ReadMasterの軌跡

面白いことを仕掛ける。仕事を作る。ビジネスを作る。そんな日々から出てくるアウトプット蓄積場。

2007年01月

トシを経る

とくに役者、いや俳優というべきか。
年月を経てダメになると人もいれば、
経るとよくなる人もいるという感覚が・・・
最近妙に分かってきた。

という意味で、今まで僕を温かく見守ってくれた人とか、
応援してくれた人には、莫大な恩を返す時が来るだろう。
それはお金ではない何かでしかないだろうだろうが。
また返さなくても別の人にきっちり返すことはする。

逆に見守ってくれなかった人はおそらく、何もこちらからは
しないというのだろう。全くその通りだ。

年を経て魅力がなくなっていく人というのも
いるものだと感じる。
今まで何やってきたのって人は絶対に今時点で魅力がない。
あーめん。

1ヶ月を振り返る

さあ、今年ももう1ヶ月経ちました。

まだはもうなり、もうはまだなりとかいってる余裕はないですが、
普段なら、1年の始まりだから「のんびりいくべー」と
余裕こいてたのが、そんなことはないですねえ。

たまたま去年のこの時期も似たような状況だったんですが、
この1ヶ月でこれまたイロイロありましたね。
感覚的に3ヶ月くらい経ったというくらいですね。

やっぱ刺激が多いとそれだけ消化に時間がかかるので、
時間を意識する必要がないというか、ああ、時間というのは、
過去の時間の方をですね。

「攻める」をキーワードに掲げた今年。
いい感じでスタートダッシュは成功。

「あー疲れた休むかあ」というのは、普通にあるので
これまたいい感じではないかと。


お前ならできる。
お前ならできる。
お前ならできる。
お前ならできる。
お前ならできる。

よし。自己洗脳完了。

真正面から批判

1分で。

そういう若者が少ないというのは
勝手なんだけど、相手を批判することで、
結局どうなっていくかが分からなければ、
感じられなければしないような。

って意味で、2時間くらい黙っている例えば僕みたいな人間がいても、
僕は別に普通だと思うわけで。

うるせーほっとけって感じだ。

渾身の一撃

家庭の家訓では、
「右頬を打たれたら、左頬を出せ。
左頬を打たれたら、相手の両頬を打て」
というものがある(大嘘

たまに「人を舐めている」に会うと、
「反撃を恐れない」というか「考慮してない」から、
えっとそれはマズイような気がしてしまうときがある。
って、それを自分にそのまま当てはめてみるのも一興。

最近笑えるのは、
「同じ話」を提供しても、
その消化と吸収、展開のされ方が全く異なること。
当たり前なんだけど、それって結局、「同じ材料」や「同じもの」といった、
全てのことにいえそうだ。
だから、偏見というのも「これ」と一緒な気がする。
偏見や思い込みがない人はいないと思うけど、
自分を安くする必要はないわけで。
安く売り込むのはありだけど、売り込む瞬間が安いのであって、
後から高くすればいい。

渾身の一撃を込めて、放つには
ぐっと耐える(これは攻撃に耐えるとか、現状に耐えるのではなく、
パワーを溜めるという意味か)必要がある。
それが例えば、会社で3年とか、そういうことなのだといってしまおう。
多分、溜めたけど、それはどこに向けていいのか分からないとか、
溜められなかったら、きっとまたその人は別のことを考えるに違いない。

そういえば

3000記事突破してましたね。
現在3500くらいみたいです。

最近全くブログを始めて何ヶ月って言ってませんけど、
僕が死なない限り続くでしょうね(かっこええ、orあほ

所詮ブログ、されどブログ、そしてブログ。

ブログに嵐のたとえもあるさ
ブログだけが人生さ

ってやですねえ・・ニヤニヤ。

最近のヘビロテ

聴く音楽が変わってきた。妙にGLAYが良いように思えてきた。前もいいとは思ってたけど。
よりいっそう、という感じに。

FMでやってるラジアンリミテッドのReStyle?というイベントでは、
GLAYは必ず出演するそうな。
どんなにでかくなっても崩れない関係、崩さない関係、つながりたい関係というのはあって、
そういうのを聴くよりGLAYが好きになる。

Visual系って言葉が生きてるかどうか分からないが、Visualに訴えるのは、
Visualを接点とするか、それ自体を良いと思うかくらいで、
最初から、Visualと歌、Visualと音楽を一緒に受け取るというのは難しい気がする。

人は、何か新しいものに触れたとき、複数あると1個ずつしか処理しないかしら。
帰らぬ犬となった愛犬が、菓子を一列に並べると、必ず右か左から一個ずつ食べていったように。
(これは動物保護団体から訴えられるかもしれない)


部分の合計が全体になるのは、数学だけだというのは迷言かもしれないけど、
確実に人は数学通りにならないような。数値上はなるけど。
例えば、5人集まれば5人分の力が出るのは、人月計算の見積もりで味わうショックみたいです。にやにや。

あと、コブクロかな。
コブクロ最高。

背中のぞくぞく感


自転車で旅をした、というときに書いたのだけど、
向こうからすれ違うときに「手を上げる」ということをすると、
背中がぞくぞくした。
あの感覚が忘れられないというか、あれが全てだったのだと思ってる。

同じような「チャリダー」をみて、車でいきゃいいんじゃね?とか、
そういう突っ込みは当たり前のようにする人もいるんだけど、足で稼いだその距離は
かけがえのない、道になる。まさにプレイスレス。

武者震いとはわけが違うのだけど、そういう震えがあって、
単純にそれは言葉では説明できない「それ」なのであって、
めちゃくちゃテンションが高くなった。

とくに北海道ではそうだった。多くのチャリダーがいたが、
気持ちの良い人ばかりだった。バイクで北海道一周してた渋いおじさんは、
えらく自転車で動くことをほめてたのが印象深い。

なんでテンションが急激に高くなるのか分からないが、
純粋に面白かったのだと思っている。だから、そうなったと。

面白いことに、今でも背中のぞくぞくするときがある。
それは頭の中で「ヒット!」といってるとき(実際には言葉にもでない、
映像か言葉かが脳内で駆け巡る感じ)によくある。
と、同時に言葉的には「やっぱ、これだよな」と思うのはチャリダーとも一緒だ。

これやってみたら面白いのではないかなと、思ってた同じことを別の人がたまたまいうときとか、
自分の考えに共感してくれたりしたときとか、
何かパズルのようにあるものとあるものがぴったり重なったようにみえたときとか、
ぞくぞくしてくる気がする。


嫌なこともありゃ、こういうゾクゾクがあるから、
やっぱ面白いわけですな。

現場に還元する

還元というのが分かりづらいらしい。
化学で習うはずの、2C2 + O2 = 2CO2 みたいなやつがまずある。
合成だったっかな。
この逆を還元という、はず。
だから、この場合は炭素と酸素で二酸化炭素を作るということを合成といって、
では、二酸化炭素から炭素か酸素を取り出すことを還元という・・・はず。

これを自分の脳内のある解釈で説明すると、
インプットしたものは、自分で消化するわけだからそこからアウトプットになる。
インプット + 自分の考え = アウトプット
プラスがいやなら
インプット x 自分の考え = アウトプット
になるかな。

これが化学式でいう、というか上でいった「合成」なら、
「還元」もできる。
ちなみに、いつも分からなくなるが、あるルールにのっとり、じゃあこれも同じこといえるよねーって
いうのを帰納だったかな。演繹はその逆で、これは「数学」で習う話なんだけど、全然身についてねえ。
概念だけ面白いんだよなあ。

で、還元をすると、
アウトプットに何を混ぜればインプットしたものが出てくるか?だ。
一番分かりやすいのは、自分の考えでまた同じように分解するということがいえるが、
例えば人の話を聞いたりしてその視点で見るとできるかもしれない。

ま、その何を混ぜるかはともかく、
還元してどうなるか、という話だ。

それは社会を面白くするという意味でしかない。
もっといえば、自分だけが知っていて、人が知らないことで満足する人は
多分続かない。共有というイメージに近いが、何から何でも共有するわけではない。
やはり、ある程度消化しないとうまく伝えられないものなので。

社会に還元していくことで、
最初の個人の小さなインプットは小さなアウトプットにしかならないが、
フィードバックというものを通して、そのアウトプットはちょっと大きなインプットとなる。
そのインプットはまたちょっと大きなアウトプットとなり、
またフィードバックを通じて。

まるで練習をしていくと、うまくなっていく・・・話みたいだが、その通り。

そういうことをしないと多分社会は面白くならない。
例えば「支え合う」社会とかいってる僕が、それを実践してない場合、というかやらない場合は、
全く説得力がないだろう。
そういう意味では行動が大事だというところに戻るのだけど。

現場に還元するとは、各々のやれる範囲でやっていくということだ。
いわゆる環境に対して何か良いことを・・・というのを考えるときに似ている。
一気に大きなことはできないので、当たり前のようだが、ゴミをゴミの日に捨てるとか、
というかゴミを捨てるとか、分別をちゃんとするとか、
道端にゴミを捨てないとか、そういうこととか。
あと、今はエコバッグが徐々に浸透しはじめた感があるけど、そういうのを使うとか。

感度を上げる

選択しないという選択肢を選ぶには、選択肢というものが2つ以上なければ、そうすることができない。
それと同じように、感度を上げるには、そもそも感度とはどういうものかを捉え、いくつかのアンテナを意識し、
そいつを複数立てる必要がある。

人だと分かりやすいが、あの人に聞けば大体分かるとか、情報が集まってくるとか。
逆発想でいくと、あの人に聞いても分からない、あの人はどうも駄目だというところかでもいい。

基本的に、
1.発見・知覚・認知
2.収集・分析・整理
3.消化・確認
のような気がする。カンだ。

アンテナは、まず高いところ、見晴らしのよいところ、さえぎるものがないところ、に立てるのがいい。
という意味で、あまり人が知らないことや、風通しの良いところ?などがいいかもしれない。

立てたら、じっと待つ。わけではないが、発見したらすばやく消化できるように取り込み体勢を整えておくこと。
そうしないとおそらく、アンテナの動きは鈍いし、意味がない。

1つ立ててコツがつかめたら、2本目を立てる。

さて、このアンテナとは一体何か。
それは情報が集まってきてそれを自分が加工してうまく取り込んでいき「易い」ものを指す。
例えば、RSSリーダーはその1つだし、ソーシャルブックーマークもそうだ。
これだけだと、Web2.0な話になりそうなので、そうでもなく、
自分が購読している雑誌とか、新聞。それから本もそうだし、ある程度カテゴリにまとめてしまうといい。

人をアンテナにするというより、フィルタリングをかけるといったほうが分かりやすいか。
メールにウィルスがこないように、フィルターをかけるということをする(例えばメールアドレスでブラックリストに載せるとか)がそれと同じように、ある人の知見した情報を自分に「詳しく教えて欲しい」といった場合に、
得意分野だとか精通しているものについては「惜しみなく」教えてくれる場合が多い。
なぜならそれらは、朝飯前の話であって、細かい情報はゴマンとあるわけで、出し惜しみなぞしない。

そういう人が大勢いればいるほどいい。ただ逆に自分の精通しているものがないと、
単に力を貸して欲しいというだけになって、あまり対等な関係にはならないかもしれない。
もちろんそこらへんは腕次第だ。

本の著者というのもアンテナになる。この人の書くものはこういう傾向があるとか、
思想的なものではなく、その人の考えはやはり著作に現れているので、いくつか追っていけば大体分かるわけだ。

ブログもそうだが、Webサイトも同じことが言える。

そういうものは「うまく」使った方がよく、汚染される必要は全くない。
とくに、考え方なんぞは、その人の自由であって、批判の対象が間違うと、単なる事実確認の会話にしかならないとか。

感度を上げるには、秘訣はなく、地味にやるしかない。
いわば練習であり、いわば常に面白くを意識するということでしかない。

色々な情報が集まって情報達を編集して狙い通りにいくと、面白くてたまらないんですよ。

カンを磨く

面白そうだなーと思ってよい意味で「止まらず」に、足を動かしてみると意外な出会いがある。
今回のC.T.Tというのもそういうもの。

C.T.Tとは、演劇を上演する際に、試しに上演するという場である。
ベンチャー企業のインキュベーター的施設?みたいなイメージが近いが、別に孵化させる狙いがあるわけでもないので、
そこは多分違う。

ただ、実際にここで上演をして、現場はやはり「本番」でやることであって、
そこに活かすのが狙い。

実際に上演するには、告知はともかくとしても、舞台を作るスタッフや受付スタッフなど一回の上演で、
「規模が小さい」50人以下の劇でも、確実に人手が必要だ。
だから、一人や数人でやるには厳しいし、また役者だと自分で劇を作って試すという場も少ないかもしれない。
逆に、作家や演出家などが、演じるのも同様か。

そこで、C.T.Tが一つのステップつくりとなり、若い役者や若い劇団も当然のことながら、
広く演劇を支援していくということになる、はず。

95年に結成されたこのC.T.Tはすでに50回以上(確か65回)は会を開いており、
もちろん会を開く=上演をするということで、10年近くやってきたわけだ。
京都でそういったものがあることは、全く知らなかったので、それを知れて嬉しいこと。
そして、そういう試みをしている人がいて「なんかいいなー」と直観で感じたことが、収穫だ。

ああでもない、こうでもないといった試行錯誤が、形となって、変化を与え、
よりパフォーマンス、劇を良くしていく。
その場の評価が全てではない(たまたまいた観客には通じなかったとか)けれど、
一つの感触は得られるし、また出演者(出演劇団)に参加費の一部が還元されるという仕組みは面白い。

得られたものは、うまくアウトプットできればいいかと思う。
さあ、やっぞ。

燃えるぜバーニング。

紹介について

人を紹介するということについて、どこかのブログか、雑誌の記事か何かに書かれていたことがあって、
それは以前書いたような気もしないでもないけど、最近感じたので。

自分にとっての紹介ということだけど、意外に紹介というのは難しい。

もちろん、単に初対面同士の人を紹介だけというのは名前とかやってることをいうだけだが、
まだ会ったことのない人に対して、「こういう人」だよといって、興味を持ってもらったり、
その人を動かすということが、だ。

それはいいとして、紹介の難しいのは、その人を紹介することで、紹介された人はもちろん、
紹介した人にもどちらからも何らかの評価を受けることだ。
評価というと、随分、お高い印象を受けるがそうではない。

AさんをBさんに紹介するとしよう。その時に、自分がその仲介になるわけだが、
Aさんと自分、自分とBさんという間柄を、AさんとBさんというようになるかどうかはともかく、
そのような図式を作るわけだ。
そうすると、Aさんが変な人だった場合、Bさんからの自分に対する評価は低くなるだろう。
Bさんが変な人だった場合は、Aさんからの自分に対する評価が低くなるだろう。

変な人というのは、合わない人かもしれないし、そうではなく、単に変な人かもしれない。まあ、それはいい。

そうなると、人というのは「簡単に紹介」しないというものであるという、法則が成り立つというか、そうなる。

逆にいうと、人を簡単に紹介してくれることに戸惑うし、こちらが簡単に紹介することにも戸惑う。
消化という意味で多くの人にあったら、やはり各個人の印象は薄れる。
その密度を高めるには、何度も会ったり、話すことが必要だ。それができるのは、やはり理屈ではなく、感情だろう。

紹介ということについて、単にAさんとBさんをあわせるのは誰でも出来る。
ある種、自分の核なり、中心的なものがないと、人に紹介すらできない。

人と会うのは大事というのは、それこそ色々な意味があるが、
自分が興味を持った人に会うのは面白いことだと思う。
が、相手が必ずしもそれを望むわけがない。
がむしゃらに人に会っていけば、何か「成功」するのではないかという幻想、まさに幻想だが、
そういう人がいたりすると思うが、それは何もできるわけがない。

なんで会いに行くのかとか、何を話したいかとか。
それでこういう話ができそうだとか。そういった想定がなければ、全然駄目のような。

ラジオの放送で、その打ち合わせがかなりの時間あるように、
ある種のパフォーマンス、そして見せる行為には、その練習が凝縮されているといっていい。
スポーツが分かりやすいが、そうではないものも同様だ。
役者が動けるのは稽古をしているからだ。バンドで音楽を演奏できるのは練習をしているからだ。

という意味で、まず練習をしていなければ「こっそり練習」でも、「練習」という単語でくくれない、
「練習達」も、本番はできない。できても、無残な結果だ。
という意味で練習のしすぎはありえない。

練習は裏切らないとは、誰かが言ってたが、その通りで、
自分のやってきたことや、考えたことや、してきたこと、試したみたこと、それらを「練習」と呼べるなら、
その練習は自分をやはり裏切っていない。

大分脱線した。
が、紹介というのは、自分を試されると思っている。
それが人の考え、人というもので形になるから、より分かってしまうのだだだ。

開拓者K

Kというのは、バンプオブチキンでも、「こころ」でもない。開拓者Kのことだ。
遠くない日、開拓者Kの功績(失敗もあるから功績なのだ)は、日本全国とはいかないまでも、
多くの人々に知られることだろう。全く頼もしい。素晴らしい。ワンダフルである。

道なきところに道を作ると、次にその道を通って何か乗り物を考えることができる。
乗り物があるとその乗り物をさらに改良しようとする。科学とは、結局定説の組み合わせでしかなく、
それらが違うという証明ができれば即ち覆されることになる。十分な検証がされるのだろうが。

シーズをつくるとか、市場を作るというのもそのような感覚に近い。
道を作ればその道に人が来ることはあり、人が往来すれば店ができ、取引が始まり、街ができるとか。

何か作れば、そこからより何かが出来るということがある。
だから、「創る」ことは楽しいというわけだ。

想像を創造することは、創造でできるかもしれないというわけだ。
また、創造というのは想像が元であるから、想像で創造するということだ。
想いを形にする。単純にいうとそうなる。

開拓者Kよ。ふんばりたまへ。

味噌おでんを食べる人


炭酸、酒ときて、やはり味噌。

おでんをだし汁とからし等で食べることにショックを覚えたことがあったが、
ちなみに「おでん」といったら「味噌おでん」しか想像できない。

味噌おでんを食べる人と、そうではない人は、確実にいるだろう。
やはり世界が違うのだ。たかがおでん、たかが味噌、たかが一品。

味噌世界圏というのが存在するならば、そのエリアでは確実に味噌おでんが食べられ、
味噌が消費されているだろう。

味噌は世界を救う。O-Miso hepls the world people to be good.

酒が飲める人飲めない人

お酒が飲めるか飲めないか。
drinkはそもそもそれ自体で「アルコール飲料を飲む」ということを意味するが、
飲むとは、「(お酒を)飲む」という意味があるくらい、酒はよく飲まれている。
アルコールが摂取できない体質だったり、それに弱い体質の場合は、最悪な結果をもたらす。

ノミュニケーションは、飲める前提での話で、
喫煙しない人がどうやってどこで休憩しようかというのと感覚がかぶる。
飲めないやつはどうすりゃいいのって、ね。

バス停の前に吸殻が散乱しているのをみると、
そりゃマナーが悪い人間が悪いのだけど、社会はやはり全体で成り立っていて、
マナー悪き人がいくら少数でも喫煙者全体というカテゴリになる。

まるで、学校の連帯責任だとか、前例を作るとそれを認めざるを得ないとか、
ある種の想定される弊害を防ぐために禁止するとか。
例えば、髪型を自由にすることができないなら、それは自由にすることで、
不良化するとか、変な方向に走るとかがあるからかなあ。
だから、校則なりで縛ることにする。

この構造は、Winnyの幇助(ほうじょ)の話と全く変わらない気がする。

法律というものがあると。
それは規定でありルールだと。
その解釈の仕方が常に問題になるのだと思うけど、悪意ある解釈とかなんて
もう決めようがないわけで、事実Aと事実Bを結びつけるごく自然な解釈でしかなく。

どんな小さなことでも、ルールを決めるとは、ある種の可能性を規制、もしくは抑制、
抑圧、圧迫するというのが正しいかも。

仕組み作りにおいて、どうやっていけばうまくできるかというか、
仕組みたり得るのか、ということだけど、継続可能性ということに主眼をおくと、
徐々に固めていくのがいいかなあと。税金の増税みたいなものですかねえ。

前知事(特定の誰かではなく、今の知事の前の人)が何か訴えられるパターンが結構目に付いてきたけど、
やはりお天道様が見ているか、きっちり悪さしたら返してもらうわけで、
そういう社会は良いような。

ルールといえば、酒飲みのルール。
一点のみ。それは、お互いに強要しないこと。
まあ、同じ馬鹿でも、意見が合わない馬鹿と馬鹿というのは普通にあるわけですな。

炭酸が飲める人飲めない人

炭酸が駄目な人がいることを知ってショックを受けたことがある。
コカコーラに始まり、ジュースといえば炭酸。男なら炭酸。という環境(そんなのあるの?)で
育ったので、しんじられなーい!である。

最も、今まで炭酸が駄目な人は、女性に限る、気がしたが、
男で炭酸が駄目という人はあまり見たことがない。別に男で駄目でもいいんですが。

炭酸が飲めると、色々なジュースもあれば、お酒もあれば、ということで
色々なものが楽しめるような気がする。が、意識してないけど。

炭酸が飲める人の世界と、炭酸が飲めない人の世界は違う。
空間を作るなんてことを仕事にしている人の世界と、
空間を作ることを意識してない人の世界観が違うように。

僕は炭酸が飲める世界に生きている。
一方飲めない人もいる。

ちなみに、炭酸は後でゲップとなって出てくるので、プラマイゼロの思想かも。
んなこといったら、食べ物も一応はそうか。吸収・消化はしてるけどね。

好きになれ

結局好きになれるかどうかではないか。
好きになれないならそれ以上のものは、「空の引き出しから無理に何か出そうとする」のと一緒で、
何も出やしない。

好きになれないなら、やはりそこまでだ。
それはあきらめでも、妥協でもない。現実としてそこにあるだけだ。
だからといって、敵や嫌いな人を作る必要もないわけで。

まずは、好きから入っていこう。
結果は後からついてくる(かっこええ。

活動ではなく活躍

まるで、「教育」ではなく「共育」とか、そういう言い換えっぽいけど、
そうでもなく、活動は、結局誰でもできるので、
動くだけではなく、躍りたいわけだ。ダンスでもいいけど。
躍るには、むやみやたらと「動く」だけでは駄目だ。

ピアノのを奏でるには、単に鍵盤を叩けばいいわけではない、
想いをメロディーに、リズムに、音にのせていくということが必要だ。
それと同様、動くだけではなく、動きに思わずこちらが動きたくなるような弾みやリズムをつけたり、
そういった試みだったりが必要になってくる。

成長が止まる

環境が違えど人は成長するものだ。それは身体的よりも精神的に。
「変わってないね」というのは、本質的なものが変わらない「話し方」とか、そういうものであって、
おそらく色々、考えは変化しているし、何か影響を受けているし、ということはあるかと思われる。

成長が止まるということはないだろうが、変わらない人、変えていかない人は、
おそらくそうやって生きるのだろうと感じる。
僕は、変えようと思っても変えられない部分はいくらでもあるが、それでも、やはり、
変えていくということが多いと思っている。

お互いに刺激しあえる、切磋琢磨できる人は意外に少ない。
でも、少ないということは確実にいるのだ。そういう人を大事にしたい。

分からないという方法

って新書が前出てたけど、懐かしき。

自分を大切にする=人を大切にする、と同じことがいえそうだ。
分からないを大切にする=分かるを大切にする、ということか。

分からないことというのを粗末にせず、なんで分からないのだろうと考えると、
分かることから攻めていくか、分からないことがどこかを分解するか、
とにかく、分からないことに接近しようとする。そこが大事だ。
分からないからいいやというのも大事だけど、でも、それでまた戻ってくればいい。

分からないものは分からない、という名言があると思いたいが
同時に、分からないものはいずれ分かるということもいえる。いずれ・・・は生きている間であることを祈ろう。

誰も頼んでいない

何かやろうとすると、大抵そのようなことになる。
そう。誰も頼んでいないのだ。
だから、自分の認知の限界もあるので、本当に今ないものかどうかは分からない。
ただ、ないと思ったらやるというのが大事で、あればあったでやめればいい。
その生まれたパワーは別のことにきっと活かせる。

社会に対する不満

起業の話では、自分が不満や文句があることをネタにするという話がある。
これは実際にその通りで、起業しなくても、ある種の活動ということに置き換えることはできる。

何度も言っているが、そういう不満があれば、行動した方がいい。
行動せずして、おそらく実現はないというか、絶対にない。

純粋に率直にストレートに。こうしたいからこうしてみた、というのがいい。
後からまた振り返って点検すればいいからだ。こうしたい、のが実現できているのかと。

当たり前だが、「こうした方がいいよ」ということはいえても、
「こうしなさい」とは誰もいえない。これは親子でもそうだし、どのような関係でもいえない。
最もいう人はいるが、それを理解せず実行しているのでは、単なる命令だ。
命令するのは軍隊か、指示は会社か。どちらにしろ、考えるという行為を対象となる人が
しなければ何もないだろう。本当に何もない。

こうしたいって思ったからこうしてみた、っていう人が僕はめちゃくちゃ好きだ。
だから愚痴を言っても、建設的な姿勢ができない限りその人は愚痴の塊でしかない。
建設的な考えは難しくはない。
考えて尽くしてやるのではなく、たまに誰かが言っていることだが
適当に考える、7割くらい考えてあとは運任せ、考えれないならやってみて試すとか、
まあそういう姿勢が大事で。

結局バランスになる。建設的に考えるということは、誰かを無批判なり、何でも受け入れることでもなく、
甘えることでもない。良くしていくという一点の合意が必要だ。

もっともっと色々な人に会って、色々な可能性を試していこう。
明日は暗くても明後日は明るい、おはようだけが人生さ。

誰に話すか?

この問題は、非常に奥が深いが、「誰に話すか」の5文字でしかない。
例えば、いじめられていてそれを誰に話そうかと考える場合もそうだし、
仕事がうまくいかない・失敗ばかりしていてよくならないという場合もそうだし、
分からないことをどう解決するかもそうだし。

これならこの人、あれならあの人、それならその人というような人を多く知っていれば楽勝だが、
実際にそんな簡単な話ではない。大抵は、まずそんな風にうまく人は周りにいるわけではないので。

自分の中で、問題を吟味して、誰に持っていくかを考えることが大事だ。
ちなみに、会社内においてある種の提案を行う場合、会社によるが、大抵は慎重な場合が多い。
それは当たり前だ。本気度もそうだが、責任を持つのは提案者・・ではなく、実施者だからだ。
そういう意味で提案とは、どこまでその実行をした場合にどうなっていくか、どうなりそうか、
また同時に、どうなってほしいかまで考えなければ、「底の浅い」提案としかならない。

また、投げっぱなしでは提案ではなく「言っただけ」であり、ここの辺りが難しい。
相手の興味と、自分の興味のすり合わせから、多くの要素が詰まっている。
何でも乗ってくる人は逆に何にもやらない場合も多いし、どうやって受け入れるか、
どうやって受け取るか、どうやって実行まで持っていくか、その話をしようとするか、
または断るという基準とか、何か軸があるかとか。

そういうものが、話の中で見えてくるわけで、だから、話すのは大事だと。
が、ベクトルを誤ればただの言い合いでしかないのだけど。

確実にいえることは、この人なら大丈夫だという人に話すことが重要で、
そうじゃない人にいくらいっても、解決は進まないだろう。実際にそうだと思うけど。
いわゆる信頼できない人に、自分の深い話はしないように。
逆に、深い話ができるから信頼しているといえる。
自分がこれだけいったからこれくらいは・・・という心理もあるけど。


まだまだ、というか、今だからこそいえるのは、
多くの人がいるから、やはり「可能性」は捨ててはいけない。
人は文字通り、色々いるのだ。決して現状に妥協することなく、
理想にうぬぼれることなく、一歩一歩「適当に」やっていくべし。

「支え合う」を疑う

支え合う社会とか、キレイ事であるといって現実はそうじゃないという人が結構いる。
実際に、納豆を買いに走る人はそうかもしれない。いや、そんなことはないか。
でも、納豆買い占めないでね、普段食べたいので。

と、弱気になってもしゃーないが、
支え合うについてだ。

支えあいとは、一人の人間でではなく、二人以上の人間でできることだ。だから社会とは
3人以上のことを指すというのが乱暴だけど、大前提。という意味で、
対話ができるというのは、社会形成の第一歩ということになるが、多分過言じゃない。

自分が他人を支えるから、他人も自分を支える。それを支え合うというと思うが、
自分が他人を支えることを意識することはできるが、支えられていることは意識しづらい。
つまり、他人が自分を支えようとしていることは分かりづらいのだ。

なぜならそれは、常に「向こう」からやってくるもので、ひたすら受身だからだ。
という意味で支え合う社会ではなく、自分が支える社会という意識でやっていってほうが、
分かりやすい。でも、だからといって支えられていることに対して無自覚では、本末転倒だ。

支え合う社会なんてものはない、というのがまず思い込みで、必ず人は支えあっている。
という意味で、「支え合う社会がない」というのがキレイ事だ。最もこの用法は微妙だが、
あえていえば「支え合う社会なんてない」のは、キタナイ事だ、とでもいっておこう。

支え合うということを疑って、本当かよ?と思ってきたが、どうも本当らしい。
その証拠は、実に簡単で、僕は一人では生きられないということが分かっているし、その通りだからだ。
ということをあらゆる人に求めるつもりは全くない。
ただそうやって考えた方が肩の力を抜いていける気がする。
悪く言えば、「支え合う」に甘えるのだが、
よくいえば、常によりどころがある、である。

何でも悪く捉えることもできるし、よく捉えることもできるわけで、
ならば、良く捉えたほうがいい。
もちろん、詐欺は悪いと思うので、悪く捉えた方がいいけど、
いつまでも過去の悪いことについて言及し続けるのもどうかと。
といってる自分が執着してることもあるので、まあいいかとなると。

多分世の優れた人間はこういうだろう。
「支え合うがキレイ事なら、それをやってみて、どう思うかやったら」と。
全くその通りだ。実際に、偽善というのはレアケースで、極悪人というのもレアケースだ。
レアだからいるっちゃいるけど、多くはそうではないわけだ。
もちろん、支え合うということで何か恥じらいを感じるからヤダという人もいるだろう。
それでも、キレイ事というなら、やらなければならない。
そういう断定はできる。どこまで事実かはやはり自分で確かめる。これは基本らしい。

インプットが尽きるとき

それは尽きるのではなく、体力とかアウトプットとのバランスとかのような気がする。
アウトプットしても消化してくれそうな気配がなければそれらは宙に浮く。
そうすると、磨り減るだけでしかない。そういう会話は非常に疲れる。

インプットとは基本であって、何の基本かといえば、学びの基本でしかない。
それをあえて切ることも意味があるが、挑戦という意味において、
同じネタでの入替というのは、やや面白味にかけるような。

インプットとアウトプットのバランスがこれほどまで重要なものかということとか、
そういうのはやらないとわからないっすね。

全てを肥やしに。全く良い言葉だ。

どこまで引き出せるか

笑いのネタとして、そのバリエーションを指す言葉に「引き出し」という言葉がある。
たんすの引き出しのように、笑いのネタが詰まったたんすみたいな箱があったら、
いくつかの引き出しがあるというイメージだ。

ノリ突っ込みしかできない場合は引き出しが少ないかもしれないが、
それをどの場面にも、例えば「いらっしゃいませ」という言葉にも、
「いらっしゃいましたよーん」というようなもので仮にノレて、突っ込めるなら、
それは引き出しが多いといってもいい気がする。

逆に、それしってる、それもしってるというのは、
引き出しが多いというよりも、使えないが言われて知っているというレベルのもので、
それは引き出しとはあまり言わない。知識という。
ノリ突込みをしっていても、それが使えるかどうかが鍵だ。

感覚と感覚

納得とは、理詰めで納得させるということよりも、
感覚として、「腑に落ちた」とか「ストンと胸に落ちた」とかそういう言葉がぴったりだ。

それを理詰めでやると、おそらく駄目だ。
短期的なことは「思いつき」でやればいいけど、またやらなきゃだめなこともあるけど、
結局それはどこで「着地」したいかでしかない。
実行と同時に、空に浮遊する。浮遊した後に、どこらへんにまた戻るか。
ちなみに浮遊し続けるというのは結構きつい。燃料も、食料もいずれ「着地」しなければ、
補給することができない。

思いついたら、それを着地させるにはどうすればいいかを考える。
それがしっくりこないなら、とりあえずやってみるか、また後でやるか、やらないかは自由だ。

感覚というものを大事に。

旅のプラン

ダチからもらった写真を見てたら、妙に旅に行きたくなった。
世界は広い、ということだが、今狭いと思われるフィールドを広げることはできる。
旅とは、広さの吸収という意味の学びだとするならば、
実生活を営む社会は、やはりそれをアウトプットしなければ、
単なる自己満足に終わる。

ここでいう自己満足とは趣味のことだ。
趣味はもちろん多くの人が持っている。
それを否定するわけじゃない。自己満足という言葉は、アウトプットをする場合に、
何か他人を意識した場合に出てくる言葉ということだ。

という意味でこのブログも同じことがいえる。
きっと何か分かる人は分かるのだと信じている。
それは別に特定の考えというより、考え方だとか、走る方向だとか、そういうことだ。

趣味じゃないなら、やはり他人を意識して何かを考えることをしていく必要がある。
そうしなければただの趣味としかならないからだ。

旅を計画を練るように、どうやったら多くの人に見てもらえるかといったものを
考えていく。そしてそれらは空論ではない。
実際に仮説をたて検証をしていく。
そして行動したなら必ず結果がでてくる。それが形である。
その形とどれくらい予想ができたか、想定できたかを考える。
この繰り返しだ。

こういったことをやりたくない人にとっては、
一番手っ取り早い方法があって、やらない。である。
そして、もっといえば、考えない、である。
そういう人生も一興だと思っている。
もちろん、当たり前だがそんなのはヤだけど。

行動と説得力と言葉

行動を重視してきたが、それは説得力を高めるというか、
説得力があるかないかというためだった。
例えば、「こういうことをしたほうがいい」というアドバイス風な言葉には、
それを実際にしたかどうかが問われると考えている。

実際に僕がモデルとする複数の人間の組み合わせは、
説得力がまずないとモデルなりえない、という法則があるようだ。
残念ながら、口だけの人はそのままそれだけである。
そして、口だけの人をモデルにする気はない。
といって、見捨てるとかそういう偉そうな考えもない。
受け入れるとは、その人のために何かすることではない。
その人の考えを消化するというレベルだ。それがなければ、
全ては同情や思い上がりや傲慢やおせっかいという言葉にしかならない。

そうみえても、受け入れた、ものがあれば違ってくる。

言葉は全てを説明できないし、時には誤解しか与えないこともある。
それでも、行動をし、言葉を発していくしかない。
これはもうそれ以上のことはできないというしかない。

それを出来るのは信念と自信だけだ。
信念とは信じているものをより深く思うということ。
そして自信とは、自分を信じるということ。
つまり、自分をより信じているということだ。
これは、自信過剰とは違う。

会社不適用not equal社会人不適用

イコールとなりやすいのは、
そもそも、働くのは国民の三大義務としての1つであるからで、
さらに、会社員が圧倒的に多いから、
会社員できなきゃ、社会人じゃないよねーみたいなこと。

全くそれはおかしいのだが、
例えば会社員じゃない個人事業主もあるわけで、
あと少ないだろうが、経営者(法人格をもった団体・組織の経営者)もいるわけで、
色々な人がいるわけですわ。

そういう人を知っているから、
会社員として不適用だったら、社会人として不適用なわけではないということですな。
だけど、その知っていることや、感覚や理解までを押し付けることはできないし、
伝えるのはかなり難しいわけで。
そもそも、そんなことが「すらすら」できたら「うつ病」なんて存在しないし、
なったらすぐ治せるような気がしてくる。

集団で何かしなければならないのではなくて、
集団の力というのが大きいというのはある。
だからといって、ベストが常に集団にあるわけではない。
常にメリット、デメリットがあるわけで、集まれば集まるほど馬鹿になったり、
意思決定ができなくなるというのは、大いにあるわけで。

三人集まれば文殊の知恵というのも、時には衆愚になりかねない。

その見極めとかは、どうやってやるのかというのは、
「生きるとかは何か」というレベルの問題になるが、
でも、見極めなければならない。

そういう意味での主観は、批判される主観ではなく、
自信でしかない。

だから、でもないが、集団とか個人とかは、人でしかなく、
皆それぞれ違うのだから、ということを考えると、
すごく良い意味で楽な気がするけど、どうなんだろう。

泣いている

すれ違いざま、一人の女性が泣きながら歩いていた。
泣き顔というのは、涙を流していなくても、その表情で分かる。悲しい顔だ。

一人の人間を救うということが、いかに難しいか。
いや難しいというレベルではないことをどこまで自覚しているか。
自覚している人はどこまで「行動」にうつしているか。
自覚してない人はなぜ自覚できないか。
何が救うことなのか。救うこと自体ありえないのではないか。

ある本は、友情の大切を謳ったらしいが、
友人を自分のためとしか考えないとは、それは人に対する認知がアレかなといえる。
相手が同じことをしたらどうなるかは考えないのだろう。
自分のおろかさに気づいたとき、人はきっと強くなる。

仮説と検証

トライアンドエラー。試行錯誤。やりながら考える。
結局どれも同じことをいわんとしている。仮説と検証も同じ。
検証は考えるだけではなく、仮説を確かめるための行動もここには含まれる。

仕事において、とくに何かその仕事に特化したものだと思われがちだろうが、
そんなことはないと断言する。

本屋の店員は、お客にどのように対応するかからはじまり、本の見せ方から、
それこそ世界に精通する気概が望まれる。最もそういう人は少ないだろうが。
本屋の店員の場合の仮説と検証とは何か。
仮説は、どうやったら本が売れるかであり、検証はそのために本棚の位置を変えるとか、
お客の流れを、いわゆる「動線」を読むだとか、また「色々」だ。

では、ITエンジニアにとってのそれとは何か。
例えば、仮説はいかに顧客の望むシステムを提案することができるか。
であり、検証はそのために「仕様書を2段階で構成する」とか、
「噛み砕いた言葉」を多用するだとか、そういうことになる。

また、駅員にとっての仮説とは、
「今日も一日お客さんに心地よく電車に乗ってもらいたい」であって、
その検証のために「挨拶を必ずする」とか「今日聞かれたことをまとめておく」とか、
そういうことだ。
また運転手にとっては
「確実に人を運ぶのだ」であり、
検証としては、「必ず声出しを行い指差し点検を行う」とかそういうことだ。

花屋にとっては、
「花束で人を幸せにできないか」であり、
検証としては「オリジナルの花束を組み合わせ販売してみる」とかである。

学校の教員にとっては、
「どうやったら生徒が気持ちよく学校に通えるか」であり、
検証としては「毎日校門の外を掃く」ことから始める、である。

写真家にとっては、
「海の面白さを伝えたい」であり、
「海を感じる写真の構成をどのように作るか」とか
「展示の仕方を考えて、今回の写真パネルはでこぼこのものにして、お客さんがその上を歩けるようにする」とか
である。

政治家にとっては、
「いかに支持者の声にこたえるか」であり、
「議員を目指して声を議会に反映させる」とかである。

ベンチャー経営者にとっては、
「いかにこの市場で展開していくか」であり、
「すばやい展開をするにはまず人員が必須だ」とか、である。

仮説と検証は必ずしも分離していないが、
仮説とは結局のところ、疑問であり、問いであり、なぜ?である。
その結果おそらくこうなるだろう、との予測、推測が仮説と呼ばれる。

「なぜ雨の日は客足が鈍くなるのだろう?」
「それは、傘をたたむ手間、傘をひらく手間がかかるからではないか?」
「自分もそのような思いをしたことがある」
「それを解消する方法はないものか?」
「そういえば、傘袋というものがあるが、あれは非常に面倒だ」
「傘袋を開いていれてくれるサービスがあればどうだろう?」
「そういう商品があるらしい」
「導入してみよう」

というようなプロセスは、おそらく「大学」での、
レポートでは必須の行為となる。論文もまた然り。
自分のテーマというのは、つまるところ自分の問いである。
その仮説をたてたものを検証するから、
結局、研究者というのも、学者肌だろうがなんだろうが、
「仮説と検証」は同一のことしか指していない。
それなのに、別のことをさしていると思っている人は結構いそうだ、ということだ。


問いを立てることが大事なのだが、
まず問いを立てられない人の方が意外に多い。
それは「問い」とは「大きな」ものでなければならないと構えているからだ。

日常の問いレベルは多くある。それをどう加工するか。どう消化するかでしかない。
最近、駅で、おじさんやらが座っているのを見るが、格好からするとホームレスのおっちゃんの
可能性が高い。
駅の中は外に比べれば風もなく暖かいから、休憩しているのだろう。
ベンチがあればそこで休むだろうが、ベンチがあるわけではないので、
地べたの隅に座ることになる。
ではなぜそのようなことをするのか。という問いは簡単に立てられる。

ホームレスのおっちゃんに同情しなければならないとか、そういうことではない。
単純に目の前のことを、どう捉えるかでしかない。
もし、ホームレスをゴミのように扱うならば、そういう人間だということである。
それはホームレスだけではない、あらゆることに同じことがいえる。

問いを立てて楽しんでいこう。
それを哲学と呼ぶ。

仕事とは何か

めぐるめぐる。

仕事とはいったい何か。
非常に深い。おそらく、自分にとってのそれしか定義できないし、
その定義できたものも実に怪しい。それくらい不明確な言葉だ。
だから仕事ではなく、具体で表現するのもいいかもしれない。
「パン屋でパンを焼いたり、新しいパンを考えたり、どうやってパンが売れるかを考えています」
というのと、
「パン屋で働いています」
というのでは、全く分かりやすさが違う。

分かりやすければいいというものでもないが、どういうことをしているか
伝えたいなら前者を、微妙なら後者で。

仕事とはやはり、対価が発生するものだ。特にこの場合の対価とは、お金になる。
注目したいのは、多くの人がまず「そういうお金をもらえるところ」から
始めるというところだ。当たり前のことだが注目したいところだ。
だから、仕事=お金をもらうというイメージが常にある。
それは、実は極論でもないが、間を飛ばしているきらいがある。

仕事とはまずこうして欲しいという人がいて、
その人がお金を払うからお金がもらえるのだ。
これを「顧客の金で食っているのだ」という人もいるが、
これは表現がやや端的すぎて逆に伝わりづらいかもしれない。

仕事は食っていくためにするという人はいるが、
食っていくことがすなわち幸せかというと、かなり微妙だ。
ここで世界の貧しい国というのを考えるのはよそう。関係ないわけではないが、
今はスルーしておこう。

食っていくことと幸せは違うから話はどうでもよくなるが、
食っていくことは最低限の条件でしかない。

逆にいえば、それをクリアせねばやはり他ごともできないのではないかと。
マズローさんはえらい指摘をしてくれたもんだと、また思うわけですな。


今僕が仕事に求めるものは、ライブ感であり、リアルタイム感だ。
それはこう動くとこうなるという、動きとその結果が連動していることが
分かるということであり、それは仕事ならば何でもあるとは思っている。
長期のスパンでみると、やはりそれは見づらくなる傾向がある。短期だと逆だ。

逆に見えすぎても面白くない、パターンが読めてしまうからね。
長くても面白くあり続ければそれでいいとは思ったり。

初心に帰る

実践しているものとして、初心に帰ることを意識した場合に、
トイレ掃除をするということがある。
それは、トイレ掃除というか、便器を磨くということに過ぎないが、
初心に帰るという意味で重要だ。

飲食店で、トイレが汚いとおそらく駄目だろう。
おそらく男性よりも女性がそれを気にすると思っているが。

思考がまとまっていたりすると、部屋が「雑然とすること」がないように、
初心に帰っているとトイレがきれいであるといえる。

なんでもそうだが、長年やっていると、立場というものを忘れがちである。
店はお客の立場を忘れ、経営者は従業員の立場を忘れ、
駅員は利用者を忘れ、ということである。逆もまた然り。

忘れてしまうのはしょうがないと思うが、思い出すこと、
すなわち初心に帰ることはできる。ならば、そうすればいい。
そこがポイント。

初心に帰ったら、今の目の前の物事が全て小さく見えたり、
逆た大切に見えることもあるかなと思ったりする。

1つずつ

多くのことをやっているとどれも中途半端になりがち。
ただ、1つ1つ見ていったときに、それをきっちりやると
また次につながる。ので、1つ伸ばせば別のも伸びる。すなわち成長の真意なり。

交通誘導員というか、工事現場で車の誘導とか、人の誘導とか、
やっている人をよく見かける。
ずっとたちっぱなしのイメージがあり、厳しそうな仕事だと思っている。

ランチ時のお店は、弾丸のように言葉が飛び交っているが、
ここは一見繁盛してそうだが、内実はどうか分からぬ。

花屋の利益率とクリーニング屋とITエンジニアを比較したら、
いったいどうなるか。どうもならないと思うけど。

思考実験。面白そうなことは実際にやったほうがいい。
ただそれだけのことかしらん。

ストレートに。

前、書いたような気がするけど、あえて。

自分の思っていたことや感じていたことや考えたことが色々あるというか、
ない人はほとんどいないだろうが。

とくに、それらをどうやって実現していくか(夢ではなく、資格試験に合格というものでも)は
よく考える必要があるが、やらなくては何も始まらない。

ストレートとは、素直とか愚直とかいう意味で使うが、
ストレートにやったほうが結果的、これは精神的納得という意味で好ましい。
ちなみに物理的納得とは、理屈で理解する頭でっかちの納得のことである。
精神的納得は、理屈では理解できないが、ジクソーパズルのピースがはまるみたいに、
納得できていないそれと、これからするそれがはまるということだ。

ストレートは、精神的納得を助長、加速させる。

なぜアクションの重要性を説けるかというのは、
そうしなければ何も始まらない(これは文字通り)からだ。
実際に考えただけでは、それこそシミュレートしただけでは意味がない。
そういう意味で予想が当たる、こうしたいということを設定することは、
それにあわせて動くからあたるし、実現できるということになる。

だからやりたいことがない人はいないということがいえる。
毎日これしてあれしてこうするのが幸せだから、何もないよ、という人はいると思うが、
実際に「これ、あれ、こう」をしていれば、それがやりたいことになる。
設定ポイントが現在進行形で充足されているだけだ。
普通は「未来」でやりたいことを設定するかの違いだけで、本質的に違いはない。

ただ一番の問題、というかよくありがちなのは、
「これとかあれとか」しているから十分だとはいってないものの、
これあれしかできないからもうこれ以上は駄目だとか、あきらめみたいなものを
毎日、もしくはたまに感じているのに、何もしない人である。

自分で壁をつくって自分で閉じ込めるというパタンだ。
そのパタンで、その壁を壊すのは相当の労力がいるだろうが、
はて、自分で自分の中にこもっていては何もできないと、そういうことが言えてしまうわけだ。

自分に嘘をついてなきゃいい。
でも、自分に嘘をついてまで、自分を良く見せる人、みせたい人、みせる生き物、
現状を容認する人種?であるからこそ、そういっておくのだ。
自分をこれらのように客観視できている人はおそらく、壁は壊せたのも当然。
そうじゃない人はまず壁を作っているのは誰かから始めるか、
気づかずに「限界」のある人生を送るしかないだろう。

ちなみに、当たり前だが、これらの考えを適用することで、
活きてくるのは自分にであり、また他者にはより優しくなれると考えている。

さらにいえば、このブログに、説得力が0ではない兆しが感じられるのは、
文章の力でも、文体でも、文章量でも、更新頻度でもなく、
実際にやっているからだ。

リアルとその考えとネットという道具というものを踏み間違えない、
もしくは考えるということをすれば、きっとそのように感じてくれる人が多いだろう。

PDCAサイクル

このサイクルについての若干の追記的考察。
計画、実行、確認、実行というもの。
あれ、Doは計画を実行するだけで、実践はActionかな。
全然使ってないから言葉の意味忘れたっぽい。

それはいいとして、例えば、実行→反省、改善→挑戦
みたいなのは日々あるわけで、それらを意識すると、
大抵のことは、

「こういうことをやりたい」とまず漠然と何か決める。
次にそれをするにはどうすればいいかと細分化するなり、全体を洗いなおすなり、
一度みてみる。

それによって大体分かってくるので、
次に実際に行動にうつす。すると、より分かる。

ただ行動にうつせないものは、知識であれ間接的になんらかの貢献をしていないものは、
ほとんど忘れ去られる。
例えば、何かで恥をかいたらそれは一生忘れないことになるかもしれないほど覚えている。
また、生きていくために必要なもの、ものの食べ方とか、毒を食べないとか、
そういうことも必ず覚えてしまう。

そういう意味で、自発的に何かを設定して、それに関するあらゆる調査、勉強、学び、発見などは、
また自発的に起す行動に結びつくことになる。

簡単にいえば、自分でやるから学びの量が多いというわけだ。

この感覚が分かると、学びが止められない、とまらない河童えび船である。

PDCAをやるぞ、といっているとおそらく出来ないような気がする。
説明では確か、サイクルとして循環するから、DCAPでもCAPDでも、PAでも、DCでも、
どれでもいいと思うが、PDCAでとらえてしまうと、最初に計画ありきみたいな風に
思ってしまう。
別に計画が出来ないからアクションもあるわけだ。その前のさらに前の前提みたいなものもあるわけだ。
とにかく、PDCAに含まれないものが重要なことが多いことのほうが普通な気がする。

例えば、通勤の電車にうまく乗れるかどうか(時間帯が合うか)とか、
面白いことが起きそうかとか。

そちらをしっかりやってこそ、PDCAとのリンクもできていくわけで、
結局、日常を楽しむという教訓程度の言葉でしか、それらは言葉では表現できない。

という意味で、生き方の哲学を説いたり、それこそ「説教」とはその行為を言うが、
経営哲学と日々楽しく生きるのとなんら変わりはないのであり、
例えば、ネット上で相手が見えないのに関わらず批判をするのはいいが、
不毛な意見のやり取り(お互いを非難して終わっている、一致点を探ったりすることがないとか)は
するべきではないし、駄目だと感じたら「不快」が残っても去るべきだろう。
ネットコミュニケーションというものが駄目なのではなく、机上化しやすい。

机上化したものを突付いてもあまり意味がない。仮説やシミュレートが無駄なわけではない。
それをすることで必ず現実(ネットも現実の1つであるが)に落とし込まなければ意味がない。

セカンドライフが危険な理由は、そのゲーム自体は大変スリリングだと思うが、
果たして「現実とリアル」を割り切れない人がどれほど出てしまうかということだ。
実際に、ネット中毒とは、しばらくネット環境にいないと駄目だ、というレベルではなく、
ないと死ぬくらいの状態のことを言う。
ちなみに、ネット環境はかなり定着したので、誰もがネット中毒の可能性があるといえるが、
多くの人はそうなっていない。アルコール中毒と全く同じ原理で、過剰に摂取するのではなく、
過剰にネットに触れていればそりゃ病気になって当然だと。

個人的におすすめのバランスは、ネットの情報を確認していくことだと思っている。
そうすることで、リアルでの足が稼げる。
例えばネットで何か検索してそれで知ったつもりでも、ほとんどそれは「小さな知的満足」にしかならないが、
実際にリアルで動くきっかけになることもあるし、そうしたくなることもある。
それがネットの情報をリアルで確認することであり、それこそ、例えば新聞の意義だとか、本の意味とか、
そういうことにつながっていくと考えている。
確認することで、割合的には、ネット:リアル=3:7か、2:8くらいになる。
ネットを情報の中心としてしまい、そしてそれを足で稼ぐことをしないと、
6:4か7:3となり、落とし込んでない情報をそのまま使ってしまうことになりかねない。
鵜呑みの可能性が増す。

とはいえ、足を動かせば必ず落とし込めるわけではない。それが学びの真髄だ。
しつこいくらいに確認していくくらいでちょうどいい。
疑っていくくらいでちょうどいい。
多分。

とにかくやる

とにかくやるということが大事なのは、その質はともかく、
やって何か創るということが大事ということに尽きる。
これは「何もやらないでやりたいなあ」といってるだけの人への警鐘であって、
「じゃあいつやるんですか」かといわれたら、「今はまだちょっと」といって、
結局そのままで終わる気がする。

もちろん今やれないことは多いが、
かといって、全てできないわけでもない。

やれることをやってつなげていかねばならぬ。

ルリユール的

靴を直してもらうとか、服をなおして着るとか。
ものを大切に使うというところで、より長く使うということにフォーカスをあてると、
今使っているCDラジカセは、結構使用している。おそらく5年は軽く使っているような。

ものを大切に使うというところでいくと、ものを粗末に使わない人というのは、
人間の心も粗末に扱わない確率が70%らしい。

ものには感情がないと思われがちだが、アングルを変えるとそれは存在することになる。
誰かがペンを投げた場合に、それは机にうまく乗るが、ペン自体は机の上を転がり、壁にあたって
止まる。
ものと行為者の関係において、なんらものを大切に扱うということをしない人は、
感情なぞ生まれないし、生まれるわけがないと思うのだが、
人間社会において、それは観察される。つまり、ものを大切に扱わない人という観察がされる。
その場合、痛い人間だと。それはものが痛いから痛い人間だと。ナンセンスだが、笑えまい。

日本で一番ルリユール的に近い言葉は「もったいない」だろう。
もったいない精神で、色々やることはできる。

貧乏くさいのとものを大切にするは同義ではないことをここに明記しておく。

ものを大切にしている人って意識してないせいか、全然分からないですね。

相互性

社会相互性みたいな言葉は多分あるかもしれない。とくに社会学とかで。

それはともかく。
人が店を作り、店が地域を作り、地域が社会を作り・・・というのは、
社会が地域を作り、地域が店を作り、店が人を作りというのと同じだと考える。
それは、視点が異なるだけだが。

例えば、ベストセラーという本で100万部以上かな、売り上げた本についていえば、
それらが本の内容的にどうかはおいておいて、売れた本といっていいのは明らかだ。
だから、多くの人がそれを買った可能性が高いし、だから売れたわけだ。
つまり、多くの人がその本を読んだ、読みたかったというわけだ。
その理由がベストセラーだからというのもあるだろうが、その理由も関係ない。
単に、ベストセラーというのは売れた証拠なのだ。
ということを確定しておきたい。

ベストセラー=人々の需要ということだとする。
そういう意味で、人々のニーズを反映しており、それは受け入れなければならない。
厳密にいえば、ベストセラーを買う人々の気質なども考慮する必要があるが、
ここではその話はしない。

元に戻れば、ベストセラーは人々の産物であると同時に、ベストセラーによって
人々は作られるということは、乱暴な話でもないということだ。
正確にいえば、ここでの「作られる」とは、多くの人に影響を与えるということだ。
オリコントップチャートにあがってくる音楽も同じことがいえる。

「消費する」というのは、おそらくそういう人気のあるものしか追いかけていなくて、
自分の趣味嗜好というもので選ばないというスタイルの受け入れ方だと思われる。
逆にいえば、巷にでてくる音楽しか「一般的」に認知できないから、
そこから選ぶしかないという言い方もできる。

ただCD屋なりにいけば恐ろしいほど音楽はあるわけで、
さらに自作を考えればこれまた鬼のようにある。さらに国内から離れれば
また数は増える。
だから、その「認知」できるレベルがトップチャートしかなければ、
その人の音楽はそれで終わるだろう。

話を戻すと、
社会に参加するとは、一個人が社会に参加しているという意識をしていくことでしかない。
それは意識レベルでよい。行動というのは必ずついてくるからだ。
社会に参加するとは、そのルールや影響を受けることになるが、
同時に一個人が社会に対してルールや影響を与えるということにもなる。

何かつながっている関係があるとすると、それは一方的なものもあるかもしれないが、
つながっているというのは、厳密にいえば、どちらも相互に影響を与え合うことができることに他ならない。
これを相互影響性だとかという言葉にしておくと、相互影響性があるからこそ、
社会と人が成り立ち、人が社会を作ることができる証明となる。

コミュニケーションとは、人対人の話に限定すれば、
ネットワーク用語でいえば「セッション」であり、ここでの意味としては、
「きっかけという糸」でしかない。

そういう意味で、相互影響性を考えると、誰もが社会参加することができるし、実際にしている。

このことを意識した場合、社会がとても身近なものとなり、
極端なことをいえば、誰かの笑顔は自分の笑顔であり、誰かの怒りは自分の怒りとすらなる。
だから、社会というものに無関心であり続けるというのは、非常に難しいと考えられる。

例えば、コミュニティだとか、地域活性化だとか、商店街の実情だとか、
若い人がいないとか、過疎化とか、少子高齢社会だとか、色々な現象はあれど、
基本姿勢はつながりという普遍性が存在すると思われる。
例えば、mixiのコミュニティは仮想世界だが、地域にある囲碁サークルとの違いは何か。
違いは仮想かリアルか程度のことで、つながりという意味では全く同質だ。
ただ社会との接点という意味で、ネット社会はあくまで中継地点でしかなく、
何をしようとも、必ずリアルが必要となる。

当たり前だが、ネットショッピングが成立するのは、
ネットでものを買う人という、実際にいる人がいるからであって、
その人は住所を持っている。そこに送って受け取れるからなのだ。
という当たり前のことを確認しなければ、ネット社会の大きさに飲まれてしまうというのもありそうだ。

ネットを重視するにしろ、なんにせよ、リアルに還元もしくは、形ができるものがなければ、
極論をいえば、デジタルデータでしかない。
説得力はデータそのものではなく、データを解釈する人間の記述に多く含まれるものであり、
単なるデータはデータでしかない。という意味で、統計とは単にデータをある計算式で羅列したものではないと
これまた関係ないことがいえそうだ。


それで、店のレベルが低い、社会のレベルが低いという場合、
もし自分がそこに住んでいたりするなら、自分のレベルが低いからそういう店があり、
そういう社会があるのだという見方も時には必要かしらん。

世の中を元気にする

非常に抽象的だが、結局そういう社会を創りたいし、
それにはどうしたらいいか考えてきたのだけど、
少しずつ何かをするしかなくて、それはどんな些細なことでもよくて、
でもやっていくしかないのだと、という結論に達する。

きっと何かを感じ、やっていくかなというのを伝えられる自信があるからなのか、
それともその自信が崩れるか、通用しないのを感ずるかは分からないが、
試してみなきゃ分からないのではないかと。

試す価値もないと思ったらやらなければいい。
ただそればかりでは、きっと何もやらないことになるし、
何もしないだろうと思われる。

世の中を元気にするには、結局、やり方がいくつもある。
スーパーで働くパートのおばちゃんにとっては、笑顔で勤めることで
来るお客さんが元気になって買い物して帰ってくかもしれない。
毎朝犬の散歩をするお父さんは、挨拶を通りすがりの人にすることで、
その人は元気になるかもしれない。
魚屋のおじさんは、「らっしゃい」といっていくことが、
ランチを作る料理人は「ありがとう、またのご来店を」をということが、
多くの会社員にとっては「その仕事」を楽しむことが、
元気にしていくことではないかと考える。

結局支えあいでしかない。
そのことを意識した途端に社会との接点が無数にあり、
また無数にあるからこそ、多くの人がいるからこそ、一人一人のやり方や
役割みたいなものが異なってくるが、それは支え合いの一つでしかない。

社会というのは大きなものだ。社会という言葉で説明できるものじゃない。
でも、自分が暮らす社会、仕事をする社会、生活する社会、楽しむ社会、
元気な社会というのは、当たり前だが同一の「社会」でしかない。
接している社会が、やはりその人にとっての社会でしかない。
それは僕の、社会に対する考えだが、自分の社会もそういう切り取った社会でしかない。


知らない人間にどこまでつくせるか。
一期一会的なことだが、結局そこではないかと。
そういう感覚で社会を創っていくというか、
おそらく、良識ある人はそうやって今まで社会を創ってきたんだと
想像している。おそらく間違いではないと考えている。

より良くする

もの、作品を創るのは楽しい。
楽しいから色々「工夫」しようとする。創意工夫なんていう
素晴らしき言葉を作ってくれた人にしぇいしぇい。

0から1を創るのは難しいといわれるが、
逆に1を0にするほうが難しいような気がする。

既存にあるものを変えるより、新しく作ったほうが簡単だ。
しかし、その新しく作ったものが既存と重なれば新しく作ったものには
別の価値が必要となるだろう。

朝ラジオの効用

朝から動くのでエンジンのかかりが早い。
エンジンがかかるので朝から色々なことができる。
ラジオをより楽しめる。(聴きどころが増えるとか)
寝るのが楽しみ(朝ラジオを録るため、聴くため)
朝の時間を有効に使える(気がする)

おはようございます

本日はあさかんラジオ2日目。さすがマス風さん。4:55できっちり収めてきた(笑)
聴いてて思ったのは、確かに「おはようございます」などの挨拶はいい。
とくに近所の人にお互いを知らなくても「おはようございます」といえるのは、
何か気分が良い。

朝からテンションがあがってきて良かったですたい。

それにしてもボイスコメントってめちゃくちゃ気になる。
ボイスコメントをせざるをえないラジオを作っていきたいものですな。

クリーニング

なぜ客として利用すると商売がしたくなるのか。

この問いに対する答えではないが、
一人のお客様に対する姿勢というか、接客の極意ではないが接客の基本というか、
客が不快になる要素がないというか(あってもないようなものにしてしまうとか)、
そういう姿勢を見せ付けられる(商売だからそれらはパフォーマンスではなく、
現場の躍動感というのがおそらく適切だろう)と、こちらが「ありがとう」といいたくなってくる。

こういった些細な気づき、感じは、つもりつもって何かになると、
そういう傾向がある。よくあるのは、ほんの小さなきっかけが大きく化けたり、
大きくなったりするということ。そういう小さなきっかけなり、発見は結構色々あるけれど、
ずっと残るものは残る。自分の中の血肉となるまで残り続ける。

その店が好きというのは、店側に対しては最大の賛辞かもしれないし、
また客側にとっても利用し続けたくなる一つの要因だろうと思われる。

心もクリーニングしてくれる、クリーニング屋さんかもしれませんね。
客に対する基本的態度の復習というか、再認識というか、そういうものを
思い出させてくれるとか。

いやーお店でひどい接客やってくれると、びっくりしますからね。

自分の行為と相手の配慮を意識しているというのが基本かしら。
プロの接客はおそらくそれを踏まえた上で仕掛けてくるものかと。

プッチンプリン

うまい。

賞味期限な話はまずいっすよね。
いわゆる飲食店で店が汚いとか、
ITエンジニアなのにコンピュータに興味ないとか(あ、これ微妙だ・・・)、
クリーニング屋なのに、ドライクリーニングできないとか、
ブログなのに更新されないとか(笑)
学生なのに勉強しないとか(これいいねえ)、
そういう感じですねえ。

ところで僕は、雪印の工場で何かやった問題。
あれが強烈な印象で、まあたまにMEGMILK製品買いますけどね。

企業うんぬんではなくて、
問題が起きてからしか分からないのがちょっと嫌ですね。
まあ企業の管理側も、ほとんど一般消費者と同じ感覚だったら、
気づかないんでしょうね。おっと、別に企業のトップが
馬鹿だとかいってないですから、残念。


あと1つだけ。
バグが出てきたら「しょうがない」という考えが滅茶苦茶好きなんですが、
でも、それは適当に作るって意味ではないので誤解しないように。
それで思うのは、そこで客観視してなんでそうなったのか?って
考える人かなりいると思うんですが、というかそれを考えていくと、
相当な力になっていくと思うんですが、どこでどう間違うのか?
別のベクトルで使っているようにも見えます。
要は、仕事上のある種の問題はそこでのみの学びなのかって
ところですかね。
おかしいなあ。もっと活かせると思うんですよね。

プッチンプリンがうまいから、よしとしよう。

久しぶりに

がたがたうるせーなって、
親の電話が嬉しいことはあるのだけど、
その電話がすげーうざったいときもあるっていうのと似てるが、
そういうことを感じたな。

ネタがアップできず。まあ、多分読むほうがつらいし、
読まないんだろうけど、一気にあげますよっと。

感性と直観。それだけではダメだろうが、
そっちを重視というか、磨きたかった。
だから「信じている」という言葉よりも、
形を大事にしていた。

いわゆる、星の王子様風にいえば、最近いってないけど、
見えないものが大事というものと反するように聞こえるのが、
そもそも理詰めだと。

文章は、そのかかれてないことも補うことができる。
言葉は話してない言葉も補うことができる。

とにかく、どちらでもよく、攻めるのみである。
その状況下で攻めるか、がやっぱ好きだな。

にしても、天使な小生意気は何時読んでも面白いねえ・・。
熱い。

コラボクリニック

コラボクリニック
http://collaboclinic.com/


AERAで発見。
というか、読んだAERA最新号は、2回目なような気がする。
どうでもいいか。

新宿にあるこのクリニックは、開設を学生が主導でやったようだ。
もちろん、教授がついているっぽいけど。

記事を読んで気になったのは、学生が診察するの?って
絶対思う人いるけど、僕も思ったので、
これは、開設準備ってところがまずコラボというところ。

医者と、学生ね。学生も医大生もいるというわけで。

ちゃんと、診察はプロの医師がやってます、というのが
かかれてました。

コラボはいいですね。

他者のまなざし

という、展示会へ。
場所は名古屋ドーム前矢田駅そばの市民ギャラリー矢田。

この他者のまなざしというテーマがまず面白い。
5人かな、アーティストがそれぞれの作品をおいている。

個人的には映像があった、水野さんと水谷さんのものが良かった。

自分という存在は、他者を意識しないと確立しえない。
もし集団と同化したいなら別だが、自分の考えとは、自分の存在って
何かって気になるなら、まず他者を意識せざるをえないし、
自分も同時に意識せざるをえないだろう。


というわけで、おすすめの展示会。
詳細はこちら。
http://tasha.nobody.jp/
今月末で終わっちゃうのでお早めに。

あと、帰りに他者を意識してこんなものを撮ってみた。

0b5f67f5.jpg


箱は、チョコレートお菓子の箱。
無残に捨てられたこの箱は、なんと僕の歩いている人の手からはなたれた。

さて、ゴミを捨てるという行為に敏感ではないが、
なんでココに捨てることができるかを想像するに、
ここは自分の家ではないから、自分の部屋ではないから、
関係ないから、「誰も見てないから」・・・。

おお、誰も見てない?
いや、僕は見ていた。

他者を意識すると、ゴミをポイ捨てしなくなるわけではないだろう。
ただ、自分の行為を客観視するとか、見つめなおすということは、
必ずあるタイミングで(自分を否定された時とか、大失敗したときとか、
それこそ不幸なことにあったりとか、逆にうまくいくというところでも起こりうるので、どんなときかわからないけど)起こると思っている。

彼は、何を考え、これを捨てたのだろうか。

バタフライ効果のように、
1つのゴミが世界を滅ぼすこともある。
と、過激なことをいいだすとダメだが(笑)

自分の社会に他者がいなければ、
何も存在しえない、いや自分が存在しえないことを知っている人は、
人にやさしくなってしまう。そうせざるをえないからだ。

「すいません、オトシマシタヨ」と、
親切な声をかけられなかった僕はやさしい人ではないらしい。

あさかんラジオ移動

以前軽く告知した「あさかんラジオ」ですが、
ラジログが結構重いので、移動しました。
ケロログに移行したので、あしからずご了承くださいませ。

ちょっと出鼻をくじかれた感は否めないですが(笑)

「朝感」
http://www.voiceblog.jp/asakan/

引き算

全国FMラジオ。スクールオブロックの1シーン。
というか、リスナーとの会話だけど。

高校進学で、一つは嫌な人がいるがなんとかいける、
もう1つはきびしめ。

引き算。

嫌な人がいるのは嫌だがしょうがない。
起点が、マイナスという感じかしらん。

でも、引き算は分からないでもない。
そうやって考えてしまうのは人間なのである。

ただ、現状を認識する、見るのは、自分しかいなく、
いつまでも引き算していると、引き算の人生になる。

より悪くない方をとるという選択。
最初からこっちがいいというのを選ばず、
こっちとこっちではこっちのほうが「まだ悪くない」という選択の連続。

偏見だけど、
女でいじめするのと男でいじめするのを比べると、
圧倒的に男でいじめするやつが恥ずかしいね。
女がいじめしてもしょうがないとか、むちゃくちゃな割りきりがあったりする(笑)

ネチネチやってくんのがうぜー・・・。うぜー。

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