ReadMasterの軌跡

面白いことを仕掛ける。仕事を作る。ビジネスを作る。そんな日々から出てくるアウトプット蓄積場。

2006年12月

今年の反省

今年を反省で締めることにする。
さすがRM。

相変わらず人のことを考えて話すというのが甘い。
これについてはTPOもあるのだが、人を普通に傷つけてしまう発言、
言動をしていることがある。
というわけで、来年は何も言わない人になろう(違

自分の力に対しての過剰な自信がある。
調子をこいているカンジもなくはなくはないが、それをどうやって
コントロールしていくかが課題。
おそらく、パワーを使うべき対象が複数あれば、
満足して、ゆるゆるしていることはないと思われる。
別にゆるゆるするのが悪いわけではなく、なんていうか、
安心してしまうってのはまだまだ。
まだ何もかもスタートしたばかりだ。

加速化について。
今年の目標とかは一通りざっと振り返ったが、
あるアクション、それは仕事でもなんでもいいけど、
それは3ヶ月とかすると大分見えてくる傾向がある。
つまり、最初は分からない要素が大きいが、3ヶ月くらいやると、
どうなっていくか、どうしていけるかが、分かってくる。
それで全てが分かるわけじゃないけど、色々出てくる。
その傾向を踏まえればだ、3ヶ月をうまく読んでいって、
いくつかを並行してやることが可能だ。
この感覚は、PFのバランスだとか、複数事業を組み立てることで、
バランスを取るとか、そういうのだ。
寺山修司の一点豪華主義にはおそらく反する傾向だが(笑)
まあ、それはどうでもいい。
うまくローテさせれば、そこらへんがかっちりくる。

基本的に、単体だけで考えることはしてなくて、
A+Bという組み合わせで考える。だから、どうしても、完璧に
行き詰ることは少ない。が、その組み合わせをしている意味とか、
その可能性を十分に活かしているかというと疑問だ。

例えば、本屋とカフェでブックカフェというのは、
もう定着している。この場合の組み合わせは悪くないのだけど、
それを今から創る意味は感じられにくい。
だからブックカフェ創るなら、今ないようなものを創ることになる。
どういう面白いことができるか、それに尽きる。

これは当たり前のことだが、組み合わせという意味で、
複数事業ということでとても重要なところだ。


お節介というのが足りなかった気がする。
これは本来の性質である、お節介を、抑えた結果である。
来年は攻める年だが、残念ながら、緩急をかなりつけていこうと思う。
これは、人と多く会うことで自ずからできてしまうような気がする。
もっともっと素敵な人はこの世に多い。新しい出会いと新しい年を
祝って、今年を終わらせんとす。

何か忘れていることがあるような気がするが、
読者の皆様、今年もお疲れ様でした。

可能性

たまには切り口を変えてみようか(ほう

可能性という言葉をどこまで咀嚼できるかが
問題なのであるが、そもそも、そもそもだ、
そんな「可能性」なんて言葉を考える人はいるのかと、問う。
(いつもどおりの展開)

将棋でいうと、1手先2手先を読むというのがコツだと、
親父が教えてくれた。にしても、懐かしい。小学生くらいかな。ふっ。

2手先は意外に誰でも読めるようなのだが、
実際にそこにフォーカスを当てるのが難しいようだ。

そうだなあ。将棋は将棋をしている、そして考えている
という2つの要素で成り立っていて、はじめて将棋をさす、ということになるような気がする。

ではこれを日常生活に戻す。
すると、日常生活をしている・・・している・・している。
将棋をするには、将棋をするっていって、実際にやればいい。

でも日常生活という中では、おそらく日常生活というのが
大きくて細かくできない。

もっと噛み砕いていえば、
睡眠8時間だとして、1日16時間を考える時間はどれだけあったか。
意外に考えずに出来ることが多い。
単に生きているだけなら、あまり考えることはない。
これはもちろん逆のこともいえるが。(考えないから楽だ。とか、人生ってのは生きるだけで辛い?は微妙かな。

目標とかでもいいのだろうけど、
でも、やっぱそういうものを立てないと人は動かないね。
というか自分が動かないですから!残念なり。

やべーテンション高くなりそうなので、
寝るとしよう。

さらば友よ。さらば愛しき人よ。

ぐうぐう。




忘年会

毎年恒例の忘年会。
参加してくれた皆様お疲れ様でした。

朝になるとテンションあがってくんだよな・・・。
なんだこのパワーは。もっと色々なところに使ってくかな。
社会はパワー不足だと勘違い認識していこう。そうだ、京都へいこうのフレーズで。

単純にこう思う。
語れる人々が多い方が、やっぱり楽しい。幸せですと。

また来年もよろしくです。

キーボード占い

結果:破壊。

キーボードを分解します。
掃除します。
元に戻します。

が、戻らず。

行った人が戻ってこないってことはよくあることだ・・・。

来年は破壊の年になりそうです。
色々なものが壊れるでしょう。
でも、攻めるでしょう。くくく。

よくやった、俺キーボード。
あとはブラックが引き継ぐから、安心して眠りたまへ。

754f960b.jpg

熱く。

掃除のゴングがなった。
掃除をするとする。

メインマシンとノートマシンを使いやすいように、
机周りはやや改造することにする。
本棚周りも整理するか。

びふぉーあふたーの始まりでござい。

良いお年を。

ティーソーダスパークル

やっぱうめえ・・・。
にしても、寒い。

風邪はほぼ回復。
さすがRM。

てか、寝る。
良いお年を。

自信を持つ

まるでどこかの自己啓発書の一節なタイトルだが、
前書いたように、自分で自己洗脳というのは結局自信を持つということになる。
言葉が悪いだけだ。

自分を信じること、すなわち自信は、多くの人は失っている。
いや、失っていることが多いというのが正確だろう。

不安がない状態を自信があるというわけではない。
単に自分を信じられるかどうかということになる。

自信を持つにはどうすればいいか。非常に簡単だ。
考える、やる。考える、やる。これだけだ。

さあ、考えてやりませふか。

考えた末に考えない

あるダチとの会話。
深いが、残念ながら、ベクトルが浅い。
ん?

具体例を言ってしまえば、人から言われたことを気にする。
それを考えてしまう。考えすぎてしまうということである。

それは・・・そのまま、考えすぎなのである。考えてしまうのを無理に止めるのは良くない。
しかも、これはもっと具体例にしてしまえば、人に関する話である。

もっと簡単にいえば、具体例すぎて性質的なものには触れてないか、
もっといえば、単に表層的なレベルといってもいい。

甘いぜ、ダチよ。
人はそんな薄っぺらくないぜ。
また、自分に自信がない人間、自分を嫌いな人間、自分を受け入れてない人間は、
まず他人と接することは厳しいぜ。

まあ、ダチだけじゃないが、そんな人いっぱいいるわけで。
それがどーしたといえば、そのとおりで。

というわけで、せーのーで、
「それがどーした」

世の中は平和である。

自己批判

他人を批判するのは容易い。あいつはどうだの、あれはどうだの。
だが自分を批判するのは少ない。なぜだ。

ここに人間は本来、自分に甘いという性質が証明されるというなら、
それはそれでいいような気がする。

ただ他人を批判する意味は何だろう。
自分への利益が阻害されるためという、あまり日常語っぽくない言葉で
説明することもできるだろう。
利益とは、不愉快ではないことといってもいいかもしれない。

考えるとは結局自己批判に至ってしまう。
考えた末に、他者批判になる人はどうかと。

原因が環境的なものにあることもあるが、
なぜか知らないが、RM教的には、それは言い訳になる。
といってるほど、言い訳してないからいーや。わーい。

書を捨てよ、町へ出よう

ヤダ。

寺山修司は初めまして。
競馬の話はどうでもいいが、一点豪華主義という考えが笑える。
笑えるとは、それを実践する人はすでに「豪華」ではないという点かな。
別にゲラゲラ笑いではなく、「くすっ」と笑う程度だけど。

エッセイだ。小説だと思ってた。

彼はタイトルの書を捨ててっていうのはこの本では、
4作品エッセイっぽいのが(一つは詩集だが、若い人の作品なの、これ?説明ないので分からずっと)あるが、自分の24歳くらいだったかな、
その頃に入院かなんかして、本ばかり読んでてうわーって
なんか書いてあるところが印象的。
いや、多分それが、町へ出ようってところなのかなと勝手に解釈。

本は確かに大切だけど、生活も大事である。
掴みはOKだ、寺山さんよ。
次はどんな作品見せてくれるのよ、楽しみだ。

(なぜにチョーハツテキ!
書を捨てよ、町へ出よう書を捨てよ、町へ出よう
寺山 修司

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時代を動かした闇の怪物たち 昭和・平成 日本「黒幕」列伝

ダチのさりげないすすめ。

イシハラカンジとナカムラテンプウが載ってたことが
お、っと思ったくらいかな。

ロッキード事件を、ロ事件とすると、口事件みたいで、
一体、「ろ」なのか「くち」なのか「しかく」なのか、
全く分からなくなりそう。
と、どうでもいいところ。

広域暴力団っていうフレーズが怖すぎる。

時代を動かした闇の怪物たち 昭和・平成 日本「黒幕」列伝時代を動かした闇の怪物たち 昭和・平成 日本「黒幕」列伝

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友人のすすめ。

なるほど、面白い。
デザインとか装丁とかはあんまり興味ないけど、
編集のカテゴリにある人の紹介がかなり面白かった。

植草甚一についてはやっと分かった。
相当有名な人だと思っていたが、そうでもないのね。
60過ぎて名前が知られてきたっていうのが、ケンタッキーとデジャブ。
色々な人いていいっすね。
皆薬やってるわけじゃないのね・・。(おぃ

個性派図書館として、丸善本の図書館が気になりまくり。
うお、今度行こう。丸善の本店の中にあるっぽいのね。

あとは、レンタル書店について。
2005年貸与権が本に与えられたーってのが味噌おでん。
これはかなり重要なことだけど知らなかった。やべっち。
あとは、友人にぶつけると面白そうなネタを。ぶつけとくか。

こういう本は面白いですねえ。ええ。本っていいですね。

本
永江 朗

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ラブレター

後編は買ってみた。
マガジン250円も今するんですか・・・。4年ぶりくらいに買ったような。
昔は180円とかだったような。そのうち300円くらいになるのかな。
にしても、合併号なのに薄い感じもする。

ラブレターは良かったなあ。
列車であんだけ移動できるってことは、良家のお嬢さんなのかしらと
どうでもいいこと思ったりするけど。

でも、これ、戦艦大和と一緒で、
後編はとくにそうだけど、戦争の美化って見る人もいるかもしれないと
あえて言ってみる。
いや、そう見る人絶対いるね。

なんでかというと、男は散ったのだが、
視点を女性にしなければ、特攻ブラボーといっても
通じなくはない。ここの通じなくはないというのがポイントだ。

批判者は常に、あげあしと重箱隅をネグラとしているから。

にしても、こういう漫画はいいね。
社会派漫画は普通に好きだなあ。

常連

いつもご利用ありがとうございます、と言われるとドキっとする。
確かに・・・。常連になるんだろうなあ。

ある店では、お待たせてごめんなさいね、といわれた。
店の人はやっぱ顔を覚えているのだろうなあ。
こちらも同様に店の人覚えてますからねえ。
お互いに覚えあう。これぞ人生。

ある店では、席の移動をお願いされたので、いいですよーといって、
移動して、レジで精算していると、お席の移動ありがとうございます、といわれた。
いや、全く気にしてないんだけど。

彼ら彼女らはやはりプロだなと思った。
やっぱ商売、とくに接客はこうじゃなくちゃと思った。

うざったい客も多いが、うざったい店も多いのである。
そういうところで、自分が気兼ねなく入れて、
落ち着く店はやはり「多い」方がいい。
友達と同じである。

ちなみに、僕の友達はケロヨンのぬいぐるみだけしかいないらしい。

悲劇2

村上龍「69」の映画をみて、ランボー詩集を買ったら、
ダチも手元に「ランボー詩集」を持ってきてたので、
「おまえと同じ行動をして死のうかと思った」といわれた。
どうやら僕は人を傷つけるのが得意らしい。

切符を買おうとして、紙幣を入れたら、
「あなたの紙幣はお使いになれません」というメッセージが出た。
どうやら僕は差別されているらしい。

道を歩いていたら、ガムを踏んだらしい。
地上と友達になれる。わーいと思うことはなく、
「誰だ・・・くそ!」とつぶやいたら、
通り過ぎのおじさんに
「若いの、それはガムを踏む方が悪いのだ」
といわれた。
僕はどうやら悪い人間らしい。

音楽を聴いてたら、音が切れた。
電池がないのかなと思って、調べると、
どうも持ち主を選ぶプレイヤーのようだ。
つまり、僕は機械に選ばれなかった人間らしい。
まるでロボットの話である。

お年寄りに席を譲ろうとして、どうぞというと、
「私はそんなに年ではないのに、あなたはなぜ席をゆずるのですか」
とカウンターを食らった。
そこで
「私はあなたをそんなに年ではないと思っているが、万一のために」
といった。
そうしたら、
「万一とは何ですか」
というので、
「万一とは、1万分の1という意味です。よって、めったに起こらないことを意味します」
というと、
「ということは、私はめったにおこらないのに年であるといわれるのですか?」
というから、
「まあ、そうですね」
というと、
「あなたはとても失礼な人だ」
といわれた。
僕はどうも失礼な人間らしい。

悲劇

ダチに、かたなんとかと自主運営する団体を解散だといったら、
泣いて喜んでいた。僕はどうも不必要なものを作るのが得意らしい。

1時過ぎまでおきてたが、オネムなので、寝てしまって
朝気づいたら、2時ごろに着信がダチからあった。
眠ってすまん。全く気づかなかったんだとメールしたら、
「嫌がらせで電話しただけだよ。そんなことに気づかないのか」
とメールが来た。どうやら僕は嫌われているらしい。

電車に乗るとき、降りてくる人を先に通すのが俺マナーということで、
通していたら、後ろに並ぶ人が押してきて、
「てめー邪魔だよ」といわれた。
どうやら僕は邪魔らしい。

お茶を飲んでいて、テーブルにうっかりこぼしてしまったので、
カバンをさぐって拭くものを探していたところ、
周りの人に変な目で見られた。まるで他人のカバンを漁っているような目で。
どうも僕は不審者らしい。

合理的表現

表現とは、感覚的なものである気がするが、どうもそうではないらしい。
例えば、絵を描くのは感覚的な気がするが、文字を書くとは合理的な気がする。
何が合理的かはここでは何も言わないが、合理的な気がする。

表現をするときに、一体感覚で表現しているのか、合理的に表現しているかは
おそらく表現している人は分かっていないと思われる。
最も分かる必要はあまりないというのも、ここで強調しておきたい。

絵をパフォーマンスとして、人の見る前で描いたときは、
それは感覚で、才能で、直感で描いてるかもしれない。
が、構図なり、配置なり、色あいなり、それこそ観客の年齢層なりを
考えているなら、合理的な気がする。合理的というか、理性的といったほうが
的確か。

ならば、感覚的表現をしつつ、合理的表現をしているというのが、
表現をするということだ。といえば終わりそうである。

ところがそうはいかない。
絵でも何を描いたか全く分からないような抽象画のようなものは、
一体何か。全く分からぬ。それも表現とはいえるが、では、
何を表現しているかは誰かの解釈でしかない。
また、それを説明するというのもとくに描いた本人がだが、
非常にナンセンスである。何のためにわざわざ筆をとって、
表現したかが分からないからである。

というわけで、この表現については一生謎なままである。
おそらく、合理的・理性的ではないより感覚的な表現は、
一生理解されないことが普通なのだろう。

だから、画家はよく死んでから評価されるらしい。

閾値

閾値という言葉がある。
意味としては、例えば耳なら、何デシベルなんかがあって、
50デシベルの音を聴ける人と、100デシベルの音を聴ける人だと、
確か、50デシベルの音を聴ける人は、閾値が低いという。
この場合の「低い」とは、何らかの評価が低いとか、そういう意味ではなく、
よりよく聴けるという意味でしかない。
ちなみに、50デシベルと100デシベルの正しい比較、
また、デシベルってもっと細かい数値ではないかということは全く分からない。
例として示したのみである。

閾値が高いとは、つまり、あまり音を聞き分けられないということになる。

ところで、この閾値がどちらがいいかということだが、
例えば絶対音感というものをもつ人は、普通の人が聞く音とは
別世界を聞いているようだ。つまり、音を認識できてしまうのだ。
扉の開く音が、ソソソソラシかもしれないし、靴の音が、
ドのシャープと、ドの1オクターブ低目とかに聞こえるかもしれない。

僕は絶対音感ではないので、分からないが、でも間違ってなさそうな自信がある。

さて、この閾値だが、低ければ絶対音感のように聴きたくないのに、
聞けてしまうこともある。逆に高ければ、聴きたいのに聞けないことがでてくる。
どちらもどちらなのだが、閾値を高めて鈍感に生きるよりも、
閾値を低めて、意識した敏感を狙いたいところである。

略語

コンパネは、暗羽。クラサバは暗い色の鯖。
長い言葉は省略されやすい。正解は、コントロールパネルに、
クライアント・サーバーのことだ。
全く、ITに疎い人だと、何が何だかという話かもしれない。

略語というのは、ある種便利だが、隠語風になり、
言葉が通じないとその説明を求められることになる。

例えば「おかしな人」である。
これは「おかしい人」とかなり意味合いが異なる。
愉快な人の意味合いが「おかしな人」では強い気がする。
「おかしい人」だと、そのまま頭がおかしくて、発言がとんでもない人のようにも
思える。
まあ、略語もそのような印象もなくはない。

省略すると、伝達される意味も省略されてしまうこともあるかもしれない。
また、逆に省略した分余計な意味が付加されてしまうかもしれない。

たこ焼き1つというとき、大抵何個いりかで1パックだから、
1パックの意になりやすい。しかし、たこ焼きを本当に1つ求めるときは、
どういえばいいのだろうか。
おそらく、店には嫌がられるだろうが、昔は、半分の値段を払うから、
半分にしてくれという話があったようななかったような。

あれは一杯のかけそばであるか。

略すなら何がなんだか分からないくらい略して欲しいものだ。

格付けの恐怖

何かを最初にイメージを与えてしまうと、がっかりすることがある。
例えば、おいしいという評判のお店へいって、味が大したことないなーと
思ってしまったときがそうである。

何かの評価は参考にすれど、とくに好みは人によって違うから、
おいしいというのは非常に抽象的な表現といっていい。

格付けとは、例えばやれ銀行の評価だとか、企業の評価だとか、
そういうのでもあるが、どうだろう。格付けするところをまず見ないと、
あまり評価の意味がない。仮に信じろといっても、
格付けしているところをさらに格付けしていた場合、
さらにそこをみなきゃいけなくなる。格付けの格付けである。

そうなると、格付けとは一体なんであるか。
何か評価をしても、誰がその評価を認めるのか。
過半数取ったらそれが正当なのか。全くの謎である。

何か年数を重ねたらそれが正当なのか。そうでもないだろう。

一番怖いのは、格付けしたものを自分が考えたもの、評価したものだと
思ってしまうことだ。そうなると、全く格付けの意味はなくなるだろうが、
どうだろう。格付けには格付けをが今のところの対抗手段であるが。

客の動き

ランチを食べていて、カウンターで一人だったのだが、どうやら
数名入ってくるらしい。左を見ると、3席ほど、右は2席ほど空いている。
一般的というよりも合理的な判断をすれば、右か左に寄れば、
席が一番空く。右が壁際だったので、そちらに寄る。

入ってきた客、つまりは人だが、お礼を言われ、
店側からも、客の機転でもないが、ありがとうといわれる。
合理的な判断が良いこともあるといえる。

さて、合理的はいいとして、客の動きというのは、つまり、
客層なり、客の種類というのは店を作る。
そのお店はかなり良い雰囲気で、ランチを愉しめる。楽しめるより、
愉しめると書いたほうが、何か雰囲気が伝わるだろうか。

お金を持っている人間が全て素敵だとはいえないが、
店に来る客という意味では全て対等である。
その客の動きは、少なからず店側にも、そして客側にも、
もっといえば、店全体に影響を与えているといったら言い過ぎだろうか。

もっと簡単でも説明できそうだ。
例えば、飲食店でテーブルや床が汚れていると、客は汚れているなと
思い、それをキレイにして帰る人はほとんどいないだろう。
汚れは汚れ以上のものをうまない。キレイであると、汚れが目立つため、
キレイさが保たれるし、印象も良いだろう。
誰か一人の客が汚しても、客が適宜フォローするケースも考えられる。
そういう客が集まるかどうか。それは店次第といってもいいが、
実は、店も客を選んでいる気もするので、お互い様かもしれない。

反射

反射とは沸騰したお湯が入ったヤカンに素手触った際に、
あちっ!といって、手を引っ込めるような、脳での思考がかなり
迅速かつ、ふっとんで処理されることだ。

洗脳というのは、何か思想なりを植え付けてしまうことだろうが、
洗脳と反射というのはすごく関連性が深い、いやまさか同様ではないかと思える。

洗脳するには、外部からの刺激をなくすことがまず重要だろう。
新聞も読まなければ、社会に何がおきているかは分からない。
最も読んでも字が読めないから分からないということはある。
人と話をしなければ、どういう人かも分からない。
もちろん、その人が目線を合わせて会話してくれないということもある。

反射は、考えるということがそこにない。
だから、洗脳とは、思考の反射を求めているといってもいいのではないか。
本当は違っていそうだが、ここでは一応オッケーとしてみる。

例えば、よくある話だが、ダイエットや健康にきくという製品がでると、
それを信じているかどうか分からないが、また試してみて検証する人が
多いのか分からないが、それは売れるようだ。
その時に、仮に、「ダイエットに効く」という言葉なりを、
脳を使わず、反射で捉えて、「効くから買う」だとなっていると、
これはすごく問題である。何が問題かというと、製品がすごく売れてしまうから、
効くものなら、いっせいに皆スリムになるから、ダイエットの価値がなくなる。
効かないなら、売れるだけで、自然的にやせた人がその効果を唱えることになる。

反射の人間的機能は面白いが、それを悪用すると、
おそらく自分自身も反射されて、誰にも相手されなくなるかもしれない。

敵を作らない

集団で社会生活を営む以上、必ず友好的な人間とそうではない人間がでてくる。
この原理原則は変えられない。変えられるとしたら、自分が宇宙人であるときであろう。

友好的な人間についてはとやかくいうことはないが、そうではない人間については
色々いえる。例えば、友好的ではない人間を「敵」と仮定して、
その敵を作らないというのはどうなのかと。

敵を作らない人種というのはあって、コミュニケーションが洗練されているとか、
そういう良いイメージがある。癖がないから、人あたりが良いという感じでもある。

八方美人というのはまた別の意味になりやすい。自分の軸を壊してまで、
人当たりが良いのが八方美人で、敵を作らないのはうまく自分の軸を持っているところで
大差がある。月とすっぽんである。

敵を作らないのは本当にいいかどうかは実践してみないと分からない。
なぜなら、敵を作らないと敵が出てこないから、何かを倒すとか、潰すという
考えが消えてしまうか、潰す欲求を解消できなくなる。
つまり攻撃的でなくなるし、攻撃力が下がってしまう。男で攻撃的ではないのは、
いかがなものかと一度問うてみる必要はありそうだ。

敵を作らないにしても、敵を作るにしても、どちらも人生のトータルでみれば、
大差はないように思える。敵を作っても敵を攻撃できないのならば、
作る意味がなく、敵を作らないにしても、攻撃をしたいのならば意味がない。
要は自分は敵が作りたいのかどうかという問題にすりかえることができる。

ちなみに、敵を作らないからといって味方が増えるということもないのが、
悲しいところだ。

ネットバンキング

インターネットは便利を我々ニンゲン(インゲンでも、ニンジンでもない)に与えてくれた。
例えば、ネットバンキングと称して、インターネットを利用して残高照会をしたり、
残高照会をしたり、残高照会をしたりする。つまり、残高照会をよく使っているのだが。

残高照会をするなり、振込みなりをする場合でもなんでも、
まず最初に、認証を行わなければならない。
これはインターネットだろうと、ATMだろうと同じである。

ところが、ATMではあまりなさそうな、ID、パスワードの紛失が、
ネットバンキングになった途端、世界陸上100m並のタイムで頻繁に起きる。
IDはまだいい。パスワードを忘れてしまうのだ。

しかも、ログインパスワードと、ATMで使う暗証番号も要求される。
つまり、ネットバンキング用のIDとパスワードと、さらに通常使用するであろう、
ATMでの暗証番号が必要となってくる。
さらに、キャッシュカード自体はなくさないが、ネットバンキング用のカードが
ある場合はそれも大切に保管しておかなければならない。

こう考えていくと、ネットバンキングは一見便利そうだが、
色々な情報を覚えておく必要があるし、また管理すべきカードも増えてくる。

そうなると、ネットバンキングをして増えた情報管理と、
ネットバンキングをして便利になったものを天秤にかけてしまう。

天秤にかけた結果どうなるか。その結果はシンプルだ。
すでに僕は、2枚のカードのネットバンキングのパスワードを忘れているが、
申請が面倒なのでそのまま放置しているという状態なのだ。

これではネットバンキングは不便であるという結論にしかならない。

上手いと下手

どこで上手いか下手を判断するのか。
常に相対的でしかない。という意味でオリンピックで優勝しても、
全く価値がないとも言えるわけだ。
逆に、井戸端会議で論破したら価値が高いこともある。

サッカーがうまい人間は宝くじは嫌いだが、
野球が好きな人間はギャンブルが好きな傾向が強い。
ガムが好きな人間は長い髪の人間が好きで、
ガムが嫌いな人間は長い髪の人間が嫌いである。

図書館が好きな人間は宇宙飛行士にはなれないが、
報道が上手い人間は宇宙飛行士と友達になれることもある。

スケボーが上手い人間と楽器が演奏できる人間で、かつ男であると、
女にもてやすいが、
テクノミュージックが好きな人間でかつ、写真家は、
女にはもてない。

友人の数が4人の人は、その友人も4人程度の友達を持つ可能性は高いが、
八方美人だと自分のことを思っていない八方美人はおそらく友達はすごく多い。

会社に月曜日に行くことが嫌ではない人はサラリーマン向きではないが、
金曜日に喜んでしまうのはサラリーマンが上手い。

ねずみ

灰色と黒のそいつは 
いつも 可愛く待っている
動かされることで 愛を
ただ 愛そう 愛してしまおう

発狂

狂え 叫べ 吹っ飛べ
クスリ アルコール なんていらない
ナチュラルな高度になりゃ
いくらでも 好きなだけ
眠すぎる この日本に 新たな刺激を

攻める

来年のキーワードとしてのシミュレーション。
ところで、最近、あるリンク元からのアクセスが多い。
嬉しいのか嬉しくないのか、というと嬉しいのだが、正直微妙。
何もこのブログに読む内容はないのだ。理解するものもないのだ。ただ感じるのみである(笑)

ケース1
言う言わないで迷ったら、言ってみる。
それは「攻める」から。

ケース2
動く動かないで迷ったら、動く。
それは「攻める」から。

ケース3
何をしていいか分からなくなったら、攻める。
これは説明が必要だろう。
攻めるとは、本にアタックする、人と話す、酒樽に首をつっこむ、24時間寝てみるなどのことを
ここでは意味する。
攻めることで何かチャンスをつかむ。
戦国武将が領土を広げたのは、家臣に対する恩賞(つまり土地)を与えるためというのは
目的的に分かるような気がする。
攻めて、チャンスをとって、帰ってくる。さすがRM。

他にも色々なケースがあるだろうが、とにかく攻めるのだ。
守りは手薄になるが、それはやや仕方がないといってあきらめる。

不確実性の管理

これはGETしたスキルのひとつだ。非常に使える。
分かる、には何が分からないかを明確にする必要があるのだけど、
それを実践する方法かなあ。いや、別にそれだけでもない。

分からないことは分からないと言う、分からないから調べる。
どこまで分からないか、分かるのか、調べたのかを管理する。
管理することに意味はなく、分かるために管理するのだ。

これは危ないなあということも同じだ。
危ないものでも複数あれば危ないもののなかでも、それらを比較して、
もっとも危険なものにアプローチすることができる。
逆もまた然り。

仕事は色々なことを学べるチャンスであって、
それ自体が目的とはならない。
ということを友に伝えたいのだが、やはり無理なのだろう。
分かっていてもそう考えられないのだ。

人生というものも不確実なものというのは、おそらく真理かもね。

主体となるには実績(=継続)と挑戦(=創造)が必要。

そのまま。
実績だけでは熱さがなく、挑戦だけでは心もとなし。

継続するというのは、何か形を作っていくところで、創造ともいえる。
同時に、創造とは、何か新しいことに挑戦するともいえる。

口だけ、というのは、言うだけいってやらない人だ。
その人は、挑戦心があるとはいえない。また実績や継続は、最初の一歩からしか
始まらないのだから、さようなり。

行動だけ、という人もいる。やっていくのだけど、そこに挑戦とか創造がない。
単に行動しているだけで、継続ができないので、形とはならない。
飽きるという言葉をカザシテモ駄目なのです。
継続していくには、行動だけでは駄目なのですということですな。

実績は成果でも結果でもないが、まあ似たようなものだ。
実績を作ると、それはその時点から過去の行動を参照できるので、
僕としてはそこに嘘がないようならその人を評価してしまうだろう。
だから実績を作るのは意味がある。
もちろん、実績を作るためにずっとやっていては本末テントだけど。

そろそろ君もやってみないか?(何

運営側

基本的に、参加者は、対価を支払っているので、そのリターンを運営に期待する。
運営側は対価をもらう代わりに何か参加者に提供することが義務付けられる。
お金は、何を買えるかという議論は尽きないだろうが、実際にお金で感謝を伝える術(すべ)を
知っている人はかっこいい。逆にそれを知らないと、お金というものの扱いが粋ではないと感じる。

よく考えれば分かるのだが、なぜオープンフィールドにしているかとか、
なんで語っているのかとか、このブログ自身も、そして僕自身もだけど、
それを考えて欲しいなんて、学校の先生じゃないのだから、言うと悲しくなるわけですな。

伝わらない人には、誤解を招いていることもあるから説明がいるというのも分かるし、
もっともなのだが、あまりにも馬鹿すぎる、いや馬鹿げている。

学生の頃、ある教授は、論文を見る人は皆馬鹿だと思えと言っていたのだが、
それは筆者の分かっているだろうから書かないよねということはなくて、
きっちり説明していく、分かってもらう、伝えるという姿勢について言っていた。

じゃあ、実際に分からない論文がないかというと、そんなのはゴマンとあるわけで、
同様に論文に限らず多くの本にも分からないものは、本だけではなく、全事象といってもいい、
いっぱいあるわけだ。

運営というのも同じだ。伝わらないものがあるのは、靴の上から足をかくような、
苛立ちがでてくるのだが、あせってもしょうがない。
ただ、伝わらないだけならここまで苛立たないのだが、勝手に解釈しているというのは
人それぞれ思うところがあるのだからいいとして、それを事実のようにしていうのはどうかと。
その証拠に、僕の目の前にいた人間はいないのである。
事実かどうか言ったかどうかの水掛けは好きだけど、あまり生産性がなく、無駄な気がする。
やはり、どういう考えか確認するということでしか意味がない。

だが、自分で言うということをなぜできないんだろう。
僕はやくざさんでも、何も人を傷つけるような弱い人間でもないのだけど、
器が小さいと思っているのかしらん。
それとも、酒のツマミレベルの話で、話すこともないとも思ってるのかしらん。

おそらく後者だろう。
誰が何を言おうと本当に考える人は行動をするのだ。
行動が全てではなく、自然の行為という意味でだ。

人間関係とか、微妙な空気とか、人間の悪いところから良いところまで含めて、
人が好きである。宗教家とか宗教は歴史の浅いものと、偏見が含まれるているっぽいのは
嫌いだけど、人は好きである。

というようなことを書いているブログは残念ながら僕は見たことがない。
考えとネタで面白いことを言っている人はいるが、それはそういう面白さで終わってしまう。
伝わったものが広がるというような、波及的?なネタ(センセーショナルとか話題になるとかそういうものではなく)
は単に個人のつぶやきというレベルではないし、
このブログもそんなものを目指してはいない。

そのうち伝わるものがあるかもしれない。このブログを見ている人に、という話ではなく。
ただそれも時間の問題だ(文字通り時間の問題)。
人は飽きたりするのだ。飽きずに分かろうとしている人のみが残るだろう。

文章のある表現とか、言葉の使い方がどうだのといって、
つつく人もいるが、その指摘は大事なことは多い。
だが、それはどこを目指しているかを明確にしなければ、無駄な指摘だろう。
高いものを目指しているという人には厳しくいってもいいのである。多分。
低いものを目指す人は、適当にしていればいいのである。多分。

なんにせよ、人の顔が見えないところは怖いものだ。
飲みにけーしょんは数少ないコミュニケーション手段なような気もしてくる。

教育という視点

最近、人を育てるというフレーズが気になっている。
自分が人を育てるという役割があるわけではないが、それはおそらく今、
もしくはちょっとした間だけであろう。つまりは、人を育てることをするということだ。

人を育てるのは年数を要する。
育てなくても育つのが一番楽だが、人はそう簡単にはいかないだろう。

きっとやってみせよう。
大きな志、想い、仕事はきっと自分を大きくしちゃうからね。

ゆずれないもの

駄目だと分かっているがそれをどうしてもやりたいことがある。
仮にそれが戦争だったら非常に悲しいのだが。

この仕事は多分成功しないだろう、という予測とか手ごたえはあるのだが、
でも引き下がれない。引いては駄目だと思う。というような感じで。
働きマンにもそういうシーンが出てくるのだけど。

言葉で分かるものではなく、体感として、実感として、経験として、
行動として、それがしっくりこないとやはり分からないのだろう。

そういういわゆる「言葉では分からぬもの」は多くある。
だから一歩を歩む。目の前の一歩はその、分からぬものを知ることに他ならない。

テンションをあげる

モチベーションではなくテンション。
テンションを自らあげることのできる人間を自家発電人間としたい。
そういう人間は基本的に面白い。
他人のテンションに臨機応変に対応するのと、また違っているところが味噌おでん。

開拓の年

最後の朋友が旅立った(実際には旅立っていないが)。
厳密には旅ではなく、サラリーマンの転勤というものになるのだが、
旅に違いない。はずだ。

本を読めばある程度のことは分かるし、
テレビを見れば世の中の日本的な情勢は分かるし、
何かを真似すればそこそこのところまではいける。

ただし、それはやはりその程度でしかなく、
突き抜けた何かにしたてることは困難というか、無理。

何かやってくれそう、いや何かしそう、いや、
何かする人が基本的に好きだ。それ以上はない。

そして今年ももうすぐ終わる。

花に嵐のたとえもあるさ
さようならだけが人生さ

とはよくいったものである。ところでこれは誰の詩なんだろうか。

こなす仕事

仕事にはこなす仕事と、攻める仕事がある。
なんにでもバランスが必要で、攻める仕事を妄想するがあまりに、
その仕事が適用できない人はいるような気がする。
同時に、見えないものへの不安を期待で補うことも面白いし、好きな考えだが、
それは妥当な期待であって、過剰な期待となると逆に不安になる。
これを逆期待という言葉で表したいが、期待しないという意味にも捉えられるので
駄目だろう。

仕事はこなすものではないというのは、こなす仕事がいらないということではない。
つまり、こなす仕事は必須な仕事であって、それをベース、基盤、軸にして、
攻めることができるのだ。

石原カンジの戦略みたいなものだ。米国と戦うには準備が必要だと。
戦争を賛美するつもりはないので、あしからず。

こなす仕事をきっちりやっていくことで次が見える。
人によっては、こなす仕事で何も見えなくなる人もいるだろうけど、それも一興。
それよりも、こなす仕事が全てだと思ってしまう人の方がやや気の毒な気がする。

そこから見えてくるものはたくさんあるのだから。

その大きさで自分を笑えるかどうか。これに尽きる。
笑えなかったら、成長途中か、そこまでの成長で一旦落ち着くかだろう。
笑えたのならば、もっと大きくなれるはずだ。もっと大きくね。

器が大きければすなわち良しということはないだろうけど、
やはり小さいことばかり言うのもアレである。
ちなみに、小さいことと細かいことはかなり意味合いが違うと思っていた。(?)

皺あせ

「幸せになりたい」というフレーズは現状は不幸か、
もしくは幸せではないという認識があると考えられる。
願望、希望は現時点では達成してないからこそ、願望となるわけだ。

もう1つ当たり前なことをいうと幸せな人は
「幸せになりたい」などとは決して言わない。

それで、幸せになりたい、という人は何を言うかというと、
絵が描けてない「幸せ」を妄想して、そういうのだ。
おつかれである。がんがれとしかいいようがない。

これを発展させると、あるキーワードを発する分だけ、
その人はそのキーワード的なものが足りないということになる。
ほほう。。。

というわけで不言実行でいこう。

ある思考

→写真展。ありふれ過ぎていて面白くない。
→写真をピースにしてパズル。だめだ。
→旅をしながら写真を撮ることを応援。→旅と写真、という素材をどうこちらが
活かせるか。
単純に写真展をやるのは結果的でいい。例えば1年後2年後でやればよくて、
じゃ、そういう旅人の写真を撮ってる間に何ができるかということを考える必要がある。
それは何か大きなことではなくて、面白そうなこと、という程度でいい。大きければ大きい方がいいけど。

持ちネタを洗い出す。
→自分の考えていること、こうやれたらいいなということ、これはやりたいというもの、
こうしていこうと漠然とあるもの、そういうものを話し合っておく。

HPで写真を毎月のように更新して、月替わり写真展をする。
→月替わりで写真を更新するので、リアルタイム性が失われないし、また手間もそれほどかからない。
→どうやってもっと認知をしてもらうか、PRしていくか、戦略とまではいかないが、
広げていくことをもっと提案しながら実践していく。
→旅人メッセージが必要。そこから膨らませることは可能。
そして本につなげることもいいし、表現とか、旅とか、そういうところを深く掘り下げることも
面白い。
→キャッチコピー。世界を知る。自分を知る。本を知る。相手を知る。今を知る。
Now you know this world, and you know yourselves.
no travel, no read, no books, no lives.
The Life takes me to make power.


双方向性というのは可能か。
それは旅人の役割か。HPにメッセージをおいておけるとか、まあ掲示板。
それを旅人が毎月一回チェックして、それに対する返信をする。
全部に返さなくても、また全部をこちらが紹介することはないかもしれないけど、
メッセージはその旅人とそのメッセージを送った人とで大きな大きなものとなる。

プロデュース的なものとか。
→バックヤード的、補給的な存在として。
→例えば、掲示板をおいたらその管理とか、それはこっちでできるようにしといてくれればやる。
→日本の現状、PR度を報告することはできる。

現在旅しているところをgoogle_mapsで表示するとか、表示して、そこに何があるかとか。
→マッシュアップ的にいえば、撮った写真を地図上に表示して楽しんでもらうというのがある。

どこに売り込んでいくか。
→興味を持ちそうな人々とか、マスではなく、マイナー路線でもいいのか。

戦略を立てる
→どこを目指すか。それまでの計画をたてねば、足元が揺らぐので。
→こちらとしては、何かをプロデュースする、応援する、サポートするというところがやりたい。
→メインはもちろん旅と写真だけど、その持ち味を殺さずに活かしながらも、
こちらの本と表現と語りというところを混ぜていきたい。
→混ざったところの面白さ、ユニークさ、新しさが何かほしい。それを訴えていく。
→今一番いえることは、「表現」は自由だということ。そして「表現」は可能性の塊だということ。
一人の旅人が写真を通じて表現するものはいったい何だろうか。
それは、結局、本と同じではないか。本を読むことで自分が何を感じるか、そして何を思うか、
それを言葉なり何かで表現すれば即ち、それは同じことではないか。
→カタリベカフェというもの自体の宣伝にもなる。表現していく場ということは伝えたいわけです。
→本が楽しいからそれなだけで、別に写真でも、なんでもいいような気がしてくる。
→じゃあ、カタリベカフェの今までの月1イベントで例えば写真の話をするとか、
そういうことか?ということだけど、それはやらない。それは「今までのイメージ」とは
全く異なるからだし、自分に写真を語るというものもない。ただ本は面白いレベルが
自分の中では突出しているに過ぎないだけ。

絵としては、カタリベカフェの月1イベントを隔月ペースにして、その間に、
写真とか、自分たちの表現と思えることを可能性としてさぐっていく。
読書支援サイトのネタ集めとか、更新とか、店でやるのもいいからその営業とか、
遠く行くならそこへ行くとか。
→語ることで何か解決することもあるし、できないこともある。
でも、話すのはあまりよくないことでもないし、元気になれることが多い気がする。
→このベクトルで、カタリベカフェを続けていくと、どうしもて大きなテーマ的に、
自分のことをうまく語れないとか、そういう人に対してのフォローを
していく必要がある気がするが、それは本意ではないのが問題だ。だからやらない。
もちろんそうやって使う人がいてもいいが、こちらは何も提供するということはない。
一緒にやるというスタンスを貫く。それはつまり、結局やる気ある人は楽しいという
そういう場でしかない。だからある人はいうだろう。個人に対して期待度が高いとか、
でも、それは全くナンセンスであって、そういう期待が仮にない場に、
そういう人(やる気ある人)が現れるのかと。おそらく現れないだろう。
だからスタンスを変えることはできない。

卒業という意味で。
→もっと色々な視野で色々な視点で、成長できるし、成長した方がいいし、
そういう意味で自分からみてまだまだな気がする。そこが甘い。
→傲慢ではなく、人を育てる、人が成長するというところに非常に魅力を感じる。
やはりすごいやつはすげーものを持ってる。でも、それを感じられなきゃ、
いくらすごいって誰が言おうとも駄目なわけで。もちろん自分がね。
それは認めるっていう話でしかないけど、かなり重要。
→一緒に何かすることでそれに気づいてくれれば本望。本意なり。
→人を育てるのは難しいのは、自分の意欲というものが圧倒的割合と占めているためだと。
そうでなければ、誰でもすごい人物になっているから。


毎月1回やることで演奏的な意味合いがあったか。
それとも、惰性でやっている、閉塞感とかはなかったか。
ここからさらに広げていけるものを感じたか、そこはどうなのか。
毎月やっていくというところでは、演奏と同じで、定期的に何かをやるという意味では、
意味があった。ただ新しさを1mmでも含んでいないものならやる意味がない。
同じことを2度やるのはそこに価値があると思った場合だ。もちろんそんなのはレアだけど。


お披露目の場というイメージで、自分たちはこんなことをしてますよって意味で、
楽に続けるのならオールOK。そうじゃなくて嫌々やるならやるべきではないというのは当たり前。
ただ嫌ではないが、リターンというか見込みがないのなら、これはやる必要性がない。
別に毎月1回のイベントをやることが全てではないし、そうしなければ駄目というのはおかしい。
イメージとしては、最初の一歩というのをどこで飛躍して次の二歩にするか、
最初の一歩に固執してしまっていては駄目だろう。


新しさが欲しい、だが、それを出していく場がなければいけない。
これは葛藤だ。でも、新しさを求めていくことにおいて、既存のものを壊すというのは
必要で、最優先事項は壊して創るということでしかない。。
自分が作ったものを壊すとはゼロクリアすることではないが、
変えていくのにはまた力がいる。そこはやや耐える感じがするかもしれない。
でも、変わるにはやはり変わるためだけの絵と力と、認識をするのが条件で、
だからこうやっていえるのだと、メタ認知できるわけです。

予想を裏切る、反するということはどんどんやっていくつもり。
→それは性格的なことだが、それが自分でも面白い。変われるし。

仕事を通じて人を理解する

仕事が義務ならばそういうとらえ方ができる。
飲んでコミュニケーションをするのではなく、
シゴミュケーションってやつで。

仕事見てると色々分かってしまうので、
これも誤魔化せないっすねえ。

アドレス変更

ブログのアドレスが変わりました。
もう戻せないっぽい。まさに背水の陣。
逆にうっとうしくなった気もしないでもないが、
まあ気のせいだろう(笑)

というわけで、お疲れ様でしたとさ。

キッザニア2

キッザニアの中身はどうでもよくて、
そういうテーマパークがどうのこうのというのは、
何か疑問を感じる。というか、何だろう。

全部良いと思う。
ちなみに、この視点からいうと、弱いものがないところがないものはない
という当たり前の結論になる。

キッザニアをなぜ「教育」と結びつけるかが不明。
親がそうやって職業体験をさせられるかどうか、
それはそのテーマパークの質によるだけで、全然キッザニアは関係なさそうな。

面白そうなものを実際に創ったというだけでも評価に値するが、
それは子ども騙しであるというのは分からない。

子ども騙しといってるのなら本物は何かという問いが突きつけられる。
消防士の本物をどうやって知るのか。
消防士の人でも知らないような気もする。プログラマーだって同じく。

違うな。

そもそもテーマパークという遊びを、
「教育」だとか「職業意識」だとか、そういう言葉に結び付けているのが、
甘い。キッザニアが言ってるかどうかは知らないが、
どちらにしろ、働くことでしか「働くことは分からない」という名言を
言っておけばイチコロなり。

キッザニアはテーマパークで、それで視野が広がればいいじゃないですか。
というふうにしか思わないのだけどねえ。

子ども騙しもそうだし、自分の子どもにはさせたくないというのも、
自由な意見の1つとしてとらえるけど、全くその考え方は、
キッザニアというものをうまく活用するという方向には行かないし、
そもそも楽しんでいくという観点から外れている。

まあ、このキッザニアは「知る」「体感する」ってのが、
メインだろうから、遊びではないような気がする。
遊びは学びだけど、それはおいておいて、そういう場ってないから、
一杯あったほうがいいような気もしたり。

こういうテーマパークって日本人っぽくなくて好きなんだよなあ。
絶対子どもだったら行くだろうなあ。


キッザニア

きたー。
しっかり書くことにしよう。

ちなみに、キッザニアにもディズニーランドも性質は一緒。
後者を肯定しているなら、前者は否定できない。

発案者が、ウオルトさんか、日本人か?の違いによるのか、
でも、メキシコだったかな、本場キッザニアはあるわけで。

教育という視点は、親からみてるのか、教師的なところなのか、
一般市民としてみているのかというところで、異なるだろうが、
基本的には、人を育てるという意味で、同じ。

親として子どもには・・・という意見がさっぱり分からない。
テーマパークなんてそんなに何度も行く・・・人はいるかもしれないけど、
行かないので、普段生活しているところで多くのことは学ぶ、
いや学んでしまうのではないかと。

というか、家族連れで楽しめて面白いと思うんだけどなあ。

なんで、そのビジネス的なものが悪く取るかは、
やはりここに「福祉」とか、「教育」って分野の、
聖域感覚(笑)があるなあと思ってしまう。

つまり、極論でいえば、なんでそんなこといえるのかが
いえないのに決め付けすぎというのもあるし、
こちらが一歩引いて見ても、なんでそうなるかが分からず。

教育ビジネスなんていう言葉もしっかり定着しかけている今日この頃、
なんで教育は善なんですか、ビジネスは悪っぽいんですか。
それは政治家がパーケン売って儲けているからですかーとか、
先生は良いことを行うモデルっぽいからですかーとか、

色々な考えがこの「キッザニア」に含んでいるのか、
僕はとても熱くなる。

もうちょっと調べるか。

地下鉄の中の鳥

その鳥は光を求めている。
だが地下鉄を知っている。

地下鉄ではない鳥は光の中にいる。
そして光を知っている。だが地下鉄は知らない。


不自由の中の自由と、
自由の中の不自由は、
「自由」と「不自由」で全く性質が異なると思われるが、
実は、裏の裏が表みたいな発想で、
どっちも同じことを、別の言葉で言ってるよう気がする。

つまり、具体例を挙げれば、
不自由といってその不自由さを自由と思って楽しむ人がいる。
逆に、自由を楽しんでいる人がいるってこと。

てか、どっちも少ないんだろうなあ。
自由を楽しんでいるからなあ。

悲しき日本なり。

カウントダウン!

全くそんなことをする気はないが、
カウントダウンである。
そう。今年ではなく、死へのである(ぐはあ。60トン並の重さだ!

並んでいたら、目の前のカップルの女の側が、
なんか気持ち悪い甘え方をしているので、
妙に鼻についたが、スルー。

男も男だが、女も女だなと妙に納得。
違うな。お互いだな。

というか、並んだネタが多いな。もっとスパイス入れていくか。

お笑いへの道は遠い。日々歩むべし。
さらばだ。明智君!

かわいいコンビニ

可愛いか可愛くないか。
これは容姿の問題である。

可愛い方が良いに決まっている。
コンビニとかなんてとくにそうな気がする。
可愛い人がいるほうに行きたい。

人は見た目ではないというが、見た目が重要だと思う。
もちろん、見た目が良くなければダメというわけではない。

というか、人のことを「気にしすぎる」人はどちらにしろ、
ダメなのかもしれない。そりゃ僕がダメだと思っているだけな話。

朝の天使は最高だ・・・。ぐふふ(AHO!

愛してる

朝から不覚にも泣いてしまったが、
その奥さんが「私も感謝しています。普段は言えてないけど、
私も愛してます」

クリスマスというのが、結婚式か婚約かというところで、
クリスマスにあまり意味がなく、結婚式に意味があるというところだろう。

心が温まりすぎて、どうにかなっちゃう。いやん。

人はええねえ。

ジャズと爆弾

後で気づいた。
中上健次は十九歳の地図で、村上龍は5分後の世界かな、
で知ったのかな。

まあ、どちらにしろ、この対談やべえ・・。
え、龍さんってそんなに薬やってたんっすか。
うーん、まあ確かに「限りなく・・・」は、そういう話だけど、
おうおう・・・小説家=ラリってるという構図で
別に問題ないのかなあ。いや悪い意味じゃないんですが、他に表現がないので。

「灰色のコカコーラ」は、タブクリアじゃなくて、
普通に読みたくなった・・・。うおお、中上ワールドへいざゴーだ。


ジャズと爆弾ジャズと爆弾
中上 健次 村上 龍

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庭達

その庭ではカップルと、女性が一人、
寝ていた。

寝てていいのかなと思ったが、まあ、
不自由そうではないから、いいなと思った(笑)
多分あんまりよくないと思われる。
というか、あまりキレイではないと思われるが・・・。


眠すぎる日本は、映画の中の話か。
刺激とは、誰かを殴るとか、高揚させるとか、
そういうことじゃない。スケール感の問題だ。
甘いな、小さいなと思えた自分に幸あれ。
小さいのだよ、明智君。小さすぎるのだよ。

なーに、拘っていたことが小さいのでも、
見ている方向が、ものが小さいのでもない。
社会が小さいのだ。その社会から抜け出そう。
そうやって生きた方が多分自然だ。

何も別に引越しするとかそういうことではなく、
小さなワッカには固まりたくないなというところ。

ただここで問題が生じる。
マイノリティーは、己のマイノリティー性を、
マジョリティーを意識することで保ち、維持するというのがある。
いわゆる、マイノリティーを社会的に認知してもらうというのは、
逆らしい。ここがすごく複雑だ。

自分を分かってくれない、分かるはずがないという、
被害者面とでもいったら当人は怒るだろうか?
でも、被害者面してる人は、どんな人であれ、
すごく不自由だ。不自由すぎて、哀れみの言葉すら
かけたくない。

深い。
もっと、学ばねばならない。
コーラばっか飲んでる場合ではない・・・(ニヤニヤ

たてとよこ

追加風。

心理的に(心理学的ではない)、
人と話すときは横の方が話しやすい。
真正面だと相手の顔を見てきちんと話す必要がある。
そういう、縦と横をきちんと踏まえている人は好きだなあ。

上下関係としての縦と横は、
目線ではないかなと邪推。
例えば、下のものは、上のものを見上げるとか。

江戸時代、いや封建社会では、皆下を見なきゃいけなくて、
見てはいけない神聖なもの扱いっぽかったっぽいので、
それだ。

鉄筋コンクリートではなく、
鉄コン筋クリートは、目線の移動が面白いらしいが、
目線の移動はやはり、人間の目線の移動ではないものが、
新鮮な感じがするような気がする。
ってなんだそりゃ?


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