってばああ。ケケケ。

点、線、面、立体、の次は?

心は、立体でも、点でも、面でもない。
ような気がする。

あらゆる形に柔軟に変わる。

だから、無形のものに意味を見出せれるかどうかが、
非常に大事なことになりそうだ。ん、だから?

点と点は、意識しやすい。
線になると、結構辛くなる。延長線も、このライン。

面は、角にいれば、右と左と斜め前で、いわゆる前方体勢?で
構えられるが、真ん中にいると、全方向になる。油断するなかれ。

立体は、さらに、上下の概念。穴があれば落ちる。
ふってきたら、食らう。

落ち着いていけ。
結局、現実は、立体であり、立体でしかない。
点や線だけでは構成されてない。点や線で、立体が構成されていると考えている。

右にいる人は、左にいる人と違う。
それだけでも非常に面白いのではないか。

仕事+人・・・=
だけで、なぜそれほども変わるのか。

人があるからそこは面白くなる。
つまり、誰でも出来る仕事という評価は概念的にありえない。
仕事と人はセットだ。仕事が絶対的に存在することはない。

仕事と人のバランスで、仕事が語られる。
逆でもいい。人と仕事のバランスで・・。

仕事が何か分からないのは、結局人とバランスよく、ミックスしているから。
そうではないだろうか。

視点が狭まったとき、線が切れてしまうとき、
面のどの位置か自分が分からないとき、なぜか穴に落ちてしまうとき、
きっと、信念とか、目標とか、イメージした世界が、
かなり消えかかってしまっている・・・のではないだろうか。

逆にクリアに何かがあれば、ほとんどのことが乗り切れるという
そういうこともいえる。

あまりにもあまりにも、暗中模索でやり続けるのは、
厳しいのだと、思われる。

スタバのコーシーがうまいというところでテンションを保てる人間は安い人間かもしれないが、非常に幸せな人だと思う

そういう意味で、鉄火巻というのが非常に好物だ。
マグロのトロがうまいと思えないので、まだまだ人生は長い。
マグロの赤身の握りよりも、鉄火が上手いと思う。

美味しんぼで、カリフォルニア出身の女性・・・名前忘れた・・・が、
巻き寿司はすげーうまいっていってた章を思い出した。
確かに巻物は具を中に閉じ込めて、口に入れた瞬間、
まさに世界は小宇宙、ビックバン!である。大袈裟ではなく。

スタバのコーヒーはうまいと思うけど、
それはともかく、そういうものを楽しめる人は非常に
安い人間だと思う。ちなみに、安いという修飾は、非常に評価が高い言葉、です。僕にとって。

閾値が低いってことですね。

ある店の、コーヒーがうまいかどうかなんて、
滅茶苦茶どうでもいいことだよとか、
コーヒーそもそも好きじゃないってとか、
そういうのはあると思うんですが、
ある些細かもしれんぞーってことを楽しめるかどうかって、
かなりその人の生き方を、性格を反映している・・・と考えている。

コーヒーは車より安いからとかいう金額の大小ではなくて、
そのものをお金の価値以上に楽しめるかどうかみたいなところが
非常に重要なのではないかと。
重要というのは、ストレスもたまりにくいし、何より楽しいかなという点で。

閾値が低ければ色々楽しめる。

何かを表現していくには、閾値が低くなければ、
凝り固まったものになっていくような気がする。

楽しみをうまく見出すとか、
そういう話は、おそらく、生活していく中で
見つけていくしかない。
もちろん、学校なんかでは教えてくれない。
教えてもらって分かることじゃなくて、
この話を聴いても、自分で感じないと絶対分からないような気がする。

だから、感じるを大切にしたいわけですね。

例えば遠慮をしていて、自分の力を出し切ってないけど、いつか出すよみたいなことをいってたら、いつそれはできるう?

状況の逆に顔を出す。

む、日本語変だ。

状況が悪くなればなるほど、笑顔になり、
よくなればなるほど、笑顔になる。

結局、常に笑顔だということ、がおそらく重要だ。

優先順位、優先度、仕上げることなどは大事だ。当然だ。
プロ意識というものを意識した途端、恐ろしいほどの視点、
恐ろしいほどのチェック、恐ろしいほどの質量が
ぐああああああって感じでやってくる。

その土俵に上がったら、麻薬のように土俵で勝負、し続けたくなる。

やべえ。働きマン、スイッチ入ります!

声にならない声を声を声にしていくのと同様に、形にならない形を形にしていく。それが出来た時、おそらく充実感は果てしないだろう。

よし、長い。最近これオキニイリ。まいふぇいばりっとおおおおお。

と、思ったりします。

メタっぽいけど、言葉自体は、脳内の様子を伝えるのだけど、
脳内の様子はレントゲンとってみても、目でわからないからなあ(病気とか、そういうのじゃないっす。)

よく、サポート的なことにあえて回るというか、
いや、教えるとか、そういうことではなくて、
サポート的。
この立ち回りというのがしっくりこなかったことが
多いというか、ほとんど分からなかったのだけど、
最近分かるようになってきたかもしれん。さすが俺。

しかし、どう考えても、自分がやりたいというのは
殺す必要がない。要は奪うのではなく、創って自分でやるというなら、
誰も文句は言えまい、とか思うわけだ。

例えばミッションAがあったら、Aを自分がやるのではなく、
別ミッションBをたてて、それをやれば、
既存状態?には関係がなくなるって話。

タイトルの例でいえば、
自分が言ってた人が注目浴びてくるとか、
世の中に仕掛けられた(笑)のではなく、世の中に仕掛けていくという
そういう展開ですね。

走り出したくなるときがある。その瞬間に気づいたら走る。

タイトル長めいいね。もうちょっと長くしていこうかな。

人生が思い通りにならなくて、「やさぐれて」(使い方あってるかな)
ぐれたりするってのは分かるような。
が、ロックへの理解、反社会的なもの理解は、共鳴や共感ではない限り、
別の立場からの理解は微妙だ。

学校教育の現場の人間が、B'Zを好きでも全く問題ないが、
教育はロックだ!といったら何か言われそうな気がする。
先生、ロックは勘弁してくださいって言われたらそれまでだけど、
本質的なものは、ロックで正しい気がする。


正解はない。
最近、よく聞く言葉。
昔、友人が、何か答えがあるとおもって、哲学書を読みふけたーという、
若い時の教授の話が懐かしい。あ、これは主語が教授の若い時分で。
確かに正解はない。数学のように答えが明確に決まることは、
結果的にあっても、何か計算式を解けばでるものではない。過程は
ある意味で計算式だが。
で、それを解いても、答えは1つにはならない。
いくつもあるのが常だ。


走りたくなったといったら、走れば?
といってくれる人が、僕の周りには多くいる気がする。
疲れた・・・といえば、休んだら?一息いれたら?
といってくれる人が、僕の周りには多くいるような気がする。


旅人が、自分が受けたやさしさとか、嬉しいことを、
別の他人にまた振りなおすみたいな感覚が非常に好きだ。
というか、それは旅ではなくても、
社会で実際に生きている人はやっている。

そこに気づいたとき、自分のやり方はなんだろうか、
どうやって何をやっていこうかということを
結構考えたことがある。今も考えてるけど、前ほどでもない。

だからこうなる。
走りたい?なら、走ろうとか、誘うし、
走らないか?と、誘う。声をかける。

なんか、これ、いいね。

一歩歩いた先に花が咲いているかどうかは、歩いてみないと分からない。

ヒトリゴチている場合というか、
そういう感じではないのだけど、
どうも、人はある種のバランス感覚を脳内に埋め込まれている気がする。

全てを出来る人がいないというのは、聞くと安心する。
しかし、それを聞いて、じゃあ適当でいいかというと違うわけだ。

超刺激的というのは、
自身の存在が揺らぐときというと、ちょっとアヤういだろうか。
しかし、それくらいのスリルがなければ、
逆にいえば、本気で生きているとか、真剣に生きている感が
ないような気がする。

生きたい。そして、貫きたい。

そうやって生きられるなら、ある程度のフィールドの変化、
ある程度の疎遠感、感情の波、不条理、分からなさ、
無駄さなど、全て受け入れよう。

どんどん蓄積していったらきっと大きなものができる。
それは確実ではないからこそ、100%そうはならないかも、
しれないからこそ、面白いわけだ。

さあ、跳べ!

時間があるときにやるって?

そりゃ、あんたいつなんだよ?

いつも時間がない人がいる。

忙しいのが悪いとは言わない。
忙しさが爽快ではないなら、それは悪い忙しさだろう。

結局、形になったり、結果を出せる人は、
忙しいかどうかは関係ないようなように見える。

例えば「仕事」が忙しいなら、
当然、その仕事は面白いんだよな?

面白くないことをいつまでやってんだ。
と、なぜか逆ギレ気味(笑)

イソガシクない仕事でも、面白くないだって?
ふざけんじゃねー。

疾走しているから、アンタみたいなやつに
構っている暇はないんだよ。

俺は忙しくないんだよ。アンタは常に忙しいんだよ。
分かり合えるわけがないだろう。

ふざけんな!

と、ストレス発散だぜ、いえい。

ネコだにゃー。

疾走感と全力

全力疾走という歌が確かあったが、
歌の内容はともかく、全力でやらねばならない。

適当にやったら適当でしかない。
全力ならば・・・たとえ、万一、結果的にダメでも、
全力でやったならば、後悔はない。

おまえは本当に全力でやっているのか?
陰でたこ焼きくって休んで適当にやってるんじゃないのか?
本当にそれがお前の力か?逆にいうと、それだけ?
本当に好きでやっているのか?本当か?本当か?

疾走しろ。全力でいけ。
走り抜けろ!

疾走ブログ始まります(えー


疾走2.0か(笑)


こちらから飛び込むか、それとも。

年齢というのを意識するようになった。
それは、?する年とかそういう一般常識はどうでもいいので、
そうではなくて、年上か年下かである。

例えば、親はいつまでたっても自分のことを子ども(大人ではないという意味ではないのだが)だと思っている。
それは「勘弁してよう」みたいなことだけど、実にほほえましいことでもある。

帰りに、地下鉄が混んでいて、ベビーカーをひいたお母さんがいて、
混んできたから子どもをおぶって、ベビーカーを畳むことになった。
一人では当然できないから、近くのおばさんが、
おぶりましょうか?といって、おぶっていた。

例えばこれは一都会の地下鉄の風景なのだが、
周りの乗客を観察すると、笑顔があった。

おそらく、何度も書いているように、これが社会だと、
支えあいではないかと、原理的なものがここにあると思っている。

困っている人がいたら「助けてやる」のではなく、
「声をかけてみる」くらいの感じで言う。
そんな感じがいいと思う。

で、年上か年下かだが、
圧倒的に、立場的なものと、力関係か、利害か、コミュニケーション度か。

色々トータルすると、僕は誘われることがほとんどないことに気づいた。
どうも、誘われるタイプではないらしい(笑)
誘うことが圧倒的に多い。
つまり、
「?しないか」「?しようぜ」「?するんだけど、どう?」
「こういうことするんだけど、どうかな」
というのが多いわけだ。

といっても、別に誰からも誘われない人間でもない。
たまに誘われて、うまい断り文句が出ないときがあるくらいだ(断るのかよ!

ま、それはおいておいて、
年上の人を誘うのはちょっと「心意気」?がいるような気がする。
年上から年下を誘うのは、自然に見えることが多い。

仕事かプライベートかで完全に分けるというのは
おそらくムリで、コミュニケーション率みたいなので、
直観で判断している。

話したいなら誘う。そうじゃないなら、誘わない。
二元論でもないのだけど、僕は人間ですからねえ。
好き嫌いあるわけでーというところで、この話は終わる。

で、飛び込むとは、誘っていくか、
それとも、誘われるのを待つかーみたいな話かな。

ワンチャンス思想でいくと、誘う方が多い方が
健全な気がする。そういう意味で自分は正しいと
勝手に思うわけだ。

別に誘われるのが多い人がダメなわけじゃないので。

というわけで、どんどんどんどんどん誘っていこう。

拒否される、断られることに対して、免疫がついてしまうま。

お互いが気持ちいい

フューチャリスト宣言を読んでいて思ったのは、
コミュニケーションを取るというのは、相手のことを慮ることだが、
例えば、会話する=コミュニケーションだと決め付けている人は、
おそらく、コミュニケーションを会話量で決め付ける気がする。

そんな人今どきいないだろうが、といっても、いるんだろうが、
そもそも、お互いが「会話した」というだけでは、
コミュニケーションが成り立っているかどうかなんて分からない。

沈黙というのが会話にあるが、その沈黙が重要だといっていた教授がいた。
その教授の講義は面白かったが、今でも活躍されているだろうと思われる。

つまり極論をいえば、会話しなくてもコミュニケーションは取れる。
お互いが気持ちいいということをしていかなければ、
コミュニケーションを取り続けることは出来ない。

この話は、ある人の意見であるが、そのままとりこんで、
妙にこの話を聞いて安心した部分がある。
つまり、人は人であるという、全く当たり前のことを思ったのだ。

片方が気持ちいいだけなら、それはコミュニケーションを取ったとはいわない。
例えば飲みニケーションのダメなところは、
相手が誘われて断れないのに、今日は早く帰りたいのに、
そこを若いものは、付き合いが悪いといって、評価を下すとか、
それはそもそもコミュニケーションの取り方、お互いが気持ちいいという
点の探り方がなってない、という結論になる。

もちろん、いいところもある。あえて悪い点をあげてみた。

次元というのがある、1次元でものを考えていると、
横方向がなくなる。
2次元だと、奥行きがない。
3次元くらいが妥当かと感じる。

ただ、感覚を研ぎ澄ませば、4次元も可能かと思われる。
要は、タイミングというものを混ぜると、ある一瞬の隙で、
何かつながるのではないかという、誠に直観的な話だが、
そういう感覚がある。

偶有性みたいなものは、そういうところじゃないかなと。
第六感みたいなもの、好きです。

お互いが気持ちいい人ばかりではないのは現実だ。
だからといって、人を悪く言うだけってのも脳がない。
まさにリソースの無駄である愚痴は、お互いが気持ちよくなることはないから
非常に嫌いなものだ。

もちろん、愚痴を吐かない人間などいないだろう。
誰でも弱点はある。弱い点がある。苦手なことがある。
でも、弱い点を意識して、それを逆に利用するということも
人間は可能だ。

もっともっと色々なことをしていかないといけないと感じる。
変な話、面白いことが一杯だ。伝えないわけにはいかない。
滅茶苦茶面白い。

ある友人が、
「結構未来は明るいよ」
ということをいっていた。
この発言自体がネガティブっぽいが、まあポジティブなんだろう。

さあやるぞ。

フューチャリスト宣言

むう面白いな、ちくしょう。

なんていうか、読後感が爽快。
やっぱ楽観的がいいかなーと思ったりする。
それは、結果的に、ITエンジニア視点というか、
そういうものでいえば、バグが発生したら
デタトコ勝負というのはダメなんだけど、
でも、実際に出たものについては対応していくーという
前提があるみたいなのがあったりする中で、
対応するよねー。

というところと似ているかなと。

個人的に、茂木氏を定点観測せねばならないと思ったりしちゃったりする。

特別講義はいいなあ。

声録ってるならば、隙みて聞かせてもらいますね。

やはり、語ってなんぼ。
茂木氏の講義録で、平日仕事でうわーで、土日で休めるってのじゃなくて、
毎日平日が蜜の味みたいなことが書かれてたと思うけど、
その感覚と、所属に対する感覚は、100%同感。

梅田さんの言っている、20年周期くらいで感覚が変わるみたいな
話も同感。

自分の感覚はおかしいのかもしれんと、
マレに(笑)思うのだけど、やっぱ違うよ。
これで自分は正しいと、自分に言い聞かせられるというか、
声に出してくれたことで、僕は安心しました。

なんていうか、ありがたいです。

というわけで、ぜひオススメですわ。

フューチャリスト宣言フューチャリスト宣言
梅田 望夫 茂木 健一郎

筑摩書房 2007-05-08
売り上げランキング : 372

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

あーやべえ

飲み会で、
仕事・お金・女(恋愛)・スポーツ・政治・宗教
という話題があったら、多くの人が
「飲みながら話すのって・・・」
と思うのは、

「仕事、恋愛、お金」
のような気がする。

スポーツは趣味か、政治は誰もついてこれないか、
宗教は胡散臭すぎるか。

まあ、最ものような(笑)

そこで、上の3つの優先順位というものがあって、
働きマンは以外にお金には頓着がないような気がする。
仕事があまり面白くない人は、恋愛やお金、趣味に走るような気がする。
恋愛がうまくいかないなーという人は、お金や仕事でふんばる気がする。

という、一種のバランス論を展開してみたいが、
全てを充実させているような人が、いるような気がしたので、
無駄無駄無駄無駄(!)なので、やめておこう。

でも、
色々話せる人とつながっているのは、
妙に幸せだなあとか思って、自分にも人望が1mmはあったんだと
立ち直る(笑)
皆にありがとうっていって、一人一人と語らないとダメかもしれん。

で、ビールが当たったようです。
改めて、またエントリ起こしますのでお待ちあれ。

ミニチュア世界

直観、茂木氏的にいうと、クオリアですかね、
で動くことがいい。というか、心地よい。
行く予定のことをやめるとか、別に行く予定だったから
行けばいいのだけど、気分が乗らないこともある。
乗らないときは相手に迷惑をかけるー以外は、まあ別に
機会損失(笑)とまではいかないから、いいんじゃねーの?みたいな
軽いノリで考えている。

ギャラリーへいって、創り手と会話し、その空気に触れる。
会話はあくまで支えでしかない。
作品を見る。実際に足を運ぶ。そこから得る発見は多い。
というか、そういう意味で、リアルの面白さと、
ネットの満足度は深いと思われる。この点についてまた言及予定。予定は未定な未定な予定。

女の人が好きな世界といっては失礼かもしれないが、
戦国時代とか、信長天下統一!とか、徳川江戸幕府とか、
三国志の諸葛孔明とか、項羽と劉邦とか、水滸伝とか、
戦前の商社の動きとか、そういう歴史をミニチュアで
再現する女の人ってやっぱいないだろうなあって、
(作品はそんなんじゃないですよ、念のため)

模型で、ゼロ戦!とか、大和!とか、
一時期作りたくなったことがあるが、あれは
戦争マニア的、模型GEEK的な人がやっているだけだと思っていて、
何を言いたいかというと、ゼロ戦プラモ創る人が
ゼロ戦載って戦争に行きたいとは思わないというか。

さあ、脱線しまくりんぐだぞ。

その作品の世界では、居心地の良い場所が展開されていた、
非常に納得できる作品だった、男の僕でも。
ただその作品世界を作り出す、もしくは作ろうと思うかは、
フィールドが違う感覚だ。が、残念ながら最後に一緒になるというか。

アーティスト、クリエイターは、形にすることで何かを表そうとする。
という意味で、直接働きかけるというのは一旦横においている。
僕はどちらかというと、直接働きかけるというところで、
それが形になればいいと思っている。

でも、最終的なゴールは社会というものに向けられてしまうし、
集団が面白いと感じてしまう。女性の給湯室会議は避けたいが(笑)

ある友人は、別視点で同じような「集団が面白い」といってたことを
覚えている。今でも納得できてないが、何を言っても、それ以上の
議論的価値、コミュニケーションレベル、掘り起こし価値みたいなものが
増えないなと感じたのも事実。

作品は、自分から逃避するためにあるんじゃない。
また戻ってこれるために、息抜きで、自分がほっとできて、
気分転換できるためにあるといっていいだろう。

また観にいきまーす。わーい。

むー

9時におば様に起こされる。
うう、危ない書き出しか。読者の心を逆読み。くくく。

収穫多し。

感じたことは色々あり。
いくつかコンタクトを取りたいと思う人を発見。
また、朝感ネタも発掘。

動くと色々見えてくるってのは、言っていかないとなあ。
この感覚は、お扇子でもないだろう。
気づくってことか。でも気づくのも、お扇子か・・・。

とりあえず、ビール好きな友人にビールでもあげるかねえ。

女性の髪型

男は髪型なんぞないようなものだと思っているが(偏見)、
というよりも、髪型はあるが、アレンジが効かないというか。

男ものの服は、市販品というか、市販品しかしらないが、
青や紺、白黒系統、のものが圧倒的に多い。
上も下も。

色がきれいなものとか確かにあるが、
似合う似合わないが結構あるので、
意識しないと、全部、青紺黒白になるようなーというか、
地味な色が多いわけだ。

別にそれが嫌いなのではなく、アレンジが効かないというか、
似たような印象しか与えられないのは残念かもしれない、と
ここでちょっと思った。もちろんここからアレンジさせていくのが
面白いところだけど。


で、女性は髪形というのがほぼデフォルトで変えられる(変えるの大変かもしれないが)ので、
例えば上げたり、下げたり、短くするか長くするか、
巻き入れる(=パーマ)とか。

ストレートの長い髪で、串が(プロキシではない(笑))通った
髪は非常に好きだ。
枕草子かなんかで、髪は女の命みたいな話があったかなー、
あと、戦国時代とかかな、女が髪を切るということで、
決死の覚悟というのを表現するとか。

それはともかく、気分を見せるという意味では、
「気合い入っているかどうか」みたいなこともあるけど、
髪型を変えるというのをやりやすいのは
羨ましいとか思ったりする。

だから、僕はうまく狙い通りの髪型にセットして
遊んでいるつもりなんだけど、やっぱそんなに変わらないし、
変えられないかな(笑)

プロデュース公演

木村光一氏がその先駆けらしい。
公演ごとに人を集めるーというのが、プロデュース公演。

それは当たり前だろうとか、勝手に思ってたのだけど、
例えば、ある劇団の中で全てのスタッフ(役者も含む)を
用意するのは、至難の業だと感じてから、
考えが変わった(笑)

でも、劇団の色みたいなのって、
やっぱりその劇団に所属する人がいるからこそ
できるんではないかなーとか思ったりするけど、
そんなこといいはじめると、アイデンテテの話になるので
やめとこう(笑)

が、この木村氏が話している、竹山道雄の作品の、
映画化された「ビルマの竪琴」はどっかで聞いたことがあるな・・。
むー誰かがみとけーって言ってたような。
とりあえず、見る。

人を追う

最近、ちょくちょく書いていることだが、
これと同じようなことを、今読んでいる「フューチャリスト宣言」でも
梅田さんが言っている。多分。

それは、500人のブログをチェックしているーみたいなことが
話として書かれている、正確には違うはず、が、
そういうこと。

森達也氏は、熱い。
要チェックだなーとか思っているが、
それはともかく、ある知りたいことがあるから、
やはり先達や、共感できる人から入ったほうが当然いい。

面白くなさそーなやり方でやれなんて誰も言ってないわけですし。

レバレッジの使い方

金持ち父さんに出てくる、れべれっじ。ではなく、レバレッジ。
三ツ矢サイダーは、ビバレッジです。

いわゆる、てこの原理のこと。
小さな力で大きなものを動かすということ。

それは投資ではない方がいいとおもったりするのが最近の考えること。
例えば、小さな力をより大きく使うにはどうしたらいいか。
所詮1人では何もできないのだーとあきらめるのではなく、
どうやったらうまくいくか、どうやったら力を大きくできるか。

そういうことを考えている。

今の日本、でもないけど、最近は結構ひどい事件が多い。
事件とはひどいものだから、なんて割り切り方は当事者には
出来るわけがない。当事者、関係者ではなくても、
何かこうやりきれなさが残る。
銃は人が発明したものだが、基本、誰も好き好んで人を殺しはしないだろう。

相手が襲ってくる環境。
その前に地球が滅びるというのは、圧倒的に幻想ではなく、
目の前につけられている。

人類皆兄弟でーとはいわないが、もうあまりあーだこーだいってる
感じはしない。

レバレッジをうまくつかって圧倒的に力を見せ付ける。
そうしたいが、ナマケモノにはチャンスはなかったのだ(なぜか過去形

負けず嫌い

負けるのが嫌だ。

昔、テニス部に入っていたとき、
そう思っていたが、そこまで真剣にやらなかった。
いや、やれなかったのだろう。

好き馬鹿みたいな感覚は、今やっと分かりつつある。
逆に、60過ぎてやっと分かるということもあるような
感覚があると、年を取ることが非常に楽しい。

若い人間にはどんどん色々やらせるべきだと思っている。
それは、結局、出し惜しみではなく、チャレンジであり、
挑戦であり、創造でしかないからだ。
それは失敗してやっと分かることもあるし、
そもそもやらないと分からないことは多い。

負けるのは相手、他人に負けるのは非常に結果で
分かりやすく、それは見るところではない。
自分に勝てるか。それが勝負だろいうのは、
いささか卓見しすぎだろうか。

いや、そんなことはない。
自分に勝っている人間はかっこいいし、魅力的だ。
そういう人間を目指しつつ、そして自分に勝ち、笑う。

シブタツと千代田図書館

関連性はない。記事の面に一緒に載ってた。日経なり。5/12。


シブタツは、シュルレアリスム美術の独自の見方・・・とあって、
興味を惹く。

シブタツをそろそろ攻める時期かもしれない。

千代田図書館は、新しい図書館ーで、
東京は新しいの好きねーとかちょっと皮肉こめて
思ったりするが、実際機会あればいくぜ、という天邪鬼っぷり。

さあさあ、船は出るさぁー。

日中の日差しを浴び、手を太陽にかざし、頭にタオルをかけたあのチャリ旅・・・

サンボマスターみたいなタイトルをイメージしてみた、どうだろう。

日中、暑い。
タオルを頭にかぶって、しかも水タオル、
それでチャリで快走しても、熱い。
沖縄のチャリ旅は、最後の朋友と行った。
非常に熱い旅だった。おそらく一生忘れないだろう。

ここはハブがでるから、寝ちゃだめだよと、
親切な人に言われたが、
緊急用具として、蚊取り線香をおりまくって、蚊よけをしていたのを
撤収して、ある公園にいったら、
中学生?高校生くらいがなぜか酒盛りをグラウンドの反対側でしていて、
うるせーなてめーら!とか言わずにおとなしく寝てた。

んで、確か道を案内してくれた人が、
親切なのは嬉しいが、夜が0時を回っているのに、
どこかへいこうとかいうから、
さすがに初対面でそれは危ういぜ、と男ながら思ったが、
朋友は行く気だというから、悪いが俺はやめるぜ、べいべーといって、
断ったのは、なかなか印象的だ。


日焼けで真っ黒になり、また肩を低温火傷みたいな炎症をおこしていたし、
沖縄は水がない(公園がない)ことに気づいたし、
那覇と名護以外は正直田舎で車は少ないから走りやすいし、
てんぴん茶とかいう、お茶は結構うまかったし、
あのときを、その日差しを浴びたら一瞬にして、
今書いている分を一瞬で、本当に一瞬で思い出した。

なぜチャリで、なぜ沖縄で、なぜ野宿で、
なぜ一週で・・・なぜなぜ。
国道沿い?のスーパー銭湯でもないけど、そういう風呂場があって、
300円くらいだったから勇んで入ったものだ。

地元のヤンキーみたいな人もいたけど、
なんか本当に田舎の兄ちゃんねえやんみたいで、
安心したりした(謎だけど

あの暑さ、熱さは今でも変わらない。
何も変わらない。

やはり、大人になったら変わるというのは、
どうも戯言だったようだ。これはいつでも思うし、
ある種の責任とか、ある種の環境変化、ある種の・・・
で、人間の本質とかが変わるもんかい!

力つけてく

たまに、うつ病や、何かしらのココロの病にかかっている人だと
思われるブログ(ブロガーがそう書いているのだから真実だろう)を
読んだりすることがあるが、
なるほど、確かに健康ではなさそうだ。
これは、偏見とかそうではなく、そう思っただけ。

というと、思ったことを述べるなーとか来るかもしれん、こええ。

それはともかく、なんでそう感じるか。

おそらく、いくつか要因はあるのだろうが、
世界が結局こうであるという、こうであるとは、
楽観的では決して無い。悲観的である。
悲観主義者はおそらく、そういう悲観的ではない気がする。
悲観することで、自分を励ますとか、そういうことは、
おそらく健康じゃないとできない。
自虐ネタがそのままどうにもならずに蓄積していくような、
そういう人が多いような気がする。

なぜか。
事実と現実、状況を冷静に捉えるということを
おそらく苦手か、そもそもそういう「性格」ではないか、
切り替えが下手か、色々ありそうだ。

でも、誰にとっても現実というのは1つしかないというか、
別人からの視点はあくまでバーチャルでしかない。

まるで自分が生きてないような、生き方というのは、
やはり魅力的ではない。
だから、自殺する人もいるわけで、
どういうことかといえば、

それくらい辛いということだ。

手に取るようにそりゃーそうさーと思うことも、
本人にはまるで???ということは、
何かしらの知識とかでもありうることだし、
そういう心理状態というのもよくありうる。

話がそれまくり。

力をつけていくとは、
結局、仮説と検証みたいな話にしかならない。
PDCAとかPDCサイクル回すとかでもいいけど、
なんでもいいけど、TryAndErrorとか試行錯誤とかでもいいけど、
それをやっていくしかない。

現実に自分の脳内をぶつけてみる。
そういうことをしないと、僕も含めて、
人は大きくなれない。そして成長できない。
成長を止めたいんだ。もうほうっておいてくれと
言い続ける人間はさすがに、病的だろう。これは悪く言う言葉かもしれないが、
現象をただいっているだけである。

健康か病気か。ただそれだけだ。2つに1つでもない。

力をつけて、また同じ世界を見たいと思う。
きっとそこにはまた別の世界が見えているわけで、
それがやはり人生の面白さじゃないかなと、思うわけカモ。

一言

一言があるかないかで、心象が全く違うときがある。
ちなみに、その一言をあまり大切にしてないっぽいオーラを
出していることが自分にはあったりする。

それは、失礼します、だったり、ありがとうございますだったり、
まあ色々ある。一声、でもいい。

次のアクションに備えると、そういうのが自然になるという
説があったような。それは最もだ。

例えば、すいませんとあまり意味の無い声も、
頻繁に言うかどうか、いや、いえるかどうかで、
次の動きは変わってくる。

要は、何も声を出さないと、表情が硬くなるのだ。
そして自分の体も硬くなる。
硬いところからは、柔軟性は生まれない。
だから、タコを食え!(壊

さあ、タコ祭りだぜ。

落とし込む

消化するのほぼ同義で。落とし込む。
落とすだけではなく、さらに込めるわけだ。
ぶっ殺すが、殺すよりも衝撃的なイメージを与えるのに似てる。
まあ、教育的表現ではない。
どうも、クレヨンしんちゃん、ロンブー(ロンドンブーツ1号2号)、
めちゃいけ、などは、親がこどもにあまり見せたくないようだが、
なるほど「教育的」なイメージはしない。

ただ面白いことに、
そういうのが必要だと、いう人もいる。
もちろん上の例=それ、ではないけれど。

それはともかく、落とし込んでいくという感覚が大事だ。
自分の周りにバリアがあったら、それを突き破って、
こちらから手を伸ばし、それを手で掴むんだ。
そうしないと、落とし込むこと、消化することは決してできない。

よく言われるように、
本気でやらないなら、やはり得られる満足度も微妙になる。
適当なら適当なものが出来上がる。
ただそれだけだ。これが理想でも、別の世界の話ではなく、現実だ。

それをどうにかごまかして、別のところで、
何か「回避」したいのか、言い訳したいのか、
違うという人もいる。
分かるが、それを広めることだけはやめて欲しいと思ったり。

結局、自分に素直になれないならば、
どこまで素直になれない世界しかないと、
そういう当たり前のことがいえるようなお話であーる。

結果を出す

過程と結果の考察は、大分されていないが、
今のところ、過程の延長上でしか結果はないということに尽きる。
だから、継続は力とは、継続=過程で、その延長上に力ということになる。
と、考えている。

結果を出せなければダメである。というのは、
結構厳しいのだけど、なぜ結果が出ないかは、
問うていけば、最小単位はどこになるか分からないが(笑顔になれるかどうかかもしれないし、毎日楽しいことがあると思うことかもしれないし、
そもそもそんなものないかもしれない)、
過程というどこかに還元されると思っている。

ナンデモやれば結果となって出てくる。
適当にやれば適当なものが出てくるし、
その真実性は、非常に現実的で、結構好きなところだ。
きっちりやればきっちりしたものがやはり結果として残るわけだ。

結果主義は悪いことかどうかは分からないが、
ただ、結果を重視すると、過程をおそろかにしてしまうのではなく、
より過程を重視する。
また、過程を重視すると、結果がより重視される。
そうなるのではないかと思っているが、
どうも、どちらか一方みたいな話は、ありふれた話として
よく転がっている。

スプリントの世界ばかりではなく、
といって、マラソンの世界ばかりでもない。
一長一短があり、どちらも手を抜いたら、
トライアスロンでは勝てないみたいな話なのかもしれない。

とにかく、結果を出せないとやはりダメだとは思う。
それは、ビジネスでもボランティアでも同様のことを
僕は感じるわけだ。
ビジネスなら数字だが、ボランティアでも社会的な成果は
やはり出さねばやる意味はない。
社会的成果とは、笑顔の数でもなんでもいいのだ。
数量化できないもの、つまり定性的なものでも、全然OKだ。
その成果がなければ意味がないというわけだ。

世界を実像として

今、ある「本」についての本を読んでいるが、
「本」「読書」などの考察は、非常に趣き深きものが多い。
今よんでいる本もそうだ。またアップしますが。

そこの中で、本を通して人を知るとか、
そういう「月並み」っちゃ月並みだが、そういう話も出てくる。
でも、これ全くその通り。

生きている社会は1億人も人がいるのに、
生活領域にいるひとはせいぜい100人?300人?くらいなのかしらん。
その場合、実際に会った人のみが・・・
実世界なのだろうか?

否。
本は想像の世界=小説、だけではないし、
小説とはそもそも、人が創ったから、ネタは現実にある。
脳内で全てが生まれるのだが、実生活の影響を受けてない小説は
まずないだろう。それは小説ではない何かになりそうだ。

では、本を通して、小説もそうだけど、人々の意見を見ていくことで、
どうなるだろうか。
それこそ、実生活、生活領域の拡大というより、
質が深まる、もちろん視点も広がるけど、
そうなっていく。

単純に、文化的なものにはそういうものを覚える。
本だけではないということだ。

豊かに生きる。そういう感じは
世界が実像であると、あれ?実像って意味が曖昧だなあ・・・
当たり前だけど、今生きている世界が実世界だけど、
でも、目に見えているもの以外なところでも、
当たり前に面白いものは出来ているし、

逆説的だが、今見えないもの、それは本を通してどれだけ
人と触れ合ったかというのが、
今見えるもの、それは実生活だけど、を
多く形作るような気がしている。

まさに、シュル読書(笑)

話したい

人とのコミュニケーションをとるというのは、
「相手を知る」から始まって「自分を知ってもらう」みたいなことになるけど、それはいいとして、
話したいと言われて、「話したくない」「帰れ」(笑)という人は、
ほとんどいないだろう。

いたら、まあ、何かあるわけで。
純粋に、時間がないとか、話す状況ではないとか、そういうのもあるし。
でも、話したいという言葉が、相手に与えるインパクトは、
結構でかいと思っている。

誤解をおそれずにいえば、
どんどん話していけば、どんどん話していくことで、
きっと色々な人がいるということが分かるだろう。
理屈と、机上でこねている前に、
もっとやることが目の前にあるというか。
目の前ではなく、目の前の横ってのが正確かも。

で、目の前のことやっていてもそれを盲目的に信じて、
何も評価を加えないと、
「どうして、こんなに一生懸命やってるのに!?がっど!」
とかになるんでしょうが。

パッション!

自己診断シート

自分のキャパ、顔色、健康度、やる気などを
客観的かつ主観的(笑)に判断するもの。
例えば、「最近飲んでない」とか、
そういうシートがあれば結構面白いかも。
ただシートにしなくても、ある種脳内でやれるから
いいんだろう。

でも、それが出来ない人もいて、
そうすると「ストレスがフルスロットルで溜まっていく」

そうなりゃ、やられちまうよ!

明文化をなめちゃいかんよ。

誠実さと議論

匿名性が嫌なのは、それだからといって
あまり普通はやらないことを、とくに「議論」を、
かましてしまうことだ。

何いってるかって?
そりゃネットのお話でござい。

ネットの特性である匿名性を、
ある種裏切ったmixiがあれだけ人を集めたか
未だに僕は分かってないが(RSS代わり程度の使用)
地域SNSというのもまた存在するわけだ。
地域SNSなどはさらに逆行している。

というよりも、ネットの特性である匿名性!なんていってるのが
馬鹿だね、ってくらいにそれが広まってしまった気がする。

まあ、うまく使えば結構どうでもいい話なんだけど、
それはともかく、一方が本名で、誰か多くの人は分かるが、
一方は匿名で、誰か分からないというのでは、
そもそも「会話」にならないのではないかと、
常々思っている。

当たり前だが、知らない人へのブログにコメントするのは、
お互い匿名だからってのがある。
でも、一方は他方を知っている・・・のでは少し状況が異なる。
相手を誉めるならいいが、批判、もしくは細かい「会話」は、
ほとんど、公開される意味がない。

さらにいうと、1v1というところ、つまり話し手同士よりも、
それを見る人、第三者のほうへのインパクトが大きい。

よって、万一ここを見ている人はありえないが、
自分が匿名で、相手を知っている、状況で、何か議論を
ネットでやろうなんてときには、結構考えた方がいい。

以前「書きたいことが分からない」という話があったが、
あれは、お互い知らないので、該当しないのだが、
やはり、ネットは使い方が大事で、実生活に干渉できる人って、
親と家族と恋人くらいしかいない、あと友人か、
いないと思うのねー。

もちろん、意見交換で理解が深まる、というのならいいけど、
今回はそういう話じゃないっすね。

誠実さってなんだろうということを思うわけですが、
当然、ふっかける側に誠実さはなくて、
単に、言いたかっただけなんでしょう。

そのアプローチ、フィードバックの仕方で、
全然違ってきちゃうわけで、それ考えないと、
ただの無鉄砲。本当の無鉄砲って意味ですが、で、ダメかなと。


自動記述企画

シュルのオートマティスムで、
企画創るってのはどうだろう、と思いついたけど、
これやる人って、まあ、1000人に一人いたらいいのかなあというレベルかと。

だって、企画って理性っすから。普通。
でも、感性がなぜか文章にはこもるんですねええ。不思議ちゃーん。

ちなみに、自動記述とは、プログラミングのコードを
自動で記述とか、そういうのじゃなくて、
画法として、ココロに浮かんだことを描くというのを
ほぼ反射でやってのける、技法みたいです。

ギリギリのところ(考える、イメージするのと、描くことと)で、
やるので、おそらくかなり集中力がいるような。

ところで最近滅茶苦茶気になってるのは、
死んだサイトで、HPサイトが全部同じなのは、あれ
なんすかね。
多分見たことアル人おおいはずです・・・。

リンク集っぽいページで。

で、どこかのプロバイダとかね、
フリースペースのポータルとかなら分かるけど、
そういうつくりじゃないし。

なんかアフィリエイトの出来損ないみたいなページですね。
あれ、かなりの割合で見る。
とくにキャッシュあさって、最新が無いときに、出るね。

宇宙人の仕業かもしれない。

ちなみに、この記述は自動記述じゃないっすよ(笑)

今年は、「自動記述」が流行りだな。

地名判断

地名に、「新」とか、「東西南北」がつくと、
いまだと、大合併だから「アレ」だけど、「ひらがな」とかだと、
今後、ああ合併したのねーってことは分かるんだろう。

今はどうあれ、地名に東西南北がつくということは、
地域が発展して、大きくなった・・・過去があるということではないか、
ということに気づいた。
もちろん、そうではないこともあるだろうけど、
そもそも、一つの地名ですめば要らない。
もちろん、東京で、東東京とか、西東京って名称が
想像ではあるのかも。でも、場所的なら東京の西といえばいいわけで。


世界を相手にするというのは何か。
それは投資をするとか、金融を回すとか、ビジネスを世界でやるとか、
そういうことでもないような気がする。
これは妄言ではない。
例えば、大企業に入って、外国人と肩をならべて、
駐在員的な仕事、あと外資に入って・・・。

というのは、「世界」を相手にするという「イメージ」「匂い」は
伝わる。
でも、実際の担当業務は、会社員ならば、ある程度特定された
仕事しかできないし、やれないし、やらないのではないか?
会社自体でアジア、ヨーロッパ、北米とか、で股をかけることはできるけど。

あと、金額のでかいビジネス=でかいこと、だというのも
まず「盲目的」にそれを信じている人は愚かなり、といってみたい。
もちろん、「惹かれる」のの理由ならいいけど、
駄菓子屋をやってる人は、結局でかいことやってないってことになるんだろうが、実際、規模の大小は、孫子的(笑)にいえば、それこそ、
小さいなら小さくやり続けるのも大きいものを大きくやり続けるのも、
全く等価に思えるのだがどうだろう。

何がいらつくかというと、
そうやって大きいこと、でかいことやってるって、
思っているのはいいし、僕もそういうことを自分で思うときはあるから
潔く同類でもいい。
でも、それを盾にして、そうではない、つまり小さなビジネス、
小さなコミュニティを馬鹿にするというか、見下すのは
やめて欲しいものだ。

で、見下されたりしたのかって?
いや、鼻につくというか、なんていうんだろう。

まあ、とりあえず、舐めんなよ。調子こいてるんじゃねーよ、
とがっつりいっておきますか。

ブラッドオレンジ飲みたい・・。

井戸端電車

タイトルに意味なし。

コンビニでアクエリアスを買ったら、146円か、147円か、
とにかく4円のお釣りをもらう、はずで。
いや、日本語がよろしくない。もう一度。

コンビニでアクアリアスを、150円出して、4円のお釣りですと
いわれて、40円を受け取りました。

もちろん、違和感ありまくりですが、普通にもらってみました。
アクエリアスを値引きで買えました。
春はいいですね。


それはともかく、
先の本で、想像の共同体という言葉が出てくるが、
例えばそれは、国家という共同体は、想像上のものでしかない、
という話。
最もな指摘で、なるほどーと思ったが、
実体としてある共同体はほとんど小さいものかなと。
大企業なんて国家レベルな、いわゆるグローバル企業は、
そういうものだろうかな。

想像の共同体ならぬ、想像の会社。
多分こんな感じですよーってな風に。

アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

プロフィール

researcher

記事検索
最新コメント
月別アーカイブ
  • ライブドアブログ