ReadMasterの軌跡

面白いことを仕掛ける。仕事を作る。ビジネスを作る。そんな日々から出てくるアウトプット蓄積場。

死神の精度と生き方の精度

精度が高いフリーキックとは、当然ゴールするとか、
狙ったところに蹴られるとか、そういうこと。

生き方の精度とは、自分が生きたい生き方に近づけていくもの。
それが楽しいってこと。

死神の精度はまあ、関係ないけど言いたいだけ。

緊張と友だちになることと、またはそれでいいんだって意識していくことで、
自分の中で 緊張が和らぐ。

やるべきことをやってない人の言葉は実に空虚。
それは言うまでもなく分かるもんだ。

選ぶことが出来る感覚

ちょっと前に、何かをしたいとか何かを求めているとか、何かをやっているとか。
そういうこと、自体よりも、「感覚」つまり、私はデザートを食べるのが好きというよりも、
デザートを食べている感覚に浸れたらそれでOKみたいなことを思った。

これはどういうことかというと、デザートを食べるだとそれは分解がしようがない!と
思う人もいそうだが、例えば、シゴトをするとかは、シゴトをするよりも、
シゴトをしているフリというか、実作業がなくてもそれをしていることで
「ああ、シゴトしたなあ!」って無意味な達成感が生じる(笑)
そんな話。

もちろん、これはややネガティブだが、ポジティブなこともいえる。
そうやって感覚で学習したりとかだ。

誰かがいるかどうかとは、これと似ていると思っていて、
さみしがりやの人はそんな印象がある。誰かがいるというよりも、
いる感じがあるというか。だからいても全く無言だとダメかもしれない。人によるが。


足をケガしたので、無駄な動きがなくなったというか、
それやらなくてもいいんじゃないか、みたいなことを整理できた。
整理というとまずい部分もある。
例えば、それやらなくてもいいんじゃないか、みたいなことって結構あって、
実はシゴトも、実はもっといえば生きていること自体全くポジティブに
意味あるのかなーとか、思ってしまいがち。楽しいこととか、何かワクワクがないと
やはり人間は好奇心がないと死んでしまう。死ぬとは本当に精神が死んでしまうってこと。

精査していくと、動かないなりに動くとか、ポイントポイントだけを押さえていくとか、
そういう感じが分かるようになる。ここは出る、ここは出ない。ここは行く、これはいいや。
既に全部行きたいところもいけないから、行かないし、行く時は行きたいものに
フォーカスする集中する。あと、行けなくなっても時が更新をして、またチャンスが
あるということもある。なければないで、それで終わるかもしれないけれど。

とにかく、ちょっと動き方を変える良い練習になったりする。

アイデアと社会の関係性

非常にシンプルで、
アイデアはどちらかというと個人からの発生。所有はおいておいても、
個人からだ。

社会は共有物的であり、誰のものでもない感覚が強い。

そこを企画という形となる、visibleな属性の要素といったほうがいいが、
それが橋渡しとなる。

あまり誰かを応援するということはいいたくない、結果的にそうなっていても。
それはシンプルに姿勢の問題であり、やり方の問題であり、
作法とか人生哲学の些細な違いということでもあるかなと思ったり。
 

企画マネジメント的なこととか。

企画プロジェクトをもっとやる、ということで、数を増やしていく必要がある。
また、もっとやっていこうとしているところ。

さらに一個ずつきちんと仕上げていくことも大事になってくる。
それが大事。

シゴト博的なことをやはりどんどん仕掛けるが、まだ仕込みが十分ではない。
しかし、やっていったほうがいいというところがある。確実にやるべし。


10,30,50、100くらいのプロジェクトというのがあって、
それらをどう束ねていくか、どう仕掛けていくか。
アイデアや企画を実行するメンバーとしてもそうだが、
プロデューサー的なことをしたり、オーガナイズしたりという役割もあるはず。

形にしてから話を始めろというのもあって、
それらをどう考えるかが大事になってくる。

形を整理していくことで、より圧縮した密度の濃い企画が出来上がるはず。
そこを信じてやっていく。

そこにあるのは既にイベントではない

イベントとか場とかいう言葉がそれを既に表していない。
表していないというか、表すことが出来ないといったほうがいい。
言葉がそこでは無力ということ。

場がないから困った人がいたりもするその場、
また常識という言葉を使わないというのも面白い。
常識はそれは全く意味を示さない。つまり共有をするということでしかないのだから。

何かのジャンルで負ける、またはそれが出来ないことでの悔しさ。
そこは譲れないとか、色々。人生を賭けるというか、そういうこと。
人生は有限で時間もそれに準じてしかない。そこで何をやるか。

どこまで毒を出していくか。
毒が全くないのも面白くないわけで、とはいえ毒々しいのも
やや腹に残るし不快すぎるかもしれないので。

社会人で働いてからその後で大学へいくというルートがあるということ。
これは結構普通にあるかどうかで、学校へいって卒業したら
もう学校は終わりとか、そういうことはないという意味でも。

覚悟を決めること

最近主に変わったというか、ステージが変わったなと思うことがある。
それは個別、具体的な話はとくにないというか、あるのだけど、
それはおいておいて。

例えば大きく決まったのは、というか決めたのは、
アイデアや企画ということでやっていくと、腹を決めたこと。
腹を決めたというか、もっともっとやってやろうということですね。

もっと出来るという可能性、または勘違い。
現状へのギャップ、理想の自分。当然そんなのは何度も考えてきたし、
これからもまたあるのだと思う。

でもね、やっぱりそれでやっていきたいという思いがあって、
やりたいならやろう。それだけだなあと思う。だからそうする。
シンプルなところでそうしていく。

遊びと仕事は一緒だということもしっかり噛み締めるというか、
その感覚でやっていく。分離するコストを逆に感じたりするくらいだから。

自分のリソースをどこに投下すると、面白いことが起きていくか。
ただそれを考えている。それが面白い。

そしてそのように生きていく。
それは決定であり、決断であるが、
同時にそのようになってしまうという部分もある。
意志は示したが、意志が受け入れられるか。
それはもうやってみないとわからない世界ではある。

規制くらった。


思わぬ事故というか、規制だ。
そう、Twitterで遊んでいるのだけど、
Googleリーダーからsキーを押すと、自動ツイートというのを仕込んでいる。

これが一気に1時間にがーっとみるので数十件ツイートする。
リプライやRTもツイートなので、それも激しく叩いていたら、

You are over the daily limit for sending Tweets. 数時間後にもう一度試してください。 」
というメッセージが(笑)

ちなみに、公式サイトでは、
1日1000ツイートらしいが、時間単位で区切るみたいなのがあって、
24でわると、1時間50ツイートもいけば規制対象ということかもしれないし、
ここらへんは不明。

ま、事実、今ツイートができないが、ツイートされるTLを眺めることはできる(笑)


丁度良い機会なので、ここで色々書いておこう。

最近の気づきとしては、
・やっぱアイデアとか企画でしょう
・仕事を作るとかに拘る人って少ないけど、みんな興味持っている。でも手を動かす人は少ない。
・働き方を研究して飯を食う戦略はないけど、実践してアウトプットすれば充分後からお金になるのかなと思っている。
・企画がそろそろ量の時期。もっと出来るし、やれるようになってきた。これは経験値のおかげ。

何かをやろうにしても色々考えて出来ない人は多い。
でも、こちらは色々考えて何が足りないか、何をやればいいかがクリアに分かる。
しかもそれが複数回すことも出来る。限界はあるが、成長をそのぶんするので、
さらに出来ることが広がる。

そしてお金は後から絶対ついてくる。絶対にだ。
もし全くついてこないなら、こういう社会に蹴りをつけるくらいの勢いがある(笑)

増大化する流れ。

人は放っておくと、
効率化や専門化とかになっていくのかどうか。
大雑把な人は管理職ができるかどうかみたいなこともあるけど、
多分ムリっす、向いてないっすといってやらないような気がする。

だから、ますます世の中は効率化する、そして専門化する。
つまり、色々なものを常に取り入れて刷新していくような人は、
それを保つようなアンバランスさをバランスするみたいな感じがいるんじゃないかと。

境界領域、コミュニケーション領域や生活領域みたいなのがあって、
それをはっきりと意識しないと、そもそもあなたが生きているところと
人が生きているところを認識出来ないような気がする。

アウトプット的に

色々な人と出会うことが面白い。
それ自体目的になるかもしれないが、そうではないことも起こりうるのは
結構高めの確率。というか、どうしていきたいかの問題というか。

多くの人に会っていればその確率は増えていくかと。

自分のテンションコントロール(TC(笑))をすることで、
人に迷惑をかけないとか、自分がより自分らしく生きられるとか、
そういうことは多そう。

やり方としては、色々な方法があって、
自分がワクワクするというものを作っていくことでもいいし、
人をワクワクさせるものでもいいし、
それら両方でもいいし。

新しいことにチャレンジするには。

例えば、時間配分を考えてみる。

現在の仕事+その他時間=一日
となっている場合、
インプットをするためには、
現在の仕事か、その他時間を削る必要がある。

削るって言うと痛々しいかもしれないけれど、
確かに時間を作るにはそうするしかない。

そこで、
インプットするとは何かということを考えると、
それは新しいことや違うことをやる、という意味でのタメであり、
飛ぶために屈伸する必要があるということになる。

現在の仕事をやり続けながらというのは残念ながら出来ない。
だからこそ、自分の時間を作るには、
苦しいが、一旦仕事を減らしてやるしかない。
やるしかないというより、「現在の仕事を失う」ことのリスクばかりを考えて、
このままルーチンで回すということでは、おそらく次はない。

そうやって色々なものを取り込む。
そしてまた新たなことをやっていく。

それの繰り返しでしかないというならば、
やはり、やれることとかやりたいことベースの設計になっていくのではないかと
思ったりする。

つまるところ5月病ではないんだ。

ワタミがひどいとは思えど、それ以上働いてて、死なない人もいる。

だから、
ひどいと思う人は関係者じゃないかも。

次は我が身と思うか。
仕事を供給してくれる人には抗えないあきらめ、じぶんでつくる、つくれるという自立の心。

そんなことを思っていて、
つまり、当事者関係者ではない、外の人が何かを発言する、思う、考える。
それがニュースなんだけど、というかニュース自体をどうとらえるかって
案外スルーされがちで、毎日死亡事故しか出してなきゃぐったりしちゃうというか。
まあ、当たり前なんだろうけど。仕事とかそういうことでもないんじゃないかと。出来る人もいそうだけど。


5月病の要因がない。
おもしろくかつ、日常が編集されていて、
なんでも面白い。つまらないのはあなたの生活のせい。
あなたが悪いというよりも、そんな感じ。

 

人生は芝居だ

と言い切ってみたい。

人生は一つの台本、または舞台かもしれないし、観客かもしれないけれど、
まあ、そういう芝居がある。そんなことを言ってみる。

実際に芝居的な要素はあって、
どこの役割、演じるか、みたいなことで決まってきそう。
決まってくるというか、立ち回りを決めればいいというだけの話かもしれないけれど。

パーティーするように仕事をしよう。
そして、仕事をそこから生み出そう。ローンチしよう。

物語を書くように企画しよう。
これも結構面白いかも。アイデアというか、スタイルということで。


言葉を使うことで状況をハックするための手法。
ということで、状況を変えていくのが面白いかも。

リズムを変える。


マンネリ化。
例えば、継続していくと、それはだれてくる可能性がある。
というか、だれる。

というわけで新しいものとかを試す。
または変える。

そこでリズムというのがあって、そのリズムを変えていくというのが
いいかもしれない。

リズムというと、人が動く時間帯に動かず、逆に動かない時間帯に動くとか。
色々あっていいかなあと思ったり。
例えば、月初で動いて、月末はのんびりとか。

日記の自己完結性とか


物書き、作家、小説家。
なんでもいいけれど、書くを仕事にするということで、
それは自己完結ではなくて、人に伝えるということが中心になってくる。

中心になってくるというか、
それで成立するので、自己完結なものはそもそも市場性がないというか、
人に伝わらないということになる。

人に見せる、人に伝えるを意識する時、
実は書き方とかどうでもよくて(これはつまりあなたの書き方スタイルみたいなものの話)、
どう書くと相手には伝わりやすいかということはある。

カメレオンみたいに相手に媚びるのではなく、
相手に合わせる。それのほうが伝わりやすい。
それがなかなか器用に出来る人はいないというか、
そもそも訓練だと思ったりする。もちろんこれは相手に同化するわけでもない。
相手との違いを認めつつ、相手に寄り添うイメージ。
 
ちゃんと考える。
シミュレートしてみる。
例えば、自分の妄想とか、そういうことでも、
きちんと書いたり、手を動かして調べる、まとめてみる、
人に話してみることで、磨かれるものが多い。ので、
それをやれるかどうか、そこが大事。


つらつらと

ブログの位置づけとかはおいておいて、
ここは諸々と書いていくスペースであり、まさにざ・たれながしということで(笑)

感情に向きあうというか、見つめることで、
それは維持でない。
怒りが常にある人は常にアップデートしているといえる。
喜びや幸せもそうだ。感情という扱いでいけば・・・。
そう、喜びAがあったら、やはり確認して喜びA'みたいなことになって喜びは持続する。
みたいな。

怒りもまたこういうことがといってイライラとする。
小さなことでイライラする人はあえてそのイライラを探しているような気すらする。

腹が立たないことが全くゼロというのはない。が、それを探そうとするのも
なんだかナンセンスだ、と思う。

感じきるというのは訓練とか、スキルかもしれないが、
多分そういう話ではない。向きあうのが怖い人もいたりする。
そう、自分の存在に向きあうことで、存在が意味なしといわれて
下手すりゃ死んじゃう。でも、まあありえなくはない。もちろんそれを勧めて
あなたに死んで欲しいとか、そういうことではない(笑)
ここらへんはケースバイケースで相手の応答でみていく領域。

やりたくない仕事はしない。
ゼロはないと思う。けれど、やりたくない仕事をどうクリエイティブにワクワクしてやるか。
それが腕の見せ所かなと。それが多すぎればきついから、
基本やりたくないことはやらないほうがいいと思う。
好きに引きつけて、引き寄せて考える。
それが大事なんじゃないかと思う。ストレスフルな人生デザインをしたくないけど、
そうじゃないやり方が分からないみたいな人は多いと思う。
それは健康の心配みたいなレベルで一杯あるというか。
 
人に影響を与えるという感覚は何か妙に面白く妙に怖い部分もある。
面白いのは人が成長するということ。
怖いなあというのは、勝手に影響を受けすぎてしまって勘違いされること。
ま、勘違いにびびってたらダメなんだろうけど。

次のアクション


1月があっという間に終わった。
3月までこんな感じだと思う。毎年こんな感じだ。

今日もすぐに時間が経ったような気がする。
のんびりというよりも、時間の流れは止まらないイメージが一杯だ。

2月も一瞬で過ぎ去るだろうから、心して挑んでいく。
そして、最近のテーマは、個人と会社の切り分けというか、
うまく個人と会社を分けていく。形式化というか、
形とイメージを、つまりは、目に見えるものと、目に見えないものを
うまく 落としこんでいくといったほうがいいだろうか。

具体的には、個人ブログサイトを立ち上げ、
そちらに仕事などを提示。またサービスを実施。
そして、会社サイトやサービスはそちらはそちらで管理実施。

ポートフォリオとしては完璧なイメージ。


断る力

断るって何だろうと思っていて、
それはある程度を捨てることでもあり、傷みも生じる。あ、痛みか。

関係性とは、何だろうか。
痛みをどう捉えるかで、実際に価格が安ければいいという人は
やはりやすいものに価値を覚えるから、そういう人は価値の転換が
分からないとお付き合いが出来ないかもしれない。それはあるような気がする。

言えないけど書けるみたいなことがある。
それはイベント設計において、人に対する配慮だと思う。あまり深い意味はない。
書くことでまとめることと、理屈やロジカルは似てる。
例えば、発言をまとめて出来ないということは、書けないということと同義でもあったりしやすい。
言えるけど書けない人はいても、大体発言はまとまってないということが多い。

専門家、または何かに特化しないほうがいいということはある。
ひろく視えないことになるからだ。だが、見える部分を最大化しないと視えないこともある。
そこが難しいところでもある。

優等生で、真面目、社会に従順、物語として出来過ぎていることにたいして
あまり魅力を感じない。多少のひねくれはあるが、人間そんなものだと思う。
まっとうな人はおそらく大体ひねくれて見える。

褒めあうのは大事だが、悪いこととか直したことを言えないということは、
それはそれで高めあう関係にもっていけないかもしれない。
例えばそれは無自覚でも、無意識でも、ぬるま湯にならない、
そういうのがあれば別だが、なければ泥船で沈んでいくことになりがち。

今やっていないことをやるのは難しい。
決意はその証明。決意した、またはそれから決意し続けるのは難易度が高い。
そして、体が動いているようにしなければ、いきなり運動をすれば怪我をする。
体を温めるプロセスやタスクを見ていないとやれることもできない。

勉強するという形式にとらわれると多分座学と教科書みたいになる。
人に聴きこむとか、実際にやってみるとか、そういう選択肢があるかないかで
全然違ってくる。で、勉強は大事だと思う。

がしがしまとめられるものを整理してしまうー。

エネルギーシフト

エネルギーって色々な意味があるが、
実際に運動する力、仕事量とかでもいいけど、
電気がつくにはそれ相応のエネルギーが必要。電池といってもいい。

30W生活、100W生活。
都市部では600Wくらいいるそうで。

すぐにはエネルギーをなくして生活ができるわけではない。
でも、自給するということが大事で、トライしてみると色々できる、らしい。

電気の使い方は、発電所から得られるもので使う。
というマインドセットがある場合、または原発以外の自然エネルギーで代替する場合、
それでも経済との連動で、あまり意味はない。
結局、電力会社が供給する以上、太陽光発電の電気は増減で購買されるので、
その購買したお金は、電気を受容する人々で分かち合う、つまり負担することになる。
あまり、良い仕組みとは思えないが、ただインフラ的にいえばまあ文句を言えない感じはする。

そこからマインドセット、考え方を外してみる。
すると、自給してある一定の容量なら自給できるし、暮らせるとする。
それなら、それでよく、無駄に電気を使う必要はない。肝は電気を否定してないということ。

生活コストというものを減らせる。また同時にゆとりや余裕、世界観、
先程かいた専門性や生きていくスキル、などかなりのものができると思ったりする。 

便利さみたいなものを少し捨てると、何かをたくさん得られるという言葉は感動モノかもしれない。
ここに気づける人は、若い人か、年配の人か両極端なのかもね。

お金をかけずにシゴトをする、シゴトをつくる。そこが大事。それはできる。
一杯あるのだから、落ち着いて探せばいい。そしてトライしてみること。

合理性より文化性。結局、経済的なもののものさしでやってる限り(全てを放棄せよとはいってない)、
なかなか文化性にいけないかも。あと、実践の中でみえるアイデアや工夫が楽しい。
勘所をみつけるには、継続してやっていくしかない。例えばここではプログラミングx心理講座、
的なものができそうだからやってみるといいかなと。2日くらいでできそう。

発明家というおいしいポジションはある種のシゴトを語っているが、
職業というよりは、藤村さんを語っている。やはりフリーで動く人は、
名前で語る必要があるなあと。つまり、肩書きはあまり意味がない。ただの入口であるなと。

考える、潜る、思考する、浮上する、自分の心配をしない。

自分の心配をする・・・ことがなくなってきた。
もちろん、余裕があるわけでもなんでもないが、
結局心配をするみたいな心のベクトル?は、
常にあるし、集中しても、何かしても一瞬は消えるが、
結局消えることがない。一生付き合っていく心理状態としてのパートナーと
言えるかも知れない。

あまり先のことを考えると動けなくなるとか、
明日のことは分からないみたいな考えが好きだ。
でも、目標を立てて動くこともないと動けないというのも分かる。
そこで、折衷したアイデア。ぼちぼちの目標、たまに厳しく、たまにゆるく。

人の逆のベクトル、点を設置して、相手を弛緩する。
緩める人。というのはいいかもしれない。ガチガチに緊張していては
良いパフォーマンスもなかなか発揮できないから。

より流動的に、形があるかないか分からないぐらいで、
流れに身を任せているように、流れをコントロールしているように、
ほぼ同時にどちらか分からないぐらいで動く。のがいいかなと。

生活のちまちましたものが、とても良いのではないかと思うのと同時に、
そこでの専門性ではない、専門性を僕は得たいのではないかと思った。
そこは非常にパワフルで、温かい、そして刺激的な領域ではないかと思う。

それは、言葉であり、人であり、場であり、ロジックであり、
社会であり、アイデアであるといっていい。ここはもう確実に射程距離。
あとはこれらをしっかりとこつこつとやっていくだけで、
あまりここに苦労とか変な言葉はついてこない。好きだし、楽しいし、やる。
という肯定の言葉で語ることが素直にできる。
 
高解像度のレンズを手に入れた時、物事が区別がつく、分かるという状態になる。
これはこうでああでというように、一般的に他人が見た時に分からないことが
分かる。気づくことができる。

時間の流れが異なるか。

例えば、名古屋と東京でマクドナルドにいる時間は、
同じ1時間であるが、当然、遠方に出かけているという意味で、
東京のほうが慌ただしく感じやすい。

しかし、感覚の問題で絶対的な時間の進みなどは一緒と考えて良い。

充実していれば時間の流れは早くなる。
逆もまたしかり。

冷静に考えれば、これが逆にもなる。
つまり、東京の人が名古屋に来てということだ。

そして、ここから次のステップへ。

つまり、東京に住めばそこが日常化して、慣れる。
人も、情報も、やり方?もそんな感じで。

日常化すれば、憧れや期待は溶け込み、
例えば、ぼーと過ごすことも可能だし、そういったことをしている。
考える時間が田舎にはあって、都会にはないということもない。
時間の使い方は、環境に規定される、ならば、それを作り出せばいい。
引きこもるのもいいが、田舎で引きこもりはなくて、単に娯楽がないからだろう。
馬鹿にしているのではない。

都会の機能は情報や娯楽などの集中、蓄積、便利などがあり、
そこにいるということは、ある種社交であって、何か夢や希望、
こういうことをしたい、人とつながる、何かしたい、店をやりたい、
そういったものがあっての前提ではないかと思う。

暗にそれがあるから、東京へいきたい、都会へいきたい、
そうなるのではないかと。

だからこそ、人口比では数倍5倍はあるところでは、
5倍の単価になるか、または5倍の人件費、5倍のコストになるか。
いや、そこまではなってない。

なぜなら人口に比例した、店の数、人の数がいるので、
結局、マクドナルドの数は2倍3倍くらいあっても、働く人は2倍3倍で、
利用する人も2倍3倍であって、というだけで良い感じの数値で
キリがつくのだろうと。経済的に考えれば。

でも、心理的には、人が多いと、どこにいても、誰かがいるというような
妙な感覚に陥る。

環境が時間を規定するなら、この物理的な数値よりも、
実際に感じる主観、心理的な面、集団や他の人との兼ね合いのほうが
重要な気がしてくる。

まあ、分からないなりに考えてみた結果がこんな感じであるわけで。
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