ReadMasterの軌跡

面白いことを仕掛ける。仕事を作る。ビジネスを作る。そんな日々から出てくるアウトプット蓄積場。

2007年02月

風は吹くものか、それとも。

風は自分で起こせばいいじゃない。
ライト兄弟はそういった(嘘

まあ、得意不得意ってあるとおもうけど、
やらないと始まらないわけで。

うわあああああ。

ぎゃぼー。

いいものを創っていく

いいもの。
それは何だろう。
いいもの。

いい視点もらった。
さすが。

ぽんぽ痛い・・・。

熱い

カレーをですね、ぐっつぐつ煮込んだり、
ハヤシライスつくるときの、デミグラスなソースをぐっつぐっつ3日間くらい
煮込んだり。
あ、やったことはないですよ。

それくらいやると、味がしみこんでくるはず。
その上手さは、熱をもってぐつぐっつぐつ煮込んだからに違いあるまい。

食べ物は熱が必要だ。
人間も同じではないかね。明智君(えぇ

というわけで、2月あと3日。
気合い入れてふんばりましょー。

言葉をかみ締める

しみるほど、言葉を心に浸して、
そして心で温まった言葉を渡す。

心が暖かい、心温まるという表現は、
非常に深い。この言葉を説明するのに、
かなりの力が要するのではないか。

単に語彙を知っている問題ではない。
心温まること、それは「心のチキンスープ」ともまたちょっと違うかな。
心のチキンスープという表現をもってしても、
心温まることは表現しきれない気がする。チキンスープという
体もあったまるもの?で表現しているのはかなりうまいが、
表現に上手さはいらない。極論だけど、そんな気がする。

行動せよ行動せよ。
本を読め本を読め。
人のことを考えよ。

そういったある種教訓めいた言葉をどこまで
自分の中で消化できるか(この消化という言葉、
同じように使う人がラジオの声として聞こえたことには、
正直驚いたが、親しみを感じるのも当然)

消化できたかどうかの証明。証拠。形。目に見えるもの。
は非常に簡単だ。

その人を見ればいいだけなのだから。

いい仕事、いいもの、いい人・・・
いいという表現には、暗黙の自分の価値観、無意識の理解?を
含んでいるような気がする。
僕も「面白い」という言葉はそんな感じで使ってしまっている。
面白ければ全てよし!っていえないだろう?って言われたら、
いや・・・よしでいいかなーとか思ったりするんだけど、
まあそれはおいておいて、良いものが何かって、
さらに噛み砕く必要はある。

目的なんかないところから、あるという状態にして、
そこからさらにそれはもう言葉にできない、感情の嵐・・・であって、
それはもう誰にも止めることはできない。

リセットボタンを押しても、
目的がないという状態に戻るだけだ。
それがいいとか悪いとか・・・そういうことはない。
ただ結局、都合よくリセットなんて出来なくて、
全部消えちゃうし、全部なくなるんだよって、
そういうことを考えると、創る力がすごく重要になる。

誰かがやってくれるだろう。
誰かがしてくれるだろう。
誰かが助けてくれるだろう。
誰かが責任をとってくれるだろう。

誰かが何かしてくれるのは、確かにあるかもしれない。
でも、それはかもしれないだけであって、
むしろそういうもので話が進んでいく方が危うい。
皆、沈む船に乗っていることかどうかの判定ができないからだ。

それで死んだ時に「え、こんなんだっけ?死にたくないよ」って
いうのが人間として当然のリアクションな気がする。
なら、なんで周りの顔をみて、「この船やべ」とか
思わないのかしらん。そもそも周りの顔をみたことがないのか。
いやそれはありえない。周りと一緒でいいという価値が先行すれば、
疑うというようなこの「周りの顔を見る」こともできないのかもしれない。

どちらにしろ、なんにせよ、
結果は必ずついてくる。これは名言でもなくて、
本当にその通りだ。悪かろうが良かろうが、
やったらやっただけ結果になる。

だから安心してやっていけばいいのだと、
また僕は学びっこさんになりましとさ。わーい。

伝えていくこと

群れるのと集まるのは違う。
んなことどうでもいい。

さて、伝えていくというのは、
組織においてある種の暗黙裡だったり、良い習慣だったり、
同時に悪い癖も、特有の文化!とか。

年数は分からないが、1,2年ではともかく、
3,5年、10年経ってくると人の変わり具合が顕著になり、
組織の実態もまた違った捉え方になる。

個人的には、誰かもいってたけど、
少数精鋭のチームというものが好きだ。
が、集団心理とか、そういうものからいくとこれは不可能。
もちろん、集団心理なんてとっぱらっちまえばいいだけだけど。

ただ思うのは、
面白さみたいなものがどこにもそれなりにはあって
それを伝えることは大切だと。
それは会社とか組織の話でもなくて、もっと感じることを
率直にいっていけばいいというか。

ここにある種の思想や宗教や政治は入り込むことはできない。
最も教えを説くのは違うけど。思想は入るかなあ。

例えば自殺については、人生は楽しいよって
言っても意味がない。生きる<死ぬという式が出来たら、
数式のように実行して終わりだ。
現状ではなく、未来はこうだから・・・というのだが、
現状、いまこの瞬間が変わらないとダメだということだろう。

このフレーズどっかで聴いた事がある。
そう。ワガママな人って、すぐに結果を求める。
この場合の結果を求めるとは、自分の要求どおりにすぐならないと
怒り出すということでの意味合いだけど。

視野をいくら大きくしても、どんなに動いてもだ、
それに応じる人、賛同する人、一緒に動ける人がいなければ、
空回りするという感覚がなぜか分かってきている。
でも、同時にここからが重要だけど、
「それすら」できないようなら、できない。

お前に言われたかねーよって人に言われると
腹が立つことでも、別の人に言われるとすっと受け取れることは
大いにある。
あ、これどうでもいいなあ。

伝えていくこと。
そういうこととか、なんかこうしたいんだよねって
滅茶苦茶少ない。

実際にいるし、知っているんだけど、
なんでスタートラインに立ったばかり、もしくは
スタートライン付近でまだスタートしたばかりなのに、
どうして、アキラメに近い感情を抱くのか。

悟りにも無駄な悟りってのがあって、
スラムダンクではないけど、諦めたら試合は終了という、
試合=人生で語られるものがあるわけでしょう。
悟りとは無駄とかそういうのではないとかいったら終わりだけど。

ああ、やってやるさ、この野郎。
自己顕示欲に率直に生きる。
燃えるぜバーニング。

技術者魂復活

再び目覚める。
まるで地底に眠っていた竜のように(何

面白いことは一杯あるわけですね。
とくにセキリティ関連でWEB的なものは、例えばPHPのセキリティとか、
わくわくしてきますねえ。

デジタルな攻防。サイバー犯罪といっても、オークション詐欺がかなり多いらしい。

技術者魂が何を指すか分からないけど、
作って公開(後悔ではない)して、また修正して作って公開しての繰り返しを
出来る人間はやはり開発者に向いている気がしてくる。
粘り強さと諦めは決して矛盾してないというか、
粘れるのは、諦められるラインがあるからこそだと、そういうことを言っても
いいような。
粘れないのは、諦めラインすら設定できないからなのか。

笑う招き猫ネタだが、
TVというフィールドできっちり7分で短いかもしれない時間で
出し切るのがプロなのでは、われわれのスタイルではないかという自問自答。
それすら出来ないのでは、舞台でも良い芸が出来るわけがないのでは。

これは会社員がロクにできないようでは、
結局仕事はできないというのと似ているような。
まあ、それが全てではないけど、いえるっちゃいえる話。

この場合「会社員」というのをどう解釈し、
そして「仕事ができる」とはどうかということを解釈する必要があるわけですな。

恐れる

自分が怖いとか、人が怖いとか、何かやるのが怖いとか、
赤字なのが怖いとか、裏切るのが怖いとか。なんでも。

何かに恐れてしまうのはよくある。
ただそこでひるんでそれで終わることとは一致しない。

複数集まると。

一人芝居、一人で何役もこなす人は、人が嫌いというわけにはならないだろう。
個人で活動する人が人が嫌いというのもおかしいだろう。

中にはいてもいいけど、それは組織の中で動く人の嫌いな人もいるのだろうから、
あまり意味のある指摘ではない、とくにここでは。

一人では限界があるとは、誰しも一人で出来ないことの多さに気づいたときにはく台詞だろうが、
逆に二人以上集まれば、出来ることが色々増えるわけではなく、
出来ることもあれば出来ないこともあるのは、個人でも複数でも同じである。
ちなみにプログラミングでは、変数の配列の考え方からすると、
1つと2以上は明確に異なるが、2つと3つもあまり変わらないというか2以上は同じということがある。
テストケースとしての話は別だが、まあそんなものがあると。

なんでも一人で、何でも複数で、あらゆることを・・・というのが問題であって、
個人で動く人で幅広く動いている人は多くの人とつながり、同時に自分を見失うことがない。

それをやるとあれができないということはあるが、
できないのは、実際に不可能なのか、単なる停止なのかで全く話が異なる。
時差を設けることで、寝せて味がよくなることもあるわけで、
逆にラグはいらないからほぼ同時にやることでいいこともあるわけだから。

個人も組織もそれぞれメリットデメリットがある。
だから、メリットを活かしてデメリットをフォローしていけばいい。
それは正論だが、現実はなかなか。

協調性という言葉に未だに「腹が立つ」し、(つまり前から怒っていたわけ(笑))
一緒にやるというのも「完全な対等」などないよねと思っている。

人には色々な性質があるわけだから、
常に同じ人ではありえないという指摘はおそらく正しい。
そういう変わっていく自分、もしくは他人で、
どこが面白いか、どうあっていきたいかというのがポイントかもしれない。

皆で集まればいいものができるのは幻想だ。
同時に、一人で何でもできるのもおこがましい。

言い換えよう。
人と一緒にやるときは一緒にやる価値があるからであり、
一人では一人の動きやすさがある。
つまり、良いところを見ていくというのが大切で、これも基本的なことだ。

想像と現実

現実の恐ろしさ、想像の恐ろしさというのもある。
別に現実が恐ろしいわけではない。
想像も同じだ。

想像の世界というのは、現実ではないから
それ自体無意味だと考える人もいる。
しかしその場合、現実が全てとなってしまうが、
その場合の現実は現在以下の過去としかならない。

家を出てタバコでも買いにいくとする。と思ったとしよう。
その人は、家を出る瞬間に家を出ていると感じるか、
家を出たと後で思うかでしかない。
タバコも買ってから買ったことになる。
当たり前だが、これには想像という未来が、リスクなどの回避が、
頭の中でのシミュレートが全くない。

知識で固めれば想像は不要で、リスク回避も可能になるかもしれない。
例えば、家を出るときは、必ず右左を見てから何か危険物はないかを
チェックするという「想像」ではなく、「知識」で
まず危険は回避できると。
タバコが自動販売機に売り切れの場合は、
別の自動販売機にいくか、お店を探すかという「知識」で
対応できるかもしれない。

ただこれらがまずいのは、人間の知識など無限ではないのだから、
知識で対応できないもの、分かりやすくいえば完璧なマニュアル対応か、
に対しては無力だ。

例外かもしれないが、
自販機で売り切れだから、店にいったらタバコ売ってない店だったから、
コンビニいったら、自分の良く吸うタバコだけが売り切れで、
とかいった場合はどうするのか。
意地でも探せばいいのかもしれないが。

現実の認識で、想像がない場合、非常に悪く言えば窮屈な、
よく言えばシビアな認識となる。余裕がないというわけだ。
その場合、現実に描かれた絵(想像という絵ではないのに注意)の
通り行かなければすぐにストップしてしまう。
こんな人はいないかもしれないが、
想像を楽しまないとか、想像というものを重要だと思わない人は、
極論では、ロボット人間(悪い意味)になってしまう。

そういうことを考えていくと、
なぜ目の前の現象があるのかは非常に不思議になる。
その答えなりを探るのは、やはり想像がきっかけとなってくる。

なんで朝から仕事が始まるかを考え出したらキリがないかもしれない。
でも昼から、夜から始まる仕事もある。
それらは知識では対応できない。

もし、知識で対応できる人がいるなら、
それは一度は見てみたいが、その知識自体に想像が入ってる可能性もあるわけで、
いない、と断定しておく。

想像は大切なりなり。

で、それで?

自分に嘘をつくのと自分に素直になるのは、
真逆のことのようだが、どうもこれらは、
逆というより、一直線上にあるような気がする。
つまり、数直線を思い出して欲しい。

左に、「嘘」とかいて、右に「素直」とかく。

人によって、左にいったり右にいったりする。
素直に自分のことを言える相手がいれば、
そうではない人間もいる。

面白いのは、素直になれない人間は相手もそうだと思うこと。当たり前だけど。
逆もまた然り。

だから人によって自分という人間の評価はまるっきり変わることもある。

僕は、素直じゃない人間も、素直な人間も、
どちらも好きだ。どちらかというと徹底的にやってくれれば、
それほど誇らしいことはない。

例えばそういうこと

自分ぐらいの兄ちゃんが、地下鉄の入り口で
僕を追い抜いてさっそうと片手にタバコをすいながら、
どうするかとおもったら、溝にそのまま捨てやがった。

なんてこった。

最後の朋友は、マナーできてないやつはタバコを吸うなと言ったが(言ってない)その通りだろう。

そのタバコマナー自体はどうでもよかったりする。
結局捨ててもへっちゃらちゃらスケってところが、
悲しいわけですね。この悲しさは結局期待があったり、
こうあるべきだというのがあるから生まれるわけで、
なきゃ「ふーん」・・いや「(あ、すてた)」くらいなんだろうと。

タバコをそうやって捨てるやつが、
モノを大切にするか?
ゴミの管理とは結局いらないものといるもの分けることになる。
捨てる行為は同時に自分の大切なものをどう扱うかにもよる。

どう考えても、ものを平気で捨てる人は、
ものを大切に扱うとは考えがたい。

また自分の部屋じゃないから理論を持ち出すと、
自分の部屋じゃないところのほうが多いわけで、
その場所比較で逃げることはできない。

みんなの場所という「嫌な言い回し」をしてもいいけど、
それでもきっと、俺はいいから、ってことになるんだろう。

1つの行為から心理を追っていくとき、
大抵ある種の行動でその心は表れている。
別に行動心理主義じゃないけど、行動心理って考えは好きだなあ。やっぱ。

妙に疲れた

一体何をしたいのか。
そしてどう生きたいかであって、
60過ぎなわけじゃないから、死ぬこと、フェードアウトを
考えるわけではあるまい。

これから楽しくなっていくのに、
もう終わっている・・・みたいな。

何を僕はしてきたのだろう。
そして何をカスカでも、わずかでも、些細なものでも、
残せているのだろう。

痛烈な自己批判にどこまで耐えられるだろう。
他者の批判など蚊に刺された程度で、
本当に体にくるのは、自己批判でしかない。

先を見ろ。
そしてオーロラを見るのだ。わーい。

BIOSエラー

ぶ。

やべえ。
そもそもDualBIOSってなんかかっこええとかいって
買ってて大丈夫なのかって感じですが(笑)
BIOSのですね、ROMが消去エラーで起動できなくなりました。

って、マザボ死んだか!と思って、
別PCでぐぐってたんですけど、なぜかUSB機器をたまたま抜いて
起動したら動きました。

どうも、BACKUPエラーとか出てきたのは、
なんだったんだろう。とにかく、心臓に良くない。
こういう時やっぱマシンは2台以上持ってると強いですねえ。

ハードのエラーとか、そもそもエラーは技術が増えるたびに
増えるので対応するのは、
精神力と諦めない力(笑)と、頭の柔らかさと勇気あるアキラメだったり
するかもしれません。

多分BIOSエラーってWindows起動しないよりも、
アキラメつくからいいんですけどねえ。

おららおら

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ハヤシライス。
やっぱ自分で切ったタマネギはうまさを増してくれる。

林さんに感謝感激。

ナンデモ出し惜しみはいかんですね。
どんなときにでも全力で!とウソブクのがよいよい。

ちなみにささってるスプーンは、
ココイチで当たってたりします。うふん。

信頼を得る行為

信頼を得るのは簡単とか難しいとかではなくて、
全く自分の感覚で恐縮(してないけど)だけど、
約束を守るとか、言ったことはやるとか、できないものはできないとか、
理由とかちゃんというとか、誠実であるとか、
馬鹿には馬鹿というとか(笑)、分からないものは分からないというとか、
挨拶するとか(笑)、
そういうことをしていって(なんか当たり前のことばっかだな)、
「ああ、この人はちゃんとやってくれるんだなあ」と
思わせることだと考えている。

この考えが戦略的であろうとなかろうと、どう受け取っても、
やはり言われたことをちゃんとやるか、やらないかでは、
やる人を普通信頼するような。

上級者は、この信頼を利用して詐欺ということもできるが
これはそもそも人間関係以上に自分自身を崩壊させる危険がある。こええ。

信頼は一朝一夕では無理なのは確実。
人脈という言葉とも似ているか。
少しずつ少しずつ出来ていくものですね。

仕事術

ざっと整理。多分、色々と考えてやっていかないと何も成長はないっすねえ。

1.TODOを洗い出す
これはそのまま。やることとかを出していく。

2.スケジューリング
これは1のものにあてていく。まあ、期限のないものは仕事ではないといったら
アーティストに怒られそうだけど、でもプロは結果を期限内できっちり出すわけで。

3.それで動く
1,2をあわせたもので実際に動く。
そして1は消去していって、2も適宜修正していってペースを考える。

PDCAサイクルだとか、PDAサイクルとかよく言われるが、
その言葉自体に意味はない。これらの意味していることを理解し、
実行して、自分の中に落としこめるかが重要だ。
という意味で、仕事でなくても勉強でも、
この単語が分からない、この意味はなに?この人知らないといって、
それをメモって後で調べることは、立派なPDCAサイクルになるし、
そういう言葉を知らなくても、
調べ学習だとか、そういう言葉でもいいし、
また「知らないものは調べる癖」といってもいいし、なんでもいい。

さて、この話はいいとして、この仕事術的なものって、
ツールとか、考えとかは時代によって変わることは想像できるが、
基本的なものは変わらないのだろうと思うと、
なんだかどうでもよくなってくる。仕事術がどうでもいいというか、
仕事術に対して考えることはナンセンスかもしれないということ。
仕事術は手段であり方法だから、仕事をする上において、役立つとか、
意味があることではないとダメだという発想からすると。

現場主義とか、ベンチャー視点とか、なんでもいいけど、
ある種のスタイルに分類されるのはいいとして、その分類それ自体は
認識に役立つだけであって、実際それ自体が何か役に立つかというとハテナさんである。

注意すべきは、実際に仕事に役立つものということをやればOKではなくて、
というか、そういうものがそもそもピンポイントで全て分からないし、
分かっていたらそもそも面白くないというのもある。
例えば大学生に企業ですぐに実践できるようなことを学ばせるというのは、
やや閉口する。多分そうじゃない、僕はそう思っているだけだけど。


結局自分が面白いと思ったものをどうしたいか、
仕事をどう楽しみたいか、仕事にとってどう向き合いたいかを
言葉にせずとも考えることがなければ、非常に辛いような気がする。
考えないことも人生だが、同様の強さで、考えることも人生だと言えることを忘れて欲しくはない。

名言としては、仕事自体に面白さはないというのがあって、
それをどう取るかでしかないというのがあったはず。
その通りで、つまらないなと思うときは自分がつまらないことが多い。
もちろん仕事そのものがつまらないのは、なぜかを考えないと厳しいが、
どうしても仕事が面白くないならば、面白くするようにする。
それでも無理なら、なんで仕事が面白くないかを分析したりして、
自分の肥やしになるようなところをエキスとして抽出する。

意味のないことに意味があったりするように、意味づけは基本的に
どんなことでもできる。

確実にいえるのは、いつまでも同じ場所、地点、ステージにいたら、
おそらくそのままであるだろうと。
環境を変えるには、環境が変わるのを待つのではなくて、
環境を変えていこうとする自分がいることに気づく、もしくは変えようとする、
そういったメタ認知的なものとか、客観視をしていかないと、
何も変わらない。

愚痴っぽいのはおそらく自分のせいである。
他人のせい環境のせいというのは、それが一理でも100理でもあったとして、
不条理でもなんでも、それ自体を変えるのは自分だからだ。

楽をする

仕事において楽をするという考え方をどう捉えるかは非常に重要だと考える。

楽をするときいて、楽なんかないよというのもあるし、
楽できるならしたほうがいいというのもあるし、
仕事で楽しようなんて甘い甘いというのもあるし、
どうやったら楽できるのかというのもある。

同じルーチン的なことを何度も繰り返すのはやはり「馬鹿」だと思うが、
かといってそうせざるを得ないならやるしかない。
それ以外のやり方が分かればそれを使えばいいだけだ。まあ、そんなものだなあと。

ホワイトカラー・エグゼンプションではないが、
仕事は拙速か巧遅かという議論は多分有史以来ありそうだ。
小さな獲物を確実にしとめるのか、大きな獲物をじっくりしとめるかは、
ケースバイケースだと思われる。
食いたいときは皆で狩りにいくわけだ。嫌いなやつがいようと皆で食うのだから(笑)
日々は小グループで行動する。その方が効率がいい。
一人で全くカラのときもあるからだ。

それはともかく、拙速と巧遅は、極端すぎるのでスルー。
ただ性格的なものがある。もちろん仕事をする人のだ。
きっちりやりたい人はきっちりやるから、巧遅になるかもしれないが、
速くてもまず完成形をと考える人は全体を把握したいから、拙速になるかもしれないとか。

どちらにしろ、メリットデメリットがあるので、補完的な行為は必須だ。
自分が巧遅なら、速くする補完を、拙速なら巧くやる補完をもってこなければならない。
丁度ドラクエで職業が戦士4人パーティーでは厳しいのと似ている(そういうのを好む人もいていいが)

自分の性格を把握するのは客観視、対象化ということになるが、
仕事に打ち込む熱さも忘れてはいけない。
夢中になって何かやるというのは重要なことで、それが仕事の質を上げていくことになる。

1ヶ月である仕事の結果を求められたときに、
スタートから終わりまで均等に一次関数の直線で右肩上がりのものは
まるで意味を成さない。もちろん計画はそのようなものだが。
いったりきたりというのがおそらく現実感はある。
例えば、3週間目でいきなり躓いてうまくいかなくなったときは、
一から作り直すのかどうかというレベルなら、一週間で作るのと似ている。

結果が同じであっても、AさんとBさんという人がいたら、
やり方は違うだろう。Aさんは全体から、Bさんは細部から固める人なら、
2週間目と3週間目は全く別のことやっているかもしれない。
ただ両者とも仕事が出来るプロならば、きっちり結果を出してくる。
ラスト一週間前は、Aさんは細部を固めに躍起になる一方、
Bさんは全体とのバランスを懸命に見ているかもしれない。

どちらにせよ、結果を出さなければ意味がない。
ここで注意したいことは、魂を悪魔に売れ、というような意味ではないということだ。
結果が全てではないが結果も出せないようではおそらく、何もできない。

こういう考え方は考え方自体はうっとうしい時もあるが、
非常に有用な考え方であるのは間違いない。うっとうしいというのは、
それオンリーでいくと、ちょっとだけうざったいというだけだ。

結果も出せないのに過程を重視していては本末転倒だ。
結果だけだしてその過程を見直さないのもナンセンスだ。

過程も結果も重要。どちらを重視するかという課題くらいしか残らない。

結果というのは、ある成果だとしたら、
成果というのは、必ず出てくる。原因と結果ではないが、ある行動をすれば
必ず結果が出てくるから、結果なんてものは非常に受身的なものだといっても過言じゃない。
飯を食えば腹が膨れるし、動けば腹が減るとか。
本を読めばその情報が入るし、何か感想を抱くし、抱かないものもあるし、
その本を読んだということになるし、何か面白いことがあるし、
というのはそれを読むというアクションがあるから、結果としてそのように感じる。

仕事をすればミスをするし、成功もする。
こう考えたけどダメだったのは、結果があったから分かることだ。

愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶだったか、
なんかそんな言い回しがあったかもしれないが、
自分の経験などたかが小さきものであるので、積極的に他の考えを
吸収していく、取り込んでいく必要がある。
立ち止まっていてはダメなのだ。


努力の上の楽というのがあるが、それはあまり楽とはいわない。
成功というらしい。
逆に楽とは、努力しないということを暗に意味するというか、それを意味することが多い。

楽して何かできるわけでもないが、楽をすることも時には必要というか、
そういうことになってしまう。

成長とは、変化とは、刺激とは何か。
非常にシンプルに答えることができる。
成長とは、刺激の中で変化し考えることだ。
と、まるで並べただけの説明だが、実際その通りではないか。

考えることをせずに、ただ「忙しい」だけの仕事は
時に自分を破滅させる。忙しさは残業考察から色々得られたのだが、
意味のある忙しさと意味のない忙しさは確実に存在する。
逆にいったほうがいいだろうか。忙しさに意味があるか、それともないか。

レンガ職人の話がある。結構自己啓発的な内容なので、知っている人は知っているだろう。
3人の職人がいて、A、B、Cとする。
ある旅人なり通りすがりの人が聞いた。
何をしているのですかって。
そうすると、Aさんは見りゃ分かるだろう。石を、レンガを積んでいるんだといった。
Bさんに聞いた。
これは壁を作ってるんだ。城壁だね。
Cさんに聞いた。
外敵を守るために城を築いている。外敵は○○だ。

皆同じ職人だが、どの視点が大切かみたいな話だったり、
経営者視点とか、従業員視点とか、なんでも。

解釈はおいておいて、
忙しさということにこれを適用させる人は意外に少ない。
最もこの話をなるほどと思い、何かに適用させている時点で「おかしい」かもしれないが。
では、忙しさにおいて、上の話はどうなるかというと、
Aさんに聞けば「忙しいから忙しいのだ」というだろうし、
Bさんは「やることが一杯あって、そのうちこれが厳しいんだよ」というし、
Cさんは「今は○○のために忙しい。多分これは1ヶ月で終わるから、それまでかな」
というだろう。

多くの忙しい人で、Aに類する人はおそらく忙しいで終わっていって、
数ヶ月単位でなんであんなに忙しかったのだろうといって、やや後悔するか、
忙しいとダメだねえというはずだ。で、どうなるかは知らないが。

Bに類する人は、自分が忙しいとはいっていて、なんで忙しいかも分かっている。
でも、それだけで、まるで忙しいのは環境であるかのようにいう。
多分Bの人が多い気がする。Aの人は意外に少ないような気がする。

Cに類する人は、
自分の目的を持って、達成後もみえている人だろう。
こういう人も意外に少ない。

目的をもってやってこなすことをたまに変な風に見る人もいるから
どれがいいとか悪いとか、そういう話でもない。

ただ妙な悟りを開いて、
私はAでしか生きられないのだよと「いじけ」たりするとか、
Bで十分じゃないか何を望むかと戒めたり、
Cは目的なんてもって生きるの疲れないかといって、
あまりそういう風に考えるのは多分面白くないかと感じる。
この感じは僕のものだから、他の人はまた違うのだろうけど。


さてその忙しさで仕事をやっていくことで得られるものはなにか。
やった後の達成感か、自分の力がつくことか、それともそこで忙しいといって
働けることか、暇ではないことがいいからか、仕事をしたいのか、
お金が一杯欲しいからか、
というような問いが1かけらもない「忙しさ」にもはや意味を見出せるわけがない。
別に意味を見出すことが全てではない。
ただ意味を見出そうとせず、意味が出てくるとか、
口をあけているだけで飯が食えるとか、そういう風に考える人は意外に多い。
多分そういう考えを改めるだけで、どこかで働くというのは意味が大きいような気がする。

人それぞれ価値を見出すものは違うのだけど、
結果を見れば価値を見出すのは過程でしかない。
だから、動機付けとかそういうところは違っても、
出来てくるものは一緒かもしれないし、全然違うかもしれないけど、
見えるものは結果が大きい。

自分に嘘をつかないとか、まっとうに生きるとか、
そういうことを言っていくと、
なぜか人を受け入れて、自分に素直になる気がする。

という意味で、人に対して何かを言う人で
その意味が深かったり、説得力がある人は、
その言葉を自分にも突きつけているからだろう。
逆に、宙に浮いた言葉を発する人は、おそらく自分には突きつけてない。
痛くて怖いからだ。そのような人の話は残念ながら耳に残らない。


仕事に誇りとかプライドとか自負とか、そういうものを求めるならそれなりのものを。
求めないならそれなりのものを、きっちり出して欲しいものだ。

ってことを考えていくと、
理詰めの話は全く面白みがない。感情の動きがないのは面白くない。
面白みとは、やはり感情の上下左右であり、その人の熱さでしかない。

熱は周りを暖めることができる。
また人は、自己愛というのと同様に、自己犠牲ということもできる存在だ。

滑稽なことは多いかもしれない。馬鹿らしいことも多いかもしれない。

でも、真剣に生きること、夢中になって生きること、
そういうのってカッコイイと思っている人がここにいることを記しておこう。

さあ、PCを捨てよ、街へ出るのだ(捨てなくても電源切るだけでいいかと。)

日常

毎日は同じではないという話は何度も書いてきたけど、
でも、「同じような毎日」というとき、やはり同じような毎日を感じているからであって、
その日その日の内容は全く問題になっていない。

同じように感じる日常があることを「同じような毎日」「マンネリ」というわけだ。

細部を点検すれば、食べるものは違うし、トーストにつけるマーガリンの量は違うし、
コーヒーを飲みたくないときだってあるし、
もうちょっと寝たいときも、寝たくないときもあるし、
朝挨拶を交わす人の順番が違ったり、誰とも挨拶をしない朝もあるし、
工事現場の誘導員のおじさんと会話を交わすこともあればないこともあるし、
ビラ配りのお姉さんの声がうるさいときもあるわけで。

でも、同じような毎日だという。
一日一日に感謝せよなどということは、おそらく響かない言葉なんだろう。

なんで生きているのかとか、そういうことを問いだすとキリがないけど、
意味がない問いではないし、むしろ価値のある問いだ。人間らしい気すらする。

同じような毎日を感じる人はおそらく刺激が足りないのだろうし、
逆に同じような毎日を暮らせることはいいことだ、素晴らしいことだというのも
やや無理をしている気もするけど、無理をせずそう感じる人もいるだろうから、
果たしてどうしたらいいものかと。

結局は自分が決めることなので、つまり一人一人の考えなので、
どれも正解であるし、どれも正解ではない。
正解だといわれるのは不正解で、不正解なものが正解である確率の方が高いかもしれない。


ただ最近思うのは、この「日常」を徹底的に掘り下げていったとき、
それは「日常」ではない面白さになるから、
素材とか材料とか、そういうものはまさに「日常」の言葉どおり、
常に毎日どこかに転がっているものだといえる。

それが見つけられないのは、やはりそうしたくないのだと、
まずは認めるところから始めるしかないと思ったり思わなかったり。

朝のヒロイン

渋滞した車から降りると彼女はそのまま道路の脇を走る。
そして青くなった信号を渡るかと思いきや、そのままタクシーに乗り込む。

かっこいい。
まるで映画の1シーンみたいだけど、この目で見た。

朝の光景として1つ切り取りたいシーン。

すがすがしさ

何か適度に暖かく、寒すぎず、かといってぬるいわけでもない、
そういう外の空気を感じる。

力むものでもなく、焦るのでもなく、
かといって落ち込むわけでも、楽観でもない、
「人が多いなあ」という言葉に全く嫌味が入ってないような、、
そういう風に台詞を吐けるような感じがする。

全く良い日すぎる。

難しい問題

でもなかったりするのだけど。

「笑う招き猫」では、漫才コンビが売れて、
漫才を舞台できっちりやっていくのか、
それともTVにでてヘラヘラやっていくのか
(TVにでたらヘラヘラではないが周りの影響は大きいだろうから)
そこらへんどうなんだってマネージャーから
言われるシーンがある。

うむ・・・。

あとヒトミが「これは私の人生じゃない」と思う場面がある。

うむうむ。

この「私の人生じゃない」というのは、
おぼろげながらもこれが私の人生だよっていうようなものがあるから
そういえるわけですな。

漫才を仕事としてくくると(プロだから)
さてそのお仕事自分のやりたいことなんですか?
って問いは普通に成立する。別にしたいから問うたのだけど。

僕の仕事においてもそうだ。
「これはできません」というのはどんどん言えって、
100回いっても、そのうち80回くらいは本気じゃなくて、
スルーされていて、でもそういう自分の力をきちっとみてかないと、
誰もが痛い目にあう。
それって、なんで結構同じ事前からいってんのになあとか思ってしまう。

もちろん自分がある仕事において、
できない悔しさとかあると思うけど、
でもその悔しさって、その仕事で返せるなら、「くそ、このやろう!」といって
やり返せばいい。
でも、それをしたところで、できない悔しさは解消できても、
できないことは変わらなかったりすると、
つまり、できないものはできないという事実は変わらないだけのことで、
単に「できない悔しさ」で目の前のものを誤魔化しているだけ。
ということになる。

すると、ハマる。
自分ができないからダメなのか、できないのが悔しいから
これをやらなきゃ突破できないのか。
永久ループだ。

TVでうっていって人気者を目指すのも悪くないし、
ちやほやされたいって人もいるだろう。それも一興だ。
また、笑いに打ち込んでいくというストイックなものを
目指す人もいるだろう。それも一興だ。

どちらを選ぶこともできるわけで、実現可否は知らないけど、
そういうところで、自分の人生であるなと、心から思えることがあれば、
それでOKであると。

これが最近思う、満足であって、
これまたヒトミという人間は、
OL3年やってて辞めて漫才という道を選んだのだけど、
OLやって生きていけて、いい人見つけて、それでやっていくという生活。

いわゆる「平凡」な幸せというものだけど、
そもそも幸せの平凡なり平凡の幸せを狙うところで、
何か問題ないような気がするけど、
それがいい人もいるわけで、でもそうしなきゃだめなわけでもないわけで。

送りバントをするには、ランナーがいなきゃだめなんだ。
ただのバントという行為ははただ路頭に迷った人間ですら思う。滑稽かも。

岐路って呼ばれたり呼んだするものに出合ったとき、
さて、どうするか。

誰かに答えを求めたり、頼ったりしていては
多分岐路なんて現れないんだろうと。

もちろん全部自分でやれっていってるわけじゃあなく。

といっていくと、問題と思われた問題は
解決しているのであーる。

ドリコムのアフィリエイト広告が結構なことになってます。
お知らせブログのコメント数が結構すごい数に。
あえて傍観。広告を強制的につけるってのは
確かにまずいのかなあとは思うねえ。選べるかどうか
しなかったのは、いくつか理由は考えられるけど、
ユーザ視点に立てば「広告」なんてないほうがいいわけで、
そのリターン的なものは必要かもね。

オーライ

ちょっと古い時代の匂いがする映画。
服装かな。

魅力だと思ったのは、
そのストーリーとか展開はどうでもいいとして(本当はそんなこといっちゃだめなんだろうけど)、
作品を作ったナツノとそれが燃えたということが、
何かとても目線が対等、いや低いところから見ている気がして
それがいいなあと感じた。

多分僕には創れないなあと。
ってあんた映画創れるのかいって突っ込みは
返す日が来るのさ・・!(笑)

OL監督ってところが気になって観てみました。
やっぱこうでなきゃいかんですな(お、またこれか。

笑う招き猫

酒飲み書店員&営業大賞授与作品。

おお・・おもしれー。
漫才熱い。

p.66の赤字でもやるというところがぐっときた。
やっぱこれだよ。

最近このフレーズ多用してるなあ。

やりゃあできるとか、も好きだなあ。



笑う招き猫笑う招き猫
山本 幸久

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愛想

結局人は愛想でしかない。
愛想が悪い人は、その作り出す何かで補う必要がある。
外から感じるのが愛想なら、中から感じるのは作品か。

もちろん、愛想が悪ければダメなのではない。
が、単にどう思われるかみたいなところでの幅を狭くするだけだ。

最近すごく思うのは、
他人に対して何かいう時、自分の考えが逆に見られている、
またはどういう人か分かってしまうということを
富に感じる。

よくあるのは、
え、あんた、んなことをいってるけど
自分ではできるの?って。
突っ込みをしたくなるようなこと。

大体これで詰まってしまうが、
なら言わなきゃいいのに、言うらしい。

まったく地球人は理解ができない(笑)
宇宙!宇宙!

それはいいとして、そうまでして言って、
で何か意味があるかっていうと、
単に言いたいだけという、これまた直球な話で、
じゃあ、同じように相手も
言いたいだけだったら、平行線だし、
そもそも、平行なら相手を認めなくてはいけなくなる。

さて、歩むよる、とは、何を意味するのか。
世の中に価値があるというものがあったら、
それはそういう「言いたいだけ」みたいな人とも
共有できるのか。それともしたいのか。

こういう時には歌を引用するのがいい(笑)
コブクロは、やることとかやったことが全てじゃなくて
やろうということが全てっていってたような、確か、
やっぱこれだよ。

という意味で愛想は大事(脈絡ねーな。


言いたいこと

今更だけど、
Spaceって言葉が、空白ではなくて、宇宙って意味もあったことに気づく。
スペースシャトルのSpaceとは別のことを意識してた。
うおお、足元みえてねー(笑)

だからこうなる。
スペースキーを押すたびに、宇宙にいけるんだって(あほ


ま、それはどうでもいいとして、
フリージアって漫画を読んでたら、なんかぶっとんだ感じが
村上龍とか中上健次っぽいのかなあとか勝手に思ってしまった。
これ、映画でやるから絶対みないといけない・・・。

あと、シャワー浴びながら気づいたというか
当たり前なんだけど、
それで納得すりゃそれでいいかと思うので、
でも、納得できなきゃ満足できなきゃやれるところ、
いくところまでやるしかないんではーという真っ当で、かつ正論を
吐いてみることにする。
自分ごまかしていきてもしゃーないっすからね。

RM軌跡ラジオ26回目

なんかしゃべりたくなったのでしゃべってみました。
まあ暇ならどうぞってレベルです。

それにしても、
異様に慣れてきたのかファイルのアップと
エンコードが早くなってきました。あと軽い編集も。
慣れって恐ろしいものですねえ。

RM軌跡ラジオ26回目「社会を支える1つの行動」
約20分のうちそのフレーズは1回くらいですかね(笑)


なんかドリコムとサイバーエージェントの連携で、
最新記事にmicroAdってのがのってます。
サポートブログはかなりのコメントが寄せられていて
若干荒れ気味です。

ちなみに、3000記事をこえたのは知ってましたが
コメントが1000を超えてたのは気づきませんでした(笑)

お世話になった人で、1000という数字を強調してた方がいましたが、
確かに1000超えると大分分かってきますね。
ちなみに、3年というのも大体1000日ですよねえ。

4月に向けて、サイドバーの整理と
あと、HPも更新しなきゃなあって思ってます。

ジュースでも買ってくるかなあ。

手紙とコーヒー

コーヒーをすすりながら、手紙を書く。
かっこええ。

さて、トイレを磨き初心に帰る(笑)

ポッドキャストが今異様に面白い。
やはり、やってみる立場だと全然意識が違ってくるもんで。

あー久しぶりにRMラジオ展開するか!うっひょい。

ネタネタ

収集するネタと消化する力が追いつかねえ。
マスカゼさんじゃないけど、しゃべらないと追いつかない(えぇ

朝感でも軽くしゃべってますが、
「東京午前5時、200人のポートレート」
朝を感じるってテーマがぴったりだなあと。
でもそれ以上に5時という時間の交錯具合がいいですね。
ああ、みてみたいですねえ。


高円寺カフェ
芝居やれるカフェ。行ったことないけど気になる。
もう閉店なので行けないですが、誰かやらないかな。

名古屋学生映画祭
面白そうね。当然行く。熱さをみせてくれ!


「名称未設定の手紙」
というなんかそそられるものを展開しているlight noteという
これはユニットかな。
「blank」ってところがそうですね。
手紙自体は紙なので、さあ探すしかないですねえ。
どこで配布されているかはちょっと分からないですが、
たまに見かけるということしか掴んでません。
内容は、手紙と写真で構成されてます。手紙というか詩でしょうね。

Lift up your heart
オロナミンCがスポンサーだったFMラジオ。
こういうラジオはもっとやって欲しかったなあ。去年の9月で終わり。
これ多分朝感で話すかな。竹中絵里さんを知った番組でもあり。感謝感謝。

新進アーティストの発見inあいち
お、面白そう。色々なアーティストに出会えたらいいなあと思っております。

ミスドの接客

最近あるミスドに行く機会が出来たので気になったことを。
多分店員が高校生なので、言葉がすごくぎこちない。別にそれはいいんだ、高校生で
バイトしているだけエライと思うから。鳴れもあるだろうし。
むしろ初々しくて良い。

それはともかく、ポイントカードをお持ちですかといわれ、
持っていませんといったら、有無を言わさずそのまま作ってしまった?
名前とかとくにいらない、「ポイントカード」だからいいのだろうけど、
結局「ポイントカード」いらないのに、「持ってますか?」といって、
「いりません」といって「作る」のは、
今後、2回、3回と来る場合(来る可能性があるんですが)は、
非常にわずらわしいような。

ポイントカードってポイント貯まるから即ちよしでもなく、
というかポイント要らないような。
まあどうでもいいことか。

接客はワンチャンスだと思うので楽しいですねえ。

やってみる

多分、飽きたから辞めるというのは分かりやすいのだけど、
飽きたからなんでも辞めるというのはちょっと違う話かもしれない。

これでいいやというのも大事だが、かといって「全て」これでいいやというのでは、
そこからは何も生まれないし、生まれたら、
「幸せになれ」と「ただ言ってるだけ」で幸せになれる宗教みたい。
そんな宗教があって実際に幸せになれているのなら、
世の中で詐欺とか、うまい話というのは全てうまくいくんですが、
現実というフィルターにろ過された瞬間、うまい話は消えてなくなると。
これが現実ですねえ。

やってみるのではなく、やってみ続けること。
多分これが、正確かな。

have a nice day! サイドA

観ました。

大安吉日が印象的。
その山を崩せもいいなあ。

最初のBirthdayGirlもいい。
17歳の風景って映画はそれにしても非常に懐かしい。
それに出演してた役者が出てたようで。

多分このショートフィルムはDVDになるんでしょうね。
見逃した方はそう願うしかないでしょう(笑)

http://tan-pen.jp/special/have/index.html

やっぱ映画いいわけですね。

再度攻める

しつこく食い下がる。
決してあきらめない。
最近では、確かスラムダンクだったと思うが、
諦めたらゲームは終了。という言葉が印象的。

確かに諦めなければ終わりはない。
それを継続と世では言うかもしれないが、
継続=諦めないこと、というように理解するには、
意外に時間がかかる。

少なくとも、「継続とは諦めないことです」という言葉を見る、聞くだけでは
全く分からない。

チャリダーにならなくても、きっと何かしないと身にしみこんだ理解、
またはわかったという感覚にはならないだろうと思われた。

一度ダメでも次があるさ。
全く、しつこい人間だ。

しつこくできる人間と、かなりあっさりできる人間がいる。
できる、とは、相手であり他人であり、対象がそうだということだ。

しつこい人間です。

停滞と衝動

慣性の法則は、確か、物体は動き続けると止まり続けるという話で、
物理とか理科とかで習ったはずだけど、
摩擦とか抵抗の力がない限り。

新幹線に乗った乗客は新幹線とともに走り続けることになるが、
電車を待つ乗客はそのまま立ち続ける。

それはどうでもいいが、
動いている人間にはやはり動き続けるモチベーションみたいなのがあって、
モチベーションがあろうがなかろうが、動き続けているなあと。
逆に止まり続ける人は止まるのだなあと。

変化とは、止まった状態から動くということで、
また動いている状態から止まるということでもあると思われる。

停滞は必ずしも悪くないが、進みたいのにとまっているときは
どうだろう。その時は止まり続けているので、決してよくないと
思った場合、どうやれば動けるか。

一つの突破口が衝動というものだ。
だから、衝動で生きるというのも面白いわけだが、
常に衝動というのもまた考えものだ。

最近思うのは、こういうときにはこうした方がいいなあという
一種のマニュアルが自分だけのマニュアルなので、マニュアルではないけど、
そういうのがあると、というかそれが経験とか知恵とかいうのだろうけど、
面白くなると感じる。

追え

駆け引きとしては、最初から突っ走るよりも、
誰かの後を追った方がいい。ただずっと追い続けるのはしんどい。
途中で抜くのだ。追うとは抜くために、追いつくためにある。

ただ追うためだけに追うのは目的内目的、目的の目的の目的で、
まるでアキレスと亀みたいで非常にまずい。

せめて何で追ってるのかは明確に。

天邪鬼たれ

天邪鬼でい続けろ。そう電波をキャッチした(笑)
電波だわっしょい。

さて、それはともかく、天邪鬼であれというのは、
一つの理屈がある。

例えば、誰かが肯定をした場合、
それに対する否定をしようというのが天邪鬼であるが、
それは理由があるのではないか。
肯定をしようとする人に対してではなく、
肯定する言葉はその人がもう消化吸収してしまったのかと思わせてしまう。

何々っていいよね、というと、
本当にそうかと思ってしまうわけだ。

いいと言った瞬間にすくえないものと、すくえるものがあるわけで、
もちろんすくえるものが多いから「いい」というわけだろうと思うが。

逆発想という視点が大事、いや、発想とは常に逆であると、
師匠はいった(誰だ?

朝から動く

多分、朝早起きして何かをするということを意識して、
直ちにそれを行おうとして、明日から実行してそれが持続することはない。

何かやることや目的がなければ、早起きできない。

今日の早起きが成功した(早起きに成功もくそもないが)のは、
目的が明確なこと、早く寝たことが挙げられる。

なんでも目的がなければダメなわけではないが、
結局続くという結果の連続は、それらを簡潔に物語っているといっていい。
続けばやりたいのだし、続かなければやりたくないのだといっていい。

○楽しみながら加速
時差があったが(というか実現してないことを未来形でなになにをするというのは
必ず時差があるのだけど)感覚として、楽しむとか面白いとかを
肌で感じていかなければ、苦行でしかない。苦行も一興だけど。

楽しむにはいくらかの我慢が必要かもしれないし、
我慢と楽しみは同時ではないかもしれないが、
でも結果は一緒だ。楽しんでいるか、苦しんでいるか。
それはやはり一緒だから、どちらでもなんでもいいような気がする。

違和感

違和感を大切にというモットーがあるので、
そのモットーによって、自分をも駆逐してしまうことがある。
ルールを遵守するという意味において全く正しいが、
自分の存在の違和感とかを言い出したらやべえ。

ここにいてもしょうがないとか、いても恐縮するだけであるとか、
そういうのではなく、能動的かつアグレッシブかつ、肯定的かつ、
受け入れて、ぐっと体に力を入れて、力を抜いてふっと出す意見というのが、それになる。

何も見えなかったら去るのか、何か見えたから去るのか。
どちらにしろ、判断ができたから去るのだといえる。
また判断を誤るということも含めて判断しているということになる。

生じた違和感を解消するには、いくつかの方法があるが、
大抵いつも徹底的に考える、という技で乗り切っている。
ちなみに考えても分からないものは保留するということもできるので、なんでもござれ。
ただ感覚である違和感は、おそらく芽生えてしまったら、摘み取っても摘み取っても
何度も生えてくるだろう。
摘み取る必要性は全くないが、摘み取ろうとする行為は無駄だという確認だ。

違和感を大事に。

こんなことしている場合か?

妙な焦りではないが、そして現状からの逃避でもない。
ただ「こんなことしている場合だっけ」という率直な疑問。
ask whyを投げかけてみている。

満足とか幸せというのは一見良い言葉だろうが、
どうも厄介だ。そこで満足したら終わりというのは、
別にスポーツ選手だけの言葉ではない。
自分が「これ」でいいやと思ったら「これ」で終わるか、
それ以上にはならないということがいえる。

現状に満足していないか?
夢とか目標ではなく、今やりたいことはなんだ?
やりたいことをやっているか?
他人にどうでもいいことをいってないか?
無価値を振りまいていないか?
視野は狭くなっていないか?

咆哮をあげよ。叫べ。いけ!

データ型

変数を箱と説明するプログラミング入門書が広く普及している?が、
厳密にいうとメモリ上の領域らしい。まあどっちでもいいような気がする。仕事によるけど。

データ型というのは変数の形、だから箱の形を指す。
クッキーのあの型と一緒ですね。ハート型ならハート型のクッキーが出来ると。

それは実際には、intやcharとか、その変数が扱える領域を指していて、
数字しか入れちゃだめなものに、文字列(文字のこと)をいれると、
数値しかだめだよとなるわけです。

さてこれは何がいえるというと、
例えば、同じプログラマ、同じSEというか、役割でくくられたり話されるそれらの人は
やはり色々なタイプ、これが型なんですが、がいるというわけです。

つまり、数値型の人に文字列型を入れてもアウトなんです。はじかれます。
ちなみに、プログラム上でいうと、そういったものは正しくプログラムとして認識されないです。
それはおいておいて、だから数値型の人に文字列を入れたいなら、あるべき方法でやるわけです。
実際には、変換関数という命令がありまして、parseIntとかCIntとかevalもそうだったかな、
そういうのを使えばばっちりです。

同じように、数値型の人には、「文字列を数値にしたような考え、話し方」で、話すべきでしょう。
これは突き詰めると、相手を配慮する、オモンパカル!なんてことになりそうです。

そうですね。
プログラマは、自分の思考も大事ですが、プログラミング側、つまりプログラムを実行する
コンピュータ側からも考えることが必要だと。
それはコンピュータでさえそうなのですから、人間ならなおさらと。

逆に、コンピュータにこの考えを適用しづらい、つまり「人間側」から見ていては、
あまりコンピュータが好きになれないかもしれないです。
好きといっても、理解できない動きは頻繁にあるわけで、それらにどう対応するかは、
またケースバイケースなわけです。

このデータ型を意識した途端、また世界は広がりますね。
ええ、面白いものですね。

朝の感じ

朝の感じがするという感覚、体験、感性、匂いというものが確実にある。
それって「さわやか」だとか「おはようございます」だとか、
ネボケマナコなのに熱い飯、味噌汁があるとか、頭の眠さと飯の存在にギャップを感じるとか、
顔を洗って目が覚めるとか、太陽を浴びるとか、天気予報とか、
そういうのかもしれない。

一日の始まりという朝は、やはり非常にスリリングだ。
今日も変わらぬ日々がループのように始まるのです、と冷めた見方も一興だろう。
ただ、毎日また今日はこうかなと思ったら、愚直にそれをやる。
この表現は漫画「茄子」で茄子育てている先生の生活がぴったりかな。
落ちぶれた生活?と見るのもいいけど、僕にはそうは見えないだけで。

一日の始まりに大きな希望を寄せるのでもなく、かといって絶望でもない。
ただ日々は違っている。やはり今日も一日は違うのだ。
どんなに同じようであっても、昨日と今日と明日を同じ時の流れと見ることは、
人間の脳内が作り出している感覚に過ぎない。

ならばそのらしさを最大に面白がっていけばいい。

そんな朝を遊ぶラジオ「朝感」やってます。

コミットとロールバック

データベースの仕組みで存在する機能というか、
これがあるからデータベースというか、まあそんなもの。

コミットとは、コミットメントをするとか、そういうコミットで、Commit。
commitと書くと、トランザクションを確定させる。
イメージとしては、テーブルの変更レコードを確定させるとか、
UPDATE文を完了させるとか、そういうもの。
もっと別のところにあてはまめると、少しずつつめていった話が、
確定するときとか、企画が検討段階から実施段階に移るとかそういうのかも。

ロールバックはコミットの逆で、前の状態に戻す、つまり、キャンセルという行為になる。

そもそもなんでこんなコミットとかロールバックとかあるかというと、
そもそもトランザクションがなんであるかということになる。

答えはいくつかありそうだが、すぐに思い浮かぶのは、
複数の人間が同時に同じデータベースを触っている場合の対応として、というのがある。
AさんとBさんが、同じデータベースをみていて変更したとする。
データベースでは分かりづらいので、例えば総務とかの社員で、
社員の住所が変わったから、個人情報データベースとかいうのを見ていて、
変更したとする。
総務にはAさんとBさんがいて、という設定とする。

その場合、Aさんが変更しているのにBさんが変更すると、
どの変更を優先させればいいか分からない。
二人ならまだ起きにくそうだが、10人100人となってくると、
同じデータを扱う人が多くなってくる。

そこで、セッションという概念も出てきて、
要はあなた専用の椅子と机を用意するからここで仕事してね、という話になるそうだ。
ただその椅子と机は仕事が終わったら直ちに返さなきゃならない。
この椅子と机のことをセッションといっても多分怒られないだろう。

そのセッション単位で、一つの変更命令、つまり社員の誰かの住所を変更を
しようということにする場合、1トランザクションが開始される。
変更して確定するならコミットをし、間違えた戻すわならロールバックをする。
そしてトランザクションが終了して、処理としては終わる。

これらをデータベースを扱えるDBMS?といったようなものは、
自動的にコミットをかけたりとか、結構色々便利なことにしてくれる。


話がそれた。
それはいいとして、
これらのコミットとロールバックは、ある概念を切り分けるという見方に役立つ。
例えば、企画Aを実行するとは、トランザクションの開始で、
そいつを確度の高いところまで持っていくのがコミットで、白紙に戻さなくても、
一旦寝かせるか、という行為をロールバックとして捉えることもできなくない。

また別の例を挙げれば、今の状況を客観視するのにも役立つ。
現在の仕事はうまくいってないというトランザクションがあって、
それにコミットするのか、ロールバックするのかみたいな見方もできる。
コミットした上で、現状を改善するのも一興。
ロールバックして、別の状況をまた踏まえていくのも一興。
どういう捉え方も出来るような。

ある事象を、基本ラインと応用ラインに見るとか、
確定ラインと挑戦ラインでみるとか、そういう見方ができる。

現在の生活をロールバックばっかしていては、やっぱダメなんでしょうな。

映画を見る

現象や事象x作り手の表現手法だけでも、無限に近い映画や映像が出てくる。
どちらかといえば、映画よりも映像を撮りたいかもしれない。
映像と映画の違いは、映画は何か1つのテーマがある気がするが、
映像はテーマがないものも含めて、本当に静止画の連続という動画、を映像といっていいかなと。
だから、包含関係は映像の中に映画があると。
映像の方が広いので色々できる。もちろんやることは変わらないような気もするけど。

絶対誰かやっていそうだけど、人物の登場しない映画とかは、
映画だけど、映像というものになる気がする。

映画でも、ショートフィルムだとか時間枠で切るとまた広がるし、
テーマで切っても、撮り方でも、物語や話でも、また異なっていて広がっていく。

映画も一つの表現だということに気づいたので、撮らねば。

会社員やりながら映画を撮っていたという監督もいるみたいで、
というかそれは映画界だとか、そちらの界に属さねばできぬ良いモデルになるなあと。
ありがたや。先達はあらまほしきことなりでござい。

面白い生き方

キノの旅で、師匠の家を訪れた商人がキノをみてから、
漏らす言葉として「何かやり遂げるだけが人生ではない」といっているのが
印象に残る。
最もだ。

自分が面白いと思ったことをすればいい。
でも、なぜかスンナリいかないように出来ているようですな。

逆を実行する

横山光輝「三国志」に出てくる劉備の戦略は、曹操の逆を行うというものだった。
それは非常に理にかなっていると思われるが、現代でも同じことがある。

絶対に「そういうやつ」にはなりたくない。
ならばそうならなければいい。

大人とくに、先達をみて失望したら、そうならなければいい。
見たものが全てではない。見てない人にはそうではない可能性がある。

反面教師とはされた方はたまらないが、教師なだけマシである。
参考にされないよりもマシである。

言葉と行動は同じ人間が源となっている。
だからその矛盾は本人が一番知っていて、
本人が一番感じていて、また不一致なところも自分が知っている。
ならば、それを見ようとしない、いわゆる対象化、客観視という
作業をさぼっているとすらいえる。

そういう人間は少ないとか、そういう議論・話はもうたくさんで、
別に見なくてもいいし、そうしなきゃだめとも思わない。

でも、うまくいってない人間がうまくいってる人間をけなすとか、
出るくいを叩くというか、そういうのは自身の行動を見れば
一発で相応かどうかは分かるのにそれすらせず、
棚にあげてひたらすら人を責める。

こういうのを悪い意味の「馬鹿」という。
良い意味の「馬鹿」と悪い意味の「馬鹿」の差は、
そうだなあ、月とスッポン以上の差異があるといっていい。

まじで・・。
http://www.super-jp.com/bookpick/webmag/index.html

やべえ。ブックピックオーケストラのWebMagazineのトップのコンセプトが、
「ブックピックオーケストラ発、「本と実験」のウェブマガジン。」
だ・・・。

今創ってるサイトが、本の実験・・・。ドンピシャで重なった。
前からブックピックオーケストラは知ってたのに、
ああ・・・灯台下暗しって言葉はまさにダイレクボレーなみに
ビンゴな言葉だ。

もうやってる人がいるから諦めるかーなんて
思うことはなく、ブックピックオーケストラに対抗(違)
できるようなものを創らねばならん。

てか、コンセプトも明確ですがすがしい。

というか、こっちも少し出来てきたらリンクして
メールしよう。そうだ、そうしよう。
熱すぎる。


別れ

あまりリアルタイムなことは書いてないつもりだが
今回は別だ。

今までお疲れ様でした。
そして今後も良い人生を。

僕には分からない、かんじていないような、
色々なことがあったかと思います。

人はなぜ再スタートをきったりするのでしょうか?
それはやはり再びやってみたいから・・・という想いだけでしょうか。
単純に現状に対する不満というのもあったのでしょう。

色々なものがミックスされて・・・。

良い意味で、僕はふんばっていこうと思いました。
なあに、死ぬわけではありませんから、やれることを
精一杯やっていくつもりです。

そしてまた別の場所で出会えることを。

なんでこんなことしたんだろ?

たまにそう思うことをやっているときがあるときがあったりしたかもしれない。

なんで天下統一をしたいのですか。
なんでフリーペーパーなんて作りたいんですか。
なんで映画とか撮りたいんですか。
なんで演劇を見るんですか。演らないんですか。
なんで映画を見るんですか。
なんで本を読むんですか。

ですか・・・ではなく、なんでやってるんだろうと。

雨で非常に寒い。

コブクロのDOORが良すぎるので、どうしたらいいんでしょうか。
とりあえず、攻めてから後悔するのは間違いなしで。

ask why?

エンロンエンロン。

それはいいとして、負荷をかける場合、
その見返りやリターンが見えているのと見えていないのとでは
全くその効率や感覚が異なる。
当たり前なのだが、問題は、リスクヘッジ的な考え?を取り入れて、
事象が起こる前に考えられるかだ。

例えば、負荷がかかっていて、「あーなんでかなあ」では
遅すぎる。それでは、50m走を走り終わってからなんで遅いんだろうと?
いっているようなものだ。走らないときにいろいろやれることはあると。

負荷をかけるまえに負荷をかけるのはこうだと明確にしておけば、
きっと負荷が多くなろうと乗り越えられるだろう。
もちろん何事も限界があるけれど。

なぜ?と問うことは、恐ろしさを感じる人がきっといるだろう。
なぜとは子どもっぽい、子どもらしさが常にあるからだ。
ああ、うん、そうだよね、というふうに知っているのが大人だと。
でも、それは残念ながら、幻想の大人であって、
好奇心とか探究心というのは、なぜ?と思わなければ出てこない。

なんで歩道橋なんてあるの?
なんでポッドキャストがあるの?
なんでブログなんか書く人多いの?
なんでコーヒーを飲む大人が多いの?
なんでなんでなんで?

さあ、askwhyという旗を掲げよう(どっかからぱくっちゃったよ!)

体を鍛える

筋肉を鍛えるとかそういうことではなくて、
脳トレとかそういうのではない意味での脳トレ(笑)を
していない気がしてきた。

もちろん頭を使ってないわけじゃない。と、なんとなく弁明。

何かを課すというか、プレッシャーというか、
スリルというか。
死なないなら何してもいいというのはダメなんだけど、
なんかね。

生活の充足感とかそういうのはまずい、これはやばい。
そういう意味で妙に慣れてきている。
これはいかん。敵を作らねばいけない(違

こういう時は、何か新しいことをしなくてはならない。
ということが多いが、どうなんだ。

自分の力のなさを把握し、同時に自分の力を信じる。
そしてask whyを連発し、エンロン可能性は誰にでも起こるとにらむ。

最近企業の歯車とか、愚痴を聞かないけど、
相当環境良くなったなあ。まあ、愚痴を言ったら
言うだけの力がなければダメだから、いえないんだろうなあ。
まあそれはしゃーないっすね。というか言わせない。
ストレスは愚痴らなくても発散できるし、解消できる。
愚痴も愚痴と思わせない消化もできるわけで。

1月のスタートダッシュのおかげで(これ三度目くらいいってないか)、
何度も自問自答できる余裕あり。くはは!

で、
自己満足してないか?
自己満足してないか?
自己満足してないか?
自己満足してないか?
自己満足してないか?

と問う。
いや、してないない。かかってこい!

うっし。

自問自答

本も映画も音楽もおそらく一人の人間が全部を見る聴くことはできない。
だから、どんなつまらぬ本も映画も音楽も、
その1つには意味がある。と考えた方が多分面白い。

人生は好奇心を失ったらおしまいだというなら、
多分、意味がないと思ったら好奇心を失うような気がする。

別に何か見つかったわけではないが、
30年、40年と続けてきたものがある人には、
頭が下がる。もちろん犯罪だったらダメだけど。

モデルとして、多くの先達を見ている。凝視する形だ。
今、注目しているのは同年代ではなく、30代の人々だ。
30代は、仕事を覚えてその後の再スタートをうまくやったり、
仕事を覚えてそれをうまくやっていて、会社員だと部下がいたりして、
自営業みたいなことをやってるとだんだん経営とか分かってきたり、
人脈とかもついてくる時期なのかとにらむ。

同時に60代の人々も注目だ。
好々爺があらまほしきことかもしれない。

ただどの年齢の人を見ても、一貫していえるのは、
好奇心とか動きのよさとか、そういうのは調子の如何もあるだろうが、
好奇心がない人はつまらぬし、動きがほとんどない人もつまらない。
それは若くても年をとっていても同様だと断言しておく。

そして面白いのは、昔友人がつぶやいていた(わけではないだろうが)
「経験って単に年を取ることじゃない」ということを思い出す。
そう、確かに経験=年を取ることだと勘違いしている人がいる。
経験がないから出来ないとは、実際に年を取ればできるわけではない。
年をとれば経験になるわけでもない。

年を取れば取るほどその人が表れてくる気がする。
仏に近づくという縁起でもない言い方をすれば、そうかもしれない。

そして自問自答。
自分の行動を振り返るとか、そういうこと。
基礎体力みたいなことなのかしら。

実直にそれらをやっている人がいる。
そういう感触が出てきた気がする。本当に感覚的だけど。
そうなるとどうなると思う?
当然、もっともっと面白くしていきたいと思うわけ。

多くのブログが数年、とくに2年くらいで、同世代、とくに20代の
面白かったものが消えていくと、非常に寂しい。
他に面白いものがあったか、ブログに飽きたか、書くことは続かなかったか、
色々な理由はあるだろう。

情報としてというよりも、生の感触として、そういう書き言葉は
大切にしてきたし、今後もしていくつもりだ。

きっと、ではなく、ほぼ確実に、面白いものは作れる。
漠としているかもしれないが、ただそこにある。
そう、あるのだ。その感覚が大事だ。

良い本と出合えたら、良い人に出会えたら、
良い音楽に出合えたら、良い映画に出合えたら、
僕は純粋に生きてて良かったと思う。
あと、うまい料理もそうだ。ネタもそうだけど。

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