これはおそらく弊害というか悪いことにとらえてしまうが、どうだろう。
簡単にいうと、どんな人でもネット環境さえあれば何か文章なりが書けるのは、
それ自体は素敵なことだし、基本的にOKだ。
でも、それを見る人、ここでは創作する人ではなく見る側の問題だが、は
どう見ているのかということを考える。
例えば、ITproとアルファブロガーと自分というのをおこがましいが並列して、
そこに書かれる内容の密度や質みたいなものは、どう考えてもこのブログが一番劣る、自信がある。
それはいいとして、でも、見る側は同じ端末(PCとか携帯とか、PDAとか?)で見るわけで、
全部等価に見えるのではないかというこれは「危惧」なのだが、そういうことを感じた。
ITが身近になって、誰でもアクセスできるってのはいいことだと思うけど、
あと、よくあるのはツールという感じを意識しなくても使えるのもいいと思うけど、
それって何か違うというわけではないが、違和感という軽い違和(笑)が残る。
おそらくだが、その違和感は、創作する・表現する人の想いだとか、力を
見切れないというか、どう落とし込むかみたいな話になってくる。これは僕だけではないような
気がするんだけど。
例えば、何か写真を撮ってそれを自分のwebサイトで公開している人がいるとしよう。
その人は趣味でやっていて、プロの写真家も同じようにやっているとしよう。
その場合、写真の質はともかく、Webサイトという土台、見え方などはそりゃ色々手を入れれるけど
そう変わらない。基本的にHTMLがベースなわけで、そこらへんの技術的な話はスルー。
その場合、見る人は、どちらも対等に見る気がする。もちろん前者の人も後者のプロも、
知らない場合に限るのだけど。
そうした対等さは非常にスリリングだ。
いつアマチュアに声がかかるかもしれないし、プロに失望(笑)する人もいるかもしれないからだ。
それはともかく、アクセスしやすい、できる、webの環境はあくまで土台でしかない。
質というのをどうだ、ということが色々言われてきているし、ブログなんかでも、
ネットでも、玉石混合ということはよく言われるし書かれる。
ただここでいう玉と石は自分にとってなのか、万人にとってなのか、という意味では、
後者はありえないから、自分の主観的なものでしか基準とならない。
もちろん、例えば医学知識や科学知識のようなものとか、そういうのは客観的にかかれてないと
ダメだろうけどね。
で、その玉とか石は一体何なんだと。
それこそアクセス数とかそういうものが多ければ「玉」かというとそうではないだろう。
もちろんこれは、アクセス数が少ないヒガミであるといわれてもしょうがないが、
これは金持ちになって金じゃないという人を説得力があるかどうかくらいな些細な話。
ではなく、僕にはかなり重要なのだが、
アクセス数があるサイトはアクセス数は玉の指標とはならない、、というのは聞いたことはない。
アクセス数は数であって、そこに解釈を与えるのは僕とか人間でしかないわけだろうしね。
話がかなりずれてきたが、そのままいってしまう。
では、アクセス数だとか、そういうので全然いいのだが、多数が評価するものが必ずいいとは
いえないのは、多数=絶対みたいな風に捉える人がいるからだ。
そりゃ分かるが、絶対ではない。
逆に少数も同じだ。少数=絶対もナンセンスだ。そして少数が評価するから、いいというのも
おかしいわけだ。
だから、最後に残るのは主観とか好き嫌いであって、自分の考え方もかな、
多数がすきか少数がすきかみたいな話になっていく。
そして見る側の問題である。くどいが、発信側の問題はここではスルー。
見る側が何を持って何で見るかが問われるというのは、はっきりいって、
対等の厳しさみたいなものを感じる。非常に簡単にいえば、実力主義になったら、
実力は必ず有無があるわけで、相対的にも、結果分かれてくるわけだ。
IT便利だーというところから、IT何かに使えるというときに、どう考えていくかは、
誰にとっても対等な話だ。
だから、アマチュアもプロも全く関係ないし、知名度もそれこそ名前も、どういう人間かも
表現物だけをみたら問われないわけで、対等だ。
しかし、対等であるがゆえに、今まで何をしてきたか、実績は、どういうことを考えているかは
重視される、というかされざるをえないことになる。
結局、一言でいえば「何でも出来る=何にも出来ない」ということになるのは、
何かを決めるとか、これをやりたいという意志がない場合の話だが、
アクセスしやすい=IT便利というのは、結局何も出来ないことになるのでは。
要は、そこに意志があるかどうかというものすごく当たり前の話なのだが、
くどいが、これは表現者側ではなく、見る側の意志のことである。
見ているようで、全然見えないというか、そういう話になる。
だから、ネットは道具だというのは月に1回くらいは(笑)考えたり、
あと、リアルや生で感じることはしたほうがいいとか思うわけですな。
もっといえば、だからネットで完結していて(そういう人はそもそも、
そこで終わるから、何もないのだが)というか、
もちろんmixiとかで、完結したコミュニティを求めるのは、分からないでもないが、
ああ、完結してなくてもいいけど、まあ、どちらにしろ僕にはつまらないというだけの話(くくく
うーん、ITとか便利がダメってことじゃなくて、
情報が公開されて見たくないものも見えてきて、
そして判断は各自に任せられるって滅茶苦茶重い気がするんですけどね。
だから、責任とか取りたくないってのは分かるから、そういう人が責任とらなくなるのってのも
また分かるから、つまらなくなるってことかな。
あ、これ全然伝わらないな。まあ、いっか。
簡単にいうと、どんな人でもネット環境さえあれば何か文章なりが書けるのは、
それ自体は素敵なことだし、基本的にOKだ。
でも、それを見る人、ここでは創作する人ではなく見る側の問題だが、は
どう見ているのかということを考える。
例えば、ITproとアルファブロガーと自分というのをおこがましいが並列して、
そこに書かれる内容の密度や質みたいなものは、どう考えてもこのブログが一番劣る、自信がある。
それはいいとして、でも、見る側は同じ端末(PCとか携帯とか、PDAとか?)で見るわけで、
全部等価に見えるのではないかというこれは「危惧」なのだが、そういうことを感じた。
ITが身近になって、誰でもアクセスできるってのはいいことだと思うけど、
あと、よくあるのはツールという感じを意識しなくても使えるのもいいと思うけど、
それって何か違うというわけではないが、違和感という軽い違和(笑)が残る。
おそらくだが、その違和感は、創作する・表現する人の想いだとか、力を
見切れないというか、どう落とし込むかみたいな話になってくる。これは僕だけではないような
気がするんだけど。
例えば、何か写真を撮ってそれを自分のwebサイトで公開している人がいるとしよう。
その人は趣味でやっていて、プロの写真家も同じようにやっているとしよう。
その場合、写真の質はともかく、Webサイトという土台、見え方などはそりゃ色々手を入れれるけど
そう変わらない。基本的にHTMLがベースなわけで、そこらへんの技術的な話はスルー。
その場合、見る人は、どちらも対等に見る気がする。もちろん前者の人も後者のプロも、
知らない場合に限るのだけど。
そうした対等さは非常にスリリングだ。
いつアマチュアに声がかかるかもしれないし、プロに失望(笑)する人もいるかもしれないからだ。
それはともかく、アクセスしやすい、できる、webの環境はあくまで土台でしかない。
質というのをどうだ、ということが色々言われてきているし、ブログなんかでも、
ネットでも、玉石混合ということはよく言われるし書かれる。
ただここでいう玉と石は自分にとってなのか、万人にとってなのか、という意味では、
後者はありえないから、自分の主観的なものでしか基準とならない。
もちろん、例えば医学知識や科学知識のようなものとか、そういうのは客観的にかかれてないと
ダメだろうけどね。
で、その玉とか石は一体何なんだと。
それこそアクセス数とかそういうものが多ければ「玉」かというとそうではないだろう。
もちろんこれは、アクセス数が少ないヒガミであるといわれてもしょうがないが、
これは金持ちになって金じゃないという人を説得力があるかどうかくらいな些細な話。
ではなく、僕にはかなり重要なのだが、
アクセス数があるサイトはアクセス数は玉の指標とはならない、、というのは聞いたことはない。
アクセス数は数であって、そこに解釈を与えるのは僕とか人間でしかないわけだろうしね。
話がかなりずれてきたが、そのままいってしまう。
では、アクセス数だとか、そういうので全然いいのだが、多数が評価するものが必ずいいとは
いえないのは、多数=絶対みたいな風に捉える人がいるからだ。
そりゃ分かるが、絶対ではない。
逆に少数も同じだ。少数=絶対もナンセンスだ。そして少数が評価するから、いいというのも
おかしいわけだ。
だから、最後に残るのは主観とか好き嫌いであって、自分の考え方もかな、
多数がすきか少数がすきかみたいな話になっていく。
そして見る側の問題である。くどいが、発信側の問題はここではスルー。
見る側が何を持って何で見るかが問われるというのは、はっきりいって、
対等の厳しさみたいなものを感じる。非常に簡単にいえば、実力主義になったら、
実力は必ず有無があるわけで、相対的にも、結果分かれてくるわけだ。
IT便利だーというところから、IT何かに使えるというときに、どう考えていくかは、
誰にとっても対等な話だ。
だから、アマチュアもプロも全く関係ないし、知名度もそれこそ名前も、どういう人間かも
表現物だけをみたら問われないわけで、対等だ。
しかし、対等であるがゆえに、今まで何をしてきたか、実績は、どういうことを考えているかは
重視される、というかされざるをえないことになる。
結局、一言でいえば「何でも出来る=何にも出来ない」ということになるのは、
何かを決めるとか、これをやりたいという意志がない場合の話だが、
アクセスしやすい=IT便利というのは、結局何も出来ないことになるのでは。
要は、そこに意志があるかどうかというものすごく当たり前の話なのだが、
くどいが、これは表現者側ではなく、見る側の意志のことである。
見ているようで、全然見えないというか、そういう話になる。
だから、ネットは道具だというのは月に1回くらいは(笑)考えたり、
あと、リアルや生で感じることはしたほうがいいとか思うわけですな。
もっといえば、だからネットで完結していて(そういう人はそもそも、
そこで終わるから、何もないのだが)というか、
もちろんmixiとかで、完結したコミュニティを求めるのは、分からないでもないが、
ああ、完結してなくてもいいけど、まあ、どちらにしろ僕にはつまらないというだけの話(くくく
うーん、ITとか便利がダメってことじゃなくて、
情報が公開されて見たくないものも見えてきて、
そして判断は各自に任せられるって滅茶苦茶重い気がするんですけどね。
だから、責任とか取りたくないってのは分かるから、そういう人が責任とらなくなるのってのも
また分かるから、つまらなくなるってことかな。
あ、これ全然伝わらないな。まあ、いっか。