ReadMasterの軌跡

面白いことを仕掛ける。仕事を作る。ビジネスを作る。そんな日々から出てくるアウトプット蓄積場。

2006年10月

ロシアの話

AERAをぱらぱらめくってたら、
ロシアのジャーナリストが殺されまくっているという記事があった。
どうも本当らしい(嘘は書かないだろうけど、一応疑う)

ということで、ロシアにはあまり行きたくないが、
まあ行かないんだろうけど、ワンチャンス思想という意味では勿体無い。

ジャーナリズムの象徴的なものとして「ペン」が挙げられる。
それは、文字と言葉で闘うのであり、決して武力では戦わないのだ。

ペンをもった人間を撃つ。

その行為は今後、語られ、決して忘れられることはないだろう。

表現というのは、易しくないのだ。
文字を書くとは、非常に自由なことなのだ。

世界は広い。
本を読もうか。

おごるなよ

レジでの会話ではない。
気をよくして調子に乗っているということをするな、ということだ。

何も自分の力で何もかもできるわけではない。
そう。このブログを読めるのも、ドリコムさんのおかげなのだ。
(って、どうした)

自分を見ないことで、後から痛い目にあうことがある。
これは自分よりも他人を見ていてよく思う。
そんなことしたら、痛いの自分じゃないかと、
これを痛々しくて見ていられないのではなく、
痛いなあといって見るのは別にひどいことではない。

人をどーこーいう人に限って、何もしてない人が多い。
もちろん、お節介しまくるかわりに、すごく色々やる人もいるが、
それはレアだろう。

自分の小ささなんて、失敗をしなきゃ分からないのだろう。
失敗とは、仕事のミスとか、落第であるとか、そういうことではなく、
というか、そういう小ささを感じるもので、相手が分かるのだが、
小さいといってることが小さいのだ。

自分で分かっているのに何もしない人もいる。
これはタチがわるいが、やれないのではなくやらないのだ。
これは、何度もいっているが、
障碍とか、そういうことも全て関係ない。
というか、まずできない理由をあげる人が嫌いである。

というわけで、世の中には嫌いな人間ばかりいるが、
実は全部自分だったりする。

うはは!

暇なときに力を発揮する

シャワー浴びてて思いついた。
やることがあって忙しい時は、
それをすることに集中すればいい。
ちなみに、忙しいとは心を亡くすことであるとはうまいことをいったものだなと常に思っている。

しかし、やることがない、いわゆる暇なときは、
時間がある=有意義なこと、とは解釈されず、
なんだ忙しくないのかという感覚が「大人」からは感じる。

これは逆ではないのか。
そういう意味で、ニートというのを批判できないと常に思うが、
でも働け、稼げ、自分で食えというのが全てのように聞こえる。
寄生してコバンザメみたいに(コバンザメがカワイソウ。あと微妙に違う)生きるのもいいのではないかと思う。

重視するものが違うのだ。
ここではニートの生き方が良いとはいってない。

重視とは、見るべきところで、かつそれを重要と思うところだが、
どうも「自分より働いてない人間」をみて、安心しているのか、
それとも、自分はそうなっていないから「うへへ」と笑っているような気がしてならない。
まあ、そんな人間はスルーだが、
時間があることは、モラトリアムは素晴らしいと思うのだが、
どうも理解する人は少ないようだ。分かろうとする人って意味かな。

だから、学生の時間は滅茶苦茶重要だ。とくに大学生。
あしなが募金をしたら、軽いビラをもらったんだけど、
そのあしながの代表か何かが、4つほど何か提言をしていた。
別にあしながは嫌いではないし、むしろ好きだが、
その提言の4番目はどうも引っかかっている。

それは、大学生にボランティアを義務付ける(とくに大学生であって
学生にボラを義務付けるということなのだが)という話で、
アフリカや貧困の国の実際を知るために、ボラをしろというのである。

主張としては別にいいかもしれないが、どうも違和感が生じる。
それをすることが「善」というのが嫌いだ。そう見えるだけかもしれないが。

義務づけてどうするのか、と。
確かに遺児は大変だ。なんでも年収は130万程度という。
きついね。

日本という社会は、確かに無駄な消費はあるかもしれないが、
また悪い人もいるかもしれないが、
同時に、「すげー」という人もいて、「善なる人」もいるわけだ。

気づくという意味で、ボラをするのは好きだが、
そうではない外的なものから何かをするのは、とくにボラのような
行為そのものより、心が肝心なものは、
好きじゃないな。


困っている人をみると、シンドラーのリストを思い出す。
1万人しか助けられないが助けるのか(あーそんなにいなかったかんs)、
それとも無駄だと思ってあきらめるか。

目の前の人間に、1000円をあげることはできる。
でも、それはもう議論し尽くされて、お互いのためにならないのが、
基本のような気がする。つまり、無駄なのだ。
なぜか。単発だからだ。1000円はおそらく、昼飯x2で終わるだろう。

そうやっていきていくしかない。単発が365x生きる年数というのは、
あまりにも悲しい。

大丈夫だ。仕組みを作ってやる。
だから、今はじっと待ちたまへ。明智君。

って、話ずれたけど、
暇を大切にする人間が好きだな。暇人は嫌い。
ちなみに、僕は暇人なので、自己嫌悪さんなのです。

体がにおう

体臭でもいいんですが(いいんかい)、
洗った洗濯物を洗濯マシンに2日ほどつけておいたので
しっかり洗濯機のニオイ!がついてしまってます。

あらゆるものがにおう。服、ズボン。とくに、上のシャツがにおう。

というわけで、今週はにおう男を演じることとします(まて
周囲に迷惑をかけて生きるというのも一興ですな。

にしても、におう。やヴぁい。

痛みつける

自分がどれほどの人間かという問いを立てたとき、
ああ、この人はやれないんだろうなとか思うのと同時に、
自分もそう思われている可能性があるわけだ。というか、ある。

でも、実力以上には力は出せないから、
実力を出すしかないのだ。もちろん、実力をつけていくことはできるが。

働きマンには、プライドなんて何度も打ち壊されましたという台詞が
あったはずだけど、そうその通りだ。

無気力感というのは、自分ができないという感覚だ。
これ、本当にできるのかよーって突っ込みではなく、
だめだなーとへこむ感じである。
ある人は、僕はへこまない人間だと思ったらしいが、
そんなまさか。僕はどうやら人間ではないようだが、まあカエルだからいいのだケロよん。

失敗の経験がない人間は、おそらく成功できないだろう。
これは大した話じゃない。その通りだ。
実際には、失敗すればいいのではなく、失敗と認識できることが
大事なのだけど、まあそれはどうでもいいや。

とにかく、自分ができないのを自分のせいにすることも
大事なんだろうなあと。
あと、ときには自分のせいにしないことも大事だなと。

なんかアレだ

ビッグになるというのはかなり恥ずかしい部類(笑)の台詞だが、
それはおいておいて、
かなり小さくまとまる人間が嫌いである。
性格とか考え方とかを含めて嫌いである。

人間性その他を否定してしまえというくらいのものだ。
もちろん、大きな人間ばかりではないのは言うまでもないが。

小さくまとまると、それ以上大きくなれない。
やはり、芋虫はかもめにはなれないのだ。

自分なり、独特だと思い込んでいる、または思っている、または
これだーって思っているやり方が必要だ。
代替可能なものははっきりいって要らないのだ。
価値があるとはその人しかできないからいいのだ。
だから、オンリーワンが全てなどというのは暴言である。

あと、格差もくそくらえである。
とりあえず、真っ当に生きたいものだ。
もちろん、真っ当だと思って生きるだけであるが(笑)

こもれび復活を祈らん。

物売りの話

物を売る際には、安くすればいいという発想がある。
残念ながらこの考えは通用しない。
なぜなら価値があるものは多少高くても買うのが、僕だからだ。
そういう意味で、価値がないものの安売りで日常的に必要なものは、
安いと買いやすいかもしれない。

それはいいが、日本人として悲しい話を。

ある観光地へいったときに、ブランド品は興味ないですかといってきた。
中国人がだ。よく、何か荷物を頼まれて渡してくれ事件ではないが、
そういう話は多いようだ。とくにアジア地域。

で、なんだそれはといったら、プラダやビットッンのコピーがあるから
安いから買わないかというのだ。

ばかばかしいので、それは法的にまずNGであり、
著作者、とくにクリエイターに対する中傷まではいかないが、
罵倒であり、表現行為を踏みにじることではないかね?
とはいってないが、そのようなことを簡潔にいってみた。

そうですか、といって話は終わる。

興味で聞いてみた。
で、それって誰が買うんですか?っていったら、
日本人はよく買うといってた。
悲しいが、税関は1、2個なら普通に通れるといってた。コピー商品ね。

中国人の若い人間も買うようだ。

ところで、コピーでも本物と変わらないというのは、意味のない話で、
そもそもそれは価値があるのかよと。

政府がいってるのは、実際には正しい。
模造品が出回れば、その模倣したものが市場に流通する。
その場合、本物は価値を持たなくなる。
悪貨は良貨を駆逐するとは、本物の金をつかった金貨を手にする人が
削ったというところからくる話らしいが、本当だろう。

ブランド品はどうでもいいが、ブランドには価値はあるとは思う。
ただそのベクトルが違うなと思われる。

ここで日本人は情けないという話をする気はないが、
まあ、わざわざゲーコクへきて、買うのだ。
分からなくもないが、何か悲しい。これは理屈ではない。感情だ。

日本人が思っている日本人像と、中国人が思っているそれは異なる。
それが一致するのもあれだが、まあ違うわけである。


さて、クリエイターの表現行為についてだが、
おそらくものを何か作ったことがあれば、これは分かるはずである。
だから、小学校で図画工作、すなわち図工をやる気がしてしまうが、まあいい。

結局、模造品はお金がほしいのだ。ブランド品の本物のブランド価値を
悪用しているだけに過ぎない。
スパムと一緒だ。そうやってばらまいとけば、カモ(ここでは日本人)が
引っかかるのだ。その思想は発展はなく、ただ搾取の思想である。

さようなら、コピーちゃん。さようなりコピー君である。

お茶の話

色々あるが、ひとつ買ってみた。
自国の文化を誇るのはいいが、自分の国が絶対であるという考えは
何か悲しい。異文化交流として、食べれないものがある場合は、
それを否定するのはやはり間違っている。
よくあるのは、普段食べられないごちそうをやつは残した、いかが?
というのがある。普通にありうることだ。

確かに心象はよくないかもしれない。
もちろん、その土地ではその土地の文化に習うのが粋である。
しかし、そんな簡単に粋になれるかと。なってたまるかと。
カメレオンじゃねーぞと。そういうことである。

もし、カメレオンで適用できたら、それは
本音と建前を使い分ける外国人みたいで、いやだ・・・。

というわけで、国際人、いや地球人になるには、
絶対などないというスタンスが必要である。

ここでいう絶対とは、それが全てで、一番だという意味だ。
これを勘違いして、自分のものが一番だというくらいではないと、
それは誇れないという考えがでてくるが、これは話が異なる。

ここでいいたいのは、あくまでも、絶対だよーんといっておいて、
それで終わるというところである。
一番だという人は、それが一番であるという証拠ではないが、それらしきもの、
またそれらしき研究、それらしき勉強、それらしきことをやっているから、
一番といえるのだ。それなら文句はない。
が、そうではないようなケースの話だ。

自分が絶対だというなら、一生そこで行き続ければいい。
それが嫌なら飛び出そう。
両方嫌ならとりあえず、何もしなくて、怒られてから考えるのも一興。

仕事の話

仕事というのは自分で選んですべきものという考えが僕にはあるが、
どうもそういう考えの人ばかりではないというのもありそうだなと思っていたら、
やはりいるものだ。

否定はしないが、いつも思うのは、
満足や納得がない仕事(これは嫌なことで飯を食うという嫌飯という思想ではない、そこは注意だ)を
やっていても、それを受け入れていれば、愚痴というレベルの低いものは出てこないのだ。

ということをいつも見ているし、感じる。

ああ、この人はやはりどこでも愚痴をいうし、
仕事選びだけではないのだなと、おそらく何をしても愚痴をいうのだろう。
だから、好きな仕事についても愚痴をいうのだろうなあとやや飛躍させても、
言いすぎではないだろうなーという考えになる。

まあ、がんがれ。

若くみえる

日本人は、若く見えるらしい。もちろん、悪く言えば幼いのだ。
僕は決して童顔という顔ではないが、日本では年齢より上に見えることは多い。
話し方で、ポイントとしては「ええ」という言葉を使えるかである。
若すぎると、「ええ」という言葉が使えない。
あと、「そうですね」という、YESの改良版を使いこなせるかも重要だ。
この2語で全てが決まるかもしれない。

会話で、「うん」と「違う」しか使っていない人間は、
やはり幼い。別にそれで色々突破できればいいけど、そうではなかったら
「ええ、そうですね」をおすすめする。

もちろん、これらは使おうとして使えるというか、
色々な人間、とくに自分より年齢が上の人と話していかなければならない。
もっと欲をいえば、日本人ではない人や、文化が異なる人とも話したほうがいい。

そうやって、話すことを楽しんでいければグッドである。

シルクの話

シルクは、じゅうたんが顕著だが、その目の細かさで値段が決まる。
細かければ細かいほど高い。それはデジカメの画素と同様で、
どれだけの細かさで表現できるかということだ。

シルクロードは数十年かけて?できたものらしいが、
やはり人は見知らぬものを求めたり、珍しいものを見たりということを
するのだなということは、旅が好きな人間をみれば分かる。

日本語が流暢な中国人は、それだけで胡散臭いという偏見がなぜか出来てしまったが、
まあそういう人だけではないだろう。
というか、場所的に、観光地にいるそれらの人は、そういう人になってしまう。
それが商売なのだし。まあいいが、でも胡散臭いことをやってる人間は、
胡散臭い顔になる。これは、顔が全てを物語るということだ。
残念ながら、二枚舌な人間はやはり舌が二枚あるのだ。
そして、目や顔、表情にはその人があらわれてしまう。

これは自分が「間違ったことをしてない」という人なら、
そのとおりの顔つきになるし、そうではないなら、そんな顔になる。
コントロールしようとしても、ダメだ。

全て自分の行動や考えがでてくる。ごまかしがきかない。
そういう意味で、人は馬鹿かあほかを全てさらけながら生きていることになる。

もちろん、そんなことは分からないという人もいるだろう。
それは問題はない。そうやって分からないなりに推測すればいいだけの話である。

ロストバッグ

飛行機に預ける荷物。そいつをロストした。
詳細は省くが、汗を大量にかき、異国の地というのを実感した。
そこから得られる全ての感覚は、ネットの世界では絶対に認知できないものだ。
別にネットの世界を否定しているのではなく、説得力とか成長とか、そういうものは、
やはりネットではできないということを断言しておこう。
あまりいないけど、ネットでそういうことが可能というか、
ネット「だけ」になってしまう人がいる。
本本本といってると、僕が本「だけ」読んでいる人間に聞こえるかもしれないが、
全くそうではないとここで言っておこう。
そもそも、本だけ読んでたら、何も書けない。
考えるから、それが頭に蓄積され、考えとなり、時には思索、思想となるから、
それを文字にするという作業がブログというだけである。

自分の大切なものがなくなったときに、はじめてその価値が分かるというのは、
人間らしい認識だが、でもそのとおりでしかないと思う。
大切なものは、やはり大切であると認識できるだろうが、
なくなってから分かる認識とは、大切さという意味での認識が異なるだろう。

さてなくしたバッグは、無事戻ってきた。
これは、日ごろの行いが全てを物語っているといっていい。
あと、運もある。賠償金として、300元(日本円で5000円程度)をゲットして、
いい経験をさせてもらった。さすがRMである。

カタリベカフェの感覚

すでに第5回を終え、少しずつファンも増えてきたが(ファンとは関係するすべての人の意である)、
話を聞いていると、似たようなものも多いと聞く。
では、それらとどこが違うかを整理してみた。以下にまとめる。

まず、整理するカテゴリとして、
公開の状況、ターゲット、お金、感覚、外へのベクトル、目指すものの6つを書き出してみた。

カタリベカフェという場では、
公開の状況 どなたでも
ターゲット なし
お金 非営利
感覚 仕事的
外へのベクトル 少しずつ広げていく
目指すもの 人と本と人をつなげる

すでにあるもの(例えば、身内でやっているサークル、同好会など。
読書会、朗読会はかなり様子が異なるだろうが、ここにひっくるめてみる)
公開の状況 近しき人
ターゲット 限られた人?
お金 非営利
感覚 趣味
外へのベクトル 身内で完結
目指すもの 本の話をする

というところになる。
大きく違うのは2つとなる。
それは、外への発信を意識的にするかどうかで、
これはそもそも「サークル」などの設立趣旨などで変わってくる気がするが、まあいいだろう。
カタリベカフェは外へとにかく関わりたいと思っている。
そうしなければ、常に死(死というのは、成長しないということ)が待っている。
また、小さきものとして存在するためにやっていない。
もちろん、最初は誰も小さいのだが、小さくとどまるとか、そういうのとは別の話だ。

感覚として、仕事的か趣味的かというところも異なる。
もちろん、仕事という考えがいろいろあるので、語弊はでてくるだろうが、
趣味というのは、そこで完結していいというものだ。
もちろん、仕事以外をすべて趣味としてもいいが、
村上龍的にいえば、趣味は老人のするものでしかないというのは、
なんだか分かる気がしてしまう。まあ、これは僕の意見でしかないけど。

多くの人を巻き込んでいくというのは、若い人間だからできることかもしれないし、
若い人間しかできないかもしれない。
どちらでもいいが、とにかく考えたことを形にしていくという感覚は、
麻薬のように中毒性がある。
すなわち、自分の頭の中の世界が現実化するのだ。
これは、間違った方向へ持っていけば、間違った人間になることは間違いなしだが、
残念ながら、僕はあまり間違った人間ではないらしいので良いとする。

最大限に分かるようにやる

自分が価値があるものというのは、それだけでいいものだと思う。
それはいいとして、自己満足という言葉は、常に自分だけではない、
他人に向けて何か発信したり、いったりしておくときに生じるものだ。

つまり、「自己満足ではないか」とか「自己満足になる」とか、
そういった疑問、問いといったあらゆるものは、
自分だけで終わりたくないから生じるものだと考えられる。
メタ認知だが、これは非常に重要なことだ。

そもそも、自己満足、とくに自己中な人間ほど、自己中ではないかなどと
問いは行わない。だから、自己中なのだ。
そういう意味で、本当に人に分かってもらおうという人と
そうではない人というのははっきり分かれる。というか、分かるし伝わる。
だから、ここらへんはあまり心配することではない。
例えば、自己満足と自己満足ではないという境目とかそういうのは、
考えることは無駄ではないが、あまり心配する割にはリターンがないというか、
一種の杞憂となる。

自分が最大限でも、適当でもなんでもいいが、
自分はこれだけしたというものがあればいい。
そうだな。例えば、何か自分で立てた目標に対して、踏ん張っているとか、
踏ん張ったとかそういう場合は、それが試験だとしよう。
試験にむけて勉強して、それで実際に答案に答えを書いて出したら
あとは結果待ちになるわけだけど、その答案を出したら、
もうどうしようもないわけだ。それを最大限やったと表現したい。

その後はどうにでもなれ、ということになり、
自分は関与できないし、どうしもようもできない。

たまに、この関与できないことについて、関われというか、
コントロールというか、そういうことをいう人もいるが、
それはおそらく、これらの最大限やったということと関与できないという関係性が
あまりよく分かっていないというか。ずれているのだろうということになる。

もちろん、価値あるものは人によってずれるから、
あってもいいのだけど、共通しているのは「価値あるものに対する態度」であって、
その個々の価値の違いについてはここでは問題にしていないのだ。
という意味で、人が一生懸命にやっていることに対して、
誰一人、文句もケチもつけられないはずだが、どうも
自分が何もしてない人の方がよく文句やケチをつける傾向が強いらしい。

自分は責任というか、関係がないから、立場的にとか、だから言えることもあるが、
それはケチや文句であるとかなり興ざめする。
あなたはあなたで、わたしはわたしであるからというのは当たり前ださんなのだ。
それが前提としてない時点で厳しいのだが、まあそれはともかく、
やったことはあとは、神様に祈るという気持ちで勝手に神を創り出してしまえばいい。

自分が価値があると思っているものは、
人にわからないかもしれないし、それが誤解されることもあるだろうし、
想定できないことはおそらく多い。
しかし、それであきらめてしまうようでは、おそらくそれまでの人間であり、
大したことのない人間ということになる。これは「他者からの評価」としてではなく、
自分がそう思うというところがポイントである。

価値があるものは、主観的なことだ。
でも、伝えるという時点で、主観的な要素はかなりなくなり、
どう伝えるかということを考えていくことになる。
それは、自己満足の話ではない。自己満足とはもっと小さな世界のお話でしかない。それは悪くないが。

必死になろうがなろうまいが、伝えてナンボである。
自分が面白くなるようにふんばっていくしかない。

それが最大限に伝えていくということだ。
決して相手に迎合、媚をうる、妥協する、自分を曲げるという言葉と
等しいことはない。それは言い方の問題でもない。
同じことではないのだ。それが大切だ。

戦略

戦略とは、戦術との違いを聞かれたらやや戸惑うが、
戦術は具体的な作戦を意味するのに対し、戦略はその概要みたいな感じだろう。
戦略の中に戦術があるというイメージだ。これ違ってたら面白いけど。
まあいいや。

今という時代は昔ではない。
単純な比較は通用しない。というか意味がない。
あるものが増えることで、べつのものが減るか増えるかなんて、
結果からみた推測者の驕りでしかなく、全く関連がないこともある。
少子は結果だが、仮に格差と呼ばれるものと全く関連がないと
なんだか分からなくなるだろう。そういうものだ。

今の時代は、戦略が必要だ。
これは企業や組織といった団体・集団が必要だけではない。国家もか。
個人にも必要だ。なぜそうなるかといえば、
そもそも個人に分かりやすいモデルがないからだ。
?のようにとか生きるというのも、自分で決めて出来る芸当だ。
すでにあるモデルがあるわけではない。複数人を融合したモデル像も
あるが、これも決めたという意味で、また融合している時点で、
より戦略的な気がする。

人と違うことをやりたいと願うが、
あまりにも違うとやや興ざめするときがある。
ここらへんがマダマダなところだが、まあいいだろう。
決して路上でザクロを売るおばちゃんから、
また恵んでくれというおばさんから、
足が不自由な路上売りから、
カワイソウだといって何か買うことはない。

同情を武器にしている人もいようが、いまいが、
結果的に金銭が動くのみである。関わるというのは、
そういうことではない。金銭のみの動きは、かかわりではない。
あーヤフーの寄付のネタを思い出した。まあ、言われるのはしゃーないだろうな。

ある友人の言葉を思い出した。
悪いけど、あんたはそんな小さな人間じゃないと思ってた。


さて、鬼になるか。(ん?

夢を追い続けた学校司書の四十年―図書館活用教育の可能性にいどむ

即買い即読み。
さすがRM。
この本はうまい。著者へのメールアドレス等はないので、
所属小学校にメールしてみた。さすがRM。蛇のようなしつこさ(そうでもない)
人はしつこいと嫌われやすい。
だから、嫌われたい人にはしつこくすればいいという考えは
おそらく、嫌うというのに偏見を持っている人間にはできないと
自画自賛。ってなんだこりゃ。

この本は、国土社という出版社の色もあるかと思いますが、
まあ一般向けというより、学校関係者向けっぽいテーストもあります。
それはともかく、僕は面白かったのでOKちゃんですが。

この五十嵐さんという人は、パイオニアというオーラが
読んでて漂ってくるので、やっぱお役所的人だと
こういう学校図書館は作れないっすね。
おっと、学校の先生がお役所的だなんていってませんからねえ。

五十嵐さんにメールが届くことを祈りつつ、さあ表RMとしてふんばりますかねえ。


お、改行タグいれなくても改行されるようになったのか・・。
嬉しい修正だが、今までの記事が変わってたら笑える。


夢を追い続けた学校司書の四十年―図書館活用教育の可能性にいどむ夢を追い続けた学校司書の四十年―図書館活用教育の可能性にいどむ
五十嵐 絹子

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あるメルマガ

先日、あるメルマガが届いた。
タイトルはあるが、メルマガIDは、メールヘッダにしかないから、
メルマガタイトルで検索しても、まぐまぐで出てこない。
IDで検索したら、なんと懐かしい。
本サルタントのもっちー氏だった。もちろん面識はないっすよ。

http://search.mag2.com/reader/Magsearch?keyword=0000124592

どこかの社長になっているような雰囲気、
というか多分、メルマガID変えずに配信してるのは
分からないけど、まあ同一人物だとにらむ。

というか、このメルマガ配信見逃してた・・・。
http://blog.mag2.com/m/log/0000124592/107840656.html?js
全部これに書いてますな。納得だ。つながった。

とりあえずメールしてみた。さすがRM。

ってか、体だるいな。あー。

あきらめぬこと

どんなにブログがしょぼくても、
ブログが続かなくてもあきらめないことだ。
どんなに無駄だと思ってもやめないことだ。
人に馬鹿にされようと、やりきること。やってしまうこと。
やることが大切だ。

やらないものは、やろうとしていても、すべてやらない側に
片付けられてしまうし、自分でもそう認識しやすい。
川に飛び込んで魚と戯れたいが、やらなかったんだよ、という人が、
また同じように思った時に、そのやらなかったことを思い出すだろうか。
ほとんどギャグでしかない。つまり、思い出さないのだ。

あきらめないことも大事だが、
あきらめることも同様に大事だ。
どちらか一方のみでは、生きるには窮屈すぎる。
それを緩急なり、バランス感覚というのだろうが、
まあ、がんがれ。

全力で

1年という区切りを設けた時、別に設けなくてもいいけど、あえて
設けた時に、その1年という期間は意外に短いだろうか。
それとも長いだろうか。

高橋歩がコメントしていた、確かAERAの記事だと思うが、
大分前にブログにも書いたけど、
なんでボランティアでわざわざ沖縄の離島だったかな、
に手伝いにいくのかーって、若い人がね。
それは、「圧倒的経験不足」という言葉で表現していた。

アレやって、これやって、それやってというように、
階段を上がるように経験を積み重ねることが、正しい?
んなことない。それは一つのパターンにすぎないと、
気づくにはどれほどの歳月がかかるか。まあ、がんがってくれ。

圧倒的に経験不足とか、圧倒的にこれはできねーと思った時、
人は動く。また、何度も書いてるのだけど、
人はピンチの時にどう動くかで人間の大きさが分かる。
小さきものほどよくほえるのだ。あー俺じゃん。いやん。

何事も全力で。
言葉で言うのはたやすい。はっきりいってそれは実践的ではない。
全力といって認識できているものが、ない人もいる。
「これ全力で頼む」といわれても、自分の全力とは、
4時間集中することなのか、それともスピードがUPするのか、
それとも効率が普段の1.5倍になるのか、などなど。
それが分からなければ、「全力」という言葉も、「頑張る」と同様、
具体的な表現ではない。あくまで、「普段より頑張る」という
頑張るという意味でしかなくなり、あまり意味がない。

世の中は広い。
自分の存在は小さいが、表現できることは無限だ。
無限は広さという定義できる領域をも超える。
すなわち、自分の存在は小さく、世界という世の中に所属しているが、
表現することで、世界そのものの大きさよりも、大きくなれる。
これが表現の全てだ。
がんがれ、全ての表現者。

小さきプライド

プライドというものがある。
それは大きいだろうが小さいだろうが、
とにかくある。
プライドもない人間なんぞ人間ではない。ええい、鳥だ。

悔しさをうまく表現できない人は、
怒るのが下手かもしれないが、
多分笑うのが下手かもしれないし、
もっといえば、本が嫌いかもしれない。
なんて邪推をしてみる。

走りたいなら走ればいい。
しかし、走ることができない。
なぜだろう。誰も走るな、といってないのに、
走ってはいけないような気がするのだ。

そのなんだか分からない不定形だけれど、ふわふわしていて
巻きついてくるのでもないのだけど、妙に圧迫感があって、
自由にこちらは動けるのだけど、実は動けないような感じがする。


何度も何度も。
思い切って、こういう不定形を打ち壊そうとしたことがあった。
でも、意外に簡単に壊すことはできずに、そのまま覆われるような
錯覚におちいって、もうだめだとあきらめないけれど、
あきらめたようなところで、忘れたようなところで、終わってしまう。

何度も何度もこれらを繰り返す。
それらは一体何なのかと、探ってきたが、
その正体が分かった。
それは、自分という存在である。

そう。つまり、自分の存在たるものが、自分というものを
束縛しないまでも、似たようなことをしているということだ。
精神と肉体は同一のものか、そうではないか。
自分の思っているように、肉体が動かないのならば、
やはり、肉体と同一ではないと考えられるだろう。

もっと分かりやすくいえば、
自分で自分の殻を破れないというか、そういうことだろう。

自分の力のなさを感じるとき、他人に何もいえなくなる。
だから、人は謙虚になるのだと。
前に書いたけども、改めてまた思う。
自分ができると過信して、謙虚ではない人間が一番傲慢かな。

サービスグラントTOKYO

http://svgt.jp/index.html
NPO支援、とくにHPなどのWebサイトからの広報がメインっぽい。

前聞いたことあったけど、記事で紹介されてたので。

NPOも企業と同様に保険というかリスク回避を考えるのだけど、
というか、これをNPOがするとなんか違うって考えの人もいそうだけど、
まあスルー。

一つのことだけやって持続できるほど世の中甘くねーんじゃこらー、
といっておけばよさげ。

だから、このNPOでも、メインは広報支援でも、
水面下では色々やってるのでしょうな。
もっとも、水面下で色々できないようでは、持続できないので、
そういうNPOはつぶれていくだけですね。
それは必要性の発掘とか、そういうことなんですが、
それを怠るなかれ、と。

きっかけ新聞

そういう新聞があるらしい。
主旨は、障碍のある人が街へでるきっかけ・・・となるように
というはず。

そういうことやってるって人を聞くだけで元気でてくるわー。
こっちもやらねばならぬ。

さて、ふんばっていきますか。

誰でも死ぬ

自分は死なないと思っている人間がいるような気がする。
なんて、傲慢だろうと。これを傲慢というのが言葉的に正しいかは知らない。

自分はすごいと思っている人間がいる。思ってもいい。
ただ過信ではないかと疑わないのは、蛙的ですらあり、
それが分かるとなんだか興ざめする。よくあることね。

自分の世界、または世界観が小さいものだということは、
認識しなければならない。それは絶対に小さくあり続けるのではなく、
常に認識をということだ。大きくしていこうとするから、
小ささに目がいくわけだ。
だから、もうこの大きさでいいや、という世界を構築して、
何も構わなければ大きくなることはなし。

その経験なり、知識をもって、それを語るのかと。
理屈のずれと直観のずれを感じるとき、僕は反論を展開する。
もっとも、理屈のずれよりも、直観のずれがダメなことが多い。
これは納得という意味で、理解という意味でだけれど、
ほとんどのことは、理屈で終わっていそうだ。

しかし、理屈なぞ、ただの屁理屈で終わることもあり、
単なる虚構(笑)でしかないことが多い。
その虚構を過信したり、信頼しきったりして、
理屈を括弧にいれて、自分の直観で選んだような振る舞いをするのには
いささかというか、かなり腹が立つ。何、自分をごまかしているのか、
全く不明である。

最初に戻ると、やはり誰でも死ぬ。あんたも死ぬんだよ、という
意識が希薄なような気がする。事故でも、犯罪でも、なんでも
巻き込まれちまったら終わるかもしれんのよ。
なんか病気になるかもしれないし。そこらへん、どうなのよ。

死ぬってわかってたら、もうちょっと自分の人生を
大切に生きる気がするんだけど。そして他人にももっと優しく
なれる気がする。
背理法もいいなあ。

何を重視するか

生きる上において、重視せねばいけないものがある。
重視せねばならないのではなく、重視せざるをえないというのが正しいか。

ぼーとしてても、やはり環境からの影響は大きいものだ。
自分はそうではないという意見は、自分が育った環境から
離れた人間しかいえない。
客観視も可能だが、それは説得力はやや鈍る。
が、体験さえしていて何も考えないのほうが無粋な気がする。
まあ、どっちでも同じようなものだけど。

自分が大切にしたいものを大切にすればいい。
大切にしているものがある人は強い。これは事実である。
何もない人も強い。これも事実である。
あるようでないような人が、弱い。これも事実である。

分からないといえる人間より、何をしていいか分からないという
中途半端な人間が一番危うい。その状態を脱しようとしない人間が
さらに危うい。超危ないのだ。なぜ危ないのか。
思考停止か何か。状況がつかめないからだ。

目を閉じて寝てしまおう。

サバイバル

一秒で、多くのことが同時に起きている。
一人は、職を探し、
一人は、贅沢をつくし、
一人は、必死にものを売りつけ、(売っているのではなく)
一人は、仕事というものをこなし、(仕事をしているのではなく)
一人は、死んでいる、
一人は、ブログを書いている。

根本的に変わってないなと、自分自身で思えることがあるのは、
それは世界観が変わろうが、感覚が変わろうが、
やはり核にあるものは変えられないということだ。
それは小さなことかもしれないが、でもやはりそれでしかない。

どんなに嘆こうが、救えないことはある。
不条理に関する、いや不条理に対する僕の構えは、
やはりそういうものがある、でしかない。
そいつを認識した上でどう出るかを考え、実行するのみである。
ニヤニヤしてスルーすることは、おそらくないだろう。
やはり、そこで問われていると思ってしまう。
自分自身、いや、自分という存在自身がかかっている。

相手がどこまで考えようが、考えないだろうが、
僕は僕である。

図書館の学校

届いてた。

今回のマンガは、かなりいい。(いつもいいが
ああ、あと図書館で布団しいて寝るなんて面白いことしてるね。
真夜中の図書館ではなく、夜中の図書館。ブラボー。

マンガでは、「夢を追い続けた学校司書の四十年」というのがでてくる。
このマンガは、事実に基づいているので、若干のデフォルメ?があれど、
ノンフィクションなんだろうなあーとか思いつつ。
この本は、学校司書のプライドというか、原点なのだろうかというほど、
熱さを感じる。買いだ。買いだ。


あと、book cafe「火星の庭」の人が載ってた。
最後の一言で「書物を通して人が出会い、生活と街が楽しくなるようなことが起きる」のが、お店をやっている醍醐味です。
うーむ、うーむ。いいな。やっぱ仙台行かなきゃな。



読書について 他二篇

読書について、は最終にある。著作と文体についてが多かった気がする。

著者が言ってることで、ドイツ人をメッタ切りにしているところが面白い。
多読について気になったので読んでみたが、
これは多読=多く読むこと「のみ」ということを指していると思われる。
つまり、本を多く読むのはいいけど、それってベストセラーとか、
他の人が読んでいるからっていって読む「だけ」の多読じゃ、
馬鹿っすよね。ってことだと。

確かに、本自体は、その著者の考えを「なぞる」ことでしかないし、
その通りだと思える。批判的とはいわないまでも、
なんでこうなるのだと、思わずに、ふむふむといって吸収するだけでも
読後の生活!においてそれをどこかで思い出す、使う、話すなりを
しなければ、全く身につかないだろう。20歳のある時点で読んだ本が
80歳で使えることもある・・・。だから、分かりづらいのだが。

本、文章を好きな人なら読んだ方がいいとおもわれる一冊なり。


読書について 他二篇読書について 他二篇
ショウペンハウエル Arthur Schopenhauer 斎藤 忍随

岩波書店 1983-01
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旅の意味

旅にはいくつか目的なり、意味があると思うが、
まあ、結局学びでしかないと。

ところが、そうでもなく、むしろ馬鹿と馬鹿が絡みあって、
馬鹿さを助長しているところもある。
これは、発展とは、そういうところはスルーされるべきところで、
マイナス的、なんだこれ?というものを補ってもあまりあるパワーがあるから、
発展できるのだという結論に至る。

何かを見て、何かを感じ、何か疑問に思うことで、
また必要性を感じることで、爆発的なパワーを生み出すことができる。
新興宗教=悪ではないが、なんか壷とかそーゆーアイテムを売ったり、
オレンジジュースをハンドパワーで甘く、すっぱくする(笑)ような
宗教(これは宗教法人資格があるのか、それともそれっぽいだけなのか、
こんなのが宗教になっちまったら、宗教がかわいそうである)もあるわけで、
宗教もそうやってパワーを凝縮、発動させることができる。

パワーといってるのは、熱量のことであり、決してハンドパワー(手力)の、
力や能力のことではない。エネルギーのほうがいいが、
エネルギーというと、これまた胡散臭くなるので、パワーがいい。

学んだことが残念ながら、膨大にある。
そして、やはり、旅はいいなと思うわけだ。

フットサルる

軽く体を動かし、汗をかき、スポーツドリンコをのみ、
ザブン。
これ最強だ。生きてて良かった。

さるってたら、声をかけたれた。
「いよう、兄ちゃん。命欲しかったら、フットサルボールおいてきな!」

ではなく、
「フットサルやってるんですか?」
だったかな。みりゃ分かるだろうとか、いうことを僕が言うわけがなく(笑)

そして、軽く蹴り合う。
同じサラリーマンのようだ。多分20代だろうなあ。

意外なところで、見知らぬ人と話す、
しかもそのネタが足猿である。

これだから、生きるのは・・・。がんばらないことだ。
む、そうきたか。

たまには

最近は、CARPとか統一教会ってキーワードで来る人がいたり、
まあ、宗教が悪なわけではなく、てか、若き学生は気をつけたまへ。
あと、みっくちーでも、詐欺があるそーですね。まあ、「でも」ってわけじゃないけれど。

学生の時にもかいたんだろうけど、ただ乗りって言葉がある。
無賃乗車的な意味合いだけど、例えば公園の水で車洗うとかは、
結構きわどい。
自分の居住地区ならいいだろうけど、でも、公園の水は、
多分洗車のためではないので、堂々とやるのはどうかと。

他には、ネットインフラってのもそうかなあと。
まあ、提供者が太っ腹ならいいんですが、
僕みたいに人間だと、スパムちゃんをやってる人、もしくはプログラム作成者、またはそれに関連することをやる人って、
ただ乗りだと思うわけです。

例えば、強盗して銀行から逃げるときに、車を使うとすると、
道路を使うわけですな。でも、道路は「銀行強盗の逃走用」ではないわけで、
そんなことは、そもそも強盗が考えるわけではなく、
目の前にあるものは使って当然だとすら考えるわけですな。

最もですが、ちょっと疑問なところです。
誰かが作ったからあるんだぞと。
見えない維持というか、肌で分からない応援とか、
そういうのは一杯あるわけで。

ある日突然、店が閉店しても、やはり徐々に蝕んでいた(売り上げが)
ってことは普通にあるでしょう。
もちろん、突然ってこともあるでしょうが。

人はなんで生きるかということを考えるとき、
感情の動きが激しいところ、正確には激しくなれるところがあるから、
そこを求めるのではないかと、思うことがあります。
それを好きとか、刺激を求めてとか、好奇心、興味関心があるとか、
そういう言葉でいうだけであります。

ところで、CARPは広島カープではなく、統一教会の学生組織です。
頼るものがない場合、人は何かに頼りたい場合と、2条件あるとき、
何かに頼るみたいですね。人に迷惑かけなきゃある程度はいいでしょうが、
オウムの事件のように、
信者が社会的にコミュニケートしていくのは想像できない。
これは、信者が悪いというより、そもそもコミュニケートしてたら、
そんな宗教要らないなあとか思うんですがね。

まあ、もちろん、ちゃーんとした人間が多いかもしれません。
でも、どうなんでしょう。同じように社会にもちゃんとした人間がいまして、
頼る頼らないはおいておいて、やっぱ宗教あってもなくても、
やっていくわけですよ。

という意味で誰も一緒のような。当たり前っちゃ当たり前ですが、
気づきにくいところ。
ただ治安が悪いところに住みたくない(家に帰る前にいつも
駐車してある車のガラスが割れてたら嫌ですよねー。てか、こわいっす)
ように、やっぱ怖いんすよね。ただそれだけ。

ただ、怖い、分からん、どーにかしろでは話が始まらないわけで、
仕事もほとんど同じというか同じですねえ。

土俵までいくと苦しいかもしれませんが、
そこに住み、生きるとは結局、嫌なことや不快なことも踏まえて、
楽しく面白く、生きたい(=生活したい)わけですな。
ただそれだけでしょうね。

平和を望む人も同じでしょうね。非常にシンプルだ。
だから非常に好きなメッセージですね。平和というのは。

といっても、無防備な人間には詐欺師が、
磁石がしっかりとついてるように、きますね。
いや違うな。プロの詐欺師はそれしか狙わないんだろう。
アマチュアは、手ごわい人間を狙うか。

全てのスパマーに告ぐ。
ネットインフラと、プログラム悪性利用の罪において、
馬鹿やろー、大切なメール消してしまうところだったではないかの罪、
さらに、DELETEによる時間の剥奪、受信メールサーバへの負荷、
見た人への不快感により、これからも送ってきなさい(えぇ
撲滅するとまた新しいスパマーが出てくるからなあ(笑)

そういや、DS(任天堂のではなく、SDカードの記述ミスでもない。ドロップシッピングのこと)が、MJとかに乗ってましたが、
あれはやっぱダメだと思われます。
アフィリエイターはくいつくでしょうが、
絶対に相場観という商売感覚が必要だし(アフィリエイターがそれはないとはいわない)、
そもそも仲介会社か卸相手との信頼感がめちゃくちゃ必要って意味で、
サービス的、仕組み的には面白いけど、使いこなすのは、
全然違う勘所が必要な気がするよーな。という意味で流行らないはず。
ちなみに、流行るとは、「おれもDSはじめたよ」と、
別に商売に興味ない人もやるレベルをいってます。ので、流行らないのであーる。

まさかいないと思いますが、
このブログ初期から見ている人いたら、
なんとなくありがとうといっておきます。

初期ってのは、MyProfileの頃からですねえ。

暗い人間

そもそも明るいとか暗いとか言ってる時点でアレである。
結局、仕事がツー・カーではなくても、通じて出来ればいいのだ。
そこはおそらく重要なことになる。

明るいからできるとか、暗いからできないとか。
そういう性格じゃないからというのは、どこまでを言っている?
やったこともないのに、やれないとかいうな。
やってみたならなんでダメだったかを考えてくれ。
それしないと、多分面白くない。自分も相手もね。

直観で生きるの一興だし、理屈で生きるのも一興だ。
何をしろ一興だ。一休ではない。

自分を好きになることから始めよう。

って、下手な自己啓発本より、完全な自己啓発ブログになったな。
さすがRM。

さよなら俺。そしてありがとう自分。よくやった己。
がんばるなミー。あきらめろ僕。おつかれ。

なんもやってないけど。

うおー

読書について読み始めたが、
結構過激なことかいてあるなあ。が、面白い部分多い。
多読は確かに思索という意味では、邪魔になるかな。

とどのつまり、多読を目的にしちゃーだめってことですな。
何。めざせ1万冊やってるのはどうかって?
多読を目指すわけじゃなくて、あくまで楽しみかなあ。

でも、食パンのシールあつめてお皿もらうとか、
そういうのではなくて、人生に対する楽しみ付加って感じですな。
さすがRM。

汗を書く→ザブン

運動後はザブンが人間として正しい。
雨の中走ってぐちょぐちょになりながら、半泣きになりながら、
あの時はザブンはできなかった。

汗をかく。
ザブン。

最高だ。この組み合わせは、おそらく、牛丼に卵よりも強い。
卵しょうゆかけご飯よりも、カレーナットウ・・(いかんカレー+納豆食いたくなってきたあああ)、最近、おくらとなんかあえてたもの食べて
あれが劇馬だった。うお。馬だ。

ザブン後に、頭を使う。即ち、簿記る。
すげえ・・・。セクシーなプログラマーは、汗をかくのだ。せいやせいやせいやせいや!せいせいせい!

急激な切りかえし、振り返り、などをすると、
内モモが痛くなる。全然使ってないから、鍛えねばならぬ。

だらだらしてると、あっというまに年末で、
決算の時期です。これは内輪ネタ。

おそらく

最近思うのは、その人の適性というものがあって、
だから社会はうまく動いているようにみえる(実は違うところもあるようだ)のだろうと。

その適性というのはどの程度のこといっているかというと、
包丁を握ったことがない人には料理をやらせようとは、
あまり思わないように、
少しでも包丁を握っていて何かを切ったことがある人に
料理をさせる傾向がある・・・のは自然な気がする。

ただ、経験とは惰性でも悪習でもなく、日々の学びの蓄積でしかない。
よって、包丁を握っているからすなわち適性があるとはいえない。

これは英語が好きな人が、必ずしも英語をうまく話せるわけではないとか、
プログラムを作るのが好きな人が必ずしもSEになるわけでもないとか、
一人が好きという人が、宴会の幹事をよくこなすというのとか、
そういうのとよく似ている気がする。

自分が向いているものは一生分からないと、ある友人は言ったが、
(本当はそうではないが(笑))、
それは一理ある。
という意味で、先日、マス風ラジオでいわれていた、
稲盛氏の「好きなことを探しすぎである」というのは、なるほどと思える。

向いている仕事を求めるがあまりに、現実から浮くのだ。
考えてもみたまへ。商売とは、何か見えるものを売るか、
サービスとして価値を高めて売るかの2つしかない。
仕事とは、それをするマンパワー、人の力でしかない。
向いているとか向いてないという以前に、ここらへんの基盤は
何やっても同じである。

お客さんと面と向かって話すのが苦手という人が、
必ずしもロクロで陶器を作るものが良いというとそうではない。
陶器へのコミュニケーションも、対人コミュニケーションも本質的には一緒だからだ。
サボテンに話しかけるという話は、笑う人もいるようだが、
赤ちゃんに話しかけないのはナンセンスのように(実の親がね)、
意味があるというか、コミュニケーションとはそういうものだ。

隣で人が倒れていても無視することは意外にできる。
しかし、無視しても無視しなくても、状況はあまり変わらないことが多い。
それが社会という大きなもので、壁を感じるだとか、
社会は厳しいとかいうらしい。が、そんなものはくそくらえである。

状況は変わらないからこそ、無視するのではなく、無視しないのだ。
パワーを惜しむ発想は分かるような気がするが、
パワーを惜しんでもおそらく、そこで惜しむような人間は、
何にでも惜しむだろう。関わりたくないというのも、分かる。
しかし、自分だけが全てなのだろうか。

全てといえるものに出会ったことがない。
言えても、寒い心しかないのだろう。壁は社会にあるのではなく、
自分が壁を勝手に作って、そして壁があるといっているのである。
多くはこれだ。

実際に、社会という壁は、自分の最大の力を持ってしてもだめで、
それならばとあらゆる手を尽くした人が使っていい言葉である。
使用許可があるのだ。言葉をなめてはいけない。
軽々しく使うと、おそらく自分というものの状態の誤認識になる。

おなかが減っているのに、笑っているという人間と一緒だ。
だからどーとはいえないが。

自分が弱い、自分が辛い、自分がダメという人間は嫌いである。
それは単に自分に甘いだけというのの言い訳にしか見えないからだ。

間違えることなんて山ほどある。
間違えるなりして覚えていけばいいのだ。覚えたくないなら、
間違えることなんてしなくていい。それは勝負をしてないのだから、
さっさと土俵から降りた方がいい。
おそらくそのやり方では、ただケガをするだけだからね。

そうやって少しずつセンスを磨いていくしかない。
最初からできる人間なんていないのだ。
とはいえ、ずっとできる人間もいないのだ。

生き方くらい自分で決めてくれよ。

どーん

構えるという意味を表す擬態語ではない。

ヴィレヴァンへいったら、筒井康隆の残像に口紅を、口紅に残像を、
RMに制裁をか、なにか知らないが気になって買ってしまった。
ビジネス本ではないが、独立・起業関連の一角には、
ニート世代という文字が書かれている帯がついてる本があって、
「ニート世代」ってなんだよーって突っ込みを入れながら読む。

そこで、たまたまDAWNというマンガが並べられていて、
ホームレスが起業するという面白そうおなものだったので、
早速買わずにマンガ喫茶で読む(笑)
残念ながら、ピュア(笑)さは、1巻で失われ、
5巻以降はもう飛ばし読み。許せDAWN。

展開としては、青年コミックっぽく、政治の話、経済の話で、
でも、ホームレスが起業ってのは、
ストーリーの一味でしかな、隠し味程度でしかないという印象。
実際には、ホームレス島田専務以下がやったのは、
ロウ・マートだかという、外資の小売会社で、ウォールマートが
かすんでみえる。
そこで、そのローだかからTOBだったかなーみたいなことで、
もめたときに、アキレス腱という意味で、アメリカへ飛ぶ。
くらいで、後はもう印象に残らない。許せDAWN。

日本沈没もマンガがあったから、読んだけど、
主人公がサイレンサー(潜水艦乗りの総称、耳が聞こえないって意味じゃない)で、なんか飽きてしまった。許せ沈没。

オッズというマンガがあって、競輪の話だが、これが面白かった。
競輪にも駆け引きがあって、ラインをくんで、先行と番手があり、
その駆け引きがある。で、体もがんがん入れるらしい。
ロードとはまた全然違うっぽくて面白いなあと思ったけど、
個人的には、長い道のりが好きなので、ロードがいいなあ。
旅が好きなだけだろうけど。


フットサルのボールを買いました。
これで、セクシーなプログラマーに一歩近づいたようです。
問題はプログラムができないことくらいかな(!

舞いストア

マイストア。
Amazonで作成。G-toolで作っていたものがあったが、
あれは放置してたなあ。どちらにしろ、長続きしない(自分が更新しないという意味)ものらしい。

アフィリエイト収入などをあてにするのではなく、
やっぱ補助的にやるものだろうとにらむ。
一部のスーパーアフィリエイターは別ですな。スーパーは例外であるのだ。

で、実際に本じゃなくてもいいから、売って両方やってく。
柱は3本というのが、小学生時代からの信念である(今作った)

ぼちぼちやりますかー。

なんかいい。

くれよんBOXにお邪魔してきました。
別に邪魔しにいったわけではないんですが(笑)

5周年記念ということで、おー長いなあと。
そして、広めの庭での食事しながら、何か出し物を前でやるというのは、
洗練されてて素敵ですね。

くじ引きがあって、くじは「1」でして、
これは当たるかなーと思ってたら、本当に当たりまして(笑)
ここらへんのツキと運が、まあギャンブラーにはならない証拠でして(何それ
70くらいのうち、6あたるので、まあ確率は結構低いっす。
5等でした。
くれよんカフェの割引券でした。100円x2枚で、
なんかこれもらったら、また来なくちゃいけないなーって、
良い意味で、思いましたね。面白いというか、率直にいいなーと。


感覚でこれはいいなーって、思ったものは
やっぱいいんですね。それをいつからかすごく大切にするように
なった気がします。直観といえば聞こえはいいですが、
常に独断。自分のことなので独断は当たり前なんですけどね(笑)

探せば色々出てくるし、気づいたら近所に店が出来てたりして、
あれ?そうか・・・。街は更新されるってことを、
すっかり忘れてた。今はあっても、明日はなくなるかもしれないし、
今なくても、明日できるかもしれない。
可能性って意味で、そういう街づくりは滅茶苦茶面白そうですね。


あと、フリペを作るってこともでてきたな・・。
何か街の情報を載せるわけじゃないけど、
気づいたところを載せればそれは情報な気がするし、
それってやっぱ編集になるのではないかと。
これはやっていけば分かると思うので、やっていくとするか。

今月も中旬。
さあ、また気合いいれてやっぞやっぞ。

明日は今日

あさっても今日で、一年後も今日である。
2つの「今日」の違いは、年月の差が大きいのであるが、
単にそれだけなら、人間は面白くない。

やってることが変わったとか、
そういうことがあるから、同じ「今日」ではない。

今日は何度もやってきて、
明日が昨日になることもある。


朝ラジオを5分くらいで録るのが面白いかもしれんな・・。

お話F

ちょっと長電話。2時間。
全く女じゃあるまいし、長電話なんか。
この場合の女は「おしゃべり魔」の意味でもっというと、
「大して内容のないことをだらだらとしゃべる」人種を言う。

もちろん、女性が全てこうだとはいってない。
むしろ、男でこういうのだ嫌だ。

って、話してた僕は身も蓋もないんですが。


簡潔にまとめるとこうなる。
1.ある種の報告
2.それに対する見解
3.2の見解に対する想い
4.何の話だっけ?
5.2へ戻る


ま、それはいいとして、
僕が一番大切にしているのは、フィーリングである。
当たり前と言われるか、当たり前じゃないと言われるか、
おっと、当たり前田のクラッカーといってくるか。できるな、おぬし。

あまり考えていることは、関係なくて、
何かひきつけるものさえあれば僕は諦めないというか、
常にオープンであるという自信がある。
利害関係なんて考えたら、数人に絞った方が絶対楽だ。
もちろん、利益を生み出せないから、社会があり、絞り込めないんだろうと。
そうなるんだろうけどね。


シンプルにいきたい。
それは縦軸Yを上に進みたいってことではない。
横軸Xを10個も展開しても、シンプルであると。
圧縮すると、90%圧縮がかかって、1個になるってイメージだ。
分かりづらいなら、圧縮ソフトを使ってみるといい。
10個のファイルは必ず1個に圧縮できる。もちろん見た目がだけど。
もちろん、90%圧縮とは意味が違いますが。

シンプルとは何か。
考えすぎず、でもこだわるってところかな。

まあ、いいさ。
とりあえず、寝るとしよう。そうしよう。

空港にて

クリスマスにて、にあった文章で、
決意を誰かに話すと、薄くなるって言葉があった。

これは、アウトプットのまた別の側面のことになる。
僕が本が好きとここでいうことで、その意味合いは薄まることも
逆に濃くなることもある。そう脳裏に刻まれるから。

「言葉」にした途端に、価値が減ずるというものは絶対にあると思う。
これは絶対だ。でも、何かは良く分からない。

「ありがとう」の安売りは、本当に存在する。
それは、「ありがとう」に心のパワーがない場合だろう。
1000回客商売だから、毎日「ありがとう」といっても、
安売りにならないことはある。さすがプロだ。
しかし、10回しかいわなくても、安売りになることもある。

結局、心でしかない。

決意が薄れるのは、性格的なこともあるだろうが、
おそらく事実だろう。実際に人に言ってやっても、
自分が面白いと思っているのだから、面白いことをあえて
そいつにいう必要がなきゃ言わなくてもいいのだ。
これは、孤独性と一緒の体質かもしれないが、まあいいだろう。

本は、色々な場所を切り取って、そうだなあ、5分くらいを
主人公となる人の思考がぐるぐるまわる感が出ている。

個別の希望ということが書かれているが、
駅前、空港以外はとくに「希望」ってものは感じず、
むしろ悲観を感じた。これは感覚だけど。


空港にて空港にて
村上 龍

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変なプライド

プライドなんてものはズタズタに切り裂かれ、
結果か過程かという二者択一ではないが、
結果がそもそもダメだから、ダメなわけで。
過程もやはりダメだといえる。

妙なプライドという言葉は、プライドというものに対して
ある種の歪んだ考え方なりが付加されているか、
プライド自体が歪んだ状態であるものを表す・・・といっていいだろう。

いくら自由を謳おうが、いくら不自由を嘆こうが、
きちんとそれを評価(これは正当に認めるという意味である)する人は
意外に少ない。なぜなら、それは力がいること(エネルギーのこと)で、
使う時間も、考える時間も、頭を使うところも、かなり多い。

生きていて一人くらい自分の存在が許されるというか、
本音を言えるのは当然だけど、言っても言わなくてもいいから、
そうなると言ってしまうのか、あえて言わないことにしておくとか、
そういう自由がやはり「受け入れられる」ということになりそうだ。

とても小さな世界に住んでいても、
小さな世界と思わなければそこが住処になる。

北朝鮮は核を持ち出したが、二枚舌ならぬ、10枚舌な国家がある限り、
いや、Justiceという正義を振りかざす限りダメか。

日経のコラムなものに、ジャーナリストがロシアでは
結構殺されているという話があった。多分事実だろう。

例えば、金、例えば、権力、例えば・・・そういうもので、
囲うことは、リフレイミングではあろうが、
あまり面白いリフレーミングではないだろう。サイコーチクだ。

ReBuildと、CrushかClush・・ああ、Crushだろうな、Crush&Buildは
やっぱ意味合いが違う。
再認識と、忘却&認識の違いのようなものか。
再認識は必ずしも、忘却ではなく、記憶の部分再生であり、
記憶の部分忘却であり、また忘却が全くない、認識の付加のみであるかもしれないし、
また視点の変化(これも忘却&認識といえるかも)だけかもしれない。

一歩ずつ

千里の道も一歩からという言葉があったような。
数年かけて何かをやるとは、結局そういうことなのだろう。
数十年でも一緒だろうけど。

年代によって思考パターンというのはあるようだが、
あまり年は関係ないという考え方が好きだ。
環境よりも、どう捉えるかの方を重視する。

泣き言をいう人は、結局、首相になれても泣き言を言う。
ただそれだけだ。もちろん成長というのがあるから、面白いのだ。

一歩ずつやればいい。
しかし、そのペースが、相対的に周りより遅い場合は、
「もたもたやってんじゃねー」といわれるだろう。
さて、そういう場合は、自分は本当にモタモタさんなのか、
イソゲちゃんなのか、セカセカくんなのか、
なかなか判断は難しいと思われる。
というか、難しい。

ということを考えながらも一歩ずつ進めばいいような気がする。

目的というか、焦点、自分の視点の延長、これは目標というより、
自分の見たいものはどこかーというのがしっくりくるが、
それを見ようとしてみればいいのだ。

おもちゃ

ラジオから。

おもちゃの効用は2つ。
1つ、コミュニケーションとして使える。
2つ、想像と創造がつく

ぐは、なんか同じじゃねーか・・。

言われたこと以外をやる場合は、想像する必要があり、
実際に形にするのには創造する必要がある。

他人のおもちゃを使いたいなら、持ち主との交渉とか、
一緒に遊ぶとかが必要である。

想像力あふれる遊びは、いつまでも必要だと思われる。
お金を使って遊ぶのは、おそらくお金の分しか遊べない。
だから、ある意味で全く面白くない。

公園という場所が、あらゆる遊びを出来るという場だと
知っている人は、現実をいくら直視しても、
やはり社会も遊び場でしかないと、そう感じるだろうとにらむ。

人間は考えるFになる

なんか微妙に土屋氏と森氏の会話がかみ合ってない気がするけど、
多分気のせいだろう。
ミステリファンは9割のミステリが嫌いっていうのも面白いなあ。
森氏の視点は結構新鮮な感じがある。ミステリがビジネスとかね。
あれ、こんな人だったのかと。作品読んでないのがばれるかもしれん。

さて、我笑うゆえに土屋ありと。いえるまで読むとせん。


人間は考えるFになる人間は考えるFになる
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おっと

ポッドキャストバナー消しました。
3人とか登録者あったようですが、すいませんね。

RSS配信に対応できてないので、まあ何事もなかったようによろしく。

レインツリーの国

図書館内乱に存在する本の話。
ネットで出会うという意味では、ユーガッタメールを思い出す。
聴覚障害というところで、いや障碍か、ピンポイントで
引用してみるとしよう。

ひとみ、という人物のメール文章になるのですが、 p.112
(前略) でも、知り合いの難聴者の人の話を聞くと、けっこう聾の人も私たちにきつかったりするんですよね。 手話は聾者の作り上げた文化だから、聾者の認める手話しか手話として認めない、とか。 (後略)
ま、よーするに、カテゴリの問題というか、マイノリティーの問題です。
普通、健常者は障害者を一括りにしますが、障害者の中で、例えば、聴覚障碍の人は、難聴や中途失聴と、日本語獲得前に障碍があって手話が言語となる人では、全く文化が異なると。言語が違うから文化が違うって感じっすね。

これは、障害者同士でいじめがあるとか、そういうことです。
別に健常者同士でいじめなんてありますので、それかなと。
これは「やや」ブラックな話に聞こえるかもしれませんが、
事実でしょう。実際に性格の問題というのは、健常者が障害者に適応しにくい。
それはなぜかというと、健常者がメジャーで、障害者はマイナーだからです。
これは、認識の問題ですが、その時点で、性格に焦点を当てる人は
少ないでしょうね。だから、福祉や介護といったところで、
障害者を人としてよく知っている人は、性格を見るでしょうね。
そうではない人は、つまりは一般の健常者は障害者としてしか見ないでしょうね。

何かを認識するとき、情報があればそいつを適用できるかってレベルの話で、
あまり、深い意味はない話です。

自分を障害者と思ってない障害者もいるでしょう。
そもそも、周りを認識できなければ、自己の世界の客観視は難しいですからね。
これは悪い意味でもいい意味でもなく。


おそらく、ハンダ、ではなく、ハンデを抱えた人は一杯いると思いますし、
コンプレックスやネックや弱点を持っている人も一杯いると思います。
しかし、それらのせいにして何か行動を抑えているなら、
やはり健常者だろうが障害者だろうが、誰だろうが、やっぱ面白くないでしょうね。

人はおそらく何か乗り越える・・までいかなくても、
経験するなり、考えるからそれに強くなるんだと思われます。
そうなると、おそらくその人の強みや良い所はやはりその人の良いところであって、
その人の文化、歴史を感じることでしょう。

レインツリーの国、ええ話ですわ。

ああ、新潮社とメディアワークスのコラボってところで、
そこも面白いですね。著者の営業手法が気になるところです。どうやってやったんだろ・・・

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不幸を育てる

不幸や呪いといったものは、アングラであり、ブラックであり、
あまりやらないし、やりたくないし、やらないものであるが、
どうだろう。おそらく、そういうものはゴロゴロしていそうだ。

どういうことかというと、例えば電車に乗っても
あちこちにアングラなものや、ブラックなものはある。

それは人であり、電車の広告であり、
電車そのものであり、電車の中を飛び交う虫であり、
と、いくらでもある。探すことなどない。

不幸はいきなりやってくる性質のものだが、
だが、予測してある程度防ぐことはできる。
しかし、防げないことはある。

サボテンを育てるように不幸を育てれば、
実は不幸はそこに集中して他に不幸がなくなるような気がする。
この発想は、不幸というものが社会で一定量あるという考えだが、
しかし不幸は、一定なわけがない。

幸せも同じことがいえる。おそらく、誰かが幸せになれば
誰かが不幸になるのは、謝っている。おっと、謝罪してどーすんだ。
不幸になれば、その人は不幸なだけで、そのまま不幸であり続ける。
have been -ingである。現在完了進行形である。嫌なものだ。

同様に、幸せであり続けることも可能だ。

どちらにしろ、両方知らなきゃいけないという原則がある。
幸せだと感じるのは、幸せではない、ニヤリイイコウル不幸となるのだが、
それを知らなきゃおそらくダメだろう。

不自由なく育ったというのは、誰かの話を聞くなり、
自分で体験するなり、何か外界のものをしらないと分からない。
おそらく、外界のものを知りたいという人は、小田実氏によれば、
確か少ないとか言ってたような(笑)

山をみて、山があるなと思う人と、
山の向こうに何があるかなーと思う人と、
山なんてあったっけという人と、
それくらいに分かれるらしい。

自分を小さくする必要はないが、
山があってもあるなー程度で、向こうなんていいわ、
というのも一つの道であり、
山の向こうにいくのも一つの道であーる。

道は北海道まで続いているから、だから、
ペダルを漕ぐのであるわけよ。

紅茶を注文する方法

紅茶を注文するには、
1.紅茶がありそうな店に入る
2.店員がきたら「紅茶」と言う
3.店員が「紅茶ですね」と言う
4.コーチャンが泣いてても怒らない

落としどころがない、着地してないネタは浮遊する。

それがどーした。僕は武士じゃない。
僕は紅茶でもない。

僕は僕である。つまり、I AM BOKUであーる。


あ、面白いっすよ。


紅茶を注文する方法紅茶を注文する方法
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だめか

だめっすね。
あ、RSS対応ですね。ラジオの。

これ、仕組みとしては、ブログが対応してないとダメってのは
書いてあるんですが、あえてやってみたと。
ブログが対応というよりも、
RSS配信を音声で出来るかーみたいな、だけですね。

実際の音声データは別サーバにあるので、
余計ダメですね。

ああ、まあ、しゃーない。ランキング登録はどうでもいいか。
バナーあるだけで、っぽくなるだけでいいや(笑)

で、あるラジオで普通に音楽かかっているのを発見。
どうも、コンタクトをとって許可得たみたいですね。
お・・・これ使用料取られてないのかなあ。
普通にそういうことできたらいいなあ。

ちなみに、そのラジオはこちら。
http://www.voiceblog.jp/fmpot/90078.html
caramellってバンドの「重なる力」って曲が流れてます。
いいね、この曲。
caramellのサイトはこちら。
http://www.caramell.jp/
ラジオも気に入った・・。

あと、スカイプ対談なラジオも発見。マス風さんから教えてもらった。
多分これだろう、とにらむ。間違っててもキニシナい(笑)
http://www.voiceblog.jp/mazzy/

RMラジオ第23回目

RM軌跡ラジオ第23回目
「23回目ですね」



ラジオってやっぱ面白いんですが、
面白い面白い、といっても伝わらないわけでして。

朗読も悪くないけど、生で聞きたいっすね。
生ってのは、目の前で話して欲しいってところです。

ラジオは音だけで伝えるという前提があり、
ポッドキャストは何度も聞けるというのがあるから、
FMラジオみたいに録音しないともう聴けないっていう、
リアルタイム感がないですね。
もちろん、録音すれば同じですが、
その録音をする労力は、おそらくポッドキャストを何か聞いて
その番組を他にも聞こうと思うのと匹敵するような「ファン」度があるかなと
思いましたとさ。

イロイロな方法で表現できるので、
なんか一番最初の放送僕も聴いたんですが、
ヒドイですね(笑)
ま、ジキ消えるのでいいでしょう(笑)
大切なのは今ですわ。

というわけで、第23回目。
今回は、podcasintg juiceってのに登録しました。
ランキングも登録したので、あとiPodをもっていて
このブログを見てくれるという確率的に0コンマいくつな方は
バナーをドラッグするとRSS登録されるっぽいので、
良ければどうぞ。

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