ReadMasterの軌跡

面白いことを仕掛ける。仕事を作る。ビジネスを作る。そんな日々から出てくるアウトプット蓄積場。

2007年04月

奈落の底にて

奈落とは確か、暗闇の暗闇とか、
底の底とか、結構重い響きがあったような。調べるのが面倒だな。

それはともかく、
ある種の覚悟で何かをやる、そういうことは
どんなことをやる上でも必要だ。

とくに、大掃除やクリーニングや掃除は
覚悟を決めなければならない。
本を読むのはとくに
「うむ、この本を読むんだぞ、読むんだぞ」
と100回ほど念じなければ読めない。できないのだ。

ああ、なんて貧しい能力なんだろう。
ああ、なんてこった!

勝利の旗をあげる

勝ち誇った人間が今日は世界を闊歩する。
誰も止められない。
そして、僕は星になる(これ死ぬって表現じゃねえか・・・(笑))

GWGWGW!!

納豆は好きだし、豆腐も、味噌汁も、醤油もなんでもこい。
塩分濃度高い=高血圧万歳!

さて、豆ではない人に会うと、
自分が豆であることを自覚せざるをえない。

といってるほど僕は豆子さんではないのだが、
どうも豆男くんになるらしい。マ・メ!

分かった。もし僕が豆なら、そういう豆ではない人は、
ただの「横着」「だらしない」「しっかりしろ!」
ということにしているのだが、まあ、どうでもいい話だったりする。

でも、幹事とかやるのすげー好きで、
というか、すげー面倒なんだけど、やっちゃうという、
下手の物好きみたいな、微妙な言い回しがピッタリかもしれない。

永遠のハッポーフビジンにでもなりませふかね。

展開

数学で、方程式を因数に分解することを因数分解という。
例えば、x2+2xy+y2=(x+y)2
みたいになったはず。多分。

右式にすることを因数分解といったはず。多分。
展開は、左式にすることをいうはず。

情報を展開するとは、結局、一箇所から複数箇所、とくに
ターゲットとすべき人に伝えることをいう。
逆に集約するとは、一人に集める、報告することをいう。

だからどうした、というわけではないが、
展開するには、ターゲットがいる。誰かに届いたらというのは、
やはり「絵」が見えなければ、訴えが弱い。

このブログはきっと誰かが楽しみにしているかもしれないという、
期待が僕には残念ながらある。
だから、書くのだ。そして、最後に笑うのは俺だ!!

大人を見ると

昔は幻滅したものだ。

例えば、年をとって(ここでは60過ぎくらいの人)も
お金に執着があるというか(経営者とかそういう人じゃなくて、普通に執着(笑))、
まあ執着があったらダメなんじゃなくて、
変な話、1億60歳で持ってても、普通に暮らすにはいらないでしょうと。
そうじゃない暮らしをしたい、何かそのお金でやりたいことがある(それが贅沢なくらしをしたいというのなら、ちょっと考えてしまうが)なら、
話は変わるのだけど、
まあ、どうでもいいかな。

とにかく、反面ティーチャー的な人というのが、
見つかると、今の自分はそうなっていないかという、
素材とネタになるわけだ。もしかして自分もそうかもしれない。

反面教師再生産というのも一興で、またをかし、かな。
幻滅はなくなったのは、色々な人、とくに影響を与えてくれるというか、
学び、気づきを与えてくれた人がいた、のは事実で、
さらにそういう人が多く見つかっている。
量と質、ともに、良い人にめぐり合えたというのが、良かったのだろう。

ぐっと飲み込んで継続とか、
それは違うよねと思いながらも指摘せず様子を伺うとか、
そういうのはようやく経験値が増えていきそうなところ。わーい。

いい人が一杯いる。
フォーカスを当てるのは、そこだ。
臭いものにはフタでは決してないが、そこだけ見ていても分からない。
成功事例、失敗事例を比較して何かを得るというのではなく、
どちらも足を突っ込んで、「肌」で経験しないと、
前兆やリスク認知など、そういったものはできないだろう。

少なくとも、今、どうか。
それを問えば色々分かる気がしてくるね。

問題Aを知識Aで解く

その心は?

とくになし。

ある課題なり問題を、ある種の特定の知識で解くのは、
マニュアル対応という、一種の頭をあまり使わない行為だ。
もちろん、ここでマニュアルが悪いとか、マニュアル対応が
悪いとかそういうことではないので、
頭を使わない行為も悪いといってない。
むしろ、マニュアルとはそういう「知的リソース」を
減らし、技能レベルが低くても可能なふうにした・・・
ことに意味があるというか、そういうマニュアルは価値が高いというべきだ。
おそらく、マニュアルがなした分、それを当たり前だと実感してしまうから、
次の「考えた対応」VS「マニュアル対応」になるのかなとにらむ。
そもそも、ルーチンワークと、クリエイトタスクを
比較すべきではない、感覚なものが多い。
例えば、バンドマンは、ルーチンワークのように音楽ばっかやっている、
わけだ。誤解を恐れずに言っている点をご容赦願おう!
本人はルーチンと思わないが、そう思われることはあるだろう。

それはともかく。

単純に何かの知識であたろうとするのは、
おそらく誰でも出来るという話をしてみたかったりすることもあったりするだろう、わけだが。

お客さんが無理難題を言ってきた場合は、
店長を呼ぶで対応するといった場合はどうだろうか。
店長がいつでもいるわけではないだろう。
ではどうするか。

いくつかの方法を考えておく、考える。
そういうのが面白いのではないか。
人の人生の課題がAで、それが知識Aで出来るとなったら、
存在理由など、多くの人が考える必要がなかった!
わけだし。

多くの組み合わせ、もしくはユニークな解決策。
そういうものを常に期待して、生きていきたい。

さあ、皆を忘れて、オンリーという旗を掲げて、
もぎとられ、皆になれ。
それこそが、集団主義の本質だ。
できないという前に、旗を立てて、もぎとられる経験をしろ。
そうしなければ、何も語れないのだ、明智君よ!

って明智って人が見てたらまずいのかなあ、この表現たち。

想いをこめる

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熱ければいいものではない。
だから、暑苦しいのを避けて、
クール&シャイを装ったりして、
また天邪鬼を演じているのだが、
どうやら僕の本質を見抜けるというと、
かなり上から見ている感じがするが(実際にそうだし!?)、
まあ一言でいえば独自性を他のものがマイナスでも、
そこを重視するスタイルっちゅうか、
他にないものにカチをおくというか、
そういうことをやっている人、考えてやっている人、
そういう人がやっぱ面白いというか、
それだけなのではないか、と想ったりしていて、
結局、言うべき時に言う、というか、
そういう感じ、感覚というかね、
綱渡りで落ちても助けてくれるみたいな安心感、
ああ、これいい表現だと自分で想うんだけど、
それが単なる命綱とか、セーフティーロープとか、そういうの
でもなくね、あるのかなあって、思いながら、
書かれた言葉、発する言葉に、
やはり心はこもるものだし、きっと心が動くことを
感動だという、ややこなれて使いにくい表現になった「感動」は、
きっときっと、遠くにあるのではなく、
それこそ、青い鳥の話と一緒で、
今、ここにある、そう、Now,look up itということで、
open your eyesであって、しっかりと見る、見る、見る、
見ることで分かる。

初心に帰る

そう。トイレを磨く。
トイレを磨くと初心に戻れるのだ。
これは、ある種のジンクスかもしれない。もちろんマイジンクスでしかない。

普段使っているのは台所、風呂、トイレと欠かせないものたちだ。
そのアイテムに、きっちり、頻繁ではないにしろ、
心配り出来る時にキレイにしてあげる。
それはモノに対する最低限の礼儀であろう、という考えだ。
万物の神に感謝である。

あいだみつをも言っている?が、
どちらかが固ければ割れないが、どちらも固いと割れるのだ。
柔軟性、そして、現在位置の地図確認、人の何気ない行為にありがとうと、
宗教のようにしつこいくらいで、問題ないかと(本当は問題だが)
思うわけだ。

初心。それは例えば、自分という人間を恥ずかしい存在だと、
まるで「ジョゼ」のように、「食わせ物?」とオバアがいってる、
そういう、恥ずかしさは「ある程度」必要ではないかと。
もちろん、それで閉じこもる、人目を避ける必要はない。
しかし、人間が存在し、いる時点で、全ての動物に迷惑を
よりかけているという思想は、基本的に好きだし、
なんていうか、そういう「心」を忘れたら、
そう、まさにそういう意味で心=人なのだけど、
終わりかなと。それは人間じゃないと、言っても、多分
アメリカ人も、アフリカに住む人も、日本を放浪する人も
誰も文句は言わない自信がある。

いわば、人類の暗黙知か。いい響きだと思うけど、どうかな?

靴を磨く

1時間1回靴を磨く。それが文化である。

それは冗談として、靴の光沢。牛さんなど動物さんよ、ありがとうである。

磨くと、さらに長持ちし、おかげで、気づけば手入れしているおかげで、
今のくつは、4年目か。手入れしないと、おそらくまず底が
ボロボロになってしまう。

ひどい人だとそのままはき続けるから、底の多分、木?が見える。
前そういう靴はいている人をみた。あれはひどい。

歩き方が悪いと、極端に横からすりへっていく。
僕はかかとに力を入れすぎているせいか、それとも結構良い歩き方か、
減りは結構均等になっている。
ひどい人だと、前描いた図(笑)みたいに、靴の平行面と、
靴底がすごい角度になっていることがある。

スーツの上などは、とくに皺が目立つと気になるものだ。
皺はハンガーにかけておけばそんなにひどい皺にならないし、
適当な感覚でクリーニングにだせば問題ない。
それをせず、ずっと着ていると皺になるだろう。あと、
できればスーツを着て激しい運動(笑)は避けたいものだ。

スーツのパンツでは、歩き皺というのか、
あまり、クリーニングをせず、はいていると、
横に広がって非常にみっともない格好になる。

年配の人でこれをやっている人を見ると
結構悲しい。逆に年配の人できっちりした格好をしていると、
ダンディー!ではないが、かっこいい!と思える。

といってる僕がきっちり何かを知っているわけではないが、
ある種の知識とある種の手入れ感があれば、
ある程度の年数、きれいに見えることは出来るのだと感じていると、
それだけを言っておきたいわけだ。

靴を磨いて街に出よう(笑)



ソフトウェアの法則

マーフィーの法則みたいな、ソフトウェア版と考えた方が分かりやすいか。
なんで買ったか忘れてしまったが、
まあありがちなことが書かれている。

で、この本古本で買ったのだけど、
書き込みが結構、鉛筆でされてて思わず追ってしまった。

著者のかき方は、1法則について、
「エッセイ風、もしくは近況的、出来事報告的」に
書いた後、
「ソフトウェア業界」的なものを持ってくる。
これはかなり読みやすい。

きたみりゅうじが、漫画でストレートに表すのとは、
ちょっと違う感じを受ける。別にそれでどうだ、という話ではないけど。

で、それはおいておいて、
書き込みは、著者が言いたいポイントに書かれているのではなく、
「どうでもいいところ」に引かれていて、
どういう人がこれを読んで引っ張ったのかが気になる。
というか、線を引っ張る本なのか?という、
著者への批判ではなく、よほど興味深かったのかなあ?と
邪推してしまう。

斉藤孝の3色ボールペン?は、
個人的には本が「かわいそう」だから、止めて欲しいとか
思ったりする。いや・・・別に引いてもいいけど、
売価は下がるし、どうなんだろう。
ああ、記録的なこととか、メモ的にはOKだろうけど、
僕はやれないっすねえ。

で、P.165にある、
モジュール緊密度と人間関係の話は、
非常に同感してしまった。

プログラミングの世界と人間の世界は結構似ている部分、
(これは論理的とか、そういう表層的なことじゃなくて)
がある証明かなと。
という意味でいくと、プログラミングってドロドロしてますよね。
この感覚が分かる人は、きっとプログラミングが楽しいって
いう人なんだと悟りを開いた。きええええい!



ソフトウェアの法則―コンピュータの利用技術とはソフトウェアの法則―コンピュータの利用技術とは
木下 恂

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自転車吐息

園さんっぽいなとおもったら、主演の北は自身だった(笑)
予備校生、新聞配達で、十九歳の地図を思い浮かべる。

結局やつらは、突っ走る。
そして、ひたすら。

北は、3年予備校生活を送るが、映画を撮りたくて
田村を誘う。まだセンター試験ではなく、共通一次といわれた頃だ。
田村は大学を理由に誘いに乗らないが、片思いの京子を慕い続けている。

北は、俺という旗を掲げ、突っ走るが、やはり何も分からない。
田村は、映画撮りを再開するが、京子によって追い詰められていく。

田村は頭を強打し、入院。
北は田村とともに、永遠へと走る。

ほとんど、会話らしきものはないので断片と想像力で推測するしかないが、
田村は、医者の家ということが推測できる。が、家族はなぜか頭に、
きぐるみ?かなにかをかぶっている。誰も田村の家族の顔は分からない。
ここに千と千尋でいう顔なしを当て込むのはやや急ぎすぎだが、
田村にとって安住する場はない、というのは、自身が飛び降りる前に、
北と交わす言葉から感じられる。

北は映画を撮りたくて、「一塁」という映画を高校時代に作ったことを思い出し、
シナリオを書いて、田村を誘う。田村は全く乗ってこないが、
大晦日に、京子の家へ訪れるが、そこには京子の大学の先輩である野々村が楽しそうに?
団欒しているところだった。

田村はここで崩壊する。
一方、北は、俺という旗を掲げて、誕生日である元旦?に街を走る。
何も分からず、田村に電話する。田村も北に電話している。


人は目の前の欲望ではなくても、鬱屈したものがある場合が多い。
それはどんな些細なことでも、どんな小さなことでも、蓄積するものだ。

田村の回復が見込めない今、北は俺というものを確認することはできない。
田村は眠り続けている。それならば、最後に「一塁」を、
例の透明ランナーを追いかけられるだけで追いかけて、果てよう。


彼らは何を思い何を感じたかは、正確には分からない。
ただ、あまりにも自分自身に純粋だった。多分それだけは確実に言えるのかな。

当時者意識

昔、友人が言ってた言葉。

当事者とは一体何なのか。
それは、その友人によると、自分が関係しているんだと意識することで、
もっといえば、おそらく「意識を高い位置におく」という意味合いになる。

例えば、僕が住んでいる街で、何か行事があればそれに積極的に参加するとか、参加しなくても、運営者は自らで動くということだったり。
例えば、の話だけど。
主体性というものが欠けていることを指摘していたのだが、
主体性に欠ける=当事者意識が足りないというのは、微妙に違う気がしている。

つまり、主体性と当事者意識は別のお話だと、そういいたいわけだ。
でも何が違うかが明確には分からない。

それを探っていくと、
主体性とは、自分がメインである、主であるという感覚であって、
積極性とかにつながる。ほぼ同義だろう。

当事者意識とは、自身が関与している問題や課題に対する意識のことで、
当事者意識がある人間が主体性があるとは限らない、
という仮説なり意見は、すごく自然に聞こえるがどうだろう。
つまり、同義ではない、というのは自然に聞こえるということだ。

ある課題を意識していたら、その課題に対して主体的に取り組むかどうかは、
どうも別の脳やらベクトルやら動機付けやらが働く気がしていて、
例えば、「キレイ好き」な人が「タバコをポイ捨て」することは、
普通にあるような気がする。
ここでは、キレイ好きという主体的な動きがありながら、
タバコをポイ捨てという当事者意識が足りないというのがある。

これは極端かもしれないが、似たような話はそこらへんに転がっている。
要は矛盾だ。

キレイ好きが必ずしも主体的ではないだろうが、
ポイ捨てするというのは、結局自分さえよければいい、みたいなことになる。


さて、眠っている間に浮かんだ方程式?を書いておこう。

それは、まず自分から発生しているかどうかはともかく、
自分を大事→人を大事→社会を大事→環境なり自然を大事→自分を大事。
というような連鎖なり循環があるのではないかと気づく。

社会問題に全く関心がもてない人を攻めるつもりはないし、
選挙に行かない人(結構周りにいることもある)をとやかく言うつもりはないが、
イラクや中東でテロが起きていることが、無関係だと、
思うのはやはり間違いではないか、という感覚がある。
もちろん、自分が関与したいとかそういうことでもない。

共有財産的な考えではないのだけど、共有できることはした方がいい。
ただこの「シェア」という考えは、えらく「都会」的な匂いがして、
田舎ではそういうのが前提で生きているような匂いがする。

だから、地縁ゼロからシェアが生まれ、地縁たっぷりからは動きづらさ(笑)が生まれる。
田舎が嫌われるのは、その動きづらさではないかと感じるが
(だれだれさんがどうでああでというのは、全く閉口する。
これは歳が関係しているのか、その人の性格か。おそらく後者だと信じている(笑))でも、都会ではその「地縁」のなさに、むなしさを覚えるような気がする。

都会、田舎も、両方ともメリットデメリットがあるというわけだが、
何をするにせよ、着地点がどこか。どこにポイントを定めるかを
できないのに、やるのは少々怖い。
怖いというのは僕が怖いのではなく、それをやることをメタ的に
怖いと感じるということだ。

よくあるのは自分がやっていることがすごく滑稽なのに、
すごいすごいといっているという図である。
ただ残念ながら、すごいだろうがすごくないだろうが、
そういいながら結局やってしまう人は、やれる人は、
確実に着地点が増えるし、色々見えていくような気がしてならない。

当事者であるかどうか、というのは、どこに所属し、
どこで生き、どこで感じて、どう生活しているかみたいな、
根本を問われているわけだ。

主体性はおそらくここまで問われない。
ある事に対して、自分から取り組むかどうか、だけであり、
主体性よりも当事者意識の方が深い気がする。


で、その当事者意識という言葉、
被害者意識と同様、文脈が良くない?、というか否定的な話で
用いられるからか、印象が良くない。

これもよくあるが、発言者の当事者意識が問われるわけだ。
おそらく、その友人はそこまで考えていなかったと思われる。

このブログもほとんどそのカタマリなのだが、
というか「意見」をいうとはそれが問われるからこそ、
結構恐ろしいことだったりするが、どうもそういう面はあまり
クローズアップされにくい。知っている人は、深くその人の話を
傾聴する傾向がある・・・と思うけど。

つまり、プロパガンダ!ではないが、
そういうことで、自身が問われるのと同時に、
否定ブログのような(今この言葉死語?)自身をも否定していくことになる、
ということもあるのかなと思ってみた。

もっといえば、メタ的視点か、客観視か。
どう思われるかというのは、人からの評価を気にしすぎる・・・だけでは
決してなく、どう振舞うか、どういうカッコウをするか、
どうそれが思われるかというのは・・・意外に人は分かっていると
僕は思っているから、そこの話になっていきそうだ。

当事者意識など、くそくらえだ(おぉ

深く、そして重く。

無力感との戦いというのは、前書いたが、
結局、無気力とか、そういうのを感じることは意外に多い、だけの証明でしかないかもしれない。

能登で震災が、今は発砲事件で立てこもりで、
もう大分前になるが、服部君のアメリカでの発砲事件、
そして、個人的に、永山則夫という死刑囚に興味が湧いてくる。

彼、永山が獄中から書いた?であろうか、よく分からないが、
「無知の涙」は、実は、学生の時に、名前はすでに知っていた。
確か社会学だったか、参考文献に載っていて、そして自分で
読もうとしていたが、どうもかなり古い?わけでもないが、
手に入れられないのか、そのままスルーしていたりする。
めぐりめぐって、4,5年たってそして僕の目の前にその本はある。


人は人を殺し、人を助けるという真逆のことを実際にこの瞬間にでも
起きている。笑えないが、現実というのはそういうことだ。
理屈で、感情で、万事が動かない。
だから、コントロールできなことが一杯あって、それが楽しいといえるし、
それを不幸だという人もいるし、なんとでもいえるし、感じられる。


さて、ITproだかどこかで、
ブロガーのコミュニティー化みたいなツール、もしくは包括?サイトが
紹介されていた。
原文ではないが、確か
「ブログへのコメントなどがないと、独り言になってしまっている
ブログが多い」
とあった。え、それ、どこのブログなんだろう?ここ?

というか、そう感じるのはいいが、
別に僕の書いた言葉が、誰にも届かないとしても、届いていたとしても、
コメントとは、そもそも何か感じた人が書くものだから、
そういうコミュニティーは微妙。というか、不要。
僕は遠慮ですねえ、というのが感想。

誰かとつながっている感覚は批判されやすい(とくにネットツールや、
モバイルなどのハード)が、別に悪く言うこともない。
が、変な話、どこまで落としこんで考えているかでしかないというか、
例えばmixiを生きがいにして日記を書いている人もいるかもしれないし、
適当に書いている(笑)人もいるかもしれないが、
それぞれでこうやって使っているんだという感覚、認識があれば
問題ないのではないかと思う。

マイミク100人で、僕は100人とつながっているんだよ、
という数値だけで、ほとんど何も知らない人間なのに、
認識しているのが一番危険だということかな。

といって、酒飲みにいけば、友達、親しくなれるとか、
そういうのもアレな気がする。嫌な人は、一生嫌な人って可能性は
実は大いにある(笑)

自分の人生は軽いか、重いか。
この問いは意外に答えはありそうな気がする。

『地域デザインと地域再生』

たまには、こういう話もいいでしょう。
もちろん、このブログで、という意味で。
といっておきながら、まあ感じることは基本ですが。

メモった11項目から1項目について書く。
それが濃縮化されたアウトプットとなる。
と、書いておきながら他の10項目はそのうちどこかで
出てくるわけだが(笑)

最も印象深いのは時間についてだ。
この地域デザインというのは、街づくりという言葉に一番近い。
デザインとは、目論みであり、たくらみであるが、
地域をコントローラバル?な状況にするというのは、
ほぼ政策か、市レベルの話になってきて、デカイ。
もちろん、政策として提言することはしつつも、
自分らで動いていく、という素敵なものだなあと感じたり。
おっと、脱線。

で、ここでの時間といっているのは、
例えば人の成長には時間がかかるということとか、
そういうことだ。
本来の話はそうではない(言われた話はそうではない、厳密には)。

例えば、石油というのは植物など?が蓄積されて使えるようになるまでは
年月が膨大にかかるわけだ。
しかし、石油採掘というののコストは、採掘費用、人件費、輸送費くらいしか
考慮されない。

これは、森も同じ。木材も同じ。

転じて、転職時代(と僕が呼んでいる(笑))という今では、
その転職をすることで失うもの、継続できなかったものの意味は?
より継続していく(批判的にはジョブホッパーというか?)ということに
どういう意味をおいている?ということなどが頭に浮かぶ。

つまり、ここで「会社勤め3年」の神話に言及したいわけだが、
そこは人とのコミュニケーションもあり、組織へのコミットメント
(僕はここでやるんだぞ、とか)、衣食住環境の適応、
田舎ならばとくにムラ社会へのコミット(これは正直嫌っすね。といって、東京に代表されるホームタウンが東京というのもアレで。別に東京生まれ、育ちの人が悪いわけじゃなく。嫌なところ一杯あるんでしょうよ。どちらも(笑))、自分の力(仕事で出来ることから色々ね)、さらには、
自分の仕事というのもあって・・・。

むう、でかい。でかすぎるが、3年くらいはいるというか。
友人に10年くらいいるよ、という人がいたが、やつならやりそうだ。
それくらいの覚悟みたいなのは正直欲しい。

この覚悟は、10年やるなら10年でモノを見れるし、そう見えていけるというか。
なんというのだろう。ここから逃げることがいつでもできるというような、
それはちょっとダメだと思うのだけど、
そりゃ失敗してリセットは可能だが、人生リセットとか、
積み上げたもののリセット的なことが「いつでも」出来ると思ったら、
多分大間違いで、色々やりたいことがある中で、
ある程度選択していくことが重要となる。

ああ、やっぱあと1つだけ。
稼業と仕事という表現をこれからどんどん使っていく。
稼業はサラリーマンであり、というところで、
仕事は、そのサラリーマンも含めて、自分のやっていることを入れていく。

多くの人がどんづまるとか、つまらなくなるのは、
仕事=稼業と割り切っているから、他の仕事があるなんて
考えにくいのではないかなと感じてきた。

例えば、陪審員制度は、多分仕事なんだと思われます。
でも稼業じゃないと。そういうのって、腐るほどあるし、
多くあるんじゃないかと。

人が一生に出来ることは少ないかもしれない。
でも、それで自分の人生をすげー楽しかったと、
そう送れれば、あまり量は関係ないような気がしてくる。

地域デザインとは、おそらく関係ないことだが、
でも、残念ながら社会に生きることを考えたとき、
哲学的なことも含め、それこそ、社会のマナーから、
インターネット、そして、毎日の生活まで、
全部を含めて考える、いや考えざるを得ない気がする。

それくらいでかいから、いくらでもアプローチができる。

やっぱ面白いぜ。ぐひひ。

先を創造する

将棋で2手先を読むことは結構できたりするが、
もちろんその「読み」が当たっているかどうかは問わずで、よろしく。

AならBでBならCになるというのは、
意外でもなく、普通に使うことがある。

もちろん、それは「起こりうる」ことにたいする「対応」であって、
いわゆる「リスクヘッジ」という言葉が最も近いか。

失敗学というのが一時期話題になったが、
まだ内容は確認していないが、あるあるの話などで、
外注と発注元の関係と、その内部が明るみにでて良いことなのかしらと
思ったりする。不二家も同様か。

どうだろう。消費者というお客様に実害を与えて、
その組織の危うさが知れ渡るのは、おそらく「最も」最低の状態に
なるかと考えているが、組織も人であるということを考えると
どうだろう・・・。

先を創造するには、おそらく相手の求めているものと、
その言葉とを照合していって、「絵」が出来ることが重要になる。
絵とは、頭の中のイメージのことで、その絵が出来なければ、
チームなら、その絵を共有できなければ絵は作れない。

自分が担当している絵を描くのなら、出来るが、
その絵はちょっと「つぎはぎ」になるんだろう。
それを質としてどう捉えるかは、担当者の力量も含める必要がある。

かなり抽象的にいっているため、特定の現場でしか
いえないことではない、つまり、普遍的っぽいことをPRしてみた。

組織でどの形態がベターかみたいなのはすごく興味があるが、
どうだろう。実際には、手を動かさずにそういうことを考えている人が
多いから、ノイズになるのではなかろうか。

圧倒的な説得力、魅力、戦略、そして先のビジョンを創るには、
手を動かすことが必要だ。それが出来ている人は、何も言わなくても、
色々なことができるし、実際に形が出来ている。

それらがない人、全てがある必要はないが、
言葉が空回りしてしまう、宙に浮いてしまうわけだ。
それをどう自分が引力として、つまり、
「自分」>「発する言葉」という重量の関係を持っていけるか。

発する言葉が軽ければ浮くということだ。
自分が重ければ、きっと言葉は逆に自分をフォローしてくれる。

どっしりした、という言葉はこの「言葉」の重さからくるのではないかと、
そういうことを感じている。

さあ、先を創ろう。
過去は参考になるレベルで学ぶべし。


物売りの話

物を売る際には、安くすればいいという発想がある。
残念ながらこの考えは通用しない。
なぜなら価値があるものは多少高くても買うのが、僕だからだ。
そういう意味で、価値がないものの安売りで日常的に必要なものは、
安いと買いやすいかもしれない。

それはいいが、日本人として悲しい話を。

ある観光地へいったときに、ブランド品は興味ないですかといってきた。
中国人がだ。よく、何か荷物を頼まれて渡してくれ事件ではないが、
そういう話は多いようだ。とくにアジア地域。

で、なんだそれはといったら、プラダやビットッンのコピーがあるから
安いから買わないかというのだ。

ばかばかしいので、それは法的にまずNGであり、
著作者、とくにクリエイターに対する中傷まではいかないが、
罵倒であり、表現行為を踏みにじることではないかね?
とはいってないが、そのようなことを簡潔にいってみた。

そうですか、といって話は終わる。

興味で聞いてみた。
で、それって誰が買うんですか?っていったら、
日本人はよく買うといってた。
悲しいが、税関は1、2個なら普通に通れるといってた。コピー商品ね。

中国人の若い人間も買うようだ。

ところで、コピーでも本物と変わらないというのは、意味のない話で、
そもそもそれは価値があるのかよと。

政府がいってるのは、実際には正しい。
模造品が出回れば、その模倣したものが市場に流通する。
その場合、本物は価値を持たなくなる。
悪貨は良貨を駆逐するとは、本物の金をつかった金貨を手にする人が
削ったというところからくる話らしいが、本当だろう。

ブランド品はどうでもいいが、ブランドには価値はあるとは思う。
ただそのベクトルが違うなと思われる。

ここで日本人は情けないという話をする気はないが、
まあ、わざわざゲーコクへきて、買うのだ。
分からなくもないが、何か悲しい。これは理屈ではない。感情だ。

日本人が思っている日本人像と、中国人が思っているそれは異なる。
それが一致するのもあれだが、まあ違うわけである。


さて、クリエイターの表現行為についてだが、
おそらくものを何か作ったことがあれば、これは分かるはずである。
だから、小学校で図画工作、すなわち図工をやる気がしてしまうが、まあいい。

結局、模造品はお金がほしいのだ。ブランド品の本物のブランド価値を
悪用しているだけに過ぎない。
スパムと一緒だ。そうやってばらまいとけば、カモ(ここでは日本人)が
引っかかるのだ。その思想は発展はなく、ただ搾取の思想である。

さようなら、コピーちゃん。さようなりコピー君である。

お茶の話

色々あるが、ひとつ買ってみた。
自国の文化を誇るのはいいが、自分の国が絶対であるという考えは
何か悲しい。異文化交流として、食べれないものがある場合は、
それを否定するのはやはり間違っている。
よくあるのは、普段食べられないごちそうをやつは残した、いかが?
というのがある。普通にありうることだ。

確かに心象はよくないかもしれない。
もちろん、その土地ではその土地の文化に習うのが粋である。
しかし、そんな簡単に粋になれるかと。なってたまるかと。
カメレオンじゃねーぞと。そういうことである。

もし、カメレオンで適用できたら、それは
本音と建前を使い分ける外国人みたいで、いやだ・・・。

というわけで、国際人、いや地球人になるには、
絶対などないというスタンスが必要である。

ここでいう絶対とは、それが全てで、一番だという意味だ。
これを勘違いして、自分のものが一番だというくらいではないと、
それは誇れないという考えがでてくるが、これは話が異なる。

ここでいいたいのは、あくまでも、絶対だよーんといっておいて、
それで終わるというところである。
一番だという人は、それが一番であるという証拠ではないが、それらしきもの、
またそれらしき研究、それらしき勉強、それらしきことをやっているから、
一番といえるのだ。それなら文句はない。
が、そうではないようなケースの話だ。

自分が絶対だというなら、一生そこで行き続ければいい。
それが嫌なら飛び出そう。
両方嫌ならとりあえず、何もしなくて、怒られてから考えるのも一興。

仕事の話

仕事というのは自分で選んですべきものという考えが僕にはあるが、
どうもそういう考えの人ばかりではないというのもありそうだなと思っていたら、
やはりいるものだ。

否定はしないが、いつも思うのは、
満足や納得がない仕事(これは嫌なことで飯を食うという嫌飯という思想ではない、そこは注意だ)を
やっていても、それを受け入れていれば、愚痴というレベルの低いものは出てこないのだ。

ということをいつも見ているし、感じる。

ああ、この人はやはりどこでも愚痴をいうし、
仕事選びだけではないのだなと、おそらく何をしても愚痴をいうのだろう。
だから、好きな仕事についても愚痴をいうのだろうなあとやや飛躍させても、
言いすぎではないだろうなーという考えになる。

まあ、がんがれ。

若くみえる

日本人は、若く見えるらしい。もちろん、悪く言えば幼いのだ。
僕は決して童顔という顔ではないが、日本では年齢より上に見えることは多い。
話し方で、ポイントとしては「ええ」という言葉を使えるかである。
若すぎると、「ええ」という言葉が使えない。
あと、「そうですね」という、YESの改良版を使いこなせるかも重要だ。
この2語で全てが決まるかもしれない。

会話で、「うん」と「違う」しか使っていない人間は、
やはり幼い。別にそれで色々突破できればいいけど、そうではなかったら
「ええ、そうですね」をおすすめする。

もちろん、これらは使おうとして使えるというか、
色々な人間、とくに自分より年齢が上の人と話していかなければならない。
もっと欲をいえば、日本人ではない人や、文化が異なる人とも話したほうがいい。

そうやって、話すことを楽しんでいければグッドである。

シルクの話

シルクは、じゅうたんが顕著だが、その目の細かさで値段が決まる。
細かければ細かいほど高い。それはデジカメの画素と同様で、
どれだけの細かさで表現できるかということだ。

シルクロードは数十年かけて?できたものらしいが、
やはり人は見知らぬものを求めたり、珍しいものを見たりということを
するのだなということは、旅が好きな人間をみれば分かる。

日本語が流暢な中国人は、それだけで胡散臭いという偏見がなぜか出来てしまったが、
まあそういう人だけではないだろう。
というか、場所的に、観光地にいるそれらの人は、そういう人になってしまう。
それが商売なのだし。まあいいが、でも胡散臭いことをやってる人間は、
胡散臭い顔になる。これは、顔が全てを物語るということだ。
残念ながら、二枚舌な人間はやはり舌が二枚あるのだ。
そして、目や顔、表情にはその人があらわれてしまう。

これは自分が「間違ったことをしてない」という人なら、
そのとおりの顔つきになるし、そうではないなら、そんな顔になる。
コントロールしようとしても、ダメだ。

全て自分の行動や考えがでてくる。ごまかしがきかない。
そういう意味で、人は馬鹿かあほかを全てさらけながら生きていることになる。

もちろん、そんなことは分からないという人もいるだろう。
それは問題はない。そうやって分からないなりに推測すればいいだけの話である。

最大限に分かるようにやる

自分が価値があるものというのは、それだけでいいものだと思う。
それはいいとして、自己満足という言葉は、常に自分だけではない、
他人に向けて何か発信したり、いったりしておくときに生じるものだ。

つまり、「自己満足ではないか」とか「自己満足になる」とか、
そういった疑問、問いといったあらゆるものは、
自分だけで終わりたくないから生じるものだと考えられる。
メタ認知だが、これは非常に重要なことだ。

そもそも、自己満足、とくに自己中な人間ほど、自己中ではないかなどと
問いは行わない。だから、自己中なのだ。
そういう意味で、本当に人に分かってもらおうという人と
そうではない人というのははっきり分かれる。というか、分かるし伝わる。
だから、ここらへんはあまり心配することではない。
例えば、自己満足と自己満足ではないという境目とかそういうのは、
考えることは無駄ではないが、あまり心配する割にはリターンがないというか、
一種の杞憂となる。

自分が最大限でも、適当でもなんでもいいが、
自分はこれだけしたというものがあればいい。
そうだな。例えば、何か自分で立てた目標に対して、踏ん張っているとか、
踏ん張ったとかそういう場合は、それが試験だとしよう。
試験にむけて勉強して、それで実際に答案に答えを書いて出したら
あとは結果待ちになるわけだけど、その答案を出したら、
もうどうしようもないわけだ。それを最大限やったと表現したい。

その後はどうにでもなれ、ということになり、
自分は関与できないし、どうしもようもできない。

たまに、この関与できないことについて、関われというか、
コントロールというか、そういうことをいう人もいるが、
それはおそらく、これらの最大限やったということと関与できないという関係性が
あまりよく分かっていないというか。ずれているのだろうということになる。

もちろん、価値あるものは人によってずれるから、
あってもいいのだけど、共通しているのは「価値あるものに対する態度」であって、
その個々の価値の違いについてはここでは問題にしていないのだ。
という意味で、人が一生懸命にやっていることに対して、
誰一人、文句もケチもつけられないはずだが、どうも
自分が何もしてない人の方がよく文句やケチをつける傾向が強いらしい。

自分は責任というか、関係がないから、立場的にとか、だから言えることもあるが、
それはケチや文句であるとかなり興ざめする。
あなたはあなたで、わたしはわたしであるからというのは当たり前ださんなのだ。
それが前提としてない時点で厳しいのだが、まあそれはともかく、
やったことはあとは、神様に祈るという気持ちで勝手に神を創り出してしまえばいい。

自分が価値があると思っているものは、
人にわからないかもしれないし、それが誤解されることもあるだろうし、
想定できないことはおそらく多い。
しかし、それであきらめてしまうようでは、おそらくそれまでの人間であり、
大したことのない人間ということになる。これは「他者からの評価」としてではなく、
自分がそう思うというところがポイントである。

価値があるものは、主観的なことだ。
でも、伝えるという時点で、主観的な要素はかなりなくなり、
どう伝えるかということを考えていくことになる。
それは、自己満足の話ではない。自己満足とはもっと小さな世界のお話でしかない。それは悪くないが。

必死になろうがなろうまいが、伝えてナンボである。
自分が面白くなるようにふんばっていくしかない。

それが最大限に伝えていくということだ。
決して相手に迎合、媚をうる、妥協する、自分を曲げるという言葉と
等しいことはない。それは言い方の問題でもない。
同じことではないのだ。それが大切だ。

ロストバッグ

飛行機に預ける荷物。そいつをロストした。
詳細は省くが、汗を大量にかき、異国の地というのを実感した。
そこから得られる全ての感覚は、ネットの世界では絶対に認知できないものだ。
別にネットの世界を否定しているのではなく、説得力とか成長とか、そういうものは、
やはりネットではできないということを断言しておこう。
あまりいないけど、ネットでそういうことが可能というか、
ネット「だけ」になってしまう人がいる。
本本本といってると、僕が本「だけ」読んでいる人間に聞こえるかもしれないが、
全くそうではないとここで言っておこう。
そもそも、本だけ読んでたら、何も書けない。
考えるから、それが頭に蓄積され、考えとなり、時には思索、思想となるから、
それを文字にするという作業がブログというだけである。

自分の大切なものがなくなったときに、はじめてその価値が分かるというのは、
人間らしい認識だが、でもそのとおりでしかないと思う。
大切なものは、やはり大切であると認識できるだろうが、
なくなってから分かる認識とは、大切さという意味での認識が異なるだろう。

さてなくしたバッグは、無事戻ってきた。
これは、日ごろの行いが全てを物語っているといっていい。
あと、運もある。賠償金として、300元(日本円で5000円程度)をゲットして、
いい経験をさせてもらった。さすがRMである。

横断歩道を赤で渡るパワー

急いでいるなら分かるが。まあ危ないが。
人のことをいうつもりはないが、でも言うが。

例えば、片側2車線x2くらいの道路ってまあ、信号守る人が
圧倒的に多いと思うのですが、
真ん中に退避エリア?が歩行者用にあるわけでもないのに、
わたる人いるんですね。

要は、待ちが長いから車が来ない間に渡るんですが。

自転車をすごい勢いでこいだり、すごい勢いで走ったり。
加速、瞬発。

そのエネルギーを何かに変えたら面白いなと感じるわけです。
わざわざ危険を冒して、かつその待ち時間を節約してまでも、
何かあるとしたら「それがジャンプの発売日でコンビニ」なら
微妙なんですが、でもその人にとって「大切」なら
何もいえないんですが、そういうのって、もっと何かあって、
それをうまく全体で蓄積できれば、面白いと思うわけです。

それこそ国家プロジェクトとして予算つけて欲しいくらいですね、ここ、
すごく大事です。

例えば自殺を減らすのには、生きるのって楽しいよねっていうよりも、
自殺を止めたら100万円みたいな、僕が最も嫌いな「心の売買」(笑)を
推進するのも手だと思います。
ぶっちゃけていえば、これはアレな作戦ですけど、
でも世の中のものって、案外、そういうところから発展するのも
多いわけですよ。それこそ「失敗」から始まるとは
そういうことなのではないかと。
別に「売買」を正当化するわけではないってところがポイントです。

色々なエネルギーはうまく持っていけばいいなと思えます。
それこそ暖かい社会というのは、そういう流れで出来るような。

結局コミュニケーションがテーマですよね。

年を召した方の言動、とくに言葉

飲食店で飯を食べてたら、
「あの女」という単語が何度も出てくるから、
思わず耳を立ててしまう。

齢(よわい)は、60前後か、60中か。
夫婦水入らず、ではなく、夫婦お茶入りまくりな夫婦か。

女、妙齢の女性?が「あの女、あの女」と口にする。

はっきりいって「カッコワルイよ、あんた」
という感触を受けまくり。

おじいちゃん、おばあちゃんというのは「ニコニコ」というのがある。
それは僕の祖父母がそうであった・・・というのとは関係なく(ないわけないが)、
そういうイメージがある。
こえージジイや、こわーババアというのはいるが。

それはともかく、大人で年をとっていくと、
マルクなっていって怒らなくなる、というか怒鳴らなくなる、
という傾向は強い。

若気の至りだな、がっはっは!と笑う、そういうのがカッコイイ。
そういう前提でいくと、上の女性はダメ。終了である。

まあ、ダメな人間はともかく(!)、
期待する方向と反対だから、逆に印象に残る。
要は僕は大人に期待しているのだ。ということだ。
これは大人への挑戦だと思って欲しい。真摯でかつ生な意気だが、
受け取って欲しいと思わん。

逆に、中学生とか高校生が、騒いでいたり、
口の悪い言葉を吐いても「普通」に感じる。
要は「まだまだだなあ」とか思っているわけだ。
これはバカにしているわけではないが、
「子ども」という言葉に妙に反応(これは悪い意味)する人もいて、
子どもと大人の区別をつけるというか、そういうのはアレだ。
センスがないという感じはする。

子どもに何かを教育なりを「受けさせる」というのを
嫌がる人がいるが、アホナコトイイナサンナ、であって、
その子を思えば上質!といわれる教育を試みるのが親だ。
問題は、それに気をとられて「上質とか」にね、
子ども本人がいやなことをどんどん与えていって、
結局「嫌なこと」を嫌々こなすという力しか(笑)つかないという
なんかアレな話になる。

ちなみに、偏見で結構だが、
戸塚ヨットスクールのようなスパルタなところに
親が教育を子どもにしてもらおうというところで、
親失格であるといったら、怒ってくるだろうか?
自分の子どもが可愛いからこそ、子どもに「旅をさせよ」なのか。
もっとも、戸塚ヨットスクールを批判するつもりはなく、
そこに行かせる親を批判したいと思ったりするが、
それは子どもを持ったことない人間の言動と言われるだろうから、
ここでストップ。さすがRM。

とりあえず言葉には気をつけるべし。

このブログをさくさくみる方法

まあ、重いから見ないというのも立派ですが、
あえて観るのももっと立派です(笑)

モバイル用(携帯からなど)のページも用意されているので、
そちらから観ると、テキストオンリーで、
エントリも5件ごとずつなので軽いです。

こちらですね。
http://readmaster.blog.drecom.jp/m/

インターネット環境がないが、携帯はほとんどの人が持っている昨今、
RMの動きを探るにはいいでしょうね。くう、探られちゃう。


で、どうでもいいけど、送信メール数とその相手からのメール数が
圧倒的に前者が多いのは、嫌われているんでしょうか。

嫌われるにも嵐のたとえがあるさ さようならだけが人生さ

1968年

著者の、スガという苗字が化けてますね。シット!

とりあえず、思想系の左翼とか右翼とかには
ぶっちゃけ興味がないが、手に取ってみる。さすがRM。

書かれていることのほとんどは分からなかったが(笑)
雰囲気で踏ん張ってみた。

著者の言いたいことの前に、全ては理解できず、終わる。

とりあえず、文学という作家の名前が多く出てくるのが、印象的だ。
結局、今の文学、とくに純文学と呼ばれているっぽいものは、
ここらへんの時代では全く色が違う・・・のではないかと推測できそうだ。
それこそ、主義・思想がかぶさってくるというか。

文学ではなく、文芸という、そういや文芸部って言葉あるね・・。
難しい、文藝部って書くところもあるし、文藝春秋なんてそういやそうだ。
文でアートができるかどうか不明だが、そもそも、
文章なぞは、そういうものではないかと思っている気がするから、
なんか、全然吸収できそうな、内容というか。
これはかなり高評価なんですけどねえ。

書かれたこと、著者の言いたいことと、
その内容の理解に関わらず、何かひきつけられるものって
あるんですね。多分、この本はそういう本でした。僕にとっては。

中上健次はマークせねばならぬので、要チェキラ。
結構名前は出てきます。吉本隆明もそろそろチェックしていかねば。

全共闘というものが、すごく気になって、
それは単に学生のウップンはらしではなく、やはり大きな運動だったわけで、
そこが非常に気になって、もっと調べねばならぬ。

ちなみに、過去のことに興味を持つベクトルは、
未来へのベクトルにつながるというのが持論。

1968年1968年
〓 秀実

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この国には誰が生きているのか

いや、誰も生きていないのではないか。
という、反語ではない。

道端に、タバコの吸殻が捨ててあった。
煙が出ていたから、靴で踏みつけてみた。
なんだか、これだな、と肌で感じる。「これだな」の内容、理解、
感覚は人によって違うのも感じつつ。

アメリカの射殺事件はびっくりするが、
同時に市長射殺もさらに驚く。

そして、僕は丁度「1968年」を読み終えて、
2027年も読んだ方がいいなとか思いつつ、
どうだろう。

4つの力の話は、どの時代でも叶う、適した話だと
いや「正しい」話だと思うからこそ、
頭を使っていかなければならないと、そう思う。

事件で死んでしまった人々の冥福を祈らん。

そして、この国、日本には、誰が生きているかとふと思う。
僕が生きていて、多くの人々が今、生きている。
猫をかかえてぼーとしている人も、
駅前のストリートなやつらも、
スーパーでパートに励むおばちゃんも、
皆、生きている。

自分の存在証明。それは、非常に真っ当な「表現」だと感じる。
色々それはあるだろう。

生きている、ここに生きている。
そう、言っていくだけ、それが音楽でもある場合があったりする。
そう言うだけが、実は人によって大きな支えとなることもある。

自分を信じて欲しい。
そう、自分を信じて欲しいのですね。

RADIO

「他人のために何かをするのって悪いことじゃない」
ってコーチの妻が、それっぽいことを言ってるが、
そこが印象的。

偽善とか、自己満足とか、
僕が言ってきた言葉達は、
おそらく、言葉自身が浮いているわけではないが、
まさに「机上」の話で、
それは、手を動かした人、もしくは手を動かしている人には
全く無駄な言葉だと、
そう感じている。

心や行動の前に、
言葉は全く役に立たない。

それを実感した上で、さらに言葉を、
大切にしていきたい。

強いから勝つ、勝つから強い、強いから勝つ

以下、エンドレス。

常勝とは、つまり強い証拠だ。
確かに、分かる。何が分かるかって?
常勝などありえないということが、だ。

しかし、勝っていくということがなければ、
きっと出来ることは限られて、きっと負け続けだろう。

勝ち負けの深い意味はないのだが、
あえて勝ち負けということをいっていることをくんでもらえると
非常に喜ばしい。

さあ、勝つぞ。

タイヨウのうた

昔、昼ドラでそういうのをみた覚えがある。
太陽の紫外線にやられるというのは、結局、
分解、細胞の動きが弱いみたいなことになる・・・のかもしれない。

YUI主演というので観てみた。

「うん」といううなづきから、
語り口調まで、
悪いが、滅茶苦茶好きだ!!!

完成度の高さ

完成度という言葉にはっとする。
完成ではなく、度である。つまり、度合いであり具合だ。
おなかの具合が悪いとかそういうやつだ(違


完成度が高いというのは、完成されているというより、
よく出来ている、作品として完成に近いという意味合いがある(はず)。


で、完成度が高いもののほうが低いものより、
良い印象を受けるが、でも、完成されすぎていて、
いわゆる遊び、余裕、挑戦みたいなのがないのも
ちょっと窮屈だ。

圧倒的に、完成度の低い、何もないところから産んだ方に
カチを見出す蛍光が僕には強い(うお、誤字だらけ

でも、とはいえ、完成度を高めていくということも非常に好きだ。
種類として、比較対照として、考えるところではなさそうだが、
完成度の高さばかりみていても、創作的なところをばかりみていても、
形になるものが「ワンパターン」になる気がする。

で、結局、作り手の成長がなければ何も面白くないので、
つまり、ここで定義できる良い作品(本からロケットまで、商社じゃないよ)は、
作り手も、観た側も成長できる(考えられる、感じられる・・・など)ことを促すものではないかと。

笑いを狙うだけのものは、成長とは違うかもしれないが、
感じることで、そこから何か始まることは多い。

圧倒的に勝つために、どちらかに力を注ぎ込むとかもできる。
それも一興だし、作戦でもある。

何にせよ、完成されたものは完成されているという評価を受けるので、
どうしてもぶっ壊したくなる衝動に駆られるってことで。

ゆで卵上手すぎ。

コミュニケーション・オン

昔、ではないが、結構よくあることに、
音信不通となるパターンがある。というか人。

自慢するものではないが、こちらから連絡を絶った人よりも、
絶たれる人のほうが圧倒的に多い。
というか、やばいんじゃねーか、これ?とか思うが、
そもそも、絶つというのは、何をもって絶たれるというかは難しい。

例えば、3年くらい連絡とってなくても、
連絡来たら会いたい、話したいという人は確実にいるが、
そういう人は絶ったとはいわない。

絶ったとは、連絡を取らなくても、もういいかーみたいな、
今後一生という覚悟よりも、記憶から消えるみたいなことだと
思っている。

人はそれくらい色々な人に会う。
旅先であった人なんてとくにそうだ。
その分、人は成長するはずだから、旅をしても、
成長してない人は今まで見たことがない(笑)

コミュニケーションは、絶っていくべきではなく、
電気回路のスイッチをONにして、通電状態にしておくべきかなと
思っている。要は、常にスイッチをONにしておくことで、
いつでも通電しているわけで、その通路をみつけるか、
触れればこっちにこれるという状態である。

これはやや「距離を置いている」と感じる人もいるだろうが、
僕は全くそう思わない。それを「ゆるい」と感じる人もいるだろうが、
別にそうも思わない。

変な話、近所の本屋で「思想系」(笑)の本をばっかりかってたら、
その顔と思想系が一致して、他の本を買いづらいというのもある。
もっとゾクにいえば、エロ本を買う店を選ぶみたいな話だ。むう、分かりやすすぎる。

だから、妙な話でもないのだが、
ある程度覆面的なコミュニケーションというか、分からない要素は、
やっぱり必要なわけだと思う。が、もちろんアホは困るが。

例えば、2chは便所の落書きという指摘は散見されるが、
別にそれはそれでという意見も「かなり」多い。
それは細部をみてないとか、特定のものであるとか、そういう意見だが、
それはおいておいて、そのかなり多い意見は、
おそらく「分からない」それこそ「覆面」的なものが、
それを「匿名コミュニケーション」と、誰かが多分言っているはずだが、
になる。

そういう意味でのコミュニケーションを、
コミュニケーション・オンと名づけてみる。オフは、
閉ざすのではなく、通電してない状態を言う。

例えば、それは来るものを拒むみたいなことになる。
あまり具体例は挙げられないが、そんなイメージになる。

通電していくということは、おそらく、キャパを広げつつ、
そして深みもまして、最強のツールとなるというか、することに
なると勝手に目論む。

コミュニケーションは人によって色々できるから、
色々たくらんで色々試すのが良いと思われる。


ちなみにこのブログは、当然、コミュニケーション・オンなわけで、
コメントに対して必ず返信があるという実績がある(当たり前

それすら出来ない人もいる(バカにしているのではなく、事実。いかなる理由があれど、コメント欄を設けることは来るものを拒んでいないことの証明。)

また、TBをうつことで自分のブログのエントリの価値を下げることとかもありそうだ。

面白いのは、Googleなどのページランクの質は分からないが、
あれはリンクと関係が深い、要は相互補完的な評価をしているっぽい、っぽいので正確なことというか、カンだが、
変な話、一人しか知らない人、一人しか知らないサイトこそが、
最もカチがあるかもしれない。知名度=価値があると、
考えるのも、ちょっと立ち止まって欲しいときもある。

それこそ、アマチュアニズムとか、素人志向とか、
徹底的なアングラ?、とかになるのかもしれない。
けど、そうくくられるとまた、「ん?」と思うわけだ。

というわけで、今後も発電していくとしよう。

ろうそくブログ、灯台ブログになる。

オレ、やります。

そういうことがいえる人はどれだけいるだろうか。
そしていえない人はどれだけいるだろうか。

女の子が「ボク」というのに違和感がないということを
どこかで聞いた「覚え」があるが、
それは絶対に許せん(笑)

おら、でもボクじゃないだろう。
自分の一人称に誇りを持て!!

何?「ボク」に誇りを私は持っているから、
うるせーんだって?

くっ。お主できるな!

が、「ボク、アナタ、好きです」ってのは、
いろんなことを想像しすぎて、ダメだ。

とりあえず、オレやります(えー

朝飯を整える

最近、わかめがくそうまい。
味噌汁にわかめが入っていて、昔は全然「わかめ嫌いだよう」とか、
言ってたお坊ちゃんが懐かしい。
わかめ、くそうめえ。わかめご飯最強。
ってわかめご飯そういえば作ったことないな。作るべか。

朝は、米にたくわん、納豆に味噌汁が理想的。
そこに魚があると、おそらく仕事する気にならないくらい、
いいかもしれない。魚くいてええ。

できそうなのは、米+たくわんか、米+納豆、
味噌汁はダシをどうするかがポイントになる。
そして、やはり男なら、卵と友達にならなければいけない。

卵が食べられない人は、おそらくこの世の中に生きている資格がないという
ほど、その上手さははかりしれない。
ミスター味っ子ならぬ、中華一番ならぬ、クッキングぱぱならぬ、
美味しんぼ(びみしんぼじゃないよ)、「でりしゃーっす!」と、
朝から叫ぶ男がいるわけだ。

世の中は色々な事件が起こり、考えなければならないこともあるが、
それこそ中村氏(青色LED)のように、
規則正しい生活をして、ひたすら集中していくことが重要だ。
つまり、不規則な生活をしていても、何も生まれないというのは、
おそらく事実だよーんということだ。

だから、朝飯に納豆が食えるかどうか。
口が臭くなる?男は口が臭いくらいがかっこいい(嘘
という幻想イメージを抱かせればいい。

にしても、カレーと、納豆と、キムチは臭うっすね・・・。

鮭まぶし+ふりかえ+ごはん+キムチ・・・死ねるウマさ。

杞憂

杞憂かどうかを自分で判断するのは難しい。
人によっては杞憂なことが、考慮して当たり前のことになるからだ。

例えば、朝飯に卵がないと死にそうだという杞憂から、
明日死んでしまうかもしれないという杞憂まで
色々あるわけで、現代人はそれだけ10分もの時間を使う。
本当に忙しい「人種」になったものだ。

僕が生きてきた時代は、もっともっとのんびりしてたのに。

あまり差別化をおっかけてたら、
周りにダレもいなくなってたという話はありそうで、
笑えないが、でもやっぱおかしいというのが、
最近の新庄。って、引退してるやーん。

モリー先生との火曜日

死にいくモリーの話。
愛を語るということ。愛が勝つということ。
死は怖くないこと。

残念ながら感動はなかったが、
最近、「死」というものが悲しさというよりも、
運命を感じる。そうだな、運命論者といってくれても「ああ、そうさ」と
いってくれても、「ばっちこい!」となるくらいのレベルかもしれない。

この本はある人から勧められたりした曰くつき(笑)の本だが、
彼にとっては「死」はここに含まれたものを僕に伝えたかったかもしれないし、
そうではないかもしれない。
しかし、モリーがいっているように「静かに死にたい」とか、
皆さんありがとう的なニュアンスの話は非常に納得ができる。

若ければ良かったというのは、
「純粋な羨ましさ」か「本当に戻りたい」と思っているかで
全く違うと思うが、モリー曰く、
前者だと自分に満足していない、となる。
全くその通りだ。

僕が何かケチをつけたら全力で潰されるだろう。
そういうことを最近感じる時があるし、
また同時に、こっちも全力で潰しにかかるという、
このスリリングというと異なってしまう、面白さに
非常に毎日が文字通り「楽しい」のである。

死は楽しいといったら不謹慎だろうか。
殺人はアホだが、自然死にとくになんらか何か、
悲しみだけでカバーする意味を与えるものなのかと。

うおおおお。生きたいぜ!やっほい。


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どーん

DAWN。夜明けではない。
擬態語、いや擬音語で、
衝撃を受けた鐘の音(寺?などにあるあのデカイ鐘を想像)の
なる音。あれはカルロス・ゴーンだよとか、思うが、突っ込みは
それくらいにして、そうらしい。

どーん。

というよりも、どーーーんくらいの衝撃があるとにらむ。

個人的には衝撃は「ショック」と声を発するか、無言なので、
「どーん」と脳内に単語変換が走ることはない。

鐘の音はその終了を表しているかもしれない。
始まりのゴングであり、終わりのゴングであるとか、
始業の鐘であり、終わりの鐘である。

運命のゴングがなった、とはスタートでもエンドでも使えるような
気がする。どっちでもいいかな。

世界を描くには、どーんが必要かどうかということを
真剣に考えていくと、その人の世界にはどーんがいるということになる。
なお、言葉で表す限界はあるが99%を表そうとして遊ぶというのも
必要な行為だと思っていたりするガンもどき。

最近は、語尾で遊んでいないがーがー、
波がある。やりたいときはやるという、そういう波だ。

しゃべり言葉と書き言葉は違うから、
実際に会ったことない人の文章を読んで、話を聞くと
なんてやわらかい人なんだろうと思うことがある。
逆もあるが、大体はソフトになる。
ハード→ソフトの図式がある。

これは、書き言葉はやはり固いわけで、
話し言葉はやわらかいよーんみたいなことになっているのカモ。
でも、文語体、口語体ってのはなんか国語で習うっぽい(っぽいとは、
?風である、?らしいという推測の意図であるよーん)ので、
まあ、あえていうまでもないかしらん。

どーんというのはその友人の友人に影響をうけたらしく、
インスパイアーされたわけだが、ということは、
その友人の友人のどーんは世界観としてあるということになる。

世界観はその人によって違うわけで、
ソフトクリームがフライドポテトより好きな人と
そうではない人と、同じくらいなものかという人もいる。
ちなみに僕は田舎ポテトが好きである。田舎モンなので。わーい。

どーんという言葉から導き出される一つの結論は、
ワンピースのどーんではなく、一つのオリジナルな世界が
そこにあるということをただ意味しているということになる
可能性もなきにしもあらずもがな(笑)

現象を説明したい、もしくは状況の説明には、
?らしい、?風、?のようだ、?にみえる、?かもしれない、
?だと思う、?のように感じる、?のようですね、?だったかな、
とめちゃくちゃ多い。

常に、正論をしゃべる人は、固くてしょうがない。
正論はそれ自体に残念ながら硬くて、聴き手も入る余地なしで、
しゃべり手もそれをただ投げつけるだけであり、
キャッチボール=話すならば、それはピッチング練習でしかない。
ピッチング練習に快く付き合うなら、それは成立する「会話」だが、
話すというならば、それは面白くないだろう。
正論は100文に1文あれば十分か、いらないものである。

さて、どーんという世界を構築する人は、
そのどーんと思われる現象をどーんと説明する傾向がある。当たり前か。

僕が「踏ん張っていく」というのは「がんばる」と同義なのだが、
頑張るは、頑張れといえば相手に何かを求めるようで
心苦しいので、「踏ん張れ」ということで、現状が最悪でも、
足を踏みとどめていけるかもしれないな、という
相手の状況を推測して、フォローする意図を感じやすいと思っている。
頑張れは、状況を最悪だとか思わなくても、使える。

頑張っている人間に頑張れとはいえるし、
頑張ってない人間に頑張れともいえる。

しかし、
踏ん張れとは、頑張っていない人間には使いづらく、
頑張っている人間には、それでいいんじゃない?と
現状維持的プラスアルファを促すことができると思っている。

まあ、そんな深い意味はないが。

その友人に説明を求められた、
ぎゃぼーであるが、
ぎゃぼーとは、のだめカンタービレの主人公、のだめが、
使う台詞である。

のだめって全国民が全部読んでいると想定して、
読者サービスとして書いているのだが、
逆にそうではなかったようである。

のだめ最高!

NARA:奈良美智との旅の記録

http://www.nara-movie.jp/

観た観た。

これはかなり良かった。

印象的なのは、ひねくれた女の子というのを意図的かどうかは
ともかく奈良さん自身が描いてきたが、
その絵がだんだんやさしい目になっていくというもの。
自身でも少し言われてますが。

また、ドイツ留学でのインタビューシーンが少しありますが、
孤独感というのが今の支えになっているみたいな話もすごく印象的。


アートと社会を考える上で、
多くの人がその小屋ギャラリー、AtoZで関わったのは
すごく面白い試みだと感じました。

多分奈良さん自身がそれを意図的にやったとは読み取れませんでしたが、
ボランティアスタッフを含め、多くの人と交えて作品を作るのは、
今までひとりで描いてきた奈良さんには大きな挑戦であり、
それが世界を周るのだから、一生に一回しかできない、という
話もうなづけるような気がします。

やはり、アートは挑戦だし、
一人ではなく関わっていく=それが表現だ、
というのを実感してしまいました。

六ヶ所村ではないですが、観てみたら?

六ヶ所村ラプソディー

http://www.rokkasho-rhapsody.com/

上映会に行ってきました。
上映会は、確か「home」でしたか、あれぶりのような気がします。
homeは上映会じゃなかったような・・・まあいいか。

青森県の六ヶ所村に住む人々などのドキュメントです。
どういう話かというと、原発から出る核の再処理施設の話です。

事実としては、それらは結構おっそろしいものなのですが、
知られていないというのがまずいという話です。
それ以外にもイロイロな知らないことはありましたが。

僕も知りませんでした。六ヶ所村という名前は知っていたような。

で、ちょっとお金なりはかかりますが、
これは見た方がいいですと、いうおすすめです。

社会を風刺したり、現状を追及していくような、
ジャーナリズム的なものとか、そういうのすごく好きですが、
これって別に風刺でもなく、事実なので、どうしようもないです。
要は見た後に「どうすればいいんだ」という感じはします。

上映会をしている人々、とか、もっと六ヶ所村に関心をもって
という人々も全ての人々に共通していると思いますが、
それは、どうなるか分からないということです。

既成事実という言葉がありますが、
何か作る、成し遂げるとは、次を生み出しやすいです。
原発自体に頼っておきながら何を今更ということを
口で言うのはすごく簡単ですがそれはちょっとあまりにも、
エネルギーが空気と一緒のようになってしまった、
これはいいと思うのですが、でも、それは無駄遣いが
いいよねってことではないですし、
基盤となるもの再点検は必要だなと。

建物はできていて、もう国の意志だから、逆らうなというのも
一理ありです。が、まず、一人一人が意識して、というか、
どうなのかを考えてからいいかなと。
直接民主制ではないですけど、それくらいヤバイ問題です。

北朝鮮の脅威とかなんか実験しまくってて言われても、
それは外国からの話であって、日本国内の話じゃないわけです。
外国だからOKってわけではなく。

今回は日本国内で、しかもその影響力は全国であり、
それは排出される核のごみや、そしてもし事故がおきたらという話ですが。
というわけで、青森だから別に関係ないやーとかいうでも
ないわけですよ。

だから、無視できなくて、
知ってしまったので、もうどうにかするしかないと。
それは止める、止めないはおいておいて、
自分はどうするかということは、いくらか考えて決めていかねばなりますまい。


勘違いされやすいのは、
環境問題を唱える人は市井の人じゃないという感覚です。
これは間違ってます。映画では、そのようなエピソードというか、
そういう話も出てます。これ結構重要ですね。

あと、政治的宗教的、何か後ろにいるのかという話は、
確か、ホワイトバンドの話で痛い目というか、不快感を感じた人も
多分いたのでしょうが、それは僕は参加してないので
分かりませんが、ロビー活動という一種のこれも政治活動なんですかね、
というのを理解すれば別にそんなに騒ぐことでもなく、
そしてサニーサイドアップが上手く有名人・著名人を使ったというのも、
別にその事実や背景が分かれば、あんまり不快になる話でもない・・・。
と思っていますが、知らなければ何か嫌だろうなあとは思います。

で、今回の六ヶ所村については、
おそらく生きている人々に全員関わらざるを得ない話で、
エネルギーを使っていない人間はいないわけですからね。
政治的なもの、例えば止めればお金がある団体に振り込まれるとか、
そう訴えていくプロバガンダ(笑)的なものがあるとか、
そういうのはまずないですね。あったら、どういうものか、おそらく、
妄想の世界になるでしょう。

宗教的なものですが、まあ人をミイラにしちゃったりするのは
勝手っちゃ勝手ですが、隣のうちでそれやられたらたまらんわけです。
だってミイラにしちゃうというか、思想や何か信じているから
やるんでしょうけど、人は死にますからね。
だから社会って窮屈じゃなくて色々やっていいと思いますし、
宗教も別に悪くないですしね。でも、皆が幸せにできればいいって、
それを人に言った瞬間に怪しくなるのはなぜでしょうね。
幸せって言うものじゃなくて、それぞれあるのだから、
そのあるベースで見ていくものという意味で、説得力がないだけかもしれません。

裏で何かとかんぐる人もいると思われますが、
まあまあ、そこらへんはスルーしておいて、
まず見てというのをオススメします。

それを見てから考える、誰かに知らせて見るとか、
そういうのは各自がアクションを取っていけばよくて、
僕もですが、今書いている時はテンションあがりますが、
実際の本格稼動11月時点では冷めているかもしれません。
でも、そういう問題でもないのかなあと。

エネルギーをどうやって使っていこうかなあと。
それは物理的なエネルギーも、精神的なエネルギーも
どちらもなんですけどね。

あと、未来のためにというメッセージもありますが、
そういうのがそもそも嫌いという人もいそうですが、
ぶっちゃけて、自分のことさえよければいいという人もいそうです。
それも悪くないですが、自分だけで生きられるほど
社会はやさしくない(=甘くない)わけですよ。
そこらへんもまた考える材料になるかと。

色々な視点で見えると思うんですね。
それこそ、ゴミの埋め立てもすげー問題になりますし、
あれって結局お金で買ってるんですよねえ。
全く笑えないですし、これが現実ですよね。
でも、目をそらすことはできないですね。

都会に住む人は、ゴミは出せば消えるものだと思っているけど、
でもそれは、どんどんゴミ置き場にためられていって、
みたいなことですね。技術が進めば循環できるんでしょうが。

私の町、村、市では受け入れますよーっていって、
お金くれたらからいいよっていえばそれで終わりなんですけど、
なんか現実ですね。

六ヶ所村を止めたらどうなるかは分かりませんが、
見た感じは非常に危険ですね。
いわゆる問題が発生しないと撤退しないみたいなのは、
問題が分かっているのに、多分、被害が発生した場合、
死の灰をかぶるわけですから・・・くそ平和だと思っている日本も、
滅茶苦茶恐ろしいところになっているわけです。

スチールボーイじゃないですが、
技術とその利用方法にめぐっては常に葛藤があるわけですが、
国も最小限に被害を抑えようとしているからこそ、
辺鄙な土地、田舎を選ぶわけですね。これも現実ですね。

変な話切り捨てゴメンという考えはあって、
これはおそらく批判するというのではなく、
行政として管理するときに考えてしまうことでしょうね。
100万人の命か、1万人の命か。

全く恐ろしい世界です。
リスクヘッジは大切ですが、ここで最初の問題に辿りつきます。

なんで僕は知らなかったのでしょう。
新聞はマメにチェックしてたはずなんですが、
六ヶ所村の話は、原発の話かと思ってスルーしてたんでしょうか。
僕の脳がバカなだけかもしれませんが、非常に切なくなりました。

まず見て何か感じた人は感じたレベルで
何かをやるというのがベターかと思われます。

僕はまずブログに書いてみました。

ありがとう。そして次へ。

お世話になった、というか好きだった店が
営業を終えることとなった。

店は、1年でなくなることはまああまりないが、
持続していやっていく場合には色々な課題が出てくる。
店というか、そもそも商売たるものそういうものなわけだが。

店と一番最初に思い浮かべるのは、固定費である家賃だ。
自分で土地とハコ(店の建物のこと)があるなんて、
相当珍しい(地縁つながりでそういうことができる?お金持ちかな、悪い意味でない)と思っているので、
ほとんどの人は、家賃をオーナーに払うことになる。

個人的な考えとして、店の外観などはどうでもいいから、
中身を充実させて欲しいとか思う。
もちろん、見た目で選ぶというか、見た目が汚いのは論外だが、
そこがポイントだ。
見た目でお客さんが、何かよさそうといってくる人って
どれくらいを見積もっているか・・・だし、
そもそも、ギャップがあるわけで。
あまり外キレイで、中ボロボロだと、店というか、
人も同じだけど(ひでー)逆にまずいような。

というわけで、外観そこそこ、中かなりぐっどなのが
一番良さそうな気がする。

それはおいておいて、人は死ぬもので、
店も死ぬ。もちろん記憶には残り、語り継がれるものはあるわけだが、
物理的には消えていく。

個人的に、コミュニティーは消えまくっているが、
何かを媒介にしてコミュニケーションをとろう、
そして理解をしていこうという動きは確実にあって、
そういうのはとても素敵ちゃんに感じる。

お疲れ様でした。
また次、楽しみに待ってます。
ふんばりましょう!

スケール感

昔、ある友人から
「あんたはそんな小さい人間だと思っていない」
といわれて、嬉しかった覚えがある。

うーん、小さい大きいが最近全く分からなくなってきているが、
ビックな人間を目指すという意味では、
いわゆるロックンロールな人間と志は一緒かと思われる、
が、ロックンローラーが一緒にしちゃこまるぜべいべーと
言ってきたらしょうがないっす。

どういうスケールで動くか。
その人次第だが、やはり、生活領域+αなことをいうのは、
現実感満載で現実味があるが、
やはり面白さとは今、そこに、ここにない!ものを
作っていく、創り上げるというものだと思っているし、
そうだと確信に近いものあがる。というか決定(笑)

もちろん、それらの生活領域的なもの、
日常を見直すこととか、細かいことをつつくこと(言い方悪いけど)
とかは大事だし、いいと思う。
しかし、それらを踏まえた上でやはり、でかくいこうと。
そういうのがやっぱオレ流という、
我流だかなんだかしらないけど、結局そいつを持続できないなら、
そいつはガリュウではなく単に濁流に飲まれただけだって、
笑ってしまえばいいんではなかろうか、と思うわけだ。

想像は現実になるというのは事実だと思う。
それは空想ではないことに注意を払っておこう。
そうすれば、不安なんぞ、小さきものにすぎない。

さあ、スケールアップだ。
オーロラブレークアップが、今年の流行語になるだろう。

持続の神様

サステーナブル・ゴッド!

そんなのはないが、持続をするというのは、
持続の神様に契約をすることだと思う(嘘

ではなく、持続の鬼といったほうがいいか。
これやっていきたいんだって、持続の鬼になること。
すなわち、万歳であるが、
とにかく、それくらいの気持ちでやってもらわないと、
その人がこれをやりたいんですというのに説得力はない。

さあ、やれよ。
ああ、やるさ。このやろう。

隠されたラフ

笑いというのは、隠されたものも多い。
それは黒子的笑いといっていい。本当かよ。

そのラフはもっともっと知らせていっていいと思うし、
そういう人は必要だ。
といって、最前線で笑いをとっていかないのも、シャクである(笑)

そのお年頃、ではなく落としどころがどこかが
難しいが、ラフをどんどんラフスケッチして、ラフりんぐしていこう。

さあ、ラフワールドへ!

ものを大切にする姿勢

昔、ある友人に対して、というかこのブログにも書いたが、
「貧乏くさい」=「ものを大切にしている」=「もったいない精神」
みたいなことを書いてみたが、
そこにセンスを求めるのはコクかもしれないが、
ものを大切にする姿勢というのは非常に好きだ。

例えば、フォーマルなところに、まあそれなりのカッコウというものが
あると思うが、そこにもったいないからといって、
お古を着ていくのは別にいいのだが、それがあまりにも
うーん?というのなら止めるという感じは伝わるだろうか。

うーん?というのに、人にどう見られるかというのがあるわけで、
その友人との「人にどう見られるか」で3日くらい議論した覚えがあるが(多分嘘)、
結局、大切にしていて+気にならない人と、
大切にするのは分かるが+気になる人というのの違いだと判明。

友人にとっては、僕の指摘は新鮮だったみたいだが、
なんていうのか、昔、大学の友人であった今はパイオニアしている(笑)友人は、結構そういうことは気にしていたタイプだった気がする。
エピソード的には、
チャリダーとして「タオルをまいてコンビニ入れるか」みたいな、
トラックの運ちゃんとかは普通にやってそうだが、
まあ細かい話といえばそうなんだけど、結構こういうのは大事だったりすると思われる。

細かいことが重要なのではなく、なんでそうするかみたいなのに
関わってきて、結局、何か面白そうだって思う人は、
この細かいことに対して何か裏付けなり、考えとか、それが笑えるものでも
全然いいのだけどあったりするからイイね。

気の置けない友人なり、ここでは恋人も含めてもいいが、
大切にしている人こそ、その人に対しての配慮は、
おそらく1度しか会わないような、触れ合う袖も多生の縁ではないが、
人以上に必要だと思っているが、これはおかしいだろうか。

僕にとっては、親しき仲にも礼儀ありというか、
そういう改まりがすごく好きで、「よろしくお願いします」と、
頭を下げれるというのがすごくいいと思っている。

これは悪くいえば、よそよそしいとか、他人行儀であるとか
そういうことになるんだけど、別にそういうのではない。

僕はものを大切にしている覚えはないが、
というかどちらかというと「捨てられない」人間である。
犬だから、どうしても埋める(笑)

というわけで、僕の部屋はゴミ屋敷である。
誰か掃除してー。

時間を慈しむ

時間は大切だ。

今回は、それはTimeIsMoneyみたいなことじゃなくて、
例えば、友人が「夜を想う」というエントリを上げたような
感じで、夜の時間の面白さというか、大切さを
慈しむ、というわけだ。(?)

夜、寝る前の時間が非常に楽しみであり、
また何かちょっと悲しい、というか切ない感じもする。

朝感で言っている始まりの朝は、終わりの朝でもあり、
夜も終わりの夜であると同時に、始まりの夜でもある。
必ず朝はやってくるというのは、何か物理法則、天体法則には
逆らえない感じを出してくれるが(えー)、
とにかく、時間帯による時間の大切さは結構あるわけだ。

夜の時間は流れるのがのんびりというより、
だらだらというのが僕は多い。
朝は、しゃきっといきたいがダレている感もある。

しかし何かすることに慣れていくと、
習慣とは恐ろしいもので、それが当たり前だと思うようになる。
もちろん疑ったり、考えたりすればその当たり前も打破することは
良い意味で可能だ。

時間を大切に想って、
僕はもっともっと大切に、かつ楽しんでいこうと想う。

全然ダメだという感触

ダメ出しではなく、全然ダメだという判定がなされた。
これは他人にではなく、他人の言葉から導き出された
一つの結論である(笑)

全然だめじゃねえええかあああああ
って感じデスデス。

お互いが気持ちいい

ある方の名言。迷言ではない。

コミュニケーションとは、お互いが気持ちいいことだ。
という考えが非常に体に、ポカリ飲むみたいに染み込む。

ブログコミュニケーションというのも全く同じかと。
だから、ブログでなんかコメントするとか、
トラックバックするってのも同じことではないかと。

コメントが来るじゃないですか。
そしたら、それって気持ちいいかどうかですよね。
不快なものってそもそも、会話だと困るわけですしね。

その不快なもの=批判的意見とか、そういうことではなくて、
そこがポイントなんですよね。
相手にとって嫌なこともどこまで言えるかって。
それをブログでのコミュニケーションに求めるのは、
かなり「きつい」と思うので、ダメなんですけど、
ある程度読めば分かるかなあと。

そしてコメントするじゃないですか。
それってやっぱ、相手のコメントが返って来るなり、
またその返し方とかも、そうですし。

そこでお互いが気持ちいいコミュニケーションを
取れるかどうかだけなんですよね。
それは一般的なマナーだとか、そういうものとは
違っていて、それこそ読み逃げというのは、
コミュニケーションではないですね。

ああ、正確にいうと、
「読み逃げと思う人が」コミュニケーションをとれているかといったら、
それは違うよね、ということです。

コミュニケーションが取れてないのに、
コミュニケーションが取れていると思っていることは滑稽なことです。

つまり、読み逃げされることが嫌なのでしょうが、
そもそも相手がコミュニケーションを求めていない、
最もここで読むことはコミュニケーションとして、
相手を理解しようと、しりたいとか、何か思っているだから、
意味はあるし、一歩でもあるわけです。
その一歩に対して、見るだけであって・・・という指摘が、
読み逃げ批判なのでしょうが、それ自体がまず
コミュニケーションしているという幻想というか、
自分の想像の相手と話しているという一種の妄想に近いものを
感じます。ここで妄想というのはあまり悪い意味じゃないです。

だから、ネットで相手をどう考えようが思おうが勝手ですけど、
でも、お互いが気持ちいいことではないなら、
何か意味があるかなあと思います。

例えば町内会で役割を与えられてあまりやる気がしないのに、
なんでだよというような話はありそうですが、
お互いがこうすればいいんじゃないかっていえなければ
「良い」「町内会」などはできますまい。

同じように?、読み逃げといってる時点で
ダメ、つまり、良いブロガーなりにはなれないというか。
まあ、当たり前のことを言っている気がしていますが。

話はこれはいいとして、
仕事コミュニケーションも同様かと思っています。
チャンスというのものがあればそれに組していくというのは
良いことだと思っていますし、どう活かすかが鍵でしょうが、
やり方もあるわけです。

自分が納得なり、上手くないというところで
勝負していくのはやはりちょっと辛くて、
これなら自分でやっていけるってところで勝負する、
それこそそこで組していくのがいいかなって思います。

そういうコミュニケーションのとり方は、
自分の気持ちいいことだけ考えているのでは?という
批判なりがありそうですけど、そもそもの考え方として、
仕事=苦痛であるとか、前提なり先入観が多すぎて
話にならないということもあるわけです。

お互いが気持ちいいとは、ある意味では妥協でもありますが、
うまくいえば現実をみた理想でもあって、いいかなと思います。

そもそも、自分が相手に気持ちいいことを提供できないのなら、
コミュニケートできないというのはあるわけですし。


というわけで、ブログだろうと、現実の会話であろうと、
思うわけです。
つまり、本質は変わらないと。
ならば、よりリアルで、痛みを、そして逆に笑いもある、
直接話すというのがすごくすごくコミュニケートの原点であり、
生であり、本質だと思うわけです。

変な話をすると、やはり、文字でうまく話せる人は、
やはり現実でも普通に話せるというか、
その落とし込みは人によりますけど、
相手を捕まえた?と思ったら、それはぶれないですね。
決め付けじゃないっすよ。

というわけで、お互いが気持ちいいことを
目指すというか、それってすごく楽で、気分がいいですよ。
肩が凝らない関係ってすごく素敵ですよね。
否定的な意味合いから持っていきたいわけじゃなくて、
落ち着けるっていいじゃないですか。



寝かせるものと即効やるもの

思い立ったら即行動というのは、以前働いていた相棒の名言だが、
その相棒とは連絡とることはできない。
きっとまたどこかで出会えるだろう。多生の縁である。

即効やるというのは響きがいいが、
時には寝かせるというのも大事だ。

書き上げた文章を1週間くらい放置しておいて、また見ることを寝かせるといい、
これは漬物が味がよくなるのと、というか発酵がすすむだけなんだけど、
寝る=何もせずほうっておくみたいな意味だろう。まあ説明はともかく、寝かせる。
そうすると、1週間後にそれをみると、気分や気持ちの変化が起きて、
また別の角度からみれて、時には「何書いてんだ」と思うことが99回に98回くらいある。
寝かせずにやれば、それを味わわないので、いいわけだ。

でも変な話、必然的に分けられるというか、
今やりたくてもできることと、できないことがあって、
即ち行動というのはできることを言うのであって、
今できることしかできない。できないことは寝かせる対象になるし、そうなる。

緩急をつけるというのは、今やれることをやっておいて、
できないことはストックしておいてあとからやるという考えになる。
そうすると、常にやれることはやれるが、ストックしてやりたいけど、
ちょっと無理そうなものは少しずつ寝ているおかげでどんどんやりやすくなる(はず)。

ある友人はこのことを、「種まき」といっている気がするが、
今回の寝かせる=「種まき」ではない。全く違うわけではないが、
種まきはそもそも芽を出させたい、花を開かせたいのであって、
その種をまく。そして芽は適量の水、栄養、そして光が必須だ。あ、そうじゃないのもあるか。

寝かせるとは、どちらかといえば、出来上がったもの、現時点での完成物だから、
この場合でいえば花に近い。その花をどうか検討するために寝かせたり、より良くするために寝かせる。
間引きみたいなイメージなのかしら。

種まきとは、花、芽になって欲しいことを若干祈りながらも、
種を100個まいて、そして50個は烏につつかれて食べられ、20個はもぐらに食われ、
30個は子どもが遊んで種をほじくりかえしてしまう。
が、100-100となっても、さらに100を投下する。
そういう執念、気合い、武士、魂、漢を感じる。

喋り方

喋り方、話し方。そのスピードは性格を表し、逆もまた然りか。
ゆっくりしゃべる人は落ち着いているかのんびりさんか。
はやくしゃべる人は、行動が早いか、せっかちさんか。

速いかどうかは、1.5倍速くらいにする、今全く聞かなくなった「倍速トレーニング」(笑)
的なものの話になるが、結構聞き取れるというやつである。
だから話すのが早くて聞き取れないというのはあまりないが、
遅くてイライラするというのは結構ありがちかも。が、遅くてもそれが標準になれば、
つまり慣れれば気になることはまずない。

だから、倍速で喋る人間が情報を2倍伝えられるかといったら、んなわけがないけど。

トレーニングをすれば、早くしゃべったり、遅くしゃべったりできるが、
トレーニング的なもので意識的にやられると、言葉が宙に浮くのでお勧めはまずしない。
と、思ったり。

という意味で、喋り方もその人らしさ、みたいな、その人のやり方があるような気がしている。


脳をマルチタスク化する

二つのことを同時に考えるのは無理だと思っていたが、それは多分違うような気がしてきた。
現在分かったというか、これは科学的な理解なわけがなく、感覚の話でしかないけど、
確かに記憶という意味において、弱い。7つを多分5分覚えていたらすげーと思うが、
記憶の仕組みは多分、引き出しへのしまい方はそれこそタグ付けっぽい覚え方、
(個人的に何か物事を進めるときに愛用しているかも。ふぉーくそのみーでしたっけ)
連想、想起、再生って、想起=再生だったかな、まあいいや。
まあともかく、7つを覚えて引き出しにしまうのは結構むずいです。意味があればいいけど、
それはすぐに忘れるのでここでは正解。

そういった覚える事柄、つまり記憶は弱いから、多分PCでいえば記憶装置であるHDD的(ではなくHDD)な
ものが脳は弱い。インデックスをつけて覚えるとかもできるけど、覚えるのはそれで
パワーを使う。認知リソースはおそらくそれで90%のような。
だから、メモするなり、書く、打ち込むことで回避できる。
というか、1日のスケジュールを全部頭で覚えることが出来る人だったらいいかも。
それやろうという気が起きないですね。まあ、忘れた場合のことを考える時点でダメなんでしょう(笑)

で、マルチタスクは結局記憶ではなく、処理、もしくはプロセス?を同時に動かすことは
出来るという感覚だ。MP3プレイヤーで音楽を流しながら、あることを考えることはできる。
これは脳内の作業ということで意味があって、本当にMP3プレイヤーを耳できいて、脳で考えているのとは
話が違う。もちろん、脳内の信号、神経への刺激という意味では結果的には同じかもね。

2つはできそうだ。3つはきついかな。
音楽と考えるとか、仕事しながら音楽とかは出来る。
その時、脳内で音楽が流れるために、非常にリラックスでき、はかどる。
これは鼻歌を口ずさんで、仕事するのとほぼ同様のことをいっているといっていい。

では、負荷はどうかというと、負荷は正直なところ分からない。
人によって脳を使うというのが何か違ってくるし、考えることややることでも変わるだろうから。
おそらく、1つより2つの方が倍の負荷がかかる、ことはない感じだ。

これは音楽と仕事では分かりづらすぎるので、かなり分かりやすい意識の話にもっていくと
いいかもしれない。

よくあるのは、例えば新聞を見るときに、自分が問題かなー(例えば選挙率が低いこと)と
思っていたら、選挙率って言葉は当然「目が掴む」(これは目で捉えるのではなく、
目が自動的にキャッチして脳内に信号を送るというイメージだ。おそらく分かる人は多いはず)し、
選挙や、それこそ知事の話や、政権についてや、市町村での税金の使途まで、結構引っかかる。
もちろんその重要度のレベルはあるし、キャッチ頻度も色々だろうが。

この新聞を見る、読むというプロセスをXとする。
脳内では、科学的なのはどうか知らないっすよ、まずプロセスXが起動し、常駐する。
というかそれを人は「新聞を読んでいる」という話だけど。
そして、目が掴む。例えば今回の統一選挙は無投票当選が多かった(あ、嘘の可能性大、例です)と
思ったり感じたりした。目が掴むプロセスをYとすると、
あーら不思議、XとYは同時に動いているといっても言いすぎではないし、
同時に動いてないとはいえないというか、動いているでいいじゃん、ということになる。
終了。

というのもダメかなと思うが、
プロセスX起動→プロセスY起動だから、Y時点では、Xは眠ってるのでは?
という指摘は正しい。しかし、マルチタスクは同時処理をしているわけではない、というのは
少しでもマルチタスクの仕組みをかじれば分かるだろう。アニメーションと同じで、
一瞬で消しだすの繰り返しであり、一瞬もしくは、切り替えが早い、優先順位の設定で、
同時に処理しているように見える、である。

XとYが起動しているならば、Zも可能かもしれない。
それは、意識レベルの話になりがちだが、例えば新聞の文章の書き方というものについてをZだとする。
すると、この書き方はどうだという突っ込みも可能だ。それがZだが、当然Xも起動している。
Yはこのとき眠っていそうだが、意識というものは、普段は優先度低で、キャッチする時点で高になる、
そういう仕組みと思ったほうが理解が早そうだ。

さて、脳をマルチタスク化するとどうなるか。

問題は集中するときも、同じような現象になっている気がしてならないということだ(笑)
要は、集中して新聞を読んでも同じようにYとかZがいるので、Xに集中するとは、
結局「ただ見ただけ」ということになりかねない(笑)

というわけで、マルチタスク化とは集中することであり、言葉が違うだけで、
つまり、集中力をつければ、OKということである。

何がOKなんだろ。
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