ReadMasterの軌跡

面白いことを仕掛ける。仕事を作る。ビジネスを作る。そんな日々から出てくるアウトプット蓄積場。

2007年03月

会社人間的な覚悟と個人の想いの大切さ

絶対来るというか、常にありそうな考えのあり方。
Aならその反対であるA'があるとか。

会社人間的な生き方働き方が疑問視され、
そしてプライベートと仕事の両立が「美化」され始めているように感じる。
「美化」といったのは、それでいいんすか?ってことで。

プライベートも仕事もというのは、いわゆる日本人的発想っぽくない。
日本人は会社人間であれと、ここではむちゃくちゃなことをいっておこう。
「日本人的」考えは、日本人であろうと関係ないという素晴らしい論理。

さて、「働きマン」という漫画は、会社人間の復興を目指している
わけがないと思うが、それは結局「仕事のシーン」、例えば
仕事の一面をその人から切っていって、描き出し、
結局色々考えているよねーみたいなことを強く感じている。
主人公は会社人間かどうかは非常に難しいところだ。

会社人間とは会社の手厚いフォローがあってこそで、
仕事に没頭して倒れて死ぬのは、会社人間というか、
仕事という麻薬から逃げることができなかった人ではないかと、
結果論だがそうなる。麻薬だからやめられないのだと。

そういう意味で、会社に身を捧げた人々は、
定年後は結構生き生きしているような気がする。
もちろん、真っ白になる人もいるだろうけど。

で、会社人間はというか、仕事に没頭する人はダメなのかというと、
現場、いわゆる自分の感覚が、社会の縮図足りえるかという
問題はあるにせよ、僕の感覚では、現場では逆な気がする。

要は、外側のアナウンスは「プライベートも」だけど、
内側では「仕事!」であるということだ。
このギャップを感じている人こそ、おそらく戸惑う可能性が高く、
そこで割り切りが得意ではない人ほど、ダメージが大きい気がする。

「働きマン」みたいに人を観察していくと、
やはり一人の人には色々詰まっている。だから魅力的に思えるかどうかで
観察して得られるものは全然違ってくるのだろうけど、
でも、そういう個人の想いは前は全然見てなかったような気がする。
だれも「顔なし」みたいにわからないーみたいな感覚だったが、
それはいいすぎにしても、最近富にそういった「個人感覚」が
やはりあるから、それは大切にした上での、参画!(笑)みたいなものを
期待し始めている。そうしないと、プライベートも仕事もというのは
まず出来ないわけで。

会社人間は、その覚悟をまず評価したい。僕には出来ないからだ。
これは皮肉ではなく、賞賛である。
少し羨ましいのは、日本の復興とか、爆発経済をささえたという
自負であろう。だから、一丸となってやるという考えは「美化」されるし、
その大切さは分かる気がする。

そういうのを最低限踏まえた上で、仕事と生き方は考えた方がいい。
そうしなければ、上っ面すぎて何も見えてこない気がするからだけど。

覚悟という言葉がある。
これは腹いっぱい食べるという意味で、ぐうぐう寝るという意味では決してない。
この覚悟をすると、もう何も方向転換できないかというと、
そうではなく、そこでやっていくといって、軸が自分のフィールドと
固定というより「相乗り」して、相乗効果を生み出す。

それは好き+仕事=楽しいんだ、文句あるか、バカやろう!みたいな
ことなのだけど。

雨ふるなよー。

フライングルリユール

おーまじっすか。
日本人ルリユールってことかな。
これは朝感でしゃべろうっと・・・。

熱い。
本の「内容」に対する理解が必要というのが
結構意外。もっと知らなくてもいいかなーとか思ってたけど、
そうではないのね。まあ中身知らずして外身飾れずってのは
あるから、当たり前っちゃ当たり前だけど、勉強になるうう。

見極め、そして誘う

先日久しぶりに着信があった。
常時携帯している電話に、366日ぶりに着信が入った。
旧友からであった。彼も今は人を吹き飛ばしそうなくらいに、
ギャグを飛ばす人になっていた。
翻って自分はどうか?

笑いの技術が足りないのではないか。
もっと笑いを提供できるのではないか。
笑いをバカにしてないか。
自ら玉砕する精神を持ったものを影で笑っていないか。
笑いの生み出す力をバカにしてないか。
そもそも自分を笑っているのか。

とマシンガンのように問う彼の問いに僕は、
さらにマシンガンのように畳み掛けたものだ(嘘

事実をかけない人は仮想話はかけない。
仮想話をかけないひとは事実をかけない。

想像力とはその事実と仮想をつなぐ、麺をつくるときに
さらす粉みたいなものだ。必要不可欠。

見極めるのだ。そして誘うのだ。
意外に人は色々やりたがっている。
ならば僕は徹底的に黒子になろう。

えーっとやっぱ、少しだけ黒子でよろー(ニヤリ

自分に勝つ

そして最後にスマッシュを叩き込む。
それがテニスに王道だ。

電圧はその差から生まれる

水圧もそうで、圧力とは結局AとBの差でしかない。
差が大きければ大きいほど、圧力は増す。力が増す。

ということは、力をがーっと高めたいときには、
より「差が大きい」ことの2点を意識する必要がある。
逆に3点だとバランスが取れるという発想もあるし、
2点でも「差が小さく」なることを意識すれば、バランスが取れることになる。


子どもは映像を断片的にみる。全体を見渡せないから。

小さい頃に行ったことがある場所は結構覚えているものだ。
断片で覚えていて、そしてそれが全体と結びつかない。
普段から、東経135度とかそういう経度を意識する人はあまりいないだろうが、
自分の住んでいる場所をあるものから相対的に覚える人は結構いるような気がする。

住居だったり、職場だったり、よくいく場所だったり。
そういうところをポイントとして、目印といえばいいのかなー、そこから
色々な場所を覚えるとか。新しく知った場所は自分の知っている場所の近くにあるとかね。

背丈が低いから、都会というか、多くの大人とか、そういう人が
えらく「大きく」見えたものだ。
そういう意味の威圧感は常にあったんだろうけど、それはいいとして、
断片的だ。

だから、日常からそういう「つながり」は見えないから、
何かモノを創るときに「想像力」が豊かだと思うのだろう。

という意味で、圧倒的に「子ども」に想像力があるのではなく、
使う、感じる部分が違うだけで、それは大人も一緒である。

だから、こういうことがいえるのだが、これは意外に理解しかねるのでは?
例えば、本気になって子どもと接するのは「大人気ない」ことになるが、
それこそ「大人」が優位にたったものの見方だ。
ちなみに、これは「優位」ではなく「対等」を子どもに「夢見る」人への
挑発である。まさか、そんなわけがない。

子どもと大人が対等とはかなり揺らぎのある問題になる。
手加減はそれ自体、優位性から生まれるわけだから。
そもそも「子ども」モードになる仕事をしている人は、そういう「対等」の
考え方はない。むしろ「自分が楽しい」「自分が楽しんでいる」というのが大きい。

だが現場はもっとドライで、クールな気がする。
それは何かを夢見る人ほど、これは夢を見ることがダメなのではなく、
夢を見ることでその職業を美化し、良いものとして、「現実」を見ないというのが
問題なのだ。

何かそういうものは必ずある。必ずある。
逆に夢を殺せばそういうのはなくなりやすいから、現実を淡白に生きれば、
一応は現実主義として考えられる。が、これもダメなような気がする。
あまりにも面白みがない。遊びがない。

では、どうすればいいか。
それは自分で考える。全くその通りでござるな。

素敵な言葉はいえる人はきっと素敵だ

このフレーズは使ったことがない。人には言えないという部類の言葉だ。
でも、気が合う合わないはこれを直感的に判断しているような気がする。判断というか、
取り込んでいる?

それは言語化したものが実現できるできないにせよ、その形に関わらず、
脳裏に焼き付けられ、次の一手を促すからだろう。

将来は人に役立つ仕事をしたい。
それ自体は漠としているが、でもそういう人が人を傷つけることは
まあかなり少ないし、ほとんどないだろう。
そしてそういう言葉を言える人は、きっと自分にも満足をするから人に優しいのだ。
そうして、素敵な言葉をつむぐ人は、また誰か別の人に、素敵な言葉を
発することが出来る。それは言葉、というより、言葉の裏にあるメッセージを伝えられるのでは
ないかなと感じる。

そういうことを考えていくと、言葉にはそれ自体意味があるとも思う。

がんばらない

がんばらないやり方でやっていく。
多分それはがんばっているように見えるのだろうが、
「がんばれ」「がんばれ」という言葉は、日常では励ましの意でしかないし、
また「社交」的な、「八方美人」的な言葉であって、
ではピンチのときにはそいつは使えるかというと、怖くて使えない。

がんばれば何でもできるというのは嘘だし、
がんばれば何か見えるというのも嘘だ。

嘘というのは、説明不足といったほうが正確かもしれない。
がんばるには「考える」行為は含まれず精神のみ、気合いで乗り切れという
意味合いがぷんぷんと伝わってくる。
考えてじっくりとりくめ、という意味なら「そう」言えばいいわけで。

がんばる、即ち良い。これは危険だ。
そして、がんばらないのが即ち良い、というのも危険だ。

即ちではない、がんばるとこうなるからいいのだ、というのがなければ、
がんばらないのも同じようなことがいえる。

声が大きい人が議論で勝つとか、
ネットにあるブログのコメント、記事などは「相対的」に偏っているだけで、
というか絶対的な量が意味がないといえるのだけど、
宗教が世界を救うと思っているならその手の情報をGETしやすいから、
それでいいような気がする。

がんばらないという人の声をもっとのせるとか、そういうのが必要かな。
極端だから、こんなことをいうと、ニートの声をのせるとかになるんだろうけど、
それはもう違うわけですな。

出張回転寿司

発想の転換か。カレーを回すのでもなく、地酒を回すのでもなく、回転寿司店へ行くのではなく、
回転寿司が来るということ。
考えた人はえらい。おそらく需要はあるような気が。
パーティーやらで結構盛り上がるか。でも、板前も同伴するという意味では、
結構高いような気がする。単純に出前に含まれる人件費が、さらに増すという感じかも。

2年間を振り返る

1年目の終わりから単純に1年経ったわけだが、1年目の終わりは1年目の終わりを結構意識できたが、
2年目はそういう節目イベントも当然のようにないわけで、いわゆる学生で学年があがるという感覚に
限りなく近い。もちろん、入社して何年目かは全く関係ないのを踏まえた上でだ。

2年目としての1年間の振り返りというよりも、2年間を振り返るそんな感じが強い。
1年目の1年間との比較をすれば、確実に変わってきている。が、それに満足することはなく、
というか満足している場合ではないのであーるというのが正直なところ。
日々分からないことがあるわけなので。

2年間全体を振り返ると、2年も結構早いものかなという感じはする。
自分のやりたいことは仕事においてどれだけやれているかは、正直なところ、目安とかゴールはない。
逆に仕事をそこから抜く、つまり「自分のやりたいこと」だけみると、結構出来ている。
という意味で、愚痴が出ない。全くないわけではないが。

いいメッセージといい質問

いいメッセージは、好きなDJの言葉。
いいメッセージをありがとう!っていうフレーズはラジオではありそうですけど、
いいメッセージって何か?ということを考えると、
それは、書いた人→DJで、DJ→書いた人という構図で終わるのではなくて、
書いた人→DJ→リスナー、DJ→リスナー(書いた人)というものかなと。

つまり、DJを介して、普段聞いているリスナーをつなげるというか、そういうイメージ。
つながっているのを意識するのは、例えばSNSとかのほうが「強力」でそれがうざったい(笑)と
思うこともあったり僕はするけど、
ラジオはそういう押し付けがましい感じがしない。ログインしなくていいからだろうかな(違

あるリスナーが書いたメッセージが全体で共有される。
共有とは、YouTubeじゃないけど、Sharingという概念がどんどん浸透してきている気がするが、
今後はずせない考えかもしれない。が、共産ではないところがポイントかしら。
だって、私物とかは私物ですからね。そこがポイント。という意味で、好きな考え。

いいメッセージは、結局聞いている僕が、いいなあと思ってしまうものでもあり、
DJも心が高ぶるところで、そして書いた本人が一番テンションあがるものかな。

いい質問とは、Liptonさん(プログラマとして著作やテクニカルな雑誌担当している。。。はず)が
駄文(笑)で書いていたもので、いい質問とは、昔ちょっと話題になった、
「魔法の質問」とかそういうので、斉藤孝がいってるような「質問力」とかに近いと感じる。
要は、質問→回答で、質問者は回答が得られれば満足というのではなく(実際の多くの質問はこれでいいと思うけど)、
そうではなく、質問をすることで、回答する人も考えさせられたり、そういうのもあるのかと興味が動いたり、
逆に回答者が質問をしたくなるようなもの。それがいい質問ということになる。
これは、プロシューマーみたいなもので(コンシューマーとプロデューサーの混合ね)、どちらがどちらという
立場が決まらないということにある。
共有という感覚も近いかな。質問をあるところに掲げて、それに対して質問者と回答者がアタックしていくみたいな。
あるところというのが「共有スペース」というものになるかなと。

それで、いいメッセージもいい質問も、結局、共通しているのが「考える」というところかなと
思うところにたどり着いて消化せり。

バンプオブチキン

ついに聴いた。
いや、正確には「借りて」聴くということが「できた」というべきだ。

プライドの塊だったような僕が(笑)
借りたのだ。これは評価ではなく、絶賛に値する(笑)
まさに自画絶賛なり。

バンプオブチキンの歌は好きな方だったが、
好きな人が結構嫌いというか、そういうことが多かった(えぇ
嫌いというとダメだけど、なんていうか、
バンプが好きなその人が嫌いだみたいな。
こーゆー心理は、好きな子にいたずらをしたくなってみたくなる、
心理と同様かもしれない。なにかどうでもいい話になりそうだから
ここでストップ。

さて、そういうバンプを「いい曲」だといって、
バンプ俺好きだよとかいいたいわけではないけど、
自分はそれをすることができる、というメタ認知が、
僕には非常に「すがすがしい」。

ほら、前できなかったことが、またチャンスがあってやってみると
かなりあっさりやれることってありませんか?
あれですね。あんな感じ。
あれ、できちゃうよーみたいな。
そして、できるんだーみたいな自己肯定感。

たかがあるアーティストの音楽を1つ聴くだけで
そんな物語があるとはシンジラレナイという人はいるでしょう。
しかし、実際にあるわけです。

やっぱ最後はすくっていくことができる。
最後ってどこだろう。分からない。
でも、ここまでいっちゃだめだってポイントはどっかで
何かが動きだしてしまうというよく分からない何かがあったり。

かえっこバザール

朝感でしゃべりましたが、
やっぱこういう活動は見ている人が元気でますね。
おそらく、現場の人は、そして参加する子どもたちは
テンションあがりまくりでしょうね。

昔、ファミコンソフトをさばいていて、
ゲームボーイを400円とかくらいで売った覚えがあります。
その当時、ゲームボーイはかなり厚かったです。
ゲームボーイというのは、任天堂が出したゲーム機で、
カラーでもない、もう一世代前のゲームというと、ゲームウォッチですね。

別に時計じゃないですよ。
ソフトがあらかじめはいって、本体とともに買うというか、
そういうのが「携帯ゲーム機」の感覚でしたね。
今は、ソフトは当然別売りで、しかもゲーム以外のことも
出来るのも普通な感じですしね。

その400円の値段は安いかどうかはここではいいませんが、
ちなみに、ゲームボーイは新品で買うと1万はしたような錯覚があります。
決して、1000円とかでは売ってませんでしたね。最初の方は。

いらなくなったものを相場より安く売る。
それが個人的には売れるかなあと思ってます。
それで回転率を上げていくのが好きですね。
まあ、安くするにも限度があると、そういうのもありますね。

って、全然関係ない話になってきたついでに、
最近シンドラーのエレベータな話がニュースで出ていたのか、
なんで免許とかないのにー、やべえ。

もしかして、そういうのが普通なんですかねえ。
という意味で「きっちり仕事」してくれる人に感動を
覚えることができます。逆に自分がそれをすれば、
感動を与えることもできる。

これをさらに展開すれば、ブログはやっぱり書いたほうが楽しく、
そして、さらにさらにとやっていくと、
あーもうーくそー楽しいじゃないか、このやろうってことになってきますね。

ネヨネヨ。

せどり男爵数奇譚

むー、著者は45歳で亡くなってるみたいですねえ。
若いなあ・・・。今僕が想像する45歳。うーん、ちょっと若すぎるなあという
感じがしている。まあ、それはいいとして。

この本は、古書の話の短編集。
本好きならさくっといけそう。面白い。

ただ最後の話は、人の皮とか出てくるのでちっと心臓に良くない。

せどり男爵数奇譚せどり男爵数奇譚
梶山 季之

筑摩書房 2000-06
売り上げランキング : 105691

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

言ってみるもんだ

という感覚を味わったことがある人ならば、
結構「ずうずうしく」なっても言っていくものだと思われる。

時に、議論で声が大きい人が勝つような場合の微妙な意味も、
それは悪いことではないこともあるわけだ。

つまり、言ってみたら意外にいけたってことはいいことなわけで。

確かそういうのは以前からあって、
実際にこう書けるのはまたメタ的にいいことなのだけど、
よくあるのは、
「自分がやりたいこと」があるといって、
それを言わない人、誰でもいいと思うけど、誰かに言わないと、
それはできないよーみたいな話がある。

その人はそれをやりたいんだと、いわゆる意思表示のレベルだけど、
それを意外にやらない人は多い。

さて、決意表明ではないが、それをしたら、
次はそれをすることである。非常にシンプルだ。

本を書きたいなら、本を書くために何か書くとか、
そういうことを実際にすることだ。
意外にこの段階でやらない人は多い。

別にいいのだ。世の中の人が全て本気になってもらっても
困るような気がするけど、でもそれもまた狭い見方なわけなので、
ここでは全部を受け入れて、いや、やってみたら?ということにしておく。

迷ったら言う。
多分これは良い習慣だろうと自負する。

というわけでいってみる。

ドリコムブログについて検索すると、
以前のドリコムブログがちっと荒れた感じがしたのは
どうも「炎上」というカテゴリになるらしい。確かに100はコメントついて
いたような気がするが。

どうだろう。炎上とはいかないまでも、
どこまで無料だろうが、ユーザに対して対応するかは、
プロの仕事としてみると「甘かった」ように思われる。

そのコメントに指摘があったように、
確かにドリコムブログを使っている人は最近ほとんど見ない。
たまたまそうであろうが関係ないのだが、
実際に僕がドリコムを愛しているわけはなく、
義理や縁という、誰かが「しがらみ」(笑)というであろうものが
作用している。

だから、最近、「引越し」という言葉に食指が動いたりするのだ。
まあ、記事は確かにとっておいて、後からバカみたいに、
書いたよなーと笑うために欲しいくらいで、
ドリコムに未練はなくなっているのは正直なところ確かだ。

引っ越すのが面倒だという意味で確かに「獲得ユーザ」として?
僕は移らないのだろうけど、たまに自分のブログを見ようとして、
結構頻繁に「重く」て、そして「ページがみつかりません」と
出るのに、編集ページは見えるというのが、結構辛い。
辛いというのは、見る人には激しく重いだろうなあと(笑)
読者視点に立った場合はそうなる。

たまたま読者を無視というところが(笑)
僕と利害が一致したかもしれない。っていうか、なんだそりゃな
話で、皮肉もたっぷりきいているが、どうだろう?

心機一転で、ブログ移行というのもいいんだけど、
めざせ一万冊からのリンクが全部ダメになるのは正直きびしい。

というわけで、引っ越せないわけだ。

まだ付き合うとしよう。
唐突に送られるメールマガジン風なものはいつも意外な感じがする。
定期発行物ではないのか、まあどうでもいいか。

がんばって下さいとはいわないなあ。
様子を見る。そして見続けてみんとす。


サイクル

平日=仕事、休日=プライベートという捉え方は
実はかなりまずいんではなかろうか。

単位という考えでみたときに前も書いたような気がするが、
全然それでも「自分の理想」の時間は足りないのが現状だ。
というか、足りえないから、「そこ」でやるしかないのだ。
これは「現場主義」的な考えかもしれないにゃー。

切り分けとか、仕事は仕事みたいな考えはいいと思うが、
それは当たり前だが、よりよくするための切り分けで、
それこそ休憩とか気分転換とかの話であって、
自分の血肉になるものは「切り分け」ちゃダメなのだ。
ということに尽きる。

いわゆる仕事モードでしかその得たものを使えないのでは、
正直なところ、落とし込みが足りない。
もっといえば、その程度ならば、その仕事をなんでしているのか?と
問い詰めることが可能で、論破できそうだ。
それはともかく、仕事で得たものをフルスロットルで、
さらにプライベートにも活かしていく、そしてまた仕事、プライベートに
還元する。

このサイクルが確立されると、恐ろしいことに、
「全てを糧にする」というものが文字通りできていることになる。
朝飯を食っているだけでも、「楽しい」という瞬間は
確実にある。歩いているだけでも発見はある。

未来が明るいのは、1秒後が楽しいかもという「漠」とした希望ではなく、
無視できない「楽しさ」がこっちによってくるからじゃないかな。

おおー

夢×挑戦ブログに登録完了のお知らせ。

が、おそらくつながらなかったのでしょう。
ブログのトップページキャプチャが「ぺーじが見つかりません」(笑)

うーん、これ、非常にまずいような。
10回くらいやると1回つながりますねえ・・・。

熱く語るのはいいけど

熱いのと暑苦しいのは違うのだよ、明智君。

ああ、これなんでしょうねえ。
たんに性格の問題なのかねえ。

気くばりのツボ

すごいうれしーというリアクション。
これ、どっかで見たことがある。

大げさに言うのは、自分の好きなテクニックの1つ。

さあ、「たまたま」で誰にイタ電しようかな(おぃ

気くばりのツボ気くばりのツボ
山崎 拓巳

サンクチュアリ出版 2005-06-10
売り上げランキング : 32669

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

おらよっと。

プリンタをみにいったら、説明してくれた人が
中国人だった。

最近、どこへいっても、働いている人が「中国人」のような気がする。
ちなみに、僕の中国人のイメージはかなり「良い」かなと思う。

誠実だったり、こつこつやったり、ぶっちゃけてしまうときが
なんか好きな感じだ。まあ色々な人がといっても10億超えてるわけだから
一概にもできないけど。

買う気はないから、どんなのあるかなーだったので、
かわずに失礼したけど、
別に変な意味もないけど、外国人が働いているのに、
ニートしているのは、どうなんだろう。
とか、妙なことを思ったりする。

自国のためにーとかそういうのはないけど、
なんかアレだなあって。思ったり思わなかったり。


で、文芸春秋の特別号がでてて、
「ルート66」ってのが目に入ったからチェック。
愛川欽也?が、語ってて、とりあえずルート66の説明とかはよくて、
ルート66の当時、1962年くらい?のテレビドラマを見たい・・・。
他の作品ってDVDとかになってるのに、ルート66はないみたい。
絶対見てやるからなあ・・・。待ってなさい。うはは。

視点D

昔、大学の友人と、
「フェラーリじゃないけど、スポーツカーとか、
なんか結構高そーなくるま乗ってる人ってマナー悪いよね、
でも、普通のおじさんみたいな人だったりするよねえ」

って話をした覚えがある。

だから、なんなんだーという前振りではあるけど、
意味がない。くくく。

視点ABCで見ていってみたいなのは意識してても、
視点Dには到達できない。
それは限界とか、無理とかそういうことではなくて、
視点Dも誰か持っているみたいなことがいえたりする。多分。本当か?

カフェオレうまいからいいや。
さあ、今日もやっちまうか。

転職新時代

煽りであり、転職者への警告である(おぃ

最近気になるのは、地下鉄の電車内広告に、転職か派遣の
チラシが多いことである。
世の中はそれほど「人材」が「流動」しているのかと思うが、
実情は不明でる。

ただ確実に意識として、若い世代20,30代には、
転職に抵抗はないということがある。
ただ、転職の成功というのを設定したとき、何をもって成功するかは
おいておいて、転職の成功という話はあまり聞かない。

転職をステップアップとか、そういう風に捉える人よりも、
退職→就職のように聞こえるパターンが耳に入ってくるというか、見る。

極端なんだ。転職、転職してる人は成功しているイメージがあるが、
そうでもないだろう。むしろ、レアケースなような気すらするし、
ユニークだからこそその人でいられるということはあるわけで。

二極化というのはスラム街が目の前にない限り嘘のような気がするし、
年収とかで比べるのがあれだから、幸せ度とかで測るのも滑稽だ。

転職ではなく、転社といったほうが「就職」ではなく「就社という
言い回しと対応できる気がする。

誰も明言してないと思うのは、
転職すればいいみたいな「とくに」「外部」からの情報は
それこそ、広告の出している会社は「ヒヒヒ」と笑って
転職者をコントロールして銭を稼ぐのだとはいってないだろうけど、
でも、転職いいですよね!みたいなのは非常にまずいのではないかと、
ここらへんで一発言っておく必要があるなあと。
全く無駄な気もするけど、あえて。

昔、人材派遣会社の人事に「人買いビジネスですよねー」と真っ向から
切り出して、かなり「渋い」顔をされた思い出がある。
僕も若かったから、そういうことを平気で(今も言うかも(おぉ))言っていたけど、まあ市場が成立してないときには散々な言われ方みたいなわけで。
昔の丁稚奉公も、人買いっちゃ人買いで、
会社も人買いだし、全ては人買い。売るか買うかしか選択肢がない。
日本は不自由である(笑)

それはいいとして、人を素材として、扱うわけで、
メンタルなものは屈強な精神力か、流れるようなスムーズな心が、
必要とされると思われる。ちなみに、飲食店は足腰がしっかりしてないと
「使えない」人材となるが、省略。

転職相談に来た人が自分より若い人だったら、
妙に考えてしまうような気がする。派遣もそう。

全くそんなことは考えるとかそういう問題じゃないって?
むー、そうかもしれない。

さて、明言してないというのは、
何かが分かるタイミングというものだ。
これは主観的だから、いえないのだろうけど、
何をもって入り、何をもって去るのだ?
それって考えなくて、スルーできる部分じゃないから、
絶対聞いてくるわけで、それ考えた上で失敗っていうのが
分からないので、多分ここらへんの基礎的(笑)な自問を
怠っているのかなあ。
要するに、考えていないというだけのお話。

今後、転職は、今の売り手市場に拍車をかけて流行るかも。
でも、肝心なのは、どう自分がやっていくかであって、
「外部」は信頼しないくらいで、丁度按配がいいような。

どれだけデザインできるか

結局自己満足とかそういうことは脱せられるし、
そもそも自己の枠、フレームに留まっているのは自分が
自分だけの自己評価としてしか分からない。

だから今まで「自己満足じゃないか」と人にきたことは、
どういう風に着地するかだ。

それは「そうではないよ、こういう想いがあるんだ」という
相手が語ってくれるスイッチでしかないのだろうと感じる。
だから、逆に「自己満足っていうけど・・・」という答えが
くるときに心外な気分がしたわけだ。

クリエイターではなくても、表現をするならば、
これでこういうことをいいたかったんだというのが、
あるはずである。なきゃ、表現したくないわけで。

そういう人に自己満足という言葉は全く通用しない。
表現はそもそも他者へのメッセージだからだ。

という意味でこの「自己満足」という言葉。
リトマス試験紙に使える気がした。というか使おう。

で、自問自答。
「自己満足じゃないですか?」
「うるせーばかやろー、俺はやりたいようにやるんだ(笑)」

あ、で、デザインできるかってのは、
どこまで企てを凝縮できるかと。
一個のリンゴの絵にそれをどこまで入れられるかみたいな話で、
企ての裏を取るのもありだけどねえ。

ソフトウエア業界これだけは許せない

時代の変遷約15年を考慮すると、ガタがきているところもあるが、
何かあまり変わってないのかなあと、いう感覚を受ける。

それがいいことか悪いことかは、
まあ読者の判断にゆだねるとして、
CD-ROMがついただけで、マルチメディアだった時代があったなあと、
気づいたら、僕もPCに触れてから10年経つってことになる。

てーしたことやってないのに、10年はどえりゃーことだがね。

今流行ってたりするものって、10年後には「マルチメディア」扱いになる可能性は普通にあるわけですが、そういう指摘は意味が全くないですね(笑)

この本、タイトルは過激だが、別にそれほど許せん!ということを
書いたわけでもないと判断。

どちらかというと、シグマ計画とかキナ臭いものをもっと知りたいですがねえ。

ソフトウエア業界これだけは許せないソフトウエア業界これだけは許せない
武田 茂留

ベストブック 1993-12
売り上げランキング :

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

調理場という戦場

熱い。

p.17
1つ1つの工程をクリアしなきゃ作品はできないみたいな言葉。
納得。だけど、これをもってスペシャリストになれというのは
また違うわけですが。

p.138
テラシュウ(笑)のいう一点豪華主義を軽くさばいたかな。
すげーボロボロの格好で、大統領が行くようなレストランの話みたいな例で、
やっぱそりゃ分からんのですよーみたいなこと。
でも、テラシュウは、それくらいメリハリあったほうがいいだけであって、
実際に値踏みされたり、人間についての問題はスルーしているような。
むー、テラシュウやるな・・・。

p.182
高価なものより、見過ごされがちなものに目を向けたい。
おお・・・著者と相棒が店を開くときのコンセプト。
やっぱこれだね。別に劣悪な環境で育った覚えはないけど、
国家権力(笑)とか、大きなものをみると無性に壊したくなる。
なんだろう、この魂みたいなものは。きっと一生変わらないような。うはは。


調理場という戦場 ほぼ日ブックス調理場という戦場 ほぼ日ブックス
斉須 政雄

朝日出版社 2002-07-10
売り上げランキング : 111747

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

ホームレス人生講座

寝かせておいたのでなんで買ったか忘れたけど。(あいたー

ホームレスを何人か取材してまとめたもの。
著者の言いたいのは、縁で、そいつがなくなる「無縁」になって、
仏教だと思うけど、無縁地獄は怖いよねーみたいなことになるけど、
取材したホームレスらはみんな縁がなくなっているよねみたいな
共通点を挙げている。

取材や著者の意見はいいと思うが、
最後の著者の意見が第五章で書かれているが、
植民地の行政官とか、そういうたとえ話か、具体例として、
分かりやすく説明しているか、ピンときたものを出しているのだが、
そこが飛びすぎかなという印象を受けた。

さて、
正確に突っついていくと、どうだろう。
多くの問題は問題ではなくなることが多い気がしている。
自殺者3万は問題じゃないのか?というと、問題だろうけど、
救える人が多いだろうという指摘をすれば、問題は大分緩和する気がする。

問題の深さとか厚さを考えると、
まず生命的なものが一番になるかもしれない。でも、
だからといって、自分の精神の崩壊から、物理的生命を削ることは
というかそれが「自殺」だろうが(あ、語弊あるな、まあいいや)、
問題はいたるところにある。

問題意識ということで、あれも問題、これも問題とやっていて、
全部解決しようとしたら、できるわけがないというのが僕の考えで、
というか、そもそも解決しようという人を見つける方が、
何か難しい気がする。これは現代社会日本の大人への挑発なんだけど、
そもそも挑発すべき人はこのブログを見ていないというパラドックス(笑)
に陥っているといって笑うしかない。ちくしょー。

それはいいとして、選択的ホームレスか、非選択的ホームレスなんて、
そもそも、非選択的な人しかイメージできなかったというか・・・。

分からん。

ホームレスをバカにする人もいるけど、分かるっちゃ分かるけど、
でもそれも言いすぎだろうし、
かといってホームレスになりたいわけではないし、
ここらへんで、著者が若いときに透明な存在で・・・とか、
アイデンテテーがどうのこうのとかいってるあたりは、
かなり共感できたりする。


ホームレス人生講座ホームレス人生講座
風樹 茂

中央公論新社 2002-11
売り上げランキング : 224498

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

うおー

ワンチャンス。

確かに1回のみのチャンスで全てを出し切れる人はそう多くないだろう。
プロを自負していても、自分が納得できるものを100%そう、100%
出力しきれる人って絶対いない気がする。
これでいいと思っても、つつけばダメな部分はある。それこそ「つつく」からだろうけど。

1つのチャンスがあったとしよう。
それに飛び込んでいけるかどうか。

飛び込めないなら身の程をしって、萎縮して立ち去るがいい。
現実はそれを「柔らかに」言ってくれる。これは「有難い」ことだと感じる。
飛び込めるなら、どんどん「はったり」をかまして、飛び込んでいくがいい。
現実はそれをきっと暖かく迎えてくれる。

お仕事完了せり。

本気でやること

マジなんて読まなくていいんですが(笑)
それはともかく、本気でやることというのは、
おそらくやりすぎだろうというくらいに、シビアに意識していかないと、
糸がぷつっときれて、終わるような気がする。

おそらく本気でやってることは、
結構ヒドイこといっても、消化されるので、
耐性だけではなく、伸縮性とか、拡張性みたいなもの、
やっぱあるわけで、そこなんですよねーって、
本気でやることって、そういうことを思ふわけですな。

「あ、やべえ、これ本気だよ」って思ったら
勝ちですね。負けはないですけど、勝ちですね。

熱さと熱さと熱さ

暖かさはおそらく、熱さから生まれるだろう。
熱さは当然何かやるという勢いから生まれる。
勢いは普段の生活の違和感が地震引き起こすプレートの重なりみたいになって、生まれるんじゃないかな。
その摩擦は、揺らぎとか、生活リズムがあるから生まれる。
生活リズムは、日々生きている、感じているから生まれる。

ってことは、暖かいってことは、そういう感じることがあるってことに
他ならないのではないっすかねえ、という6,7段論法(笑)

熱い。また何かデザイン(企てる)できそうでございまっせ。くくく。

うお。

なるほど。

なんとか、接続で値返すのはOK。
うむ。。。次は文字化けかあ。

ブラウザのHTMLと、DBの文字コード、PHPの文字コード、
ああ、文字コードうぜえ。
いるかさんに免じて許す。(それでいいのか・・・。

がんばらない

がんばらないことが大事だ。
頑張ったら負けだ。
キムチチャーハンが踊る。ココイチスプーンぶらぼう。
5e2d7cd3.jpg

ブランド品チェック

眼鏡はブランドものか、
着ているシャツは、
髪はどこまで整えているか、
靴下は、靴は、時計は・・・どうか。

どれだけ金を見出しなみにかけているかのみで、
人を選ぶ。

論理的思考

友人が論理的思考について言ってたので、再考。

まず論理的思考とは何かということになるが、良く分からない(笑)
ただ論理とは、それをたどっていけば分かるみたいなものだと思う。まさしく想像の世界。

道Aがあって、それは地点Aにたどり着ける場合、
道Aは地点Aと論理的に結ばれているといっていいような気がする。ホント?

で、論理的思考とは、
道Aと地点Aを結び付けられるかということのような気がする。

道Bが発生したら、地点Bを推測する思考か。

でも、論理は既存のものにしか適用できないし、
仮に既存ではないもの、それは上の推測とは違うのだけど、
既存にはないものに結びつけると、論理の破壊となる。

道Aは地点Aへいけるから、地点Bにもいけるかもしれない。
というのは、そうかもしれない。

しかし、道Aをたどって地点Bについて先へいくと、道Aに戻る。
というのは、輪廻転生みたいだけど、そもそも、分からない。

論理の破綻したものに、人は魅了されることがある。
例えば、100万預ければ必ず10%が一ヶ月で増えるとか。
これは論理というか、現実を見ているかみたいな話だが、
「うまい話」とは総じてこういう話でしかないし、心の隙という、非常に人間の心理の揺れを
ついてくる。
「もしかして・・・」というのが生じたらもう負けである。勝負は最初で決まっているのだろう。

心理学では、論理的思考について、状況によって人は正しい思考なんぞできないというようなことを
いっている(あくまでそのようなことを、だ)
例えばよくあるのは、確率を誤って認知してしまうことだ。
これは数学に強いとかそういう話でもないけど、数字のトリック的な話でもある。


さて、脱線しまくりだが、
計画というものは、大体論理であって、感覚で書かれたら、おそらくダメのようだ。
半年後の売り上げ計画が、大体500万に収まるのに、なぜか2倍の1000万だったら、
それをみた人は、なんで通常の2倍なんだ、根拠は?と聞かれるのがオチだ。
計画は感覚ではない、そしてクリエイトするものではないという当たり前のことがいえる。
計画、つまり、将来の展望などを「計画」するというときに、
この論理という考えはついて回るかもしれない。

が、キャリアというものについて、少し考えてみると、
ちなみにキャリアとは経歴みたいなものらしいが、ここでは仕事の履歴(それ経歴じゃない?)を
意味することとする。
そのキャリアの計画があるとしよう。
例えば、現在はA社の派遣社員だが、2年後に正社員を狙ってA社の正社員になる。
そのあと、A社で自分の一番興味のある「人事」部門のとくに「中途採用」の人の動向を
探りたいので「人事部門」に異動したい。
その後は、A社に籍を置くかどうかは分からないが、チャンスがあれば別の会社もしくは、
仕事につきたいと考えている。

としよう。
これが論理的かどうか分からないが、そもそも、論理とは現在地をAとしたら、
目的地Bを決めなければA→Bという流れは生まれない。川の流れみたいなものかしら。
A→Bという流れで、どうやってBにいこうかという思案をするのには、
Bを決める必要がある。おそらく、その決めたBが理想のBなり妥協のBなりするのだろうが、
決めたものに対してそれが実際にBだったか、結果的にAのままではないかというのは、
自分が決めたBをしたと思った時でしかない。

そこで現在位置をAからそのBに更新し、B→理想のBという図を描くことになると考える。
実は理想のBはCであったとか、実はすでに達成されていたというオチは意外にあって、
現状に不満(自分を現状ではない位置においていれば常に不満があることになる)が
なければ、何か欲求がなければ、そもそもBは生まれない。

ここで明確に切り分けることができるが、
Bを生み出すのは論理ではなく、感性や創造力だろう。
そしてそのBを達成する道筋は、現在位置を見るのと、Bまでの道順なり経路は
論理が担うような気がする。

以前ちょっと紹介した、盲目性と客観視みたいな話で、
盲目が感性で、客観が論理ということになるかもしれない、多分。

そこでいったことを繰り返せば、
BやCやDを一杯つくっても、実際に動くことがなければダメだし、
冷静に現状を見ても、結局ゴールがなければ目的地がなければ、
永遠にレールを敷き続ける人になってしまう。レールはゴールがないと敷けないのではと
僕は考えているだけだが、仮にゴールなんぞなしに、レールを敷けるのは、
何か信仰があるか、運を任すか、という目的以外のものがあるかなと感じる。

そんな難しい話でもないって?
それならそれでいいのだけど、はっきりいってこれらのことを踏まえ、
把握し、実行に移している人は結構いるわけで、
人には偉そうにはいえないが、覚悟がなければ、それはどんな小さなものでも、
何事もできない、それは部屋の掃除をするということもできないような気がしている。

できるさ。

できなきゃ誰なんだ。

例えば、綱渡りをするときに、最高の集中力で乗り切るというか、綱をわたることができる人と
できない人がいるかと思う。例が悪いな・・・。
何かしてくれといわれたらどうやるのかを考えてやってみるという状況がある場合、
それをどこまでやれるかが鍵のような気がする。

指示はその指示の達成ができれば、指示されたことはできる人になるが、
指示がなくてもその指示から推測をすることが人はできる。
だから、Aをやっておいてなら、Aをやることは当然、
Aの前の、Zとか、もしかして後のBとかを考えてみると、Aで不足していること、
Aで無駄なことをしていることなどが分かるかもしれない。

これはお客さんを念頭においても、指示者でも、会社でもなんでも対象はいいような気がする。
多分一緒だから。

いきなり、誰が考えてもできないことをやることはできないが、
少しずつやっていけばできる。
が、少しずつやっていけばきっとできるという考えは、少しずつできなければ
必ずできないという裏返しでもある。

つまり、1+1+1+…というのをやって、10にするイメージだ。
それを1+1ができないようだと、10には絶対にならない。
例外的に、1+1は1日ではできないし、1ヶ月でも1+1+1+…+1=6もできないけど、
見えたーといって、今までの嘘かのように、いきなり10という人もいそうだが、
おそらく、それは見えてないものが1+1していただけの話。
形として、1+1をみてやっていく方がいいか、見えなくても1+1していけるかは、
かなりセンスなり、性質の問題なりになるから、どちらかやりやすいほうを選べばいいような気がする。

目の前のことなど関係せずに、では、自分が想像したことを自分がしない場合は、
誰が一体やるのだろう。誰かに委ねるのもいいが、委ねる人間がいなければ?
そもそも、想像ということをせずに、現状の刺激を「全」だと捉えてしまうと、
それは現在以下の過去でしか生きていない。
なるほど、確かに現在に生きるのは無理をしていない感じがするし、
等身大とほめ言葉でいってもいい。でも、それは単に外部の刺激を恐れ、
自分が変わることを怖がり、そして周りの環境の変化をしたくないというだけにすぎない。

残念ながら、全く何も変わらないことはありえない。
自分が変わらずとも他人が変わってしまうので、すなわち、もし
何も変わらないものがあればそれは全てが全て変わらない状態でしかないが、
そんなものがありえるか。ないだろう。

全てがうまくいったり、完璧だったり、分からないことがないとか、
そういう状態はまずありえない。
何かしら問題が常にある。それを不安というと、不安と常に付き合っていく必要がある。

何かを得るには何かを捨てることが必要だとは、まさに不安と面白さの関係で、
何か不安なものがあるからこそそこに面白さがある。
必ずあたる宝くじは面白くないだろうし、システムとして存在し得ないだろう。

さて、自分が想像したことを自分がしなかった場合だが、
人によって、才能があるのにそれを行使しないことはそれは社会に対する罪だという
やや過激な意見を言う人もいるが、僕はこの意見にかなり賛成だ。
ここで、才能とは、自分が想像したこと、と思ってもらっていい。

どうだろう。自分に嘘をついていては、おそらくこの社会に対する罪という考えなど
絶対に出てこないだろう。もちろん、この考えをしなければならない、わけではない。
ただ、自分が考えたことをしなければ、誰もしない可能性がほとんどで、
それを待っていて待ち続けて死ぬ。というオチでもいいというなら、
そうすればいいのではないかと。

色々ぶっ壊していこう。

プログラミングをする

もっとプログラミングをしていったほうがいい。
言語は無限ではないが、限りなくあるので言語を全て使える必要はないが、
どういうものかはある程度知っておく必要はある。

言語特有のコーディングはそこで完結しやすい。
例えば何か分からない処理を実装するときに、Cではこうで、VBではこうで、Javaではこうだというのは、
確かに意味があるが、分からない処理を知って実装するだけで、
それが言語特有のコーディングだと「その言語」について詳しくなるだけで、
ロジックの流れとか、分岐のさせ方とか、処理の仕方(エラーチェックをどこでするか、ファイルの処理とか)は
あまり身につかないような気がする。


仕事によるだろうが、新規で作るということが足りないなら新規で作るようにしていく。
修正など、改良が少ないなら、実際にあるものに手を加えていくことをする。

そうしてバランスを取っていかないと、
修正に慣れると、英語を読めるのに、書けないみたいなことにもなるし、
新規に慣れると、英語を書けるのに読めないみたいなことになる。

ある本では、コードを書くことはいいけど、読むことについて甘いという指摘がされているが、
色々な言語の色々な人が書いたソースを見ることはかなり学びになる。

ある言語が使えるとは、どこまでをいうか分からないが、
ヘルプをみてある程度判断ができ処理を実装できるレベルではないと「使える」というのは
ちょっと厳しいかなと感じる。

当たり前だけど、紙に書いて説明できないというのは(絵が下手とか、文章が苦手というのは
ここではあらゆる言い訳になる)、処理を分かってない、実装できないのと一緒だ。
もちろんあまりに膨大だったり、分かりづらいソースを「あたり」をつけていくというのは
賢いやり方だが、最終的な形は、それはこういうものだと説明できなければ、
いわゆる「修正による影響範囲」を説明できないから非常に恐ろしい。

この感覚が身につくと、下手に何かを修正することで起こる問題を回避しようとするが、
この感覚をさらに回避ではなく、攻める要因としていくことが大事だろう。
回避だけしていては質は高まらないというかというかというか。

悪さをする

昔といっても、そんな昔じゃないけど、大学のPCルームというのがあって、
そこでは、ソフトウェアのインストールは禁止されていて、仮に入れても、
再起動で全部クリアされるようになっていた。

当然、有害サイトといわれる(ちなみに2chもそうだったような)ものにも
ポートも全部ふさいであるから、IRCで遊ぼうと思ったら、出来なくて、
出来ないのIRCクライアント入れたから、管理者から注意を受けて、
もうしませんという紙を書いた覚えがある(笑)
確かに管理者の立場だと、ルール設けてそれ守ってくれないと困るけど、
ユーザ側からしたら色々やりたいんだなあとか思う。
どちらにしろ、そんなIRCでチャットしたいなら、お家帰ってやってくださいと。
まあ、そういうことですね。

それはいいとして、あまりにも技術的なことをいってもしょうがないけど、
技術的といってもどれくらいが「技術的」に分かりづらくて・・・
ということを考えていくと、
どうも思ったのは、Webの網にかかる人って、やっぱ技術的に玄人だなあと
かってに思ってたりする。
オープンソースの概念と同じで、オープンにすることで、色々学べることのほうが、
鎖国するより多い気がする。まあ、これこそが考え方なんだろうけど。

悪さはほどほどに。不正アクセスなんてやったらダメですよ。

WinXPのftpコマンド

標準搭載だったとは露知らず。不覚。

http://journal.mycom.co.jp/special/2002/xpcommand/014.html

妹の分のチョコレート

昔、よく遊んでいる子の家で、恒例のおやつ(遊びにいく=お菓子が食べれる!)が
出て、その時、板のチョコレートがあって(明治とかのやつかな)、
それをおやつで食べてた。
兄弟が多い家だったので、妹だと思うがみんなで一緒に食べてた。
で、お菓子が最後になった時が問題になるというか、今でも最後って何か戸惑うのだけど、
その時は「チョコ食べていいかなー」っていって、友達は「いいよいいよ」といってくれて、
で、遠慮せず食べた・・・から、その妹が「もうチョコがない」といって
泣いたことはないにしても、かなり悲しんでいた思い出がある。

これは、何かモノを分けるときに、たまに思い出したりすることだ。
その友達とは、中学以来まともに話してなくて、成人式の時に軽く話したかな。

ああ、やっちまったなあということは結構あって、
思い出せる範囲で書いていこうかしら、と思う。

単位を短くする

1週間単位というのは人間の波長に合っているような気もするし、
それはおいておいて、僕の波長に合っているような気もする。

その7日単位を、仮に3,4日くらいの単位にしたらどうなるだろうか。
狙いは単純に、1週間でまわしていたことを、3,4日でまわしたいから。

ただこれは非常に疲れるような気がする。
土日の休みを週半ばにもってくるわけにはいかないし、
できたとしても、3,4日働いて1日休むというのと、5日働いて2日休むのでは
全然話が違うような気がする。まあ、そうでもないのだろうけど。

半分は無理でも、かける0.8とか0.9程度にすることはできそうだ。
逆にかける2倍にして、単位を長くするってのもありかも。
するとやれることは減るような印象も受けるが、そうではなく、
逆に増えるかもしれない。ここらへんはやってみないと分からない。

ただ周期や単位は細かすぎても、おおざっぱすぎても
結局空回りするだけなので、適当でかつ適切なものになっていくし、そうなるだろうと感じる。
15分単位でスケジュール切っても僕には意味がないけど、
1日単位ではちょっと粗いかなあと思うのです。

まあ、自身の体力次第って話だと思いますが。

笑う

自分をどこまで笑えるか。

それは他人を笑った瞬間にどこまで自分を笑っているかだと思うが、
それはどうでもいいことらしい。ちょーじゅーようだけど。

ある計画、社会的信頼(なんてそもそもないけど)を失いそうな、
を実行しようとしている。もちろん嘘だが。

自分の力、というかおそらくこれをしなければ
僕は進めないのだと感じている。

いけ・・・お前ならできる。わーい。

熱く語る

覚醒。

Wantedというラジオがもう今月一杯で終わるらしい。
FMTOKYOから全国ネットの番組で、
深夜の時間枠はどうも、1時?3時 3時?5時というふうに
決まっているらしい。理由は分からないけど。
まあ、深夜だし、色々。

で、今回たまたま聴いてて、何か好きなものを熱く語るという
企画か、まあそういうのがあった。

それで、Mr.Childrenが好きというリスナーがでてきて、
一瞬友人を思い出した。

そのリスナーは、ミスチルがなんで好きかとか、
こういう細かい情報も知っているなどといろいろ語ってくれて
それは面白かったのだけど、友人には悪いが、
やっぱこういう人いるんだなあと、平均化されてしまった。
当たり前だが、自分と同じ趣味の人に好意を必ず抱くとは
限らないみたいなこととか、思い出すなあ。

1990年でバブルがはじけたその余波がぐあーっと日常に蔓延(笑)
するという時期に、ミスチルはデビューしている。
その後活動として、もう15年になるらしい。
さて、この15年長いのか短いのか。長いだろう。
ミスチルの好き嫌いはともかく、ベテランだといってもいいだろう。

話の中で、カラオケでも歌うんだよねーみたいな話をしていて、
もちろんといっていて、ますます友人と重なる。

友人がラジオでしゃべっているかと思ったくらいだから。

DJのまとめはこうだ。
好きで熱くなれるものがあるっていい、そこから色々切り込めるから。

全くその通りだ。
というか逆にそうじゃなきゃ、好きな意味がないような気すらする。
たとえ掃除が好きでも、それで迷惑をかけまくるなら、
それは好きなんだろうか。非常に難しい。
こだわりと社会性みたいな話かな。

今日もふんばっていこうか・・。

図書館危機

やっぱ面白いねえ。
どうも次でラストみたいですな。

図書館危機図書館危機
有川 浩

メディアワークス 2007-02
売り上げランキング : 1475

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

最近言ってない

それは「同じような毎日」という言葉だ。
脱・同じような毎日宣言でもしたのかしらん。

あと、とっくの昔に新規本を購入しないルールは
破られ、がんがん買っているが、
ほぼ2年間手をつけていなかった、本棚の本たちに
ついに手をつけはじめた。

いらない本を14冊売ったが、5冊増えたので、9冊しか減ってない(笑)
最近でもないと思うけど、
ブックオフとTSUTAYAが連携したそうで、会員カードの用途が広がるようでござい。申込いるのかしらん。

巡回先のブログでmixiのネタに思わずコメントしたが、
「読み逃げ」なんてオシャレな言葉を生み出すとは、
なかなか面白いところだ。
包丁は使いよう。mixiも使いようってところかしら。
そもそもPCもそうだけど、仕事もそんなような気が。
使うというのではなく、やりようみたいなところかなあ。

徹夜仕事な方、おつかれです。
頭が下がります。

ふしぎな図書館

丁度いい機会だったので(ん?どんな機会だ?)
買いました。装丁が箱入りで、橙色のカバーがグッドですね。
表のこうもりがいい味出してる。

「ふしぎ」と「不思議」は、
やはりひらながにすることで「世界」それは、
メルヘンかも、ファンタジーかもしれないけど、
そういうものをかもし出す気がする。後者の漢字表記は、
ちょっと怖いけど、気になるみたいなフシギを。
言葉は面白いですねえ。

話は、元になった短編がある。
羊男は、ハエ男みたいなのではないので、安心して読みたまへ(笑)

オスマントルコなんて、世界史を学んだ「漢!」なら、
血湧き肉踊る(あってるかな)ところである。
その税の集め方だったかな、気になる。
確か、税の集め方は、人頭税とか色々あったね。なんだったかな。
人頭税は人単位で(なんか人月っぽくてヤですね)、
土地につくのもあったかな。

体裁は大人向け絵本みたいだけど、
脳みそをすうって・・・ちょっと恐ろしすぎるような気がしますが
どうなんでしょう?

ふしぎな図書館ふしぎな図書館
村上 春樹 佐々木 マキ

講談社 2005-02-08
売り上げランキング : 91531

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

Webリテラシー―プロデュース・ディレクション・デザイン・プログラミング

Web検という教科書にもなるようです。
作りが教科書風で、まとまっている。
ただ「面白み」はないかも。

で、なんで買ったかというと、Webリテラシーよりも、
WebプログラミングとかWebデザインに興味があったからかな。

ちなみに、Web検はCBT、つまりオンラインで試験できるやつですな、
あれでもうすぐ出来るっぽいです。ちなみにこれ朝感ネタに決定(笑)

この本を起点にして、プロデュース、ディレクション、デザイン、プログラミングで1冊ずつでるそうです。デザインが4月に出るらしいので、
多分買うかも。

多分お仕事でWebな仕事やってる人は読んでいるか、
チェックしているか、あとはWeb検なんぞ!といってるかもしれません(笑)


Webリテラシー―プロデュース・ディレクション・デザイン・プログラミングWebリテラシー―プロデュース・ディレクション・デザイン・プログラミング

ワークスコーポレーション 2007-02
売り上げランキング : 22376

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

本を読むわたし―My Book Report

あれだ。
確かに15歳が書いたとは思えない、本の世界と自分との関係を
レポートしたものかと思われる。

印象は読んだ人しかわからないのだろうけど、
読んだ印象が、妙にしっかりしてるなあというのが印象。
さすがに出版物だけで、かちっとまとめてきているという
むしろ著者ではない、編集のすごさを感じた。
別に著書としてダメとかそういう意味ではなく。

例えば、自分が15歳の時に書けた、まとめれるものなんて
無きに等しい気がしてしまって、
そりゃ「11匹のねこ」(懐かしい・・・)とか、滅茶苦茶好きだったけど、
それでなんだろうなあとか。
本の世界って絶対言葉にできないものだと、今でも思ったりする。

だから、この本も著者の本の世界をまとめたものでしかすぎないのだけど、
それが良い味だしてる。


印象に残ったのは、アメリカのグランパとかの話で、
白人以外の人は好きじゃないとか、そういうのは面白いですよね。
なんていうか、現実で。

本1つでいくつかの話が入っているので、それが楽しいのと、
紹介されている本を知っていると(おそらく著者は紹介はしてないが)
面白いかも。

てぶくろを買いには、人間のデビル性を説いた本です(嘘
あの本はええっすね。ごんぎつねも最高だ。

でも、読み聞かせとか、やっぱ母なる仕事なのかなあ。
まあ、男でもいるんだろうけど、主夫みたいな話になりそうだ。

おすすめしてくれた方あっざっすでございやす。

本を読むわたし―My Book Report本を読むわたし―My Book Report
華恵

筑摩書房 2006-07
売り上げランキング : 28287

Amazonで詳しく見る
by G-Tools

へたくそな生き方

衝動で生きるのは下手。
分析で生きるのは上手。

そうでもないだろう。
逆もある。

決め付けすぎなんだよ。
もうちょっと心広くなれないのかね。

当然自分へのメッセージでござい。
パスに想いを込めろ(笑)


  generated by feedpath

走る

浴びるとか書いておいて何もあびたっぽい文章書いてないことに
気づきながらも、そのまま流す。ふっ。

日常を記録することを日記というならば、
書かれた日記がその人の日常ではないか。
それならば、その日記が面白くなければ、
その人の日常もつまらないのではないか?
よって、日記がつまらない人はつまらない人生を歩んでいる。

と、とんでもない三段論法(笑)を繰り出すところに、
論理の罠がある。というか、どうでもいいけど。

日記云々ではなく、その人を面白いかどうかなんて
そもそも違うじゃーんってね。

走るというか、1年とか2年だとまだ分からないことはあるにゃーでいいけど、3年経つとやっぱ「同じような」ことしてるでがんすってことになって、余裕が生まれてくると同時にターゲットが変わってくる。

何を見ているといったら、もっともっと大きなものだ。
それは両手に抱えきれるほどのものではない。
それははっきりいってターゲットとなりえないのだから。

走りたいときに走って、休みたいときに休んでっていうのは、
理想でもなんでもなく、実践せねば、管理はできてない。
仕事のために休憩するなら、その仕事は楽しいものではないといけない。そうしないと、休憩は楽しいとかそういうものではないから、
総合的に楽しいものがどこにあるってことになるんだ?ってことになるので。



  generated by feedpath

ワーズ

最初はそうは思わなかったけど、
世界に取り込まれるというか、くう、この日常の感覚。
読まないと分からないのだけど、言葉というものにぎゅっと匂いがつまったというか、そういう感覚がそこにある。

そうだなあ。小さな幸せ見つけたーとか、そういう感覚とか、
自分の好物が食べれるだけでテンションあがるとか、
そういうのがぎゅっと詰まった本かな。というか、永井さんという人は
どうもそうやって生きている気がする。多分そうなんだろう。

無理していないし、といって逃げているわけでもない。
といって「等身大」というのもなんか違っていて、
ぎゅっと握っておにぎり作るように、言葉を大切にしている気がする。

今、永井宏が熱いのだよ。うはは!






ワーズ ワーズ
永井 宏 前田 美紀

サンライトラボ 2000-08
売り上げランキング : 1134070

Amazonで詳しく見る
by G-Tools


feedpath tags:   generated by feedpath

浴びる

宗教が世界を、
人間が自然を、
それぞれ救えたら、争いは起こらないのですよ。全く。ぷんぷんです。(えぇ

yuiのアルバム借りちゃったよ・・・。
YUKIと誰かを合わせたような感覚。
ああCHARAとか、女性ヴォーカリストって言って出てくる名前の人と
やっぱかぶるなあ。いい意味で。



  generated by feedpath

アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

プロフィール

researcher

記事検索
最新コメント
月別アーカイブ
  • ライブドアブログ